2009/01/04

天国の対話―残雪

まだ、それほど多くの残雪の小説を読んだとは言えないけれど、「カッコウが鳴くあの一瞬」所収の「天国の対話」は、残雪の小説のなかでもひときわ傑作と言えるのではないだろうか。残雪には、すくなくとも私が知るかぎりでも「黄泥街」とか「突囲表演」といった長篇もあるが、ほかはかなり短い短篇ばかりが多い。そうしたなかで、「天国の対話」は五部構成の、中篇といってもよい長さだ。
こうした長さの小説は、長篇の物語と短篇の切り取られた一場面のあわいで、構成力が問われると言え、だからこそ、新人文学賞などがこの長さを求めるのではないか、とも思える。

だが、「天国の対話」は、物語と切り取られた一場面といった区分にしたがうならば、そのあわいというよりは、ひたすら短篇的な切り取られた一場面の小説と言える。なぜなら、地の文となった「わたし」の語りとカギ括弧でくくられた「ぼく」の語りが交互に表れる、タイトルとおりの対話のスタイルであり、それならば、この小説は一場である。
ところが、そこで語られる対話は、およそ対話の様相を呈していない。「わたし」は、「あなた」と呼びかけ、「ぼく」は「きみ」と呼びかけ、一人称と二人称が交錯するが、たがいの科白は、相手の科白に呼応しない。いや、かならずしもそうではない。かつて「あなた」が言ったこと、かつて「きみ」がしていたことに、「わたし」や「ぼく」は答え、語る。たがいは常に相手あるいはふたりのことを語っている。かつての相手に呼応しているのだ。
すると、タイトルに書かれたとおり、そこは天国で、生前を思い起こしながら、生きていたときのふたりを懐かしんでいるのだろうか?

そうかもしれない。
今ふたりがいる場所は、あまりに漠としているのだ。そして、ふたりの科白は、あまりに悲しく、不具の身体を引きずりながら美しいのだ。現実を懐かしむように見えなくもない。

仮にそうだとしても、それなら、ふたりはほんとうに、たがいを眼のまえにして、対話しているのだろうか? ふたりは、天国でふたりでいるのだろうか? あたかも、心中者のふたりが、誓い合ったとおりに、天国で結ばれたのだろうか?

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2008/10/07

備忘記録「プルースト効果」

なにかの刺激が、記憶を呼び起こすというのは、いつも書きたくなるし、その刺激が、五感のなかでも嗅覚というのは、語彙がすくないということも含めて書きたい気にさせられるのだが、なんと、匂いが記憶を呼び起こすのは、他の刺激よりも強いらしい。なるほど、だからこそ、書きたくなるのかもしれない。そして、この記事によるとそうした匂いによる記憶の召喚を「プルースト効果」というのだそうだ。

へぇ~!

もちろん、紅茶に浸したマドレーヌの香りから命名されたのだろう。
この手の命名って、神話から取られるのも多いけれど、ときに作家に由来するわけだが、面白いというか、優れた文学の力を感じさせる。だって、概念(哲学・学問)に先駆けて、それを表出していたわけだもの。

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2008/08/26

残雪に関する覚書

ゆっくりと、「暗夜/戦争の悲しみ」を読んでいる。

今のところ、先日の「帰り道」から遡って、残雪の初期短篇2篇、「阿梅、ある太陽の日の愁い」「わたしのあの世界でのこと  友へ」を読んだところだ。どちらも10Pに満たない非常に短い、悪夢に似た短篇。
このブログでは、作品に即して、あるいは作品に沿って、色々と書いてきたが、あまりにも比類のない残雪の世界は、その比類なさのゆえに、その癖のようなものを見つけたいと思う。
そう、小説を書いているだれもが模索しているだろうパラレル世界の文学にも思える残雪は、その特異性が、読み取りさえも困難にする。イメージに溺れていればいい? それにしては、「わたしのあの世界でのこと  友へ」に表れる、「わたし」の語りの詩情はなにか? 不条理とは呼びたくない。条理があるというのではないけれど、イメージが連なり、言葉が連なるとき、残雪が、その場その場で、そのイメージ、その言葉を書き付けずにいられなかったなにかがあるはずだ。
彼女のプロフィールを知れば、例えば、スパイや密告者、異質なものを排斥しようとする周囲の人々に、意味づけすることはそれほど難しくもない。だけど、それなら彼女の小説に現われる肉親者たちの在りようはどうか? それより、「わたし」たちが「わたし」以外のすべての世界といかにして触れているのか? 外部といっても、「わたし」が肉体をもっているかぎり、「わたし」もまた世界の一部だ。「わたし」が外部ではない。それはまた、彼女の家の問題でもある。内側と外側という境界線の不透明さ。内側に見えていたものが外側でもあること。

これから残雪を読み進めるうえで、上に書いたことが足がかりになるか、それともまったく別のものが見えてくるか・・・。

とにもかくにも、今感じていることを書きつけて、先を読もう。

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2008/07/02

自作解題の是非

私的考察だよ。

書いてみて、あまりにあやふやなので、すぐに消しちゃう気がする。よって、リンクはいっさい貼らない。

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2008/06/11

あんたはあたしじゃない―ポール・ボウルズ

ここにも、「彼女」になりながら、なお、「あたし」でしかない「あたし」がいた。

 あんたはあたしじゃない。あたし以外だれもあたしになれっこない。あたしはそれを知っている。それにあたしは、きのう、列車事故のすきに門を抜け出してから、じぶんがどこで、なにをしていたか、それもちゃんとわかっている。みんなすごく興奮していたから、だれもあたしに目もくれなかった。あの線路の上で、人がおおぜい怪我をして、車両がめちゃめちゃに壊れたせいで、あたしのことなんかまるっきりどうでもよくなってしまったのだ。衝突の音を聞いて、あたしたち女の子はいっせいに土手をかけ下りて、猿の群れみたいに鉄網のフェンスにへばりついた。ミセス・ワースは十字架を噛みながら、目を真赤に泣きはらしていた。きっと唇が痛かったのだろう。それともあの汽車にじぶんの娘が乗っているとでも思ったのかもしれない。それはほんとうにひどい事故だった。だれが見てもまちがいなくひどい事故だった。春の雨のせいで、枕木を支えている土が柔らかくなって、それでレールが広がって汽車が溝に落ちてしまったのだ。でもどうしてみんなあんなに興奮したのか、あたしにはわからない。

ふたつ目のセンテンス「あたし以外だれもあたしになれっこない」を覚えておきたい。そして、冒頭に表れた「あんた」という二人称。「あんた」とは誰か?
しかし、この段落のなんと妙な時間だろう。読み終えた後に見直してみれば、なおのことそう思うが、その点については保留しても、まず、タイトルとまったく同じ文章からはじまるのだ。タイトルは、全体にかかわるなにかだろうから、すると、まるで結論からはじめたようでもある。そして、時間を次第に逆行していくのだ。列車事故が起きたのが「きのう」なら、今は、その翌日ということになる。その今のこととして、「あんたはあたしじゃない」と言っているのだが、そこに至る過程を「あたし」は知っているといい、さらにそのきのうの事故の話をはじめている。だが、さらに時間は遡る。

 あたしは前から汽車が嫌いだった。汽車があそこを通りすぎるのを見るのも、隣り町に向かって谷間のずっと上のほうに消えていくのを見るのも嫌だ。あそこに乗っている、なんの権利もないくせに町から町へと動いていく連中のことを考えると、あたしは腹が立ってしかたがなかった。いったいだれに言われたっていうのよ、「おまえはきょう切符を買ってレディングまで行ってよろしい。道中おまえは二十三の駅を通過して、四十の橋を渡り、三つのトンネルを通り抜けるであろう。それでもまだ行きたければ、レディングに着いてもなお先へ進んでよろしい」なんて、だれが言ってくれたっていうのよ? そんなことだれも言いやしない。あたしにはわかってる。そういうことをみんなに言ってくれる、親分みたいな人なんか、どこにもいやしないんだ。でも、もしそんな人がほんとにいたら、なんて想像すると楽しい。もしかしたらそれは声だけの存在かもしれない。町じゅうの大通りに据えつけられた拡声装置から流れる、とてつもなく大きな声。

「前から」といった時間の遡行は、「あたし」の性格を説明するようでもあるが、どんどん遡っていく時間は、なんとも居心地が悪い。だけど、ここで時間は、あっさりと、事故の現場に移る。

 老いぼれの毛虫が枝からたたき落とされたみたいに、ぶざまに横たわっている汽車を見て、あたしは笑ってしまった。でもあたしは、血を流した乗客たちが窓からはい出してきても、そのまま鉄網にへばりついていた。

語りつつある今は、その翌日のままのはずだが、語られつつある場は、列車事故のときになる。比喩からはいって、情景を描写する。こうした現前化によって、語りつつある場ではない語られつつある場こそが、この小説の今ここになる。だが、同時に、私たち(読者)は「あたし」がその鉄網を越えていくことをすでに知っている。だから、「でも」といい「きても」といい、「そのまま」という。
鉄網であり、「抜けだし」たというなら、それは拘束のようで、「抜けだ」すことには、なにやら大きな意味がありそうなのに、ところが、それもまたあっさりと書かれる。

