2008/11/24

満員電車に揺られながら考えた、ふたつのはなし―岡祐也

またしても、トップ画像を変えてしまった。

法政文芸」は法政大学国文学会発行の「日本文學誌要」別冊ということだから、いわゆる同人誌とは異なるだろう。原稿募集のページを見ると、「国文学会員ならどなたでも投稿できます」とある(但し、「投稿原稿の掲載可否については、編集委員会の合議によって決定します」ともある)。それなら、学会誌とでもいうべきなのだろう。
だけど、そうした分類は、どうでもいい。ちなみに今回読んだ4号掲載の「満員電車に揺られながら考えた、ふたつのはなし」の作者・岡祐也さんの紹介には、「日本文学科三年」とある。このとき、ただ「日本文学科」というのだから、国文学会といっても、法政大学に限るようだ。卒業生もいるけれど、それもみな「〇七年度卒」とあるから、卒業したばかりで、執筆時には、在校生だった可能性が高い。
どうでもいいといったのだから、作品にうつろう。

「満員電車に揺られながら考えた、ふたつのはなし」は、そのタイトルのとおり、ふたつの掌篇でなっている。編集上も「掌篇セレクション」とされている。にもかかわらず、ふたつを統合するように、「満員電車に揺られながら考えた、ふたつのはなし」というタイトルにまとめられてもいるのだが、このふたつに連絡があるかというと、「満員電車に揺られながら考えた」というだけあって、どちらも電車にまつわる話である、という以外には、関連性は見られない。だから、それぞれ別々に考えよう。

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2007/11/24

白線の上をお歩きください―小澤麻梨子

法政文芸」ははたして文芸同人誌に入るのか、といえば、いわゆる3田文学(「早稲田文学」「三田文学」「江古田文学」)とおなじ範疇の大学系文芸誌と捉えるべきなのだろうけれど、今までのところ3田文学のように書店で見かけたことがないので、あえてカテゴリーを文芸同人誌に分類しておいた。そんな分類なんてどうでもいいのだけれど・・・。ちなみに、発行人は中沢けいさんで、「編集後記」を書いておられる。
で、第6回文学フリマ仕入れた「日本文學誌要」別冊「法政文芸」第3号に掲載されていた小澤麻梨子さん「白線の上をお歩きください」を読んでみた。

9Pほどのとても短い小説だったが、凄く面白い。とても面白い。ゾクゾクと、そしてジンワリと、沁みた。
物語というほどのものはない。小学校五年生の朗一(なんと読むのだろう? ろういち? 最初だけでもルビが欲しい)がおなじ団地に住む綾野という同級生とともに下校する、ほんの10分間ほどのお話だ。

幼稚園から一緒の朗一と綾野はまだ小学校五年生とはいえ、7・8年の付き合いということになる。とはいえ、とりわけ親しいわけではない。以前は朗一の家に綾野がきたこともあるらしいし、朗一の母は綾野と同級になったと聞けば喜ぶが、たがいは意識するともなく、距離を置いている。ところが、ふとともに帰ることになる。

 立ちどまられて、困った。話すことなどなにもないのだ。異国で連れ合いとはぐれてしまったときの思いに似た、自分を救ってくれるなら誰でもいいからすがりつきたいような、あの不安でせっぱつまった気持ちは彼女がこちらを見つめた瞬間に消えてしまっていた。ええと、と口ごもる朗一を一瞥して、
 「早く帰らないと雨降るよ」

「話すことなどなにもないのだ」というなら、人称を欠いたままの自由間接話法ともいえる一貫して朗一に寄り添う三人称が、小学五年生の口ぶりとはおよそかけ離れた「異国で連れ合いとはぐれてしまったときの思いに似た」と語り出すとき、違和感がある。だが、そもそもこの語りは、三人称であり、ここにいたるまでも、たとえば、

 立ちどまって見あげた空は、自らの重みに耐えかねていまにも落ちそうだった。押し潰されそうな気がして思わず学校を振りかえったが、さきほどまで朗一を匿ってくれていた校舎は、彼のことなど興味なさそうに、規則正しく並んだいくつものガラスの目でどこか別の場所を見つめている。午後の四時半、いつもなら放課後の校庭で遊ぶ少年たちや群れながら帰路に着く少女たちがところどころにいるはずなのに、今日は誰ひとり見あたらなかった。正門の奥に広がる校庭は子供という重石を失って広げた布のように飛んでいってしまいそうな薄っぺらさを漂わせ、門の前から伸びた歩く人のいないまっすぐな道路には息苦しいほどのかたくなさがあった。

といった段落には、「正門の奥に広がる校庭は」ではじまるセンテンスには息苦しさがあるものの、その心理に踏み込みながらも、あくまで朗一を描写する三人称の距離がある。
語るものが朗一に寄り添いつつも、他者であり続けている。この距離感がいい。だが、異国の孤独は、じつはこれにとどまらないのだ。

ゴミ置き場から外れたゴミ袋を片付ける綾野の仕草が不自然で、そのわけが、じつは学校から団地まで、白線から外れることなくいけるのだ、という綾野の遊びだったとしる。これがタイトルの所以だが、それだけでも郷愁を覚えるけれど、

 「学校から家に帰るまでのこの時間がいちばん好き」ぽつりと綾野が呟いた。「白線を辿って、このままずっと歩いていって、そうしたら誰も知らないどこかへ行けるかもしれない」
 誰も知らないどこか、という言葉を、綾野は、自分には手に入らないものだと知りながらそれでも思いつづけることをやめられず、年老いてしまった人のように、言った。いまはもう掴みどころのない、ぼんやりとした形で漂うその言葉が確かな形を持っていたときのことを朗一は知っている。ずっと昔、綾野と二人で探したその場所はブラジルだった。

なにかが記憶を呼び起こす。だがここでも、年老いた人の比喩のなんとろう長けたもの言いだろう。ここにも距離がある。

 掃除するから、と母親に家を追いだされた朗一が棟に沿って伸びるアスファルトの道に立って目についた蟻を片っ端から踏み潰していると、プラスチック製の青い砂遊び用のスコップを握った綾野が二階から降りてきた道を横切り、四号棟の向かいの棟の庭に入ると土を掘りだした。
 「あやのちゃん、なにしてるの?」
 「ブラジルをさがしてるの。  日本のうらがわはブラジルなんだって。このまま掘ったら、ブラジルにいけるかも」
 「なんでブラジルにいきたいの?」
 「ここじゃないから」

そして、鋭い音さえ、それがなにかを知っているからか、聞こえないという綾野の、「ここ」の片鱗を朗一は見ることになる。「ここじゃない」どこかが手に入らないことを知りつつ焦がれる綾野は、白線の上を歩く。今は学校と団地をつなぐ白線だけれど、白線は家を越えてどこまでも繋がっているから、白線のうえを歩く。
だからこそ・・・。

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