2008/07/10

「頌」29号拝受

Ohdo29頌(オード)」誌の29号が拙宅に届いた。ありがとうございます。
ところが、残念ながら、今号には小説はない。詩が3篇と、俳句、評論。
表紙は、なるほど、全国的にタスポ適用の今を考えるとタイムリーかもしれない。いかにも昭和30~40年代というのは、なぜ? と思うが、本日大宮駅前の煙草屋さんに寄ると、すでにふたりのご婦人が並んでいて、煙草屋のおばちゃんがひと言「すごい影響。疲れちゃったよ」と呟いていた。喫煙具などを置いているお店だが、たしかに以前はいつも閑散として、お仲間と立ち話ばかりしているお店だった。

続きを読む "「頌」29号拝受"

| | コメント (0)

2008/02/01

「頌」28号拝受

Oodo28 本日、「頌(オード)」28号が拙宅に届いた。小原優さん、ありがとうございます。

いつものことだが、近藤真己さんの素朴なのだけど素敵な版画による表紙。しかし今回は、その線がとても手が込んで、いよいよよいなぁ。アンテナとか、網の目のような木の枝とか。空はもうすこし工夫が欲しい気がするけど。

続きを読む "「頌」28号拝受"

| | コメント (0)

2007/09/24

目玉―小原優

野坂昭如を読むまでもなく、ときに、文章にリズムを持たせたくなるし、ふと気づくとコトバが弾むようなリズムを持っていて、思わず、そのリズムを保ちたくなるときもある。たしか、山本昌代「居酒屋ゆうれい」だったと思うけれど、ほんの数行だけ、リズムが生まれてしまった文章が紛れ込んでいて、妙な違和感を醸していた。だから、私の場合、まれにリズムが生まれてしまったときには、むしろそのリズムを排除している。というより、私は、リズムにせよ流れにせよ、どうもしっくりきそうになると、はぐらかしたくなるへそ曲がりだ。もちろん、中途半端なリズムなら、ないほうがましだ。

「目玉」は短い小説だが、果敢にリズムに取り組んでいる。果敢に取り組んでいるのだが、はたして、それが当初の思惑通りだっただろうか、という疑問もある。

 花粉症の時期でもないのに、やたらと目が痒い。指先でこりこりと掻いてみる。手の甲でこすってもみる。しまいには瞼を閉じて、上からパンパン叩いたりする。それでも痒みは収まらない。どうも目の内側からもぞもぞは来るらしい。

書き出しのこの段落を見ると、リズムになりきらぬままに、むしろ流れのよい文章に収まっている。このとき、この流れのよさに小原さんが同調してしまったのではないか、と思える。すなわち、小説の構想として、物語があったわけだが、いざ書き始めてみたら、文章が動き出し、その文章の動きに書き手が引きずられていったようなのだ。
野坂昭如は、一度書いたら書きっ放しのように言うが、はたしてそれがどれほど真実か、疑わしく、推敲はしているだろうけれど、それでもやはり、野坂は生まれ動き出す文章に書かされているような感があるし、それは、泉鏡花が書き始めたら向こう任せというのに似ているだろう(野坂昭如の泉鏡花賞ほど、相応しい賞はないとさえ思う)。

 道端に白木蓮。吹き初める寒風には抗いがたく、枯葉は競うがごとく舞い落ちる。僕はひょいとその傍らに寄り、肩掛け鞄から目薬を取り出す。そうして抜けるような秋空に顔を預けて、まず右目に一滴。二滴三滴つづけて垂らす。ひやっとする感触。たまらず顔を伏せ、目を閉じる。爽快な感触をじんわり味わっていると、やあ、もう五時か。鐘の音が響いてくる。カラーン、カラーン……

上に続く段落だが、最初のセンテンスがいきなり体言止になり、明らかにリズムを意識している。リズムを意識するとき、さらに「がたく」が「ごとく」を呼び寄せるように、なにか韻さえも「やあ」といった意味のないコトバさえ生まれてくる。

 さて今度は左目にと、再び青空に顔面さらす。と、はるか上空で、なにやら真っ黒い一点が生まれ、染みのようににじんだ。いや、これはにじむんじゃない、近づいてくるんだ、と思ったのも束の間、そいつは物凄い勢いで落下してきた。と、顔面をさらう一瞬の旋風を残し、再び鋭く舞い上がる。

普通の語り口調を交えた一人称の文体に落ち着くように見えながら、句点こそありながら、「と」を多用して、センテンスに連続性を持たせて、いまだ文章の流れを保っている。
このとき、こうした文章に要求されるのが、語呂を合わせる語彙力だったりするのは、前の段落にも表れているのだが、残念なのが、それを維持できているとはいいがたい。なんとも直接的な形容の凡庸さが、惜しまれる。

続きを読む "目玉―小原優"

| | コメント (0)

2007/09/23

ミノムシの夏―小原優 と、残雪をちょっと

なんとか気もちを引き立たせようと、読みかけたままだった小原優さんの「メタモルフォーズ 十一の変身譚」を開き「ミノムシの夏」を読んではみたのだけれど、面白く読めそうなのに、やっぱり乗れない。どうもこちらの気分の問題に思える。
ペースを取り戻すための、私のリハビリ的な記事になりそう。

変身譚にこだわるにせよ、それは書き手の思惑にすぎず、読み手は、変身にこだわる必要はない。それでも本書のタイトルをしっていれば、変身を期待しながら読む。そこで、そうした期待をはぐらかす手立てが生まれてくる。すなわち、変身を先取りしてしまうといった書き様が「ミノムシの夏」だ。
ミノムシの「ぼく」が語りはじめるとまもなく、変身が告げられてしまう。

 ミノムシになる前は人間の男の子だったのです。生まれたのはここからずっと遠くの南の町、東京です。物心つく頃には戦争が始まっていて、小学校の高学年になる頃には、夜ごと空襲警報に起こされました。ついに同級生らと共に群馬県のN村に疎開したのは小六の時です。ぼくには就学以前の幼い双子の弟妹がいましたが、二人と離れるのはつらかった。

すると、それでも、変身をテーマに据えて読もうとするなら、変身の過程か、そのわけに読み処は向かうだろうし、この小説も上の引用の前に下がある。

 「なぜ、君は五十年もミノムシのままでいるのか。決して袋から出ようとしないのか……わけがあるんだろう。もちろん、わしには何もしてやれない。ここに佇むだけだ。でも、聞いてあげられるよ」
 ヒノキの声には、気の遠くなるような長い時の重みがあった。それはぼくの半生をずっと凌駕し、それゆえに温かく抱擁してくれる。
 しばらくして、ミノムシは語り始めた。

というのだから、この段階では問題はミノを出ないことではあれ、その直後に変身が言われているのであれば、その変身がこの小説の中心的主題に座る。
とはいえ、このとき表れた三人称が気になってしまった。最後のたったひとつのセンテンスで構成された段落だ。自由間接話法というには、唐突感がいなめず、もし、これを自由間接話法と呼ぶならば、一人称に紛れ込む三人称という、少々珍しいケースの自由間接話法といえそうで、なおのこと気になって、こうした技法的な面における今後の展開を期待してしまった。期待してしまったのに、なにもなかった。とするならば、「しばらくして、ミノムシは語り始めた。」というセンテンスこそ、失敗だっただろう。
さて、ミノムシの独り語りになると、疎開先における少年のひと夏の物語として、面白くないとはいわないのだけれど、都会育ちの少年が田舎で過ごすノスタルジックなお話としては、戦時という特殊さがありながらなお、やはり凡庸といえば凡庸だろう。ノスタルジックで凡庸なお話が悪いわけではない。ただ、それが変身譚という特殊性を纏おうとするとき、物足りなくなるのではないだろうか?