 あたしは中庭に出た。チーズ・クラッカーの包み紙がベンチの上に転がっていた。それからあたしは正門に行った。門はあいていた。表の道ばたに、黒い車がとまっていて、運転席に男が一人すわって煙草を喫っていた。あたしはその男に声をかけてあたしがだれだかわかるか訊いてみようかと思ったけれど、やっぱりやめにした。晴れた朝で、空気はいい匂いだし鳥もたくさん飛びかっていた。あたしは道にそって丘をぐるっとまわり、線路まで降りていった。あたしはわくわくしながら線路の上を歩いていった。食堂車が横倒しになっているのって、なんだかすごく奇妙なながめだった。窓ガラスはぜんぶ割れていて、布のシェードはいくつか下りていた。木の上でコマドリが一羽さえずっていた。「そりゃそうよね」とあたしは思った。「こんなの人間の世界だけの出来事なんだわ。もしほんとになにかが起きたら、鳥だって歌うのをやめるはずよ」。あたしは線路のわきの、石炭殻の土台の上を行ったり来たりしながら、草むらに倒れている人たちをながめた。男たちがその人たちを車両の前方の、踏切があるほうに運びはじめた。白い制服を着た女が一人いた。あたしはなるべくその女に近よらないようにした。

「あんたはあたしじゃない」とはじまった小説であれば、「あたしがだれだかわかるか訊いてみようと思った」というのもずいぶん怪しい科白だ。
逐一引用しているが、前半としては、この下の場面は、欠かせないように思う。

 あたしはブラックベリーの茂みを抜ける広い山道を行くことにした。途中小さな木立があって、そこには古い調理台が捨ててあった。調理台の下にはゴミが山になっていて、汚い包帯やハンカチがいっぱいあった。一番下には小石が積みかさなっていた。あたしはまん丸の石をいくつか、それ以外のをいくつか選んだ。このあたりの土はとても柔らかくて、じっとり湿っていた。汽車のところに戻ると、走りまわっている人の数がさっきよりずっと増えたみたいだった。あたしは石炭殻の上に並んで横たわっている人たちのそばへ寄っていって、その人たちの顔をのぞいてみた。一人は女の子で、口がぱっくりあいていた。あたしは石を一つ、その口のなかに落として、先へ進んだ。太った男がやっぱり同じように口をあけていた。あたしは石炭のかけらみたいに鋭くとがった石をそこへ入れた。この調子じゃ石が足りないかもしれない、とあたしは思った。かといって石炭殻じゃ小さすぎるし。年とった女が一人、そのへんを行ったり来たりしながらスカートで両手を何度も何度もせわしなく拭いていた。女は長い黒のドレスを着ていて、ドレスには一面、青い口の模様が入っていた。もしかしたら葉っぱのつもりなのかもしれないけど、形はまるで口だった。女は頭がおかしいみたいだったので、あたしはなるべく近よらないようにした。突然、ぐちゃぐちゃに折れまがった金属の山の下から、いくつも指輪をつけた手が一本にょきっと出ているのにあたしは気がついた。金属を引っぱってみると、人の顔が見えた。女だった。口は閉じていた。あたしは石が入るようにとその口をあけようとした。一人の男があたしの肩を乱暴につかんで、体ごとぐいと引っぱった。男は怒っているみたいだった。「なんの真似だ?」と男はわめいた。「気でも狂ったのか?」。あたしは泣き出して、この人はあたしの姉さんなんですと言った。たしかにその女はあたしの姉に似ていなくもなかった。あたしはしくしく泣きながら、何度も「死んじゃったわ。死んじゃったわ」と言った。男は怖い顔をやめて、片手であたしの腕をしっかりつかみ、うしろから押すようにしてあたしを車両の一番前のところに連れていった。あたしは男の手をふりほどこうとした。と同時にあたしは、「死んじゃったわ」と時おりくり返す以外はなにも言わないことにした。「大丈夫だよ」と男は言った。車両のはじにたどり着くと、人がたくさん土手の草の上にすわっていた。男はあたしをその人たちと並べてすわらせた。泣いている人も何人かいた。それであたしは泣くのをやめて、その人たちをながめた。

雨のせいで脱線事故を起こした列車だったはずだが、「このあたりの土はとても柔らかくて、じっとり湿っていた」というなら、雨はやんでいると思っていいだろう。しかし、異常とも言えそうな、この細かい描写! ここにもなにか怪しい気配がある。すこし辿ってみよう。
そもそも、「あたし」は鉄網から列車事故を見たのに、まっすぐに門に向かったわけではなく、中庭で、ベンチの上のクラッカーの包み紙を見ている。事故現場についても、山道に入って、調理台の下のゴミのさらに下にある石を拾う。・・・・・・??? なにやってんだ? それからまた事故現場に戻ると、どうやら死体らしい人の口に石を詰めていくのだが、やがて、男に連れられて、車両の突端までいく。例えば、中庭にしても、山道にしても、遠回りに回りこんだようにも読めるが、それにしては、中庭から門に向かうときにせよ、調理台のある木立から列車に向かうにしても、なにか直線を思わせる、あたかもただ引き返したようにさえ読める書きぶりではないだろうか? どうも行ったり来たりの気配なのだ。そう、ここまでにこの「行ったり来たり」という言葉が二度までも表れているではないか! さらに、「あたし」は「死んじゃったわ」という言葉ばかりをくり返す。
ところで、こうした空間の書き方は、先の駅や橋、トンネルの数を言った様を思い出し、あるいは、コマドリの声にたいして呟いた言葉からも、世界を把握しようとすること、世界と自分の距離を測るようでもある。歩き回る様だって、自分が今いる場所を確かめる仕草のようではないだろうか?

さて、いい加減で、先に進もう。

ちゃっかりと事故の被害者になり切った「あたし」は、どうやら病院らしきところから脱出して、看護人に、姉の家まで送らせてしまうのだ。その際「あたし」がとった作戦は、混乱した人間を装うようにただ「死んじゃったわ」という言葉ばかりをくり返すのだが、だが、じつは「あたし」は住所を訊かれて、姉の家の住所を答えている。カギ括弧を省いた、地の文章として、説明的に、その事実は処理された。
いざ、姉の家にいくと、もう大丈夫なのかと戸惑う姉をよそに、看護人は怪我はなくショックを受けているだけだから大丈夫だと太鼓判を押して、立ち去る。姉は退院させられたものだと思うわけだ。

 なかに入ったとたん、姉が部屋の配置を変えたことがわかった。といっても前のをひっくり返しただけだ。廊下と居間、という組合せは同じだけれど、前は廊下が居間の左側にあったのが、いまは右になっている。ということは玄関もドアも右はじに移ったわけで、どうしてさっきそのことに気づかなかったのかあたしはちょっと不思議だった。階段と暖炉もちゃんと位置が入れかえてある。家具自体は同じだが、置き場所はそれぞれ前とは正反対のところになっていた。あたしはなにも言わないことにした。説明したければ姉のほうから説明してくるだろう。きっと貯金もぜんぶ使っちゃったんだろうな、とあたしはふと思った。だけどこれじゃなにも変わってやしない。あたしは口を閉ざしていた。でもついつい、興味しんしんあたりをじろじろ見てしまうのだった。こまかい点一つまで、すべて左右を逆転させてあるのだろうか?

例えば、集合住宅などの間取りを見ると、隣り合わせた部屋で、往々にしてそっくり左右対称だ。それならそれで、「あたし」もそれを考えてもよい。といっても、「あたし」の漠とした異常ぶりは、これまでを見てもわかるから、そこに考えがおよばないというのも、わからなくはない。

 あたしは居間へ入っていった。センターテーブルのまわりの三つの大きな椅子はまだ古シーツにくるんだままだったし、ピアノーラの脇のフロアランプのシェードには、まえと同じ破れたセロハンがかぶせてあった。あたしは笑いだした。場所をひっくり返しただけで、なにもかもすごく滑稽に見えた。姉が仕切りカーテンの房飾りをぎゅっとつかんで、あたしをにらみつけるのが見えた。あたしは笑うのをやめなかった。

この小説は、「ダブル/ダブル」に掲載されている。それなら、鏡を連想せずにいられない。いや、「ダブル/ダブル」という分身譚を集めた本にはいっていなかったとしたって、どれほど間の抜けた読者といえども、やはり鏡を思い出すだろう。
ところで、鏡といえば、左右が逆転した世界であると誰もが思い至るのだが、もうひとつ忘れてはならないことがある。鏡の中とは、奥行きにおいても、こちら側とは逆転した世界なのだ。と、考えてみれば、「あたし」の行ったり来たりという往還の身振りが思い出されないだろうか?

