「銀座線」第12号掲載の柳沢佳苗さん「マリア」を読んだ。
わからなさに戸惑いながら、なお、「面白い、面白い」と口にさえだして読んでしまった。
正直に言えば、さっぱりわからない。なにが書いてあるのか、なにが書きたかったのか、皆目わからない。なによりタイトルがわからないのだけれど、だけど、ほんとうは、「なにが書いてあるのか」はわかる。なにしろ詳細な描写しかしていない小説なのだから、むしろ情景はいやというほど、現前化されている。ところが、行を追うごとに、すでに書かれていたはずの事象が無効になっていく。それどころか、時間さえが、瞬く間に過ぎていく。
そして、あらためて、作者の意見、書きたいことなどじつのところはどうでもいい、その瞬間、時空に出会うことこそ小説なのだ、という、私のかねての思いを新たにされていたのだ。だから、この小説は、私にとって、ひたすら面白いのだ。
変わった夢を見た。
書き出しである。この小説が、わけのわからない小説だったといったあとにこの書き出しを見れば、なるほど、夢の話だと思うだろう。それなら時間が飛んでいこうと、前段が忘れ去られようと、なるほど夢の在り様ではないか、と。なるほど、読み終えたあとになってみれば、あるいは、混乱を感じはじめたときにここを思い出せば、それでよいのだろうけれど、この小説のなかで起きていることはかならずしも夢らしくないのだ。夢と現のあわいとでもいうべき世界だととりあえずは言えるかもしれない。
昨日、頭を使いすぎたせいだろうか。ぶらぶらと書店の中を歩いていると、何を思ったのか管理栄養士の国家試験でも受けてみようかと参考書を一冊購入していた。大学を卒業して十年以上が経っていた。
これが書き出しに続く段落である。まず、「頭を使いすぎたせい」で起きた事態とはなにか? この時点では「変わった夢を見た」ことなのか、あるいは、「何を思ったか」というなら、今さら国家試験を目指してしまったことなのかもしれないだろう。それでも、「頭を使いすぎた」といい参考書を買ったというなら、なるほど、勉強して頭を使いすぎた、という話のようではある。
家に帰ってから参考書を手にすると、臨床栄養学の項目を勉強した。勉強というものが新鮮に感じたのか、三時間もしていた。しかし慣れない勉強をしたのがいけなかったのだろう。糖尿病、高脂血症、胃十二指腸潰瘍、クローン病など様々な病気について覚えようとしたせいだ。
なるほど、やはり栄養学のお勉強のために頭を使ってしまったらしい。この短いセンテンスと述語の淡白さに対して、病名まで列記する綿密さ。短いセンテンスを連ねながら、スピード感を削ぐ細かさ。
大量の血を吐く夢を見たのだった。止まらなければ命が危ないと思うほどの血の量だったので、目が覚めたのである。それだけならそう変わったことでもないのだろうが、目覚めたときに鼻水とよだれが出ていた。寝ているときによだれを出す習慣はなかった。体調を崩したのかと思ったが、その後鼻水が出ることもなくだるいわけでもなかった。体の擬似反応が起きたのだろうか。一人でただひたすら血を吐き続ける夢に危険を察知し、体が勝手に反応したのではないかと思った。それにしてもよだれに鼻水とは納得がいかない。そんな目覚めの朝だった。
と続くなら、冒頭の夢とは、まさにこの大量の血を吐く夢のことを指していると考える。もう夢は終わり、語りの場は目覚めた朝にいたったのだ、と。
ところで、この段落のふたつめのセンテンスにある「ので」だが、続く段落を見ると、これが頻出してくる。
しかし、こんなことではじめたばかりの勉強をやめるのもおかしな話なので、午前中の二時間食べ物と健康という項目を勉強した。その項目を選んだのは今朝吐いた夢を見たので、体に入れる食べ物と健康という言葉で気持ちをプラスマイナスゼロという状態にもっていこうとしたからである。
ふたつだけのセンテンスで構成されたこの段落のどちらにも「ので」という接続詞が見え、あまつさえ、うしろのセンテンスは、「からである」としめられるのだから、言い訳と説明の仕草なのだ。逐一ご丁寧に説明している。こうなれば、わけのわからない小説になどなりそうもないではないか。
体の擬似反応としては、むしろよだれが垂れたことから、血を吐く夢が構成されたのではないかとも思えるけれど、それはどうでもいい。すくなくとも、今までのところ人称を欠きながらも明らかに一人称であるこの人物