鏡の中を歩いた日―長嶋絹絵
第五回文学フリマで購入した文芸同人誌「小説π」第7号に掲載されている「鏡の中を歩いた日」を読みながら、「サムアップ!」について書いたことをつらつらと思い浮かべた。
「鏡の中を歩いた日」長嶋絹絵
これだけの話には長すぎるとは思うが、物語の作り方は非常に上手い。叔母である養母の顔色を伺いながら育った麗子が、その抑圧そのものを自己として生きてきて、結婚するときにも、そうした抑圧を選択した自己を愛してくれる人だから結婚したと言いながら、旅行先で出会った出来事(暴動)をきっかけに、抑圧から解放された自己の在りようを見出し、だが、夫との生活は、抑圧された自己を基盤にしていたから、夫婦生活には揺らぎがもたらされる。その揺らぎの超克がテーマなのだが、今の自分は本当の自分ではない、といった極ありがちのテーマであり、抑圧にいたる経緯にもまったく驚きはないが、抑圧された自己を認識していながら、その抑圧そのものを自己として捉えている素振りは面白い。
理不尽だと思うことに気がつかない振りをしたとき、叔母の機嫌がすごくよくなって、そういうことなのか…大人の気持ちを変えることって、我慢をすればいいのだ、と思ったことがある。
快活ないい子を演じていると、叔母は麗子を親しい友達のように接してくれるようになったのだ。
これほど容易い生き方はなかった。そして、そのまま、麗子は大人になった。
そんな麗子を、村野は愛していると言ってくれたのだ。
なによりも温かい家庭で育てられたらしい雰囲気に、麗子はもともと強い憧れを抱いていたのだ。
麗子はそう言ってくれる彼に、『自分の形』を、崩すまいと思った。私だから保てる、自分の形…。
舌足らずな書きようだと思う。もっとはっきり下手な文章だと言ってもいい。「なによりも温かい家庭で育てられたらしい雰囲気に、麗子はもともと強い憧れを抱いていたのだ。」というセンテンスなど明らかに浮いている。続くセンテンスで「麗子はそう言ってくれる彼に」とはじまるなら「憧れ」とは一体だれの「憧れ」だったのか、あるいは村野が言ってくれたコトバとは一体なんなのか、判りかねる。
「サムアップ!」について書いたことを思い出した、というのは、まさにこの口下手の様である。彼女にとって、容易くはありながら、理不尽を見なかったことにし、自己を偽りながら、それでもそれを「自分の形」ということの、それこそ理不尽さを引き受けること、そしてそれ、理不尽を理の側にあるはずのコトバにすることの不条理に対したときの、吃音のような下手さである。前の引用に先立って、
新しい土地に移ったことから、転校先の友達に、言いたくない事情を内緒にしていても気づかれることはなかった。お年玉の代わりに買ってもらった日記帳に、その日の出来事しか書かなかったのは、一言でも感情をこめたなら、張り詰めている気持ちが崩れるだろうと思っていたからだ。
作文など大嫌いだった。自分の思いを書くなど、絶対にいやだった。嘘ね、と原稿用紙を指で突いた担任に内心反抗し、ずっと嘘を書き続けようと思っていた。本当らしい嘘を絶対に気づかれないように書いた。書いていたつもりだったが、担任は麗子の作文だけは返してくれなかった。
何でも本気にし、感心してくれるクラスメートとの交換日記は、だから楽しかった。
『…今日の夕飯は辛口カレーでした。美奈ちゃんは口の中やのどが痛くなるから甘口を作ってもらうって言ってたよね。私は辛くても平気だよ、辛いものを食べる前って、高い跳び箱を飛ぶときの気持ちに似ているから…』
『…どうして髪を切ったのかって今日聞かれたね。シャンプーが楽だからって言ったけど本当は違うの「麗子の顔ははっきりしてるから短い方が賢そうに見える」ってお母さんに言われたからなの。こういうことって口でいうのは恥ずかしかったから、いえなかった」
三つ編みを結ってくれている途中、叔母は何度となく時計に目をやる。短くしても可愛いよと言われたときに、切らなくてはいけないのかと思ったのだ。カレーの辛さだって早く大人になれる訓練だと思って食べていた。
初潮をみた五年生の夏休み前のことだった。
「大人になったってことよ」と保健室の先生が優しく、朗らかに、麗子の肩を叩いた。青ざめていたのか、「そんな顔をしないの。お母さん喜んでくれるから早く帰りなさいい」といい、大人になったと言ったのに麗子の頭を撫でていた。(斜体部原文傍点)
「お母さん」に傍点を振るといったお節介まで演じながら、最後は隠喩を使ってみせる。この隠喩は美しいと思う。ここで語られているのは、すでに麗子が嘘を身につけていた事実であり、しかし、大人(担任)には見抜かれる程度の嘘であったことである。ましてそれは、作文や交換日記という文章にかかわることとして起きている点にも注目しておきたいが、この時点では、彼女は自己と自己が吐く嘘との乖離に対して自覚的である。というより、自ら望んで乖離している。しかし、やがて彼女は、嘘を吐いているのも自己にほかならないと気づく。
体は動こうとしても、動けなくなることがあるっていうのは、こういうことだったのか。
なんともどかしげな(下手糞な)センテンスではないか。「体が動かなかった」といってしまっては言い尽くせないから、コトバはオロオロと足踏みする。そして、最初の引用部の直前部が下だ。