姉は、近所のミセスたちとも相談して、病院(ホーム)に電話をかけると、「あたし」の脱走の仕組みは即座にしれて、あっという間に、迎えがきてしまう。このときに、はたと気づくことがある。

 ・・・。じきそいつらはまたあたしを連れ出して、ステーションワゴンみたいな車の前座席の、運転手ともう一人の男  たぶん看護人だろう  のあいだにすわらせた。・・・

 十五分たって、やっと姉が戻ってきた。姉はミセス・ジェリネクだけでなくその弟まで連れてきていた。三人ともすこしびくついているみたいだった。・・・

 ・・・。ホームの男が二人、家の前の道をこっちへやって来る。もう一人だれかが運転席にすわったまま待っている。・・・

この三つの引用のうち、最初が事故現場から姉の家に向かう車、ふたつめは姉の家、そして最後がホームからの迎えだ。つねに三という数字が、そこにある。

さぁ~て、ここからが、わけわかんないよぉ~。

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2008/04/11

言語を巡るはじめの一歩

読んでもいいけど、詰んないよ。青臭いし。

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2008/03/13

技術と推敲

野坂昭如は、まったく推敲と言うものをしない、と豪語していた。というより、読み返したこともないという。およそ疑わずにいられないが、でも彼のあのリズムがある文章は、たしかにいじれないだろうという気がしないではない。いじってリズムを作るという方法もあるだろうが、それは勢いを削ぐ気がして、勢いとリズムを両立させられるのは、書いてしまうことのなかにしか生まれないのかもしれない、などとも思う。
詩が観念的なもののように言われ、自動筆記のように書かれるものだと言った誤解が多いけれど、シュールリアリズムの手法である自動筆記にしても、じつは自動筆記で立ち顕れてきた言葉を練っていく作業を経てこそ詩になった。
石川淳の小説が、初期のものは、構成などはかなり出鱈目だけど、晩年になると、ひとつひとつのセンテンスにさえ出鱈目なものが表れてくる。あれっ? これって文章になってないじゃん! とか、まえの文章とつながらないぞ、とか。そう、破れてくる。彼くらいになると、技術なんてどうでもよくなってしまうのかもしれない。

そう考えていくと、直しこそ技術、という気がしてくる。itu:kairouさんの記事に頷かされる。概念としての小説の完成度をもとめていけば、直しを重ねたほうがよいのだろう。もちろんそこには、小説の概念、小説教室的なフローチャートを踏まえる必要がでてくるわけで、すなわち、主題論的にいかに上手に書きたいテーマを伝えるか、といった技術になる。

だが、実験的な小説が、主題論的ではないというわけではなくて、実験が主題になる実験小説ならいざしらず、例えば、松浦理英子の「裏ヴァージョン」という小説が、仕掛け(実験)が仕掛けに終わるのではなくて、その仕掛けこそが、彼女が常に追い求めてきた関係性の困難という主題を切実に表出していた。そうした仕掛けが主題を表出する小説なら、諏訪哲史の「アサッテの人」についても言えるだろう。"文"学というなら、人間でも社会でもなんでもいいが、それらを語るために、文章やコトバになにができるのかを追及してこそ、そう言えるのではないか、と思えば、やはり既成の技術に頼っていたのでは、もの足りない。
論文には、形がある。すなわち技術だ。新しい論旨(主題)を伝えることが目的だから、むしろ型にはまっていなければいけない。小説も、真に伝えるべき主題があるなら、そうした型にはまり込めばいいのかもしれない。
だけど、そうした主題はすでに失われたというのは、柄谷行人が「近代文学の終り」で書いたことだが、柄谷に負うまでもなく、大きな問題の不在はすでに何度となく言われてきたことだし、彼はそれを論証してみせただけだとも言える。もちろん、論証に意味がないわけではなく、大いに重要だとは思うが、だけど、それはそれでやはり嘘で、大きな問題ではなくても、個々の抱えた問題なら絶えず生産され続けている。個々には、切実な問題がつねにある。存在論的といってもいいし、クオリアといってもいいが、語らずにいられない問題が存在する。ところが、そこにはすでに新しさはない。すなわち新たに書かれる必要性がないのだ。個々には語らずにいられない必然性があっても、読む側にしてみれば、べつに貴方の問題を読まなくても、すでに同じような問題は溢れているから、それを読めば充分だよ、ということになる。
さてしかし、文章・言葉の問題として考えたときには、技術に偏りながらも、いまだ触れたことのない言葉・表現に出会うことはある。私がチマチマと細部に拘るのも、これゆえと言える。逆にいえば、そうした読み方でしか、多くの小説に期待できるものがない、ともいえよう。再生産ばかりが横行しているから、細部しか読むところがないといってしまってもいい。
例えば納富さんの「水の音」の水の描写には、たしかに読むべきところがある。では、あそこに辿りつくことは、例えば私に可能だろうか? 例えば、今書いているものに推敲を重ねれば、ああした描写が生まれるだろうか? もちろん、納富さんの再生産ではない、私の描写ということになるわけだが、推敲が技術的なものではないものになりえるか、という問題と言えるかもしれない。

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2008/01/27

「六白金星」の未発表稿

織田作之助の小説の中でも「六白金星」はかなり傑作だと思っている。そもそもこんなタイトルをつけて、主人公の性格付けをするならば、いわゆるステレオタイプに堕するだろうし、短いなかにあれだけの時間を書いてしまうその文章の流麗さ、リズムは、なるほど、前にも書いたとおり、その真偽のほどはしれないけれど、野坂昭如が小説を書くにあたって織田作の作品だけをくり返し読んだと伝えられるのも頷ける。
とにかく「六白金星」はとても好きな小説のひとつだが、私たちが知っている作品が発表される以前、昭和15年に書かれながら、発表を許されなかった原稿が見つかったのだそうだ。途中までしかないらしいけれど、読んでみたいものだ。

http://www.kobe-np.co.jp/knews/0000813740.shtml

しかし、あいかわらず「夫婦善哉」で知られた作家なのだ・・・。「夫婦善哉」は織田作の小説のなかでは出来が悪いと思うのだけど・・・。

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2008/01/05

小説以前、あるいは平行線上の文学

itu:kairouさんが、今、書こうとして、書くことの、書かれるはずの世界の広さ深さ多様さに眩暈を起こし、見えぬ眼のかわりに両手を突き出す手探りの身振りにも似て、hkのお名まえで旧作をネット上にアップされた。kairouさんがみずから書くとおり、それはおよそ小説とは呼び難い。これを褒めれば、私は自己矛盾に陥るしかない。それでもなお、これこそ文学なんじゃないか、とさえ思える。

私は以前、「かつて一度も小説など読んだこともなく、小説というものが存在することさえしらず、もちろん書いたこともない。そんなふうに小説を書きたい。」と、このブログ上に書きつけた。その反面、とある小説のあまりの国語力の欠如に呆れても見せた。というより、それを優秀作とした某誌こそ、槍玉の対象だったのだが。
そう、匿名の(?)評者が書いた「技巧に背を向けた技巧」という訳の分からない評価は、「両手にありがとう」ではなく、「結婚前」にこそ相応しいということだ。国語力のなさと、小説力のなさを一緒にしてはいけないよ、誰かさん。

いや、「背を向けた」わけではない。それは本城氏にしてもそうだし、itu:kairouさんにしても同様だ。それは「技巧」ではない、という点に、面白みがあるのであり、ところが、評者がなお「背を向けた“技巧”」と書くとおり、やはり「技巧」でもある。

ここで思い出すのが、「アサッテの人」だ。言葉だけに頼ることに挫折したようにさえ、フォントを拡大したり、図解したりする仕儀は、だけどそれで、言葉以外の表現手段の導入で、表現する対象に言葉のみの表現以上に対象に近づいた、あるいは表現しつくしてみせた、とでも言うようでさえある。言葉や文章では足りない、だから、図を描き、表を描き、文字の大きさを変えた。
もちろん、「アサッテの人」が小説的作為では書き尽くせないなにがしかを、小説的作為を排することで書こうとして、なお書き損ねること、すなわちそれもまた小説的作為の網の目に絡め取られていくという重層的な試みであったことを思えば、それを論うことは不当だと言えるだろうが、ここに「結婚前」という小説ならざる散文を前にしてしまうと・・・。
いや、それでもまた、ここには落とし穴が待ち受けているのだ。itu:kairouさんが零すように、これは創作だ。よしんばそれが私小説であったとしても、なおやはりここには「作為」があるのだ。「作為」を排することで、切実さや真実らしさが生まれるなら、切実さや真実らしさを表出するための、それもまた「作為」なのだ、といってしまってもいい。

私小説を、作家の実体験に基づくと保証するものはなにか? と、以前問うた。それを私小説と呼ぶ根拠は何なのか? 私小説だから、女の残り香に咽び泣くことが感銘を呼ぶのか? それなら、すべての小説を、現実のこととして読めばいい。幻想小説であろうとSF小説であろうと、その世界のなかに立てばいい。私小説だって、作為によらないならば「小説」たり得ない。作為を排することの作為、作為を排していると見えることの創造性。すくなくとも、近代小説が培ってきた制度とはパラレルにあり得たはずの小説の可能性を、もういち度探ってもいいのではないか? これは小説なのか、という問いがない場所で散文を紡ぐこと。

私小説的な文章を書いているひとたちにこそ、その作為を、もう一度問い直して欲しい気がする。
といっても、「結婚前」は素晴らしい、というのは憚られる。かといって、この方向、いわゆる小説の在りようとパラレルにあり得た、別の作為なら、こうすればいい、といったなにかも、すくなくとも今はまだ、私にはない。
かつて唯一手塚治虫によらないといわれた岡田史子のマンガが、もしかしたらなにかを教えてくれるかもしれない。こう書いたせいだろうか、ふと、「結婚前」の風景が、岡田史子の絵で思い浮かんだ。

何度でも書くが、読書は、小説(≠作者)と共犯的な創造行為なのだ。収入に見合った予算で自動車を買い、道路交通法を守り、通勤や買い物に使うなら、カローラに満足すればいい。きっとそれがエンターテインメントだ。レーサーになろうよ。自動車の性能を極限まで引き出し、さらに創造的なシフトワーク、ハンドル操作を操ろうよ。そのために作られるレーシングカーが、芸術なんじゃないだろうか? 純文学と通俗文学を、とりあえずそう考えてみる。もちろん、レーシングカーではない市販車によるレーシングだって可能なのだ。通俗文学による創造的な読書もまた可能なはずだ。

