「メタモルフォーズ 十一の変身譚」にもどり、「少年」を読んだ。
一人称のこの小説に「少年」というタイトルをつけるとき、私たち(読者)は立ち位置を見失うのではないだろうか? 少年とはだれか? おそらくは、Kなのだ。しかし、「僕」はKを少年と呼ぶもの足り得ない。なぜなら、「僕」もまた中学三年生のKの同級生なのだから・・・。まして、事件はKのところで起き、あるいはKが起こし、「僕」は傍観者どころか、彼からのメールでその事件をしる。この小説のスタイルは、本書の巻頭にあった「ロゼッタ」と同じだ。
しかし、この小説では、Kは気配だけは見せる。
たしかに人の気配がする。が、窓には厚くカーテンが垂れ、呼び鈴を幾度押しても遠くかすかに空しい反響がするばかりだ。玄関の扉を叩いても、近づく足音はない。
だが、扉の向こうにKの気配を確かに感じる。彼はこもっていた部屋を出て、足音もなく階段を滑り降り、裸足で三和土に降りる。そうして荒い息遣いを懸命に押し殺して、扉の内側に片耳を押し付けている。あるいは覗き穴から僕の表情をじっと窺っている。
Kはいつもそうだ。外界に怯えるあまり、内側から出ようとしないが、そこに自分がいることを誰かに知ってもらいたがる。
書き出しだ。最初の段落で、ただ一軒の家のまえに立ち竦む語り手を思い描いた私たち(読者)は、つぎに、気配という漠然とした存在が、「彼」と呼ばれたことで実体化し、扉の影に辿りつくまでの道程を見せられ、ところが、おなじ段落の最後のセンテンスで、「あるいは」という他の可能性が示されることで、思っていた映像が所詮想像にすぎないことを思い出される。ましてこのときに「僕」と人称が明かされて、眼の前に扉だけを見ることになる。Kはあくまでその影の気配でしかない。
すると、この小説はその扉を超えていくことこそが要諦になる。だが、さきを急がず、あくまでこの冒頭の、気配と想像のKでしかないながらも、一度は文字に描かれることで現前したKの姿を記憶にとどめておきたい。いや、いやがおうにも、記憶に残るだろう。なぜなら、この本は「メタモルフォーズ 十一の変身譚」というタイトルなのだ。誰かがなにかに変身することは約束されている。もちろん、この時点では、変身するのは「僕」かもしれない。あるいは、ほかの誰かかもしれない。だが、上に引用した最後の段落で、「僕」はKを説明している。Kはこの小説にとって特別な存在だというがごとく。
ところが、上に続く場面になると、少々事情が変わる。
僕がKに出会ったのは、三カ月前、中三の春だ。僕らはお互いが同種の生き物だとすぐに悟った。周囲から浮き上がった異質な空気を共に漂わせていた。進級し、新しいクラスに慣れるにつれて、親密な小グループが自然に生まれる。Kと僕はどこからも招かれず、自分でも避けた。成績も中くらいで部活もやらない。六限目が終わるといつの間にか姿を消す。目立ちもせず邪魔にもならない。Kも僕も無色透明な空気のような存在だった。
「僕」とKの関係が明かされるようでもあり、だが、それよりも、「僕」とKの近似性が語られる。すると、「僕」はいつでもKになりえる。
Kも僕もしょっちゅう学校を休んだ。遅刻・早退も多い。もちろん親はうすうす感づいていただろう。が、毎朝晩、定刻に家を出て戻って来る限り、その間の一人息子の行動に関心を示さなかった。教師も僕らが不登校にならない限り、特に注視しなかった。いわば教師と親と僕らの関係は淡い無関心によって保たれており、その微妙な均衡をくずさぬ限り、互いに口出ししないという暗黙の了解があったわけだ。
テンポよく状況説明を処理する手振りは、そうしたテンポにかまけすぎたか、「定刻に家を出て戻って来る限り、その間の一人息子の行動に関心を示さなかった」といったセンテンスには違和感を感じざるを得ないものの、それはさておき、Kと「僕」はほとんど一心同体に語られる。ところが、Kが「僕」ではなくなる。
それだけにKが今日で三日連続で欠席したことは、どうにか保たれていた均衡を壊すものだった。だから、教師が心底心配するわけでもないのに職務上、不承不承Kを呼んで注意する前に、僕はKの家を訪れ、身体だけでも学校に運ぶよう勧めに来たのだ。