片付けることも、机に向かうことも、時間が早く過ぎてくれることだった。独りの時間は寂しくないと思ったとき、大人になっていくことが少し分かってきた。
やがて勉強をすれば成績が上ることを実感し、机に向かうことが多くなった。気がつくと、周りの大人も級友も目を留めてくれていた。子供の麗子にとって、勉強をするということは、人に認めてもらいたいだけのものだった。
「こと」を繰り返すなんともぎこちない文章である。そして最初の引用に繋がり、さらにそれに続いて、
自分で作った『私』を愛してくれる村野に、この『私』を変えないことが誠実なことだと思っていたのだ。
溜め息がでるほど下手な文章――。だが、「自分で作った『私』を愛してくれる」という麗子の受身の書き方が、「自分で作った」嘘吐きの自己を肯定する他者を強調する。
ここで、改めて、書き出しに眼を向けてみたい。
エプロンの紐をほどく麗子の指先は弦を爪弾いているようだ。
夫は手にしている朝刊を目の下にさげて妻の麗子を見ていた。
「なに?」
振り向いた彼女は、こんなときにも視線を感じる自分の勘を厄介だなと思っている。
こののち書き手は、ほとんど一人称にも見えるほど一貫して麗子に寄り添い続ける。しかし、見たとおり、書き出しの視線は、夫(村野)のものであり、読者は夫とともにこの物語の中に入ってきたのだ。
さらに遡ってタイトルを見てみる。「鏡の中を歩いた日」。
物語をもう一度簡単に辿ると、海外旅行で出くわした暴動の折におった傷を、夫の前でさらけ出すまでの物語だとも言える。眉墨で隠した眉と傷が露わな眉というふたつの顔を持っているのが、麗子でもある。それが顔の傷であれば、麗子自身にすら鏡を使わなければ見えない差異がそこにある。眉墨を引くのは麗子自身である。ふたつの顔を使い分けるのはほかでもない麗子自身でありながら、その差異を自分で認識するためには、自己ならざる他者(鏡)が必要である。
自分の部屋に入ると、目の前の鏡に全身が映る。体にも表情があるのだと思った。はっきりしない表情を、はっきりしない顔が見つめている。
開けた東側の窓から風が入り、カーテンが翻るたびに日差しが壁に広がる。椅子に座る麗子の影がオフホワイトの壁にくっきりと浮かび上がると、彼女は鏡の中からそれを、気になる他人を見るように見つめている。
(外見ははっきりしていなくても、その薄い肩を揺すぶったら、跳ね返されそう。そのまっすぐな背だって、押されれば力のとおりにしなって躱す、柔軟さがあるみたい)…。
(その胸は…)と思ったときに、影に血が通いだした。
体の成長は自覚のないまま大人の形へと変形していくが、唯一、この目で変化を捉えていたのはこの胸だった。子供ごころを置き去りにして、小さな隆起はどんどん形を変えてしまうのだ。あの成長期の、どう整理していいのか分からなかった心の過程がこの形になっている。
シルエットの手がシルエットの乳房をつかむと、麗子の胸にキリッとした痛みが走った。
まっすぐな髪が横顔を隠す。その中で、自分を見つめる眼差しが動かない。
他者と化した麗子を、もうひとりの麗子が見ている。麗子は鏡を見るが、自分を見るのではなく、その影を見ている。右に掲げたムンクの「思春期」という絵画を思わせるが、それより、こうした乖離が、
愛されたい、愛されたい、本当は独りなんて嫌いなのと、どんなにいいたかったことか。言ってしまえばよかったのだ、言ったほうがよかったのだ。
壊れたい、壊れたい…壊れて、素の私を曝したい…と。
ついには、自由間接話法という書き手と主人公の統合にまでいたってしまうのだ。
村野の愛が、偽った自己の肯定であったように、麗子は他者を通じて偽りの自己を肯定してきた。眉の傷を隠すときには鏡を使わなければならない。間接的にしか偽られた自己が形成し得ないという読み方もできる。とすると、間接的であるということこそ乖離の隠喩となり、乖離を際立たせる。鏡や大人、夫という間接項が距離を作り出してしまう。そう、夫はその距離そのものの装置だったはずだ。それなのに、あの終わり方はいかがか? 平和に終わるための無造作な素振りにしか見えない。
タイトルには「鏡」というキーワードとともに、「歩いた日」という時間にも眼を向けさせる仕掛けがほどこされている。すなわち、自己の乖離と融合という特権的な時間が書かれていたということだろう。
この小説もまた、上手に平和な終わり方に落ちたわけだが、私が再三下手と書いた部分に注目したい。この書き損なうことを繰り返すさまにこそ、この人の才能が見えるのではないか? そうした書きえぬものをいかにか、書いてしまったとき、凄い小説になるように思う。もちろんそれは非常に難しいことだと思うし、あるいは、「頭を撫でていた」といった上手さを洗練させていく、という逃げ道もあれば、なおのこと難しいけれど、願わくば・・・。
今回は「下手にならざるを得ないこと」をテーマに書いたため、かなり失礼な書き方もあったが、たしかに上手い表現もあったし、上に書いたように、嘘吐きの自分をも自己と捉える視点や、暴動の中で自己の乖離を自覚する場面、妻のパニック症状を眼にした夫の誤解と麗子の弁明し難さ、面白く読んだ場所もけして少なくなかった。
今(PM6:00)になって、この記事は口が滑っているなぁ、と思う・・・・・・・。

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