なんとも、とりとめもなく漠然とした記事になってしまった。
itu:kairouさん、作品に踏み込めないまま、結局は自分の思うところを書き付けるばかりの記事になってしまいました。こんな記事でごめんなさい。

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2007/12/27

曖昧なままに覚書

Bungakukai0801 ふと、手にとった「文學界」新年号で、そういえば、いつも読んでいる高橋源一郎の「ニッポンの小説」第三十七回をまだ読んでいなかったと思って、開いてみた。冒頭に「主体」のことを書くというから、これは読まなきゃいけないと思って、気合を入れて読んだ。
と同時に、私が今読み進めているのは残雪の「黄泥街」なのであって、その難解にして、異様な世界に戸惑い、たびたび立ちどまりながら読み進めているのだという背景もある。

で、近代的な「主体」と近代以降の文学の在りようについて、やっぱり大事なことが書かれていると思えた。

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2007/11/29

恥ずかしいから読まないで・・・

たとえば、ビオイ=カサレスの「大空の陰謀」について書いたときにせよ、あるいは円城塔の「つぎの著者につづく」にせよ、まるで博覧強記をきどった記事を書いているし、教養がどうとか書いてしまってもいる。だが、私の教養なんてきわめて狭い。私の教養はインターネット上に溢れている。私の脳みそは記憶装置ではなくなり、博覧はインターネットに任せ、その実現のほどはしれなくても、強記に専念する。私がメキシコの近代史に精通しているわけがない。もともと年号が大嫌いだったから、日本史も世界史も、歴史は嫌いだった。
あるいは、楊逸という名まえに、千里眼を連想できなかったあたりにも私の教養の程度がうかがいしれよう。

たとえばコトバが発明されたとき、文字が発明されたとき、印刷技術が発明されたとき、百科全書の時代、それぞれに知識や教養の在りようが劇的に、あるいは微妙に変化してきたはずだし、かといってそれぞれの時代にもそれらに触れることなく、知識や教養を蓄えたり、あるいはまったくそれらと無縁に生きていたひとびともいただろう。そのうえで、やはりインターネット上にWikipediaのような百科事典が存在したり、それなりの情報が溢れかえり、そのなかにはまったくとるにたりない、たとえばニュース記事に触れた意見などというものもあるのだが、そうしたとるにたりないような記事に触れることもまた、他者とか大衆といった側面に触れることでもあり、やはり今、知識の在りようは劇的な変化を経験しつつあるといえるかもしれない。

すると、博覧強記の在りようも、澁澤龍彦と円城塔ではその書かれ方、意味づけに違いがありはしないだろうか? と思いはじめている。もういち度、SFに取り組んでみてもよいかなぁ? そうでもないよなぁ・・・。

なにかを知っていることと、小説を読むことの間には決定的な差異がある。あらすじをしること、そこで語られた主題を知ることは、小説を読む体験とはまったく別のものだ。

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2007/11/15

感謝と文學界新人賞

SNSというシステムには抵抗があったのだが、訳あってmixiページをもつことになった。といっても、なにをするつもりもないけれど・・・。

ところが、mixiに入ったおかげで、「星座盤」さんとコンタクトが取れてしまった。なるほど、こうゆうこともあるのだなぁ・・・。やはりここを見て、送ってくださると連絡をくださった。「星座盤」さんに深く感謝。また、mixiとmixiに誘ってくれたS氏に感謝。
と思いきや、なんと文学フリマ事務局さんから忘れ物預かっているというメールが届いて、こちらも郵送してくださるという。なんと丁寧なご対応・・・。感謝感激だ。どれほどの惨敗を喫しても、今後とも文学フリマに参加していこうと心に誓ってしまうのであった。ありがとうございます。う~~~、こうまで親切にされると、ボランティアはまだしも、会場設営くらいは協力すべきなんじゃないか・・・。家が遠いのです・・・。勘弁してください。

Bungakukai0712そうこうしているうちに、第105回文學界新人賞の楊逸「ワンちゃん」を読み終えた。ちょっとひさしぶりになってしまったが、近々、読書の記事を書こう。

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2007/10/01

コサック・ダヴレート―アナトーリイ・キム

小説は、誰が、いつ、どこで、語りつつあるのか? もちろん、小説家が小説を書くとき、おおよそは書斎とか、机を前にして、今ならPCで、事後的に、書いているわけだが、書き手と語り手を分けて考えた場合、語りの場は、いつで、どこなのか? たとえば、まさに今、出来事を体験しつつあるが如く語ることもまた可能なら、未来のことを語ることさえ可能だ。もちろん、未来のことを語るといっても、それはきわめて稀であり、未来を今のこととして語る未来を舞台にした小説はあっても、語りの場の未来が語られる、といったスタイルはなかなか存在しにくい。それでもそうした小説が不可能なわけではない。このブログのカテゴリーにある「覚書」は今のところ「人称」に偏っているが、やがて、語りの「時制」や「空間」に及んでいくことになるだろう。
だが、今、「世界文学のフロンティア3―夢のかけら」所収アナトーリイ・キム「コサック・ダヴレート」という小説を読むとき、まず眼をひくのは、やはり「誰が」語りつつあるのか、という、人称の問題だ。しかし、この小説は、人称の問題であることが同時に、時制の問題であり、空間の問題でもある。

 ダヴレートという名のコサックだったころ、わたしはロシア南部に暮らして人々を殺し、自分もまた死ぬほどの危険に幾度もさらされていた。サンクト・ペテルブルクでわたしは児童作家になることになったが、この寒い北方の地ではわたしの南での習慣が頭をもたげ、あるときわたしは頬のふっくらした党役人の喉元につかみかかった。しかしそいつの色白の喉はひどく軟弱で、わたしはやっとのことでこの木っ端役人の息の根を止めるのをこらえた。

アナトーリイ・キムがコサックだったのかどうか、私はしらないし、彼が児童作家かどうかもしらないが、それはこの際問題ではないはずだ。たとえ上のとおりにはじまった小説の人称が「わたし」だとしても、それはアナトーリイ・キムではない。すくなくともその必要はない。ところで、アナトーリイ・キムは、「リス」(おっ! 翻訳本がある!)という長篇おとぎ話を書いているそうだ。アナトーリイ・キムの熱心な読み手にとっては、児童作家というコトバに、なにかを看取するのかもしれない。
今や「わたし」はロシアを放逐されて、ニューヨークで白スエードの皮ジャンを着た黒人に襲われながら逆に殴り倒し、その相棒に太腿を刺されたりしながら暮らすロシア人作家だが、舞台はリスボンだ。

 リスボンの世界文学大会には、各国から大勢の作家がやってきていた。ロシア文学の代表として参加したのは、二人のユダヤ人ハーフの作家、アルメニア人作家、そして何とかいう朝鮮系作家だった。しかしわたしは彼らとは愛すべきロシア語で、しかも響きがよく洗練されたペテルブルク発音で話すことにした。われわれ世界各国の作家が部屋をあてがわれていたホテル・リッツのゴージャスな部屋に、わたしは彼らを訪れた。そして最初、わたしはただの一滴もアルコールは口にしなかった。ところが三日目、わたしは自分の部屋のミニ・バーを全部空にしてしまうと、酒はやらない朝鮮系作家のところに出かけて行き、彼の部屋のミニ・バーのアルコール類をすっかり空にし、それから同じことをアルメニア作家のところでもやらかして終わりにした。ひとつの大グラスにウィスキーとジンとウオッカを一緒に注ぎ、それを一気に飲み干すという見事なアトラクションを、わたしは彼らに披露した。

さて、キムという姓に気づくひともあるだろう。アナトーリイ・キムは朝鮮系である。ロシアの朝鮮系作家がどれほどいるのかしらないが、「何とかいう朝鮮系作家」が、彼を連想させずにいない。いや、種明かししてしまおう。解説によれば、コサック・ダヴレートとは、セルゲイ・ドヴラートフをモデルにしているということだ。彼をわたしとして、私を彼として語ることがここで実践されているわけだ。とはいえ、この小説を読むとき、はたしてそれがセルゲイ・ドヴラートフであることに即座に気づくものがどれだけあるのだろう? というより、それがドヴラートフだろうか? そうではない。たんにモデルとして拝借しただけであり、それはドヴラートフではなく、あくまでコサック・ダヴレートである。それでも・・・

 そういうことをすっかり終えて、わたしは朝鮮系作家に八十ドルやろうとした。しかし彼は、誇り高く頑なに断わり、結局わたしから金は受け取らなかった。そのかわりアルメニア人作家のほうは、どうやら断わらなかったようだ。大会の主宰者はわたしをニューヨークに帰らせることに決め、わたしはリスボンの空港に連れて行かれた。ところがわたしはなぜか飛行機には乗れず、翌朝にはふたたびリッツの自分の部屋にいた。

と、朝鮮系作家の在り様を語ってみせる素振りには、あえて「誇り高」いなどと書く自嘲的な身振りも相俟って、そこに語り手ならぬ作家の影が強調されるようでもある。そう、ここに現われているのは、書き手と等身大でありながら、語り手にならない、なんとも妙な存在だ。
ところで、「どうやら断らなかったようだ」といった口振りは、そのあとの、飛行機に乗らなかったことの顛末について記憶がないらしいのと同様に、酔いのせいと考えればよいのだろうけれど、なにやら不穏ではある。

 というわけで、あの図々しいルンペンの白いスエードの皮ジャンのニグロは、その朝わたしの夢にはっきりと現われた。そこでわたしは、赤い瓦屋根が並ぶリスボンの街を一望するどこかの山上にある宮殿で行われていた大会の、その日の会議には出掛けなかった……わたしはポルトガルの首都の通りを散策に出かけたのだ。