それでも、少年のひと夏の物語としては、それなりに楽しんだのではある。それでも、その背景にミノムシの変身というものがあったからこそ、ではあるのかもしれない。すなわち、互いが補完しあう形で、物足りなさを免れたのかもしれない。ミノムシの話なしに、ひと夏の物語として提示されたなら、やはり物足りなかったのではないか、ということだ。変身譚に特化するとは、すでに書き尽くされてしまった物語を、物語、あるいは仕掛けを重層化することで、克服する試み? 重層化という深みの幻想の試みには、じつをいうと共感してしまう。「肉片柳絮」には、多分にその思惑があった。

続きを読む "ミノムシの夏―小原優 と、残雪をちょっと"

| | コメント (0)

2007/08/22

鉗子―小原優

メタモルフォーズ 十一の変身譚」の8つめ、「鉗子」を読んだ。

これも非常に短いが、とても面白かった。
腹中に鉗子が置き忘れられていた男なのだが、すでにそれから2年が経っているところから物語りははじまっている。このときなぜX線照射がなされ、その事実が判明することになったのか、そのきっかけは明らかにされていない。そして、そのX線写真に写った鉗子の姿が、亡くした息子・一郎を思い出させたというのだが、この一郎の死のわけもまた語られず仕舞い。それが、気持ちいい。
そして、すでに2年前から鉗子はあったはずなのに、その姿に一郎を見出して以来、まさに鉗子は一郎になる。自由に動き回って、「俺」を翻弄する。このとき、ふと私が思い出したのは、私の父の話だ。父はむか~し、利き腕だった左腕をほとんど粉砕される事故にあっている。骨を砕かれて、ギプスをしていると、ときどき腕がくすぐったくて仕方ない。ギプスを開くと、骨の砕片が皮膚の下から皮膚を突き上げているのだそうだ。邪魔なものを体外へ排出しようとして、自然に浮いてくるらしい。砕片はひとつやふたつではないから、それはたびたび起こったという。この小説で、一郎になった鉗子が皮膚の下から突き出てくるたびにその話を思い出してしまった。それはともかく、その無邪気なさまが一郎なのだし、だが、それを一郎と認めたのは「俺」であり、妻なのだが、それ以来それが一郎になってしまう、変異の契機が、「俺」なり妻なりの認識に依存しているあたりは、なんともいえない説得力がある。妙に納得してしまうのだ。

X線検査のきっかけや息子の死のわけといった語らないことの面白さは、もしかしたら「少年」で語りすぎてしまった反動かもしれないし、あるいは、発見かもしれない。ますますこの先が楽しみになってきた。

続きを読む "鉗子―小原優"

| | コメント (2)

2007/08/21

少年―小原優

メタモルフォーズ 十一の変身譚」にもどり、「少年」を読んだ。

一人称のこの小説に「少年」というタイトルをつけるとき、私たち(読者)は立ち位置を見失うのではないだろうか? 少年とはだれか? おそらくは、Kなのだ。しかし、「僕」はKを少年と呼ぶもの足り得ない。なぜなら、「僕」もまた中学三年生のKの同級生なのだから・・・。まして、事件はKのところで起き、あるいはKが起こし、「僕」は傍観者どころか、彼からのメールでその事件をしる。この小説のスタイルは、本書の巻頭にあった「ロゼッタ」と同じだ。
しかし、この小説では、Kは気配だけは見せる。

 たしかに人の気配がする。が、窓には厚くカーテンが垂れ、呼び鈴を幾度押しても遠くかすかに空しい反響がするばかりだ。玄関の扉を叩いても、近づく足音はない。
 だが、扉の向こうにKの気配を確かに感じる。彼はこもっていた部屋を出て、足音もなく階段を滑り降り、裸足で三和土に降りる。そうして荒い息遣いを懸命に押し殺して、扉の内側に片耳を押し付けている。あるいは覗き穴から僕の表情をじっと窺っている。
 Kはいつもそうだ。外界に怯えるあまり、内側から出ようとしないが、そこに自分がいることを誰かに知ってもらいたがる。

書き出しだ。最初の段落で、ただ一軒の家のまえに立ち竦む語り手を思い描いた私たち(読者)は、つぎに、気配という漠然とした存在が、「彼」と呼ばれたことで実体化し、扉の影に辿りつくまでの道程を見せられ、ところが、おなじ段落の最後のセンテンスで、「あるいは」という他の可能性が示されることで、思っていた映像が所詮想像にすぎないことを思い出される。ましてこのときに「僕」と人称が明かされて、眼の前に扉だけを見ることになる。Kはあくまでその影の気配でしかない。
すると、この小説はその扉を超えていくことこそが要諦になる。だが、さきを急がず、あくまでこの冒頭の、気配と想像のKでしかないながらも、一度は文字に描かれることで現前したKの姿を記憶にとどめておきたい。いや、いやがおうにも、記憶に残るだろう。なぜなら、この本は「メタモルフォーズ 十一の変身譚」というタイトルなのだ。誰かがなにかに変身することは約束されている。もちろん、この時点では、変身するのは「僕」かもしれない。あるいは、ほかの誰かかもしれない。だが、上に引用した最後の段落で、「僕」はKを説明している。Kはこの小説にとって特別な存在だというがごとく。

ところが、上に続く場面になると、少々事情が変わる。

 僕がKに出会ったのは、三カ月前、中三の春だ。僕らはお互いが同種の生き物だとすぐに悟った。周囲から浮き上がった異質な空気を共に漂わせていた。進級し、新しいクラスに慣れるにつれて、親密な小グループが自然に生まれる。Kと僕はどこからも招かれず、自分でも避けた。成績も中くらいで部活もやらない。六限目が終わるといつの間にか姿を消す。目立ちもせず邪魔にもならない。Kも僕も無色透明な空気のような存在だった。