違和感も辞さず文章にテンポを生んでいた上の段落に続くこの引用部であれば、このまどろっこしさはいやでも眼につく。教師は、まだ注意したわけでも、「僕」になにかを言ったわけでもない。そうあるはずだと「僕」が想像しているだけに過ぎない。それにしてはご丁寧な描写である。そう、ここで起きているのは、「そうあるはずだ」と想像する「僕」の現出である。おそらくはKもおなじように考えるだろうと、読者さえが思えるなかで、なお、「僕」という個体が立ち現れる。すると、「僕」とKを隔てるものは扉だけではなくなる。
が、Kは中にいるのに扉を開けない。自分の気配が通じていると知りつつ閉じたままだ。僕は「仕方がない」と一言つぶやき、猛暑の中、けだるい体でKの家を後にした。背後を強く見られていることを意識しつつ。
「が、」にはじまり、「しつつ。」で閉まる段落というのは、なにかちゅうぶらりんの印象が残る。たしかに、ただひとつ「猛暑の中」という言葉を除けば、この段落は丸々不要だといってもいい。しかし、上の流れのなかでとらえたとき、いまだ「僕」とKの間にたゆたっているものが、Kの視線とともに、文章にも浮かび上がったのだとも思える。
進学から三カ月後のだから、それが夏であることは容易に想像できていたが、あえて「猛暑の中」と書く理由がここにはある。惜しむらくは、訪ねる道中やKの家で立ちんぼを強いられた間も、「僕」に、その猛暑が感じられなかったことだ。あたかも場景描写を嫌ったようにさえ、書かれていない。それこそが、「少年」の世界認識の在りようだろうか? もちろん、風景描写がなければ小説たり得ないなどというつもりはないが、「僕」が「猛暑」というならば、その不快感は書かれてしかるべきではなかったろうか。そのときにこそ、「 汚いし、臭いし、家中が氷室のように凍えている。」「 とても寒い。震えが止まらない。セーターを二枚重ね着しているが、毛布を体に巻いてキーを叩いている。」というKのメールも活きてきただろう。この言葉を異常にするために、そのときを夏(進学から三カ月後)にし、「猛暑の中」と、後から書き加えたのではなかったかとさえ、疑われる。そして、そうした齟齬は・・・。
物語を見てみよう。
一昨日、二人とも殺した。何度も殴り、引っ掻いた。のどを咬み切った。台所と居間は血だらけだ。壁にも血しぶきが飛び散っている。彼らを残して学校へ行けない。今朝から家中がひどい臭いだ。腐らないように、三つあるクーラーを最強にした。冷蔵庫も開けっ放しだ。氷ができる度に彼らの上に撒いている。体をまっすぐに横たえようとしたが、もう固くてだめだった。それに僕の手では物をうまく握れない。今の僕は他人に見せられない姿をしている。
Kは、母と義父を殺したとメールを寄越すわけだが、そのとき、Kは熊のぬいぐるみに語りかけ、自身が熊に変身して、ふたりを殺したのだという。さて、首が傾げる。上のメールを見れば、「僕の手では物をうまく握れない。今の僕は他人に見せられない姿をしている。」という。それなら、変身したKはいまだに変身したままではないか? さらに、Kはメールを寄越す。
僕はもう外に出られない。死のうと思う。つまらない十四年間だった。でも、僕もこの世に十四年間籍を置いていたのだ。その証を書き残すくらいは許されるだろう。君が証人になってくれ。これから僕の十四年の人生を書く。読んだら消してくれ。
とすれば、「少年」とは、とりもなおさず、十四年しか生きなかった、すなわち、「少年」でしかいなかったKのその人生ということになり、上につづくKの十四年間こそがこの小説のテーマであったことになりかねない。とはいえ、そのまえに、このKの言い草も気にならなくはない。「君が証人になってくれ」といい「読んだら消してくれ」というのだ。このとき、「僕」とKの関係が揺らぐだろう。
さて、Kの十四年だが、この物語のなかにあれば、いや、この物語のなかでなくても、きわめて凡庸な孤独な少年の物語だ。世界との違和感、死の独り遊び(「死んだまね」というと、私は丸尾末広を思い出す。っと、あれは「死んだふり」だったか・・・)、リストカット、ドメスティック・バイオレンス、どれもが、小説的でありながら、それをただなぞっていくばかり。それでも十四年をたどれば短くもない。すると、いかにもこここそが小説の核のようにも見えてくる。「少年の孤独」の物語だ。畢竟、この小説のタイトルが「少年」になってしまったのではないか。しかし、Kを少年と呼ぶものとは、語り手でもなく、書き手だろう。タイトルがそうした位置取りであるなら、書き手の位置から物語に入って、「僕」が現れたとき、どうだろう? やはり、いかんともしがたい違和感がある。