この段落の冒頭にある「というわけで」という接続詞も、前段との脈絡を欠いており、それはこれまで引いてきた段落の中にも見られる、話題の断絶の身振りなのだが、ここに現われる皮ジャンのニグロとは、ニューヨークで「わたし」を襲った黒人に違いない。話題同様に、時空が断絶しながらふいの接続を見せる。こうした断絶とは、先の記憶の喪失に似ているが、これを省略ととることもできる。とはいえ、これは今のところ夢の話である。ところが、ことはそれにとどまらない。上に続く引用が下なのだ。

 要するに彼は会議には行かず、リスボンの曲がりくねった急な坂道の散策に向かった。すごいのっぽで肩幅が広く、鋳物のようにどっしりと黒い頭をしているのに、いかにもコサックらしい茶色の目が、おどおどした子供のようなまなざしをしている彼は、通りで出会う人々を感嘆させた。そして多くの人々は、すれちがいざま彼の後ろ姿を振り返って見た。そのうなじはアメリカ風に丁寧に刈込まれていた。

かつて一人称「わたし」の語りであったこの小説の中に、卒然と舞い込む三人称による「彼」コサック・ダヴレートの描写である。このまえに、朝鮮系作家が現われていたことを考え合わせるなら、このとき、突然アナトーリイ・キムが語りはじめたのか、とも思えるし、一人称で書き始められた自由間接話法だといってもいい。ところが、それでも、なにかが違う。上に続く段落が下だ。

 異国の街の見知らぬ片隅を、わけの分からぬ目つきと動作をみせる異国の人々の間を縫ってさまよう外国人の暗く自信なげな姿、孤独な肉体を見るのは、わたしには何とやるせなかったことか! 修道女に引率された黒い眼の小さな若い娘たちがびっくりして脇に退き、わたしを避けて通って行った。まるで彼女らには、わたしがロシアのステップ出身のコサック・ダヴレートで、サーベルを振り回して大勢のトルコ人やクリミア・タタール人を殺してきた男だということが分かっているかのようだった。そして他の通行人たちもみな、彼を警戒しながらちらちら眺めていた。

外国人の姿をやるせなく見ていた「わたし」は誰か? 「わたしがロシアのステップ出身のコサック・ダヴレートで」というセンテンスは、「わたし」がダヴレートであるといっているのだが、それでも、最後のセンテンスを見れば、またしてもダヴレートは「彼」になってしまうのだ。もちろん、リスボンにはダヴレート以外にも外国人が散策しているだろうし、彼ら一般に自信なげな姿を見出すことは可能だろうけれど、上の引用に続くのだと思えば、外国人とはダヴレートだと思うのが自然な成り行きというものではないか。ひとつの段落のなかに、「わたし」を名乗る人物が混在しているらしいのだ。
このとき起きているのが、語り手と書き手の同化だとはいえないだろうか? アナトーリイ・キムがセルゲイ・ドヴラートフをモデルにしたコサック・ダヴレートになるのだ。あたかも三人称の不可能を言うがごとく、先の引用さえ、「わたし」による描写の際に、描写する一人称を省略しただけのようでさえあるだろう。

それでも、それなら他者不在のままに、ひとりがすべてである世界、見えている世界の一元化が免れない。ここで、顕れるトリックが恐ろしい。多角的な視点の導入とともに、時空さえも歪めてしまうのだ。
ダヴレートは観光客らしい女性と出会う。相手はアメリカ人女性らしいのに、ダヴレートはなぜかあくまでロシア語で話し、ふたりの会話はかみ合わないようでいて、ダヴレートは英語を理解すれば、それなりにかみ合ってもいる。それはさておき、時空の歪みは、まず、ものの見え方から顕れてくる。

 それは観光客で、どう見てもアメリカ女性らしかった。赤茶けた長髪はぼさぼさで、まるで洗ってもいなければとかしてもいないかのごとく。首や腕のしなびた肌は、粗末な食事と年の割には早く老けてしまったのが原因であるかのよう。洋服は色あせて、まるで日焼けして古ぼけた安物同然。しかしすべてはそうではなく、まったく逆であるとわたしには分かっていた。流行のスタイルで決め、ヘアマニキュアをかけた髪は清潔だし、リゾート焼けして毎日最高の食事をし、服装も気がきいていて趣味がよく、じっくり選んだものなのだ。美しく大粒の白い歯をして、賢そうで思慮深く自信にみちた目は、ライトブルーに輝いている。

まるで、女性を見る人物がひとりではないようではないか。私には、書き手と語り手の鬩ぎ合いにも見える。
そして、いよいよ事態は異様の度を増す。

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2007/09/20

本日購入、小説なし・・・

小説が読めない。本を開きもしないまま。それでも本屋通いはしている。そして、本日も買ってきた本がある。けれど、小説ではない。

Dollybird9Newton_sakushi いつも通り、すぐに手許を離れるお人形ムックが左で、右は「Newton」のムック。
「Newton」のムックは、このまえは、ゼロと無限の特集を買った。非常に面白かった。円が∞角形だ、なんて、いわれてみれば当たり前だけれど、目から鱗ってやつだったし、2種類の無限大がある、なんて話は、唖然とした。「新宇宙図」も欲しい。

ともあれ、「錯視 完全図解」、面白い。是非、画像をクリックして拡大し、表紙の絵を見つめて欲しい。この表紙を見たら、買わずにいられなかった。本屋で立てかけてあったのだが、なにやら蠢いているから、ビクッとしてしまったのだった。
ああぁ、エッシャーに動く錯視を教えてあげたい。エッシャーなら、きっと蠢く蛇を描いてくれただろう。これなら、動画なんかいらない。
念のために書いておくが、ほんとうになにも細工していない、ただの静止画だよ。

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2007/08/02

死者の百科事典―ダニロ・キシュ

ダニロ・キシュ「死者の百科事典(生涯のすべて)」を読みはじめたら、とまらず、サクッと読了してしまった。面白い!

私は「世界文学のフロンティア3・夢のかけら」で読んだ(ちなみに、東京創元社から素敵な本が出ている。欲しいかも・・・)のだが、こうしたテーマ別アンソロジーの弊害がないわけではない。真っ白な状態から読めない。今回も、およそ「夢」にかかわる物語なのだとしったうえで読むことになる。

 去年、あなたもご存知のように、演劇研究所の招きでスウェーデンに行ってまいりました。ヨハンソン夫人とかいう方、そうクリスティーナ・ヨハンソンさん、この方が私の案内と指導を担当してくださいました。五つか六つ劇を観ましたけれど、なかでもいちばん面白かったのは、囚人のためにベケットの『ゴドーを待ちながら』をやっていて、それが大成功だったことです。十日間が過ぎて家に帰ってきてからも、まだ夢に見ているように、その遠い世界に暮らしておりました。

だれか「あなた」と呼ぶ相手に語りかける「私」の一人称ではじまるのだが、語りかけるというよりは、手紙のようなものを考えたほうが、よさそうだ。この、演劇研究所の招きとか、個人のフルネーム、さらに、芝居のタイトルまで提示することで、いかにも現実の出来事を思わせる具体的な描写を覚えておきたい。
「私」はヨハンソン夫人に導かれて、夜の王立図書館を訪れる。ヨハンソン夫人は帰ってしまい、ひとり残される。

 それから思いついたんです。まだ本をじっくり見る前でした(それともそれに気づいたのは三番目の部屋で、ある本の背に「C」の字を見つけたときだったかもしれません)。それぞれの部屋に『百科事典』の文字がひとつひとつ入っているんだなって。これは三番目の部屋です。四番目の部屋の書物には、本当に、どれも「D」の字がついていました。突然、不思議な予感に駆り立てられて、私は走りはじめました。足音が幾重にも木霊してどこか闇の彼方に消えていくのが聞こえました。胸をどきどきさせて、息を切らせて「M」のところまで来ると、はっきりとそのつもりで、中の一冊を開きました。私にはもう分かっていたのです。どこかでこのことについてもう読んでいたのを思い出したんでしょう、これがあの有名な『死者の百科事典』なんだ、と。分厚い一冊を開くまでもなく、たちまち何もかもはっきりしたのです。