「僕」とKの関係が明かされるようでもあり、だが、それよりも、「僕」とKの近似性が語られる。すると、「僕」はいつでもKになりえる。

 Kも僕もしょっちゅう学校を休んだ。遅刻・早退も多い。もちろん親はうすうす感づいていただろう。が、毎朝晩、定刻に家を出て戻って来る限り、その間の一人息子の行動に関心を示さなかった。教師も僕らが不登校にならない限り、特に注視しなかった。いわば教師と親と僕らの関係は淡い無関心によって保たれており、その微妙な均衡をくずさぬ限り、互いに口出ししないという暗黙の了解があったわけだ。

テンポよく状況説明を処理する手振りは、そうしたテンポにかまけすぎたか、「定刻に家を出て戻って来る限り、その間の一人息子の行動に関心を示さなかった」といったセンテンスには違和感を感じざるを得ないものの、それはさておき、Kと「僕」はほとんど一心同体に語られる。ところが、Kが「僕」ではなくなる。

 それだけにKが今日で三日連続で欠席したことは、どうにか保たれていた均衡を壊すものだった。だから、教師が心底心配するわけでもないのに職務上、不承不承Kを呼んで注意する前に、僕はKの家を訪れ、身体だけでも学校に運ぶよう勧めに来たのだ。

違和感も辞さず文章にテンポを生んでいた上の段落に続くこの引用部であれば、このまどろっこしさはいやでも眼につく。教師は、まだ注意したわけでも、「僕」になにかを言ったわけでもない。そうあるはずだと「僕」が想像しているだけに過ぎない。それにしてはご丁寧な描写である。そう、ここで起きているのは、「そうあるはずだ」と想像する「僕」の現出である。おそらくはKもおなじように考えるだろうと、読者さえが思えるなかで、なお、「僕」という個体が立ち現れる。すると、「僕」とKを隔てるものは扉だけではなくなる。

 が、Kは中にいるのに扉を開けない。自分の気配が通じていると知りつつ閉じたままだ。僕は「仕方がない」と一言つぶやき、猛暑の中、けだるい体でKの家を後にした。背後を強く見られていることを意識しつつ。

「が、」にはじまり、「しつつ。」で閉まる段落というのは、なにかちゅうぶらりんの印象が残る。たしかに、ただひとつ「猛暑の中」という言葉を除けば、この段落は丸々不要だといってもいい。しかし、上の流れのなかでとらえたとき、いまだ「僕」とKの間にたゆたっているものが、Kの視線とともに、文章にも浮かび上がったのだとも思える。

進学から三カ月後のだから、それが夏であることは容易に想像できていたが、あえて「猛暑の中」と書く理由がここにはある。惜しむらくは、訪ねる道中やKの家で立ちんぼを強いられた間も、「僕」に、その猛暑が感じられなかったことだ。あたかも場景描写を嫌ったようにさえ、書かれていない。それこそが、「少年」の世界認識の在りようだろうか? もちろん、風景描写がなければ小説たり得ないなどというつもりはないが、「僕」が「猛暑」というならば、その不快感は書かれてしかるべきではなかったろうか。そのときにこそ、「  汚いし、臭いし、家中が氷室のように凍えている。」「  とても寒い。震えが止まらない。セーターを二枚重ね着しているが、毛布を体に巻いてキーを叩いている。」というKのメールも活きてきただろう。この言葉を異常にするために、そのときを夏(進学から三カ月後)にし、「猛暑の中」と、後から書き加えたのではなかったかとさえ、疑われる。そして、そうした齟齬は・・・。

物語を見てみよう。

   一昨日、二人とも殺した。何度も殴り、引っ掻いた。のどを咬み切った。台所と居間は血だらけだ。壁にも血しぶきが飛び散っている。彼らを残して学校へ行けない。今朝から家中がひどい臭いだ。腐らないように、三つあるクーラーを最強にした。冷蔵庫も開けっ放しだ。氷ができる度に彼らの上に撒いている。体をまっすぐに横たえようとしたが、もう固くてだめだった。それに僕の手では物をうまく握れない。今の僕は他人に見せられない姿をしている。

Kは、母と義父を殺したとメールを寄越すわけだが、そのとき、Kは熊のぬいぐるみに語りかけ、自身が熊に変身して、ふたりを殺したのだという。さて、首が傾げる。上のメールを見れば、「僕の手では物をうまく握れない。今の僕は他人に見せられない姿をしている。」という。それなら、変身したKはいまだに変身したままではないか? さらに、Kはメールを寄越す。

   僕はもう外に出られない。死のうと思う。つまらない十四年間だった。でも、僕もこの世に十四年間籍を置いていたのだ。その証を書き残すくらいは許されるだろう。君が証人になってくれ。これから僕の十四年の人生を書く。読んだら消してくれ。

とすれば、「少年」とは、とりもなおさず、十四年しか生きなかった、すなわち、「少年」でしかいなかったKのその人生ということになり、上につづくKの十四年間こそがこの小説のテーマであったことになりかねない。とはいえ、そのまえに、このKの言い草も気にならなくはない。「君が証人になってくれ」といい「読んだら消してくれ」というのだ。このとき、「僕」とKの関係が揺らぐだろう。
Shindafuri さて、Kの十四年だが、この物語のなかにあれば、いや、この物語のなかでなくても、きわめて凡庸な孤独な少年の物語だ。世界との違和感、死の独り遊び(「死んだまね」というと、私は丸尾末広を思い出す。っと、あれは「死んだふり」だったか・・・)、リストカット、ドメスティック・バイオレンス、どれもが、小説的でありながら、それをただなぞっていくばかり。それでも十四年をたどれば短くもない。すると、いかにもこここそが小説の核のようにも見えてくる。「少年の孤独」の物語だ。畢竟、この小説のタイトルが「少年」になってしまったのではないか。しかし、Kを少年と呼ぶものとは、語り手でもなく、書き手だろう。タイトルがそうした位置取りであるなら、書き手の位置から物語に入って、「僕」が現れたとき、どうだろう? やはり、いかんともしがたい違和感がある。
だが私にはこの部分が、むしろ付け足しに見えて仕方ないのだ。その凡庸さもさることながら、親を殺す動機、そこにいたる過程を語り出さずにいられないという呪縛が、そこにはなかっただろうか。Kが語らずにいられない、というよりも、物語が語らずにいられなかったのではないだろうか。そして、そうした、書かずにはいられない、あたかも推理小説の探偵の謎解きのように、物語が呼び込んでしまった部分こそが、肥大して、核めいてしまったように思える。

推理小説といえば、犯罪の5W1Hを明らかにすること、といった原則があるようだが、なかでも、日本でいえば松本清張あたりからに思えるが、Whyばかりが書かれるようになったように思える。動機なんてものは、なんとでもつけられるはずで、探偵小説などと呼ばれていたころには、謎解きとしてはそれ以外の要素が主軸だったように思えるのに、犯罪トリックが手詰まりになったのか、どうも動機ばかりが前面にでてきたように思えてならない。そして、それを「社会派」と呼んでいるように・・・。