だが私にはこの部分が、むしろ付け足しに見えて仕方ないのだ。その凡庸さもさることながら、親を殺す動機、そこにいたる過程を語り出さずにいられないという呪縛が、そこにはなかっただろうか。Kが語らずにいられない、というよりも、物語が語らずにいられなかったのではないだろうか。そして、そうした、書かずにはいられない、あたかも推理小説の探偵の謎解きのように、物語が呼び込んでしまった部分こそが、肥大して、核めいてしまったように思える。
推理小説といえば、犯罪の5W1Hを明らかにすること、といった原則があるようだが、なかでも、日本でいえば松本清張あたりからに思えるが、Whyばかりが書かれるようになったように思える。動機なんてものは、なんとでもつけられるはずで、探偵小説などと呼ばれていたころには、謎解きとしてはそれ以外の要素が主軸だったように思えるのに、犯罪トリックが手詰まりになったのか、どうも動機ばかりが前面にでてきたように思えてならない。そして、それを「社会派」と呼んでいるように・・・。
と、話が逸れたので閑話休題。
そう。この小説も社会派に読めてしまうのだが、ほんとうにこれが書きたかったのだろうか? と首が傾げるのだ。
外界はこの重たい膜によって、僕から隔てられている。向こう側では、何かしゃべりながら板書する教師がいて、生徒たちがノートをとったりひそひそ話をしていたりした。また、おしゃべりしながら給食を食べたり、あわただしく清掃したりしていた。それらの動作は早送りしたコマのように大変なスピードで動いていた。僕は全然追いつけず、ウワーンという混濁した反響の中で茫然と見送るばかりだった。膜のこちら側は向こう側の数倍の重力をもち、まるで深い水底にいるようだ。僕の体は重くだるい。動きが意のままにならず、ただ暗い水底から上を仰ぐだけだった。
なにもこれらのKの話が悪いわけではない。凡庸とは書いたが、上に見るとおり、いうところは凡庸でも、その表現や出来事にはそれぞれに面白さがあるのだ。死んだまねにせよ、フィギュアを焼く遊び、はじめてのリストカット、教師の無理解、それぞれに面白いと思う。ところが、義父と母のセックスを覗き見、義父のリストラ、ドメスティック・バイオレンスといった家族が絡むにいたっては、なんともありきたりに思えて仕方なかった。もういいよ、と食傷したのかもしれない。
だが、それだけだろうか・・・。Kの十四年をたどる物語は、Kのメールである。上の引用を見てもわかるとおり、当然のように、Kの一人称「僕」である。「僕」がふたりいるのだ。Kの十四年こそが核に見えてしまうなら、Kのメールだけで成立している。語り手の「僕」は必要がない。ところが、ここにはもうひとり、KをKと呼ぶ「僕」がいる。
メールを読み終えた「僕」は、「ロゼッタ」の「ぼく」とおなじように、Kの家に駆けつけるのだ。そう、名まえもおなじ「K」だ。「ロゼッタ」のKは自分を「私」と呼んでいたが。
さてそれなら、おなじ構造をもつ「ロゼッタ」と「少年」の、二重の語り手は、この小説になにをもたらしているのだろう。客観性? 動きを欠いた小説にせめて最後に駆けつける「僕(ぼく)」という運動の導入? 彼らは最後になにをしただろう? 駆けつけたのだ。「ロゼッタ」の「ぼく」は「しばらく茫然としていた。が、突然或る疑念が浮かび、飛び起きた」のだし、「少年」の「僕」は「しばらくの間、僕は何も考えられなかった。頭の中が真っ白だった。始めに戻って再び読んだ。さらにもう一度。ようやく今すべき事がわかった。部屋を駆け出して、Kの家へ急いだ」。彼らは、まず茫然とする。異常な世界から正常の世界へ戻ってくるようだ。そしてそれは、とりもなおさず、読者の仕草である。ほかでもない、「僕(ぼく)」がKの日記やメールの読者だったのだから。ところが、もう一度、彼らは立ち上がり、駆けていく。確認にいく。そして、Kの書き記したことが真実であったことを告げるものになる。ふたたび語り手になりながら、語り手であると同時に、事件の現場に立ち会う当事者として、自らによって語られる者になる。
すると、「僕」とKの関係は・・・。最後の「僕」の科白はいただけなかった。
うううむ。Kの十四年を語るメールが惜しい。タイトルが惜しい。ラストが惜しい。
それから、熊のまんまのKがセーターを二枚重ね着してるの? ぬいぐるみの熊ならありってことか?
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