ここから、最近亡くした「私」の父の人生を辿ることになる。その本には、父の人生のすべてが記されていたのだ。すべてとは、彼が生まれた町の歴史や位置取りから、景色さえ眼前に見るように描出し、彼の周囲を彩るすべての人のフルネーム、それぞれの時の会話から、そのときに彼が思ったことまで、なにもかも書かれている。もちろんそのすべてを「私」が辿りなおすことなど、できない。というよりも、それを読み尽くすことさえできるわけがない。毎日が繰り返しのように見えても、そこにはなにがしかの違いがあり、それらのすべてが書かれているというのだから、そこを辿ろうと思えば、父というひとりの人間の人生とおなじだけの時間、あるいはそれ以上の時間が必要になるはずなのだ。だけど、数年が数行に凝縮されながらすべてが書かれている、という矛盾を孕みながら、「私」は引用を端折りつつその本に書かれていることを辿るのが「死者の百科事典」という小説だ。そこには、20世紀を生きたひとりの男の凡庸な人生が語られてもいるわけだが、「私」がしらなかった父がそこにいるし、「私」がよくしっている父もいる。とはいえ、概ね「私」がしらない父といえるのではないだろうか。というのも、海にでかけることを拒み続け、それでもやがて家族に説き伏せられて出かけた海に失望して帰ってきた父は、「私」もよくしっている。しかし、父の心のなかにあった唯一無二の美しい海の記憶を「私」はしらなかった。そしてこのとき、「私」は絶対的に美しい海を父と共有する。
それならこの小説は、亡くなった父の昔を辿る小説に過ぎないのだろうか? 例えば、つい先日もそうした小説を読んだ。同人誌によくある話といってもいい。それらは、時間の経過したのちの場所をたどる。この小説は、まさにそこにいく。その現場に、タイムマシンを使って立つ。それを可能にするのが、言葉だ。それでも、父の足跡を辿るだけの小説にだって、幻視することでそれは可能だ。この小説では、再三にわたって、その記述者の身振りに言及する。今の「私」と父のあいだに介在する第三者が存在するのだ。いや、もっと正確にいえば、数世紀分にもなる図書館を埋める膨大な百科事典の書き手はひとりではなく、組織されたもの、統一された意思に基づく多数の記述者に、「私」は再三言及している。そういえば、この図書館は「王立」図書館だった。
そして、不思議なほどに、父の人生は、戦争をその眼にしながらも、あまりにも凡庸なのだ。歴史は動いている。しかし、父は凡庸であり続けている。まして、この図書館には、いわゆる有名人について書かれたものがないという。「私」はページを繰って、それを確かめてすらいる。普通であることの、普遍のあり得なさ。同じ人生も、いやひとりの人生のなかにさえ、おなじ時間は存在しない。なぜなら、まったくおなじことをしても、それははじめて経験することと2度目に経験することの間にも明確な差異があるだろう。あたりまえのことだが、このあたりまえのことをどう書くか。

ここから先は、いわゆるネタバレ。でも、ネタバレって、おかしな言葉だと思うのは私だけだろうか? 書評なんか、書かないと思っているのだから、ネタバレなど気にする必要はないだろうけれど・・・。

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2007/07/15

人称を巡る覚書―承前

世界文学のフロンティア5・私の謎」から
これ
――フェルナンド・ペソア(訳:菅啓次郎)

人はいう 私の書くすべてにおいて
私は装い、嘘をつくと。ちがう。
私はただ想像力をもって
感得するだけだ。
心は使わない。

私が夢見るすべて 経過するすべて、
失敗するすべて 終わってゆくすべては、
ちょうどひとつのテラスのように
さらなる何事かを見晴らしている。
美しいのはそれだけだ。

だから私は 傍らにあるわけでもない
何事かに身を浸しながら書くわけだ、
錯綜に惑うことなく、
ありもせぬことに真剣になって。
感じること? それは読者の仕事!

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2007/07/14

人称を巡る覚書

世界文学のフロンティア5・私の謎」から
わたしのまなざしはヒマワリのように鮮明だ
――アルベルト・カエイロ(訳:菅啓次郎)

わたしのまなざしはヒマワリのように鮮明だ。
わたしはこんなふうに道行くことを習慣にしている
右を眺め 左を眺め、
ときどき後ろをふりかえりもする……
そして一瞬ごとにわたしが見るのは
それまでには見たこともなかったものばかり、
わたしはそれをどう味わえばよいのかよく知っている……
どんなふうに本質的な驚きを味わえばいいのか
いま本当に生まれてしまうのだと気づいた
出生時の子供のような驚きを……
わたしは一瞬ごとに自分が生まれるのを感じる
「世界」の 永遠の新しさにむかって……

わたしはキンセンカを信ずるように世界を信じている、
なぜなら それは目に見えるから。でもそれを考えることはしない
なぜなら考えるとは理解しないことだから……
「世界」はわれわれに考えられるためのものではない
(考えるとは目を病むこと)
ただわれわれがそれを見つめ ありのままに同意すればそれでいい……

わたしに哲学はない。あるのは感覚……
わたしが「自然」について語ろうとも それは自然とは何かを知っているからではない、
それを愛しているからだ、ただ愛するためだけに愛しているからだ、
愛する者は愛する相手をけっして知ることがない
あるいはなぜ愛するのかも、あるいは愛するとはどういうことかも……

愛するとは永遠の無垢にして無知、
そして唯一の無垢とは考えぬこと……

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2007/07/13

「重力のお友だち」合評の記録

昨夜の拙作合評について、メモを残そうと思うが、いたって個人的な記録。

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2007/01/25

「カタヨリ紙」さんからコピー

ふと思いつき、どうやらコメントも出尽くし、人気記事ランキングを見れば記事アクセスの足も止まったようなので、コメントも含め、kairouさんのありがたい記事をこちらにコピーしてしまう。こんなに一所懸命読んでもらえるなんて、仕合せなことだ。こんなふうに読んでくださる方があるのだ、と見るたびに、次の作品を書く糧になる。今まさに、その糧が欲しくて、コピーしちゃう。
kairouさん、このこととこれからに感謝します。
ちなみに、コピー許はここ

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「ここにあなたがいて、あたしを見ています。あたしは、見られて、あとできっと、あなたの眼で、今のあたしを見ます」

この小説は、週刊誌で語る評論家の顔して、“現代”を傍観しているわけではなかった。ちょっと説明がつかないほどに、“現代”を形作る要素が、ほとんど未整理のままに、強烈に放たれている。私なりに、いくつかの要素を拾ってゆきたいが、その前に、この小説、どんな話なのか、文学界に掲載されたらしい勝又さんの評を、無断で作者のサイトから、コピーしてみる。

 よこい隆「肉片柳絮」(「木曜日22号、東京都)はちょっとケッタイな小説で、評価に迷う。私は面白がった口だが、受け付けない人もあるだろう。若い女性「あたし」の一人称語りだが、ある朝、ごみ置き場で黒いビニールに包まれた女の片腕を拾ってしまう。彼女は驚きもせず、アパートに持ち帰って愛撫したりベッドに寝かせたり、後では少し食べてみたり、削った肉片を高速道路の横断橋から撒いてみたりする。そして車のタイヤに潰され、微塵となった肉片が宙を満たすだろうと空想を楽しんでいる。一方、彼女はアダルトサイトでのアルバイトをしていて、それは自分の部屋に据えつけたカメラの前で裸の姿態を見せて、契約された不特定多数の男たちに配信する仕組みらしい。画面を通じて顧客、男たちと交信もするその仕掛けが私にはもう一つわからないのだが、ある日モニター画面に一人の男が現れて、あの腕はどうしたかと訊ねてくる。男は自分の愛人を殺してあちこちに捨てたバラバラ事件の犯人なのだが、偶然、彼女が片腕を拾うところを見ていたのだという。しかもそれが、見覚えのあるアダルトサイトの女だと気づいて、ネットを通じて面会に来たわけである。驚く彼女に、自分はこれから自殺するから、事件との関わりなど心配しなくてよいと言って、本当に彼女の見ている前で、もちろん画面越しにだが、首を吊って見せる。この後、死んだ男が残した彼のブログに記された男と女との関係が入り込むのだが、次に驚くのは、画面に警官が現れることだ。つまり犯人を突き止め、彼の部屋に来て、そこでパソコンが彼女と繋がっていることを知って、事件の参考人として語りかけてきたというわけである。インターネットにはこういうことがあるのか、可能なのかと、「文學界」編集部の若い人に読んでもらったが、仕組みとしては充分可能であり、有りえないことではないということだった。とすれば、そういう面のリアリティはあるのだろう。メディアの発達とともにさまざまな、間接的な交信の仕方が生れ、発達しているが、一方、それに見合ったように人と人との生な繋がりを苦手とするような若者が増えて、こんな世界も生れてくるのに違いない。しかし、そういう中でこの主人公が終始イメージし、求めているのは、自分の身替りのような女の片腕が微塵となって空に充満することであったり、蛍の光のような存在となって世界を漂うことであったりしている。読みながら私は新井満の歌う「千の風になって」を思い出したりしたが、人は孤独になればなるほど、魂の行方みたいなものに己の存在を託してみるしかないのかもしれない。(引用おわり)

A_thousand_winds NHKの紅白に、あのバックダンサーは、裸で踊っているのじゃないのかと、わざわざ抗議の電話を入れた人が100人以上もいるそうなので、良識ある方々のために(受け付けない、タイプの方ね)、最初に書いておきたいが、「ごみ置き場で黒いビニールに包まれた女の片腕を拾った」としても、それを「彼女は驚きもせず、アパートに持ち帰って愛撫したりベッドに寝かせたり」したとしても、「後では少し食べてみたり、削った肉片を高速道路の横断橋から撒いてみた」としても、その嫌悪したい良識というやつを、すでに現実は軽々と越えてしまったところに存在し、目を閉じようが開けようが、現代が抱え込んでしまったおぞましさは消えないだろうと、少しヒステリックに書いてみる。ちょうど試験管に掬った現代の、上澄みをキレイに並べて書けば良識は納得し、逆さにして沈殿したものをオモテに出せば、こんなものは書くなと反発する。小説はまず、そういった良識を捨て、すべての縛りから自由になったところで、ありとあらゆる方法を模索してゆくべきだろうと思う。こういう事件がありました。けしからん。そんなこと、小学生でも分かっている。なぜこういう事件が起こるのか。週刊誌や新聞の社説もこれくらいは掘り下げる。そこから更に、もっともっと階層を深めていく必要がある。小説に登場する人物が、なにかしらの動きを見せるが、その元となる岩漿を捕まえて、腕に抱き、書き手はふたたび1階層目まで戻って来なければいけない。そうやって小説は書かれてゆくのだろうと思う。良識の上に胡坐をかいて、いい人ぶっている場合ではないのである。この小説が提示する現代の言葉らしい文章を、いくつか拾ってみよう。