と、話が逸れたので閑話休題。
そう。この小説も社会派に読めてしまうのだが、ほんとうにこれが書きたかったのだろうか? と首が傾げるのだ。

 外界はこの重たい膜によって、僕から隔てられている。向こう側では、何かしゃべりながら板書する教師がいて、生徒たちがノートをとったりひそひそ話をしていたりした。また、おしゃべりしながら給食を食べたり、あわただしく清掃したりしていた。それらの動作は早送りしたコマのように大変なスピードで動いていた。僕は全然追いつけず、ウワーンという混濁した反響の中で茫然と見送るばかりだった。膜のこちら側は向こう側の数倍の重力をもち、まるで深い水底にいるようだ。僕の体は重くだるい。動きが意のままにならず、ただ暗い水底から上を仰ぐだけだった。

なにもこれらのKの話が悪いわけではない。凡庸とは書いたが、上に見るとおり、いうところは凡庸でも、その表現や出来事にはそれぞれに面白さがあるのだ。死んだまねにせよ、フィギュアを焼く遊び、はじめてのリストカット、教師の無理解、それぞれに面白いと思う。ところが、義父と母のセックスを覗き見、義父のリストラ、ドメスティック・バイオレンスといった家族が絡むにいたっては、なんともありきたりに思えて仕方なかった。もういいよ、と食傷したのかもしれない。
だが、それだけだろうか・・・。Kの十四年をたどる物語は、Kのメールである。上の引用を見てもわかるとおり、当然のように、Kの一人称「僕」である。「僕」がふたりいるのだ。Kの十四年こそが核に見えてしまうなら、Kのメールだけで成立している。語り手の「僕」は必要がない。ところが、ここにはもうひとり、KをKと呼ぶ「僕」がいる。

メールを読み終えた「僕」は、「ロゼッタ」の「ぼく」とおなじように、Kの家に駆けつけるのだ。そう、名まえもおなじ「K」だ。「ロゼッタ」のKは自分を「私」と呼んでいたが。
さてそれなら、おなじ構造をもつ「ロゼッタ」と「少年」の、二重の語り手は、この小説になにをもたらしているのだろう。客観性? 動きを欠いた小説にせめて最後に駆けつける「僕(ぼく)」という運動の導入? 彼らは最後になにをしただろう? 駆けつけたのだ。「ロゼッタ」の「ぼく」は「しばらく茫然としていた。が、突然或る疑念が浮かび、飛び起きた」のだし、「少年」の「僕」は「しばらくの間、僕は何も考えられなかった。頭の中が真っ白だった。始めに戻って再び読んだ。さらにもう一度。ようやく今すべき事がわかった。部屋を駆け出して、Kの家へ急いだ」。彼らは、まず茫然とする。異常な世界から正常の世界へ戻ってくるようだ。そしてそれは、とりもなおさず、読者の仕草である。ほかでもない、「僕(ぼく)」がKの日記やメールの読者だったのだから。ところが、もう一度、彼らは立ち上がり、駆けていく。確認にいく。そして、Kの書き記したことが真実であったことを告げるものになる。ふたたび語り手になりながら、語り手であると同時に、事件の現場に立ち会う当事者として、自らによって語られる者になる。
すると、「僕」とKの関係は・・・。最後の「僕」の科白はいただけなかった。

うううむ。Kの十四年を語るメールが惜しい。タイトルが惜しい。ラストが惜しい。

それから、熊のまんまのKがセーターを二枚重ね着してるの? ぬいぐるみの熊ならありってことか?

続きを読む "少年―小原優"

| | コメント (0)

2007/08/09

Mの追跡―小原優

メタモルフォーズ 十一の変身譚」中の「Mの追跡」だが、大変面白かった。変身といっても、なにか特殊なものに変化するわけでもないのだが、たしかに変化がある。その変化の過程にドキドキできたのだから、満足だ。とはいえ、すべてに満足したとはいえない。

 M君じゃないか?
 耳元で声がした。振り返ると、紺のスーツを着た細身の男がこちらの表情を探るように覗いている。うなずくMを見るや、相手は相好を崩した。ああ、やっぱり。僕だよ、中三で同じ組だったNだよ。

語りかと思わせて、じつはカギ括弧を省かれた科白だと、すかさず明らかにするこの書き出しは、書き手の巧妙な仕掛けである。ふたつめの段落のなかでも、Nはカギ括弧抜きで話しはじめている。

 N? そういえば名前に覚えがある。が、二十余年前のこと。当時の容貌は浮かんでこない。Mの戸惑いも気に留めず、Nは心底嬉しそうに、また懐かしそうに肩をポンポン叩いた。いい所で会った。まだ夜も若い。M君は酒は好きか。そうか、そうだろう。僕も喉がからからだ。近くで一杯やろう。

上に続く段落だが、上でも「耳元で声がした」というとき、その主格が省かれた様から、あたかもMと呼ばれた人物の一人称の小説とも思いながら、「うなずくMを見るや」と書かれて、あくまで三人称だと気づくのだが、それでも、この段落を見れば、またしても一人称と見紛うばかりに、語り手はMに同化している。むしろなぜこの小説を三人称にしたのか? と悩むほどに、寄り添っている。だが、カギ括弧を省かれたNの科白がこの段落にも紛れ込むのだ。Mの心内語にはじまって、ひとつのセンテンスがその場を描写すると、Nが語り出す。
さて、ここで、以前にもすこしだけ触れたイニシャルについて、またまたすこしだけ触れておきたい。MとN。アルファベットの順番でいえば隣り合い、形も音も似通い、そして日本人の姓としてはとても一般的なイニシャル。星新一は「N」にこだわり続けた。名まえにつき纏う個々人の記憶や意味(漢字や地域性)を嫌い、日本人の姓のなかでもきわめて一般的なイニシャルとしての「N」を使っていたという。小説を書くとき、登場人物の名づけは、非常に難しい、というか、悩まされる問題で、例えば、「植物診断室」を書く星野智幸のような開き直りにも、そうした困難が表出しているといえる。どこまで信じていいのか、疑わしいとはいえ、ロラン・バルトは、小説を書くつもりでいたし、書くことも決めていたが、登場人物に相応しい、それこそ「失われた時を求めて」のように完璧な名まえが浮ばないから、書きはじめられないといっていた。そうした名まえさえ見つかれば、いつでも書きはじめる、と。小原さんが、イニシャルの名まえを選択することに、どういった理由があるのか、今のところは、こうした星新一やロラン・バルトの発言を思い起こしながらも、「?」のままでいようと思うが、「M」と「N」の近親性は覚えておいてよいのではないだろうか。読了した私がいうのだから、なにかあるな、と思われるだろうけれど。

 Mの逡巡をよそにNは右手に黒鞄、左手にMの二の腕をつかんで近くの縄暖簾をくぐった。勝手知ったる様子で「おやじ、大生ふたつ」と声を張り上げた。そうして座蒲団をパンと叩いて、君はそっちで、僕はここ、と指示してどっかり座る。

かならずしも、すべての科白からカギ括弧を省いているわけではない。

 いやあ懐かしい。こうして偶然会うのも何かの縁。今夜はとことんやろうじゃないか。君、今何してるんだ。何、失業中? 解雇された? そりゃまた何故。なんと、毎日四、五時間の残業つづきで心身症と診断されるや、依願退職を勧められた? ひどいなあ。いや、そう自分を責めちゃいかん。日本国中に溢れる不運な大多数の一員だ。才能と勤労意欲の生殺しだよ。無策の政府が悪い、リストラし放題の企業が悪い、貸し渋る銀行が悪い、増え続ける老人どもが悪い、凶悪化するガキどもが悪い……。Nは悪者一つを指弾するたびに握った拳を木製テーブルにドンと振り降ろし、そのたびに大ジョッキや焼き鳥の皿や灰皿がガチャンと鳴った。

Mに寄り添っていたはずの語りなのに、あたかもNのひとり芝居のように、Nばかりが語る。その様はまるで落語でも見るようだ。いや、Nが落語家のようなのではなくて、語り手が落語家のようではないか。語り手が、ひとり芝居でNになり、まくしたて、機を見て客席に眼を向けると「Nは悪者一つを指弾するたびに・・・」と景色を語る。
すると、語りはあっさりNに寄り添うことをやめてしまったようでもある。

 久し振りの酒にMの酔いは早く、かつ深かった。が、日頃の鬱憤を急ぎ埋め合わすかのように気分は上々、解放感この上ない。Nの大言壮語に競うがごとく声をからしてまくしたてた。いわく、前の会社の不誠実、再就職の困難、己の溢れる才能を注ぐ場のない虚しさ、そして愛妻・愛娘からのやさしい励ましを語るに及んで、喉詰まり、涙さえ浮かべた。ここでNは友の肩を抱き、額を擦り合わせて共感共鳴の意を表していわく、M君、今日はとことん飲もう。どこまでも付き合うぞ。さあ語れ、僕も大いに語らん。

Mもまた大いに語っているのだが、説明の身振りで、Mの語りとしては表れず、そのまままたしても地の文に溶け込んだまま、Nの語りが表れるのだが。さて、そろそろ「M」と「N」というアルファベットの相似性が、ふたりを、どちらがどちらとも判断しにくくしてきやしないだろうか。いや、それでもふたりは、大きな口を利くスーツの男と失業中で涙さえ零している情けない男なのだから、映像的な対称ぶりがなんとか、彼らの区別を支えている。支えているはずだが、では、スーツ姿がNだったか、Mだったか・・・。そして、この名まえの混迷は怪しげな風貌を見せることになる。看板まで呑んだ呑み屋を後にして、ふたりは肩を組んで歩いている。

 或る小さな扉の前でNは歩を止めた。「BAR LUNA」の光文字が浮かぶ。おや、この店には以前何度か来たな。Nの行きつけの店なのか。いや、偶然かな、と独りごちていると、M君、実は折り入って話がある。馴染みのバーで静かに聞いてもらおう。そう言ってNは扉を押した。「あら、Mさん、しばらくね」という女の声に愛想笑いを向けたまま、Nに奥へと引きずられた。店内は七、八人ほど座れるカウンター。奥に一つだけテーブル席がある。Nは目指す席につくや、フッと大きな吐息をもらした。自動的にボトル・セットが置かれ、女が去るのを待つ。

三つ目のセンテンスはNの科白。次はM。さらに次は? Nの科白のまま「と、独りごちていると」と地の文を挟んで、ふたたびNの科白になる。しかし、「独りごちると」という言葉遣いはまるで、語りの場がNに寄り添ったようだ。そして、店の女の科白である。カギ括弧をふられたそれは、「M」に「しばらく」と言っているのである。店に歩を止めたのはNである。だが、よくよく見てみれば、Nは「以前何度か来た」かもしれないといった口ぶりでありながら、「馴染みのバー」と言っている。これはなにごとだろうか? 考えようによっては、ここには省かれた会話があり、Mの馴染みのバーが、Nも訪れたことがある、とも読めるし、それなら「偶然」という少しくこの場にふさわしからぬ言葉の意味も通じるのだが・・・。
Nの話とは、Mに妻の浮気調査の依頼だ。そして、Mはそれを引き受け、相手のゴルフのインストラクターを突き止める。だが、その報告を聞いたMはさらに相手の男の身許を調べろといい・・・。

さて、一気にページを飛ぼう。したがって、いわゆるネタバレの領域に入る。

続きを読む "Mの追跡―小原優"

| | コメント (0)

2007/08/04

「赤い球」「対面」―小原優

メタモルフォーズ 十一の変身譚」に入っているふたつの短篇「赤い球」と「対面」を読んだのだけど、短篇というよりは掌篇と呼んだほうがよさそうな短いもので、物足りなさばかりが残った。変身そのものを楽しむならば、オウィディウスリーベラーリスのように、この1冊の本を通じて、その累積のなかに面白さを見出すべきなのかもしれない。カフカ(カフカとしては「変身」は面白くないと思うけど・・・)などを経てきた現在に、変身だけを楽しむのは、物足りなさが否めない。

とはいえ、オウィディウスやリーベラーリスが生きていた時空と我々、いや、小原さんが生きている時空はまったく異なるのだし、小原さんなり我々なりを取り巻く状況を踏まえ、そのなかの変身を描くということはある。それは、カフカとだって違う。かといって、その偏差を読み取るよりは、それぞれの小説をそれぞれに読んだところで、偏差抜きで浮かび上がってくるものを感じたいのだが、そういい切ってしまうのもまたなにかが違う。なぜなら、リーベラーリスはまだしも、読んだかどうかは別にしても、オウィディウスやカフカの知名度は現代の日本できわめて高い。そうした知的な状況もまた、現代の在りようにほかならない。
さて、こんなことを書くのも、小原さんの創作に、かつて描かれたものに対するオマージュが溢れているからだ。「メタモルフォーズ 十一の変身譚」という書物の劈頭にはブルフィンチ「ギリシャ・ローマ神話」から引用があり、各短篇のそれぞれの冒頭にも、さまざまな書物から引用されたエピグラフが置かれている。こうした引用の在りようについては、全篇を読み終えてから、改めて考えたいと思っていたのだが、今回読んだ2篇で、少々引っかかってしまったのだ。