どうしてみんな無視するのだろう/美鶴(※主人公)を見る視線も、美鶴を見ていない視線も、すべての視線が美鶴を脅かした/腕が、美鶴も呑み込んで、部屋を満たして、美鶴を邪魔者にしている/部屋を我が物顔に占領する腕のようになりたいとも思い/美鶴の身体が天井際にある。床の隅にもある。部屋のどこにも自分がいて、どこにもいなくて、空気に溶けて部屋を満たしている/美鶴の眼の前で、小さかった猫がかぎりなく小さくなって、宙に溢れていく。地面がアスファルトだから、地に還るより宙を満たしていくように思う/トラックが通り過ぎる。ワンボックスが通り過ぎる。軽自動車も、高速で走り去る。またトラックが行く。数十秒おきに、車が腕の欠片を踏み躙り、蹴散らす。車が通るたびに腕の破片が空気に紛れ、溶け、ピンク色に染まる世界が見えた気になり、高速道路に背を向けると、手摺りに凭れて煙草を喫う/腕が、この紫煙のように空気に溶けて、世界に満ちるなら、腕はあたしだから、あたしは腕だから、あたしは世界にいる。あたしが世界に満ちていく/恐ろしいと言ったって、いったいこの映像があたしになにをすると言うのだろう。なにもできやしない。しやしない。だけど、背中が寒い

そして、この小説の最後の方、刑事とのやり取りを抜き出してみたい。

「このチャットの男のことが聞きたいんだけど……」
「なにもしりません」
「なにも?」
「入ってきて、いきなり嫌なことを言うから、画面を最小化したままでした。でもチャットは続いていたから、せっかくだからそのままにしてたんです」
「死んでたんだよ」
「しりません」
「驚かないんだね」
 年配の男が睨みながら言ったけど、カメラではなく画面の中の美鶴を睨むらしく、視線がずれている。
「驚かないのは、しってたんじゃないの?」
「しりません」
「とにかく一度、署にきてくれないかな。ちゃんと顔を見て話したいよ」
「顔なら見えてます」
「いや、そういう意味じゃなくてね」
 ふたりとも苦笑いになった。
「いやです。かかわりたくないです」
「ただの自殺じゃないんだよ。バラバラ事件、ニュースとかでしってるでしょ。あの事件に関係してるんだよ」
「ニュース、見ません。しりません。はじめての客だったし、なにもしりませんから。あたしとその人が関係ないのは、調べればすぐにわかると思います。あたし関係ないですから。それより、せっかくつながってるんだから、このチャット、ポイントが切れるまで切らないでください。あたしの仕事の邪魔しないでください」
 美鶴はふたたび画面を最小化すると、スピーカーとマイクのボリュームを切り、カメラのピントを外した。(138p)

精神へと下りてゆき、通り越して、肉体へと戻ってきている。その肉体は、ほとんどモノと化し、精神と混然一体となり、しかも、他者と自分自身とを区切る境界線は曖昧なままで、尚且つ保全の目的によって強引にそこに冷たい境界線を引こうとする。それだけではない。

「かなえは、オレの眼に映っている自分のことがしりたかった。オレのことではなくて、かなえがどう見えるのか、どんな人間に見えるのか、それだけがしりたいのだと思えた」

この文章を読んで、私は苦笑してしまった。まるでネット上でのやり取りと同じだと思った。双方向性など嘘に決まっている。みんな言いたいことを一方的に語っているだけだ。抱きたいイメージを、たがいに求め合って(奪い合って)いるだけなのである。切り離された腕の持ち主・かなえと、彼女が執着する男・オレとは、オフラインでの関係だが、オンラインでの関係と、同様に扱われているところに注目したい。いまやオンラインもオフラインも同じだという状態が、現代の姿として示されているのだろう。かなえが知りたいのは、オレのことではなくて、つねに自分自身のことなのだ。つまり、執着しているのは、自分自身だということになる。かなえは、オレのことなど、ほんとはどうでもいいのに、オレに異常に執着する。オレは奪われまいとして、オレを取り戻すかのようにして、かなえから、かなえを奪ってしまう。このことは、美鶴にも言える。彼女がアダルトサイトで肉体をさらしてバイトするのは、他者とうまく折り合いがつけられないためだと説明されているが、ほんとうの理由は別にあるだろう。自分自身に、執着しなければ保てないほどの、曖昧になってしまった肉体を取り戻すため、オレのように、なにかを、誰かを、奪うような素振りも見せずに奪う必要があるのだ。そしてそれを彼女の場合、体内にまで取り込もうとするほどに、事態は切迫しているのだった。
魂のふれあい。肉体の交わりを介して交感する魂。ここでは、他者は、そういう役割を持たされていない。なぜ他者は存在するのか。ただ自分のために、奪うために、他者は存在しているかのようだ。
精神だけでは語れない。肉体だけでは、もはや太刀打ちできない。そんな現代を小説に書こうとすれば、難渋する。それを正面から書こうとした小説だと思う。ほとんど未整理のままに、いや整理できないくらいに現代は複雑に、且つおぞましいのである。切実な叫びを感じた小説だった。

2007. 01. 06. [ 小説 ] CM12. TB0 . TOP ▲   コメント

 これは、いい批評文で、ご本人はまだ気づかないようですが、lydwineさんが涙を流して喜びそうです。
 私などはK又さんとおんなじで、今になると苦し紛れに何を書いたんだっけ……。
 そうですね。そんなにすっきり整理しなくても、提示するだけでもいいんでよね。感心しました。
------------- euripides. URL│. 01. 06. [ 編集 ] -----

euripides さま
ああ、よかった、怒られなくて…、安堵。
感想文を書くのに苦労しました。どの小説でもそうですが、読み手の方に、出力されたものを解読するだけの、経験値とか、生活史とか、そういったストックがなければ、うまく入って来れないという事情もあります。私は現在、隠遁生活のような暮らしをしているので、リアルな現代から、少し離れてしまい、たとえば、この小説を、ハタチ前後の人々が読んだらどう思うのかとか、そういうところが、うまく想像できなくなっています。読む人によって、引用したい場所も違ってくるのじゃないかなぁ…、とりあえず、自信なげに、空に点を打ってみました。

K又さんの評は、さすがにバランス感覚が優れていて、とても良かったので、そのまま使わせていただきました。「私は面白がった口だが、受け付けない人もあるだろう。」この一文は、入れる必要があると思います。私は更に、押し広げてしまいましたが(笑)。

>そんなにすっきり整理しなくても、提示するだけでもいいんでよね。

私も、そう思います。ただ、この場合、読み手の方が、より多くの出力を求められ、ストックの数が、あからさまになると思います。だけど(←美鶴の口調がうつってる 笑)、わかってもらおうとして、すごく分かりやすい小説が多いと思うので、そんな中、新鮮な気持ちで読めました。

------------- itu:kairou. URL│. 01. 06. [ 編集 ] -----

涙流してます。いや、マジで・・・。
寒気を感じながら読みました。すごく、すごぉく嬉しいです。ありがとうございます。
なんつぅか、こういうときって、いうことがないものですねぇ。ほんとうに嬉しかった。感激です。

kairouさん、ありがとうございます。私の永久保存記事です。
------------- Lydwine. URL│. 01. 06. [ 編集 ] -----

Lydwine さま
おもしろかったです。
Lydwine さんも、euripides さんも、「小説書くゾ」モードに入られたのでは? がんばってください。そしてまた、おもしろい小説を、読ませてくださいネ♪
------------- itu:kairou. URL│. 01. 06. [ 編集 ] -----

kairouさんの文章を、すこし冷静になって、何度も読み返しています。

>精神へと下りてゆき、通り越して、肉体へと戻ってきている。その肉体は、ほとんどモノと化し、精神と混然一体となり、しかも、他者と自分自身とを区切る境界線は曖昧なままで、尚且つ保全の目的によって強引にそこに冷たい境界線を引こうとする。

嬉しいですねぇ。この部分。

>まるでネット上でのやり取りと同じだと思った。双方向性など嘘に決まっている。みんな言いたいことを一方的に語っているだけだ。抱きたいイメージを、たがいに求め合って(奪い合って)いるだけなのである。切り離された腕の持ち主・かなえと、彼女が執着する男・オレとは、オフラインでの関係だが、オンラインでの関係と、同様に扱われているところに注目したい。

ここは驚きをもって読みました。なるほど、そうなのか! と。それに続く部分は、私の思惑どおりに読んでくださっているなぁ、と嬉しいばかりでしたが、オン/オフの関係性ということは、考えていなかったので、驚きがありました。

>精神だけでは語れない。肉体だけでは、もはや太刀打ちできない。

ありがとうございます。精神/肉体、自己/他者、そうした二元論にたいする私なりのもどかしさが、意識するともなく表われてしまったことを、指摘してくださいました。まして、それが「意識するともなく」であるから、「未整理」になってしまったのでしょうね。そのうえで、「整理できないくらいに現代は複雑に、且つおぞましい」ということ。ありがとうございます。でも、逆にいえば、それをまた読めるところにまで、整理していく作業も、小説としては必要なのかもしれないですね。

kairouさんがここに書いてくれたことは、単純にこの小説を書いた私を喜ばせただけでなく、ブログ上で同人誌掲載作などについて好き勝手なことを書いてしまっている私にも元気をくれました。