 Kは不意に、これと似た悔悟の声を聞いたことがあるように思った。すぐに思い出した。手塚治虫の『火の鳥』の老人マサトの声だ。永遠の命の血を得たマサトは、全人類が滅びた後も、一人生き続ける。ある日、朽ちた建物の中で一個の人体収納ケースを発見する。蓋が開き、中から同胞が現れる日を、老人は待ち焦がれてる。が、何年たっても開かない。忍耐の極に達した老人は、ついに電気ドリルで強引に開ける。その結果、中身は焼け焦げ、粉々になってしまう。老人は髪をかきむしり、叫ぶ。「ああ、なんという事をしてしまったのか。いつ開いてくれるのか。それを待つ間、わしは楽しかったのに!」

「赤い球」にある文章だ。そして、下に引用するのは、続く「対面」の冒頭の3つの段落である。

 古いイタリア映画を見た。二度の大戦を耐え忍び、ひたすら家族のために働いた老人の葬儀の場。三代が同居する家は貧しく、彼が横たわる部屋もただ広いだけで装飾もない。が、開放された窓や扉から明るい朝日が降り注ぎ、部屋は爽やかな光に満ちている。棺の中の死者は色とりどりの花々に埋まっている。赤、黄、白さまざまな色の饗宴。花園に眠る安らかな人。
 棺の外ではこの世の喧騒が甚だしい。喪服の老妻は同じく黒衣の老女たちの肩にすがり、声を絞ってすすり泣く。幼い孫たちは棺の周囲で駆けっこし、彼らをつかまえ尻打とうと母親たちも追いかける。故人の息子たちは遺産相続で反目し、酒の勢いから殴り合いの始まる気配。
 ああ、この世の騒々しいこと! 昼寝を邪魔された人のように棺桶の死者はつぶやいているだろうか。しかし、彼の瞼は安らかに閉じ、指先には平和が浸透し、口元は微笑みさえたたえる。もはや現世に戻れぬ彼には、老いた妻の繰り言は懐かしく、豚児たちの遺産争いは微笑ましく、孫たちのやんちゃぶりを見るのは心底楽しい。この世の果てなき騒々しさ、人々の賑やかさこそが、死者にとっては何よりの慰めなのだ。

「赤い球」の「火の鳥」の引用には、書き手の怠慢を感じてしまう。一切れのパンを食べてしまった悔悟(比喩であって、この小説が一切れのパンの話というわけではない)といういかにも小説的、あるいは松浦寿輝なら存在論的とでもいうだろうか、そうしたものを語るとき、先達の表現に頼るのは、やはり書き手の手抜きのように見えてしまうのだ。

だが、次の「対面」でいきなり古いイタリア映画の一場面を辿る。その際「色とりどりの花々」といった少々眉を顰めざるを得ない文章もあるが、それはさておき、いきなりの引用。ところがこのあと、語り手の「私」は自分の葬儀を夢に見るのだ。すなわち、それが冒頭に置かれていたことが象徴的とでもいうべきか、ひたすら引用された場面を背景に漂わせている。このとき、小原さんには、それを古いイタリア映画にもとめる必要はなかった。例えば、現実に見た、あるいは体験した出来事として、そうした出来事を置くことも可能だった。それでもなお小原さんは、それを映画の引用に求めた。
変身譚といわれれば、オウィディウスを思い出さずにいられない。とすれば、オウィディウスからでさえすでに約2000年の蓄積をもつ現代の文芸、さらにマンガや映画といった蓄積ももつところで、新たななにかを語るときの、そうした蓄積に晒されている現代の在りようが語られていると見るべきなのかもしれない。

Inyounoorimono だが、これは危険だ。それなら新たな書き手など必要ない、という結論に達しそうだ。いや、そうではない。原子力発電所で事故が起き、いじめが社会問題になり、さしたる理由もなく親子が殺し合い、一方で戦争が行われ・・・などなど、さまざまな現代的状況のそのひとつに、こうした表現の蓄積という状況もある。テクストの網目に絡めとられたなかで、そうしたテクストをあえて参照しながら書く、いわば「引用の織物」(宮川淳)を目指したのかもしれない。ボルヘスのように? そういえば、「対面」のエピグラフは、ボルヘス「一九八三年八月二十五日」からの引用だった。織物は大袈裟か? この本1冊を読み終えたとき、また違うものが見えてくるような気がするけれど、とりあえず、ここまでの道標に置いておこう。
ふと、「?」が私の頭に浮かんだ。「古いイタリア映画」とはなにか? ここに描かれている場面は、確かにどこかにありそうではある。まして、「頌」誌で、映画評を書き継いでおられる小原さんなのだから、およそ「これ」といえる映画があるだろう。しかし、「火の鳥」のマサトという名を明確に書いた小原さんが、あえて「古いイタリア映画」というとき、その匿名性は・・・? 引用の意味がまたすこし揺らいできた。やはり、先を読み進めないと・・・。

続きを読む "「赤い球」「対面」―小原優"

| | コメント (0)

2007/07/31

「透きとおる人」「GB型」―小原優

メタモルフォーズ 十一の変身譚」所収の「透きとおる人」と「GB型」を拝読。「26号掲載同誌の既刊総目次によれば、「透きとおる人」は先の「ロゼッタ」とともに17号、「GB型」は18号に掲載された作品だそうだ。

さて、「透きとおる人」だが、なるほど「ロゼッタ」と同時掲載されたということに、妙な納得を覚える。面白くはあるのだけれど、だからなに? という気にさせる物足りなさが、「ロゼッタ」同様なのだ。というのも、人が水になるというのは、とても面白いと思う。そして、水になることに、寓話でも精神分析なりなんでもいいが、なにがしかの意味づけを読み取ることは可能なのかもしれない。私にはそれが見出せなかったが、だからといってそれがこの小説を貶める理由にはならないだろう。もちろんそうした在りようで小説を成りたたせることもまたひとつの手立てではあるだろうし、あるいは、この小説からそれを読み取れないのが、私の教養なりセンスなりの問題である可能性も否定できない。
その上で、私としては、なにかを感じさせるか、あるいは水になることの過程に、ゾクゾクさせられたかったのだが、あっさりしすぎていた気がする。掌篇ともいえる短さのゆえかなぁ・・・。なにか、変身譚のなかで、水に変身する、ということの珍奇さに満足してしまった感が否めなかった。たしかに水に変身するというのは、面白くなりそうなのだから、練って欲しかった。

ところが、「GB型」は、非常に面白かった。

 手術中、Kの意識が二度戻った。仰向けの顔面に巨大な光の円盤が迫ってくる。中央の大きな光の球を取り囲むように小型の電球が八個並んでいる。一瞬、眼を開けると、無数の光の矢が突き刺さった。片手を眼前にかざそうとしたが動かない。眩しさに困惑していると、突然上半身の影が間に割り込み、光を遮った。一息ついた。と、そのまま昏睡に落ちた。

「一瞬、眼を開けると」の前に、眼前の照明を描写してしまうのは、迂闊ではないか? と思うが、この書き出しで、ふと、「木曜日」同人のひとりが、中学生だったか高校生だったか、いずれかのころに盲腸手術をしたが、手術途中に麻酔が覚めてしまったという信じがたい経験を聞かせてくれたことを思い出した。ちなみにこの同人のご父君は医師で、その手術に立会い、麻酔が切れたときには執刀医に「いいから、そのまま続けろ」と指示を与えて、みんなとともに激痛に暴れる患者の身体を押さえつけたそうだ。とはいえ、この小説からこうした記憶を呼び覚まされることは、私の事情。しかし、この書き出しは、読了後に全体を見渡したとき、必要だったろうか? という疑問は残る。

 二度目に意識が甦った時も、光の中にいた。瞼の向こうが真っ赤だ。全身の細胞の一つ一つが光に晒され侵蝕されている。眼を開けようとした途端「カンシ! 強く押さえて!」という切羽詰まった声が鋭く飛んだ。Kは怯え、ひょいと首をすくめる感じで再び闇の中へ帰った。

この二度目の覚醒には、その切羽詰まった状況がのちに意味をもつともいえるし、それより、「Kは怯え、ひょいと首をすくめる感じで再び闇の中へ帰った」というのは、とても面白い。「すくめる感じ」という言い回しには首が傾げるものの、動かないはずの身体を動かしかける身振りが、前段といい、夢幻境と現実のあわいを示して心地よい。

物語を見たとき、豚の肝臓を移植された男の物語である。動物の内臓を移植された人間の物語といえば、筒井康隆がいくつか書いていたように記憶する。すくなくともひとつは間違いなくあり、私の記憶では、筒井康隆がこうした物語を書けば、やはり、としか言いようもなく、その男は動物めいてくるのだが、この小説で、豚の肝臓を移植されたとしれば、おのずと筒井の小説を思い出し、ましてレトロウイルス云々といわれると、レトロウイルスといえば逆転写酵素のことで、DNA云々といいつつ、RNAということばがでてこないなら、なおのこと、逆転写が起きるのではないか、と疑うよりもなお、Kは、移植用に飼育されている豚を見て、「おまえは俺だ。苦しみが痛い程よくわかる」と口にしているのだから、どうしようもなく・・・。それだけではない。この小説が収められているのが「メタモルフォーズ 十一の変身譚」という本である。すなわち、変身譚なのだとしっている。
ところが、Kの変身は、豚に変身するのではない。豚でもなく人間でもない、新たな存在だ。それは移植用に特別に飼育されているGB型という血液型をもつ豚ともまた違う。違うのだし、その新しい存在の在りようを言い表す術としてGB型があるのだが、このとき名づけることが新たな存在を派生させるようでさえある。豚のGB型ではなく、人のGB型(という言葉)が誕生すると、それは、世界のなかで新たな種となる。そのために、もうひとりのGB型にして、女性(雌)が導入される。ニュータイプでもX-メンでもいいが、新たな存在の誕生だ。
うぅ〜む、1962年生まれだという小原さんは、新人類と呼ばれた世代。ちなみに私もそのあたりに生まれているのだけれど、それはさておき、GB型がGB型を見分けてしまうことのなかにしか、作中に彼らの特異性は見出せない。ひたすら内省化された変身だといえる。すると、例えばここに同和の問題を持ち出すこともできそうではあるが、私はそれほど無節操ではない。むしろ内省化された変身という点について、内省化さえもスラプスティック化、暴発してみせた筒井康隆との差異のなかに、またしても小原さんの抑圧の身振りを感じてしまう。というのも、じつは、GB型がGB型を見出す能力だけではなく、彼らの嗅覚は他者が感じない腐臭をコンビニ内に嗅ぎつけるし・・・。

 女が「後ろから」と言った。Kは女の体を裏返し、背後から突き刺した。この獣的な姿勢がまたKの癇に障った。が、女は弓なりに背を反らし、尻を規則的に押し付けてくる。女の体内で寄せては返す潮の干満がKに伝わってくる。やがて大きなうねりが押し寄せ、耐え切れず射精した。汗まみれの体を女の傍らに投げ出す。互いに荒い息遣いのまま無言でいた。ようやく女が言った。「私、大きな声出さなかった?」「出してたよ」「恥ずかしい」「いいじゃないか」「久しぶりなのよ」「ご主人は?」「いるけど、手術後はしてないの」「なぜ?」「なぜ? わかるでしょ」「そうだな。俺も妻を避けてる」「あなたの横にいると落ち着く」「うん」

豚的な存在であることの気配を漂わせながら、なお、それを癇に障るといって退ける。このとき女の身振りさえが、「豚になってしまった私」を自虐的に装う内省の結果のようにも見えてくる。だが、それでもなお、忘れてはならない。ふたりは人並み外れた嗅覚を身につけているのだ。人間ならざる豚的な肉体になっているのである。ここに、筒井的なスラプスティックを回避しながら、内省のみにとどまらない肉体的な変身を描く、小原さん的な抑圧の身振りを感じてしまう。そして、それこそが、言葉の、語ることの、不自由さではなかろうか? とさえ思えてくる。これから先を読むのがじつに楽しみになってきた。
ところで、人名をイニシャルで書くことについて、どこかで考えてみたい。これからこの本を読み進むうちになにかを感じるかもしれないが、感じないかもしれない。

追って、考えているうちに、精神と肉体とふたつの変身について、例えば、筒井康隆のやり方は、内臓が入れ替わることと同時に訪れる肉体の変化につれて、その事実を追認することから内省がなされるわけだが、小原さんのこの小説では、内省が先行しているといえそうだ。だからこそ、言葉による世界認識のズレ、GB型という言葉の誕生・認識によって世界が新たなものになる、新たな種としての自己を発見する物語に読めたわけだ。世界が変わったのではなく、自己(K)が変わった? そうではない。Kの認識世界が変わったのだ。すると、精神の変化につれて、肉体までが変化したかのようである。後背位を求める女の仕儀など、まさにそのようだし、すると嗅覚さえも。

続きを読む "「透きとおる人」「GB型」―小原優"

| | コメント (0)

2007/07/29

観覧車―森野こと&ロゼッタ―小原優

子どもの語り口というのは、難しい。「27号掲載の森野ことさん作「観覧車」は、小学校3年生の男児「僕」による一人称だ。まして、両親はおらず、十四歳はなれた兄とふたり暮らしという少々特殊な環境にいる。しかし、その特殊のわけはいっさい語られない。

 朝目を覚ますと、台所から美味しそうな匂いが漂ってきて鼻をくすぐった。それはいつものことだけど、この朝の匂いは何かが違う。
 跳ね起きて着替えもせずそのまま台所に走っていく。エプロンを腰に巻いた兄ちゃんがそこにはいて、朝食の準備をしている…。それもいつものことだけど。