K又さんの評では「千の風になって」を思い出したというところが、じつは一番嬉しかったのですけれど、といいつつも、当時はその唄をしらず、ネット上で調べ、あげく、我ながら可愛いことに、その後CDを買っちゃいました。

kairouさん、ありがとう。euripidesさんもありがとうございました。
------------- Lydwine. URL│. 01. 07. [ 編集 ] -----

Lydwine さま
>オン/オフの関係性ということは、考えていなかったので、驚きがありました。

美鶴が、なぜこの仕事をしているのか、それを考えました。風俗関係だとしても、他に、いろんな風俗関係の仕事が、ありますよね。そのことと、かなえandオレの関係性で導かれていることとが、リンクしている、二重底になっている、と思ったのです。だから「オン/オフ」なのだろうなぁ、と想像しました。ただ今ふうな、読んで新鮮な風俗の仕事をしているから、“現代”だというわけではないのですよね。物語のなかに、一定の調子を与えている、縦横に組まれた構造の、重要な部分だろうと、解釈したのですが…。でも、Lydwine さんは、好きに読んでもいいよって、思っているでしょう?(笑)、小説の書き方がそうでした。エゴ丸出しの小説は、煩わしいほどに説明します。『肉片柳絮』はそうではなかったので。私も、安心して(無遠慮に? 笑)感想文を書かせていただきました。

>精神/肉体、自己/他者、そうした二元論にたいする私なりのもどかしさが、意識するともなく表われてしまった

ここ、すごく分かります。「精神/肉体、自己/他者」だけでなく、あらゆる二元論は崩壊したかもです。

>読めるところにまで、整理していく作業も、小説としては必要なのかもしれないですね

うーん、ここは、どうなんだろう…。評価されたいと思えば、そう書いたほうが、いいのかなぁ。まずは、ジジイどもを、「うん」と言わせないといけないから(笑!)。
小説は、「こう書いた方がいい」っていうのが、単純に言えないから、難しいですよね。今、ゾラの、『テレーズ・ラカン』を読み終えて、当時の大御所の批評家からの、ゾラへの手紙を読んで、きっちりと整理されて書かれているから息苦しいみたいな、そういう批判を受けていたみたいです。確かに、それは言えているかも、とか思っていたところでして…。すみません、曖昧な、お返事に、なってしまいました、汗。
でも、たいていは、一点に向かっていく、整理された小説のほうが、よく書かれた小説だと、評価するだろうなぁ、とは思います。

------------- itu:kairou. URL│. 01. 07. [ 編集 ] -----

>ただ今ふうな、読んで新鮮な風俗の仕事をしているから、“現代”だというわけではないのですよね。

ドキッ! ライブチャットという職業があることをしったとき、これは使える! 
と思ったことはたしかです。引籠もった生活をできる環境がある、と。

>Lydwine さんは、好きに読んでもいいよって、思っているでしょう?

またまた、ドキッ! 出会ってしまう出来事に意味なんてありませんからね。そこに意味を見出したり、勝手に意味づけをするのは、その体験者個々の、kairouさんのおコトバなら「ストック」でしょうか、そうしたもののなかで、捏造されるものですから、私としては、読書が、その契機となる出来事足りえてくれればよいです。
正直にいうと、1/3くらい削りました。当初は5割り増しくらいの長さがあったのです。師匠に1/3削れ、といわれました。

>あらゆる二元論は崩壊したかもです。

境界線にたいする意識が私に付き纏っているのは、そうしたことなのだろうと思います。それでも、コトバの取/捨という二元論を抱えた世界である小説、でもありますね。

かつて「わからない」とか「読者に不親切」とばかり言われてきたのが、最近「わかりやすくなった」といわれてきたところで、これでもむしろわかるように書いているつもりなのですが、小説が「わかる」ということそのものが、不思議な気もしてるんですよね。出来事にわかるもなにもないだろう、ただ出会ってしまうだけじゃないか、と。

タイドプール」のあの書き出しの、香水の香りが布団の一扇ぎで尿の匂いに転換してしまう、あの空間の出来事との出合い、あれこそが小説だと思うのですよねぇ。
海外旅行しても、テレビや写真など、どこかで見た風景を見て喜び、既知の出来事にしか感情を動かせない人には、出来事との出合いという体験など理解できないのかもしれませんね。故宮にいったとき、「ラストエンペラー」の撮影に使われた場所で写真を撮りたがるのが日本人だけだと現地の方が言っていました。なんと感性の貧しい民族なのでしょう・・・。
------------- Lydwine. URL│. 01. 08. [ 編集 ] -----

Lydwine さま
「これは使える!」、と思ったのですね。小説のなかに、しぜんに組み込まれていました。

>出来事にわかるもなにもないだろう、ただ出会ってしまうだけじゃないか、と。

私も、そう思います。「ただ出会ってしまう」という感覚は、対話する姿勢が、前提として、そこにあるように、思います。ただ一方的に、消費されてゆくばかり、ではなくて。
感想文を書くとき辛いなって思うのは、それを理詰めで埋めていかないと、いけないところですよね。「コトバの取/捨」は、ここでも抱えています。

あらすじは一言で言えるかもしれないけれど、表現したいことは、とても言葉では言えないですよね。それを白日の下にさらすためにフィクションという方法が使われて、表現したいものに従えば、小説は、どんどん分からない・分かりにくいものになってしまい、挙句、奇をてらってるとか、いろんなこと、言われてしまい…。でも、分かってくれる人も、数は少ないですけど、存在すると思うので、その辺は、楽観して、あとは、もうとにかく、どれだけ表現したいことに近づいて行けるか、そのことだけを、今は考えているのですが…。傾向と対策を練って新人賞とって、あとは俺の好きに書くぞと発言した作家がいましたね(笑)。それでもいいと思うし。どういうビジョンを描いているのかによると思います。私なんかは、無駄に苦労しているみたい、とか言われていますが、これはこれで、楽しいのです。

------------- itu:kairou. URL│. 01. 08. [ 編集 ] -----

そっと静かに乱入させていただきます。(←なので、引用者により、文字色反転)

>あらすじは一言で言えるかもしれないけれど、表現したいことは、とても言葉では言えないですよね。

 そうなんです。自分の同人誌のオンライン合評会で書いてしまいました。
 ストーリー展開に寄りかかった作品が今号は多かった。
 もっと「場」や「人物」などの「描写」をじっくり書いて落ち着いて読める作品が欲しかった。

 文○界同人雑誌評もそうですが、あらすじを紹介してそれで是非を決められるような創作も批評も、つまらないですよね。
 早い話が、極端に言ってしまえば「小説は描写でのみ成立する」、と。
 出会うといえば「解剖台の上のミシンと蝙蝠傘の出会い」ではありませんが、ありえないことでも「描写」してしまえば、あり得てしまうし、「描写」には二元論が入り込む余地も無い。
 そういった意味からも、小説の草創期と違って今は、ストーリーによりかかった小説からは何も生まれませんよね。

------------- euripides. URL│. 01. 09. [ 編集 ] -----

euripides さま
遠慮なさらずに。こんな雑談サイトでもよければ…

これは小説ではない、あらすじだ、ということでしょうか。
小説を書くのって、難しいですよね。同人誌の方々のお話は、どれもこれも「私にも言えている…」とか思ってしまいます。Oさんは、熱心ですね。しかしこういったことをネットの掲示板でやるとなると、確かに大変かもしれません。進行役が苦労するだろうなぁ、と想像しました。

>もっと「場」や「人物」などの「描写」をじっくり書いて落ち着いて読める作品が欲しかった。

長編で書くべきことを短編で書いてしまい、それであらすじに、なってしまったのか、どういう話なのか分からないままに書いてしまい、あらすじでしか、書けなかったのか…、どうしてだろう、と考えてみました。
euripides さんの、おっしゃるとおり、描写で見せていけば、読みごたえのある小説に、なると思います。というか、そういう小説を読みたいです。私はもう短編には興味がなくて、じっくりと描写できる長編ばかりを選んで読んでいますが、面白いと思う部分は、出来事ではなく、描写されていくなかで、揺れる、動く、弾ける、登場人物そのものが面白いです。設定はどうでもいいかも。ありふれたストーリーだとしても。なにか新味のストーリーを書かなければいけないとか、そういうふうに思わなくても、安心して、登場人物と、そこに立つ場へと潜り込んで行って、書いていいと、思うのですが…。

んー、でもいろいろと、悩んでしまいますよね。
小説書くのって、ほんとに難しいと思います。某サイトの管理人の話ですが、小説書くのをやめて、それと同じ情熱をかたむけて仕事に没頭したら、出世したって話がありました(笑)。

------------- itu:kairou. URL│. 01. 09. [ 編集 ] -----

ストーリーの祖形は神話で書き尽くされ、小説のスタイルは十九世紀に書き尽くされたという言い方がありますね。現在の私たちにできるのは、それらの組み合わせか、そして「描写」しかないわけですね。「尽くされた」というコトバ遣いには、抵抗を感じないでもないのですが、あらすじでは小説について語られたくないことはたしかです。その気持ちがeuripidesさんの「そんなにすっきり整理しなくても、提示するだけでもいいんでよね。感心しました。」ですよね。作品について語る方法、小説を読むこととして、kairouさんの仕方はとても正しいものです。

Photo_33 便器に「泉」と名づけること(デュシャン)は、まさに、観客がその驚きと出会うときに作品となります。便器はただ便器でしかないのに、それを「泉」