「いつものことだけど」という同語反復のなかに、兄の炊事を織り込んでみせるこの書き出しは、「兄ちゃん」という言葉遣いに、語り手の幼さも伺えて、見事だと思う。

 食卓の上のものが目に入って、僕は思わず大きな声をあげた。
 「何、どうしたの、それ?」
 並べられた大小の弁当箱と、皿の上の海苔が巻かれた三角のおにぎりの山。鶏の唐揚。ウィンナー。
 そして今、兄ちゃんは僕の大好物の黄色い卵焼きに今まさに包丁を入れようとしている。そうだ、この卵焼きの匂いだったんだ、特別な匂いは。
 「どっか行くの今日?」
そう口にしてから、あれ、と思う。でも今日は平日で、学校がある日だ…。兄ちゃんだって仕事に行かなくちゃならないのに。

両親がいないことを、語るともなく語り、兄との年齢差も読み取れる。「今」の同語反復は迂闊の感が否めないが、いい感じじゃないか、と思いつつ読み進んでいた。
しかし、やはりいざ描写となると、子どもの語りにはどうしても違和感が生まれる。

 弁当とお菓子を入れたリュックをそれぞれ背負い、水筒は肩から下げてバスと電車を乗り継いでいく。平日のこの時間だ。仕事や学校に向かう不機嫌な表情を浮かべた人間たちでバスは混んでいたけれど、それだけに今日の兄ちゃんと僕が特別であることをしみじみ感じさせてくれて、ちっとも嫌じゃない。兄ちゃんと一緒に遊園地に行くんだと大きな声で触れ回りたいぐらいに、気持ちがウキウキしている。

「不機嫌な表情を浮かべた人間たち」といった言葉遣いに違和感を感じるのは、私が子どもをもったことがないせいだろうか? そう、気の利いた言葉遣いを見ると、子どもらしさといった迷信に絡めとられてしまうのだ。それは、書き手のみの問題ではない。読み手の側の問題なのかもしれない、と、読み手である私は戸惑わされる。

 遊園地に着くと、何より頭上に広がる五月の爽やかな青空に圧倒された。
 そしてその青空に突き刺さるようにして巨大な観覧車が太陽の光を浴びてきらきらと回っている。あんまり大きくて、神々しいようなまがまがしいような。

 間近に迫ると巨大恐竜の骨のごとくにレールは白々と高く、そこをすごい勢いでコースターが走り抜けて絶叫のうねりが尾を曳いてゆく。

さて、このとき、文学的表現の堅苦しさ、あるいは凡庸さ、あるいは呪縛から逃れる術としては、子どもの語りと言うのはとても有効なのかもしれない。文学的たろうとするならば、比喩は欠かせないだろう。それでも「ような」「ごとく」といった直喩を繰り返すのは甘いともいえるが、かといって、「すごい勢い」といった言葉遣いは、およそ文学的とは言いがたいのに、子どもの語りと思えば、許されるようでもある。

 その兄ちゃんも観覧車と同じように巨大な、浮遊し円周を描いて回るもの、上下運動を繰り返すものなどに目をやり眩しそうに目を細めている。
 四方から陽気な音楽が鳴り響き、ポップコーンのバターの匂いが強く漂う。そしていたるところで狼やら兎やらの着ぐるみが、固まった笑顔を浮かべて色さまざまな風船を持って立っているけれど、なんだかどれもとらえどころがなくて、このままあの青空にぽっかりと吸い込まれていきそうだ。

子どもは子どもらしくあるわけではない。これは子ども語りではない、というのも、幻想に過ぎない。むしろこの引用部で問題になるとすれば、最後のセンテンスの吸い込まれていきそうなのは、いったい誰(何)か、といったことになるかもしれないが、それはさておき、この小説の全体に立ち込める反復の気配が、ある種中途半端ともいえる子どもらしさのなかに包み込まれているようでさえある。そして、ジェットコースターで目を瞑っていた「僕」は、メリーゴーラウンドで、兄に近づいては離れ、また近づくという反復を強調すると、最後の観覧車で、上昇と下降をことさらに言うのだが、まさに、回転が反復を連想させてもいる。それなら、物語も着地点は元の場所でしかあり得ない。だが、この部分は、オチといってもよいような痛快な面白さを湛えているので、詳しくは書くまい。

しかし、なぜ小見出しをつけてしまうのだろう? 短篇に小見出しがあると、どうも、継ぎ接ぎの印象を受けてしまうのだが・・・。それと、子どもらしさについては、やはり悩むところだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

メタモルフォーズ 十一の変身譚」の巻頭作「ロゼッタ」を読んだ。

自殺した友人の日記を読む「ぼく」という体裁であり、日記部分が作中の多くを占めるが、多くといっても、半分に満たない。だが、こうした書き方が珍しいものかというとけしてそうではない。すると、この物語の醍醐味はやはり物語なのだろうけれど、これがウェルメイドというものではないか、といった印象を受ける。面白いのだけれど、物足りなさが強いのだ。おそらくは、傍観者の域をでない「ぼく」という一人称に原因があるのではないだろうか・・・。かといって日記体の部分は、仕掛けとしての語らなさが、感情移入を抑圧している。もちろん感情移入が目的ではないのだろうが、「ぼく」にも日記を書いたKにも、寄り添えないまま、かといって場景にはこれといった動きがなく、動きと言えば、Kの日記だが、語らなさに抑圧されている。最後の最後に「ぼく」が派手に動いてみせるが、周囲はすっかり死に絶えた世界。動いているロゼッタと出会いたかったという欲求不満が残る。
欲求不満という不穏さを読者に与える小説、としては、成功しているというべきかもしれない。あるいは、最後に、髪の長さだけでなく、ロゼッタの美しさなり愛らしさなり、その妖しげな様を「ぼく」に語らせてはどうだったろう? いずれにせよ、この小説はとても抑圧的な書き方の小説であると思えた。

とはいえ、概ね面白く読んだので、この先も読むつもり。

続きを読む "観覧車―森野こと&ロゼッタ―小原優"

| | コメント (2)

2007/07/22

「頌(オード)」「メタモルフォーズ」拝受

デジタル文学館」さんの縁で、「頌(オード)」の小原優さんが「頌(オード)」誌の直近号の3冊と小原さんご自身のご著書を送ってくださった。小原さん、ありがとうございます。じっくり拝読いたします。「頌(オード)」さんは、かねて「文芸同人誌案内」さんのページで、その表紙に感心しきりだった。オリジナル版画による表紙。こうしたお仲間がいるのは、羨ましいかぎりだ。
いただいた3号のうちもっとも古い25号に掲載された唯一の小説が、「デジタル文学館」に掲載された森野ことさんの「雪おんな」。
「頌(オード)」さんは、小説がすくないのが、小説好きとしては、ちょっと残念。なお、「執筆者紹介」を拝見すると、私と同年代の方々。

Ohdo25Ohdo26Ohdo27Metamorphose   

続きを読む "「頌(オード)」「メタモルフォーズ」拝受"

| | コメント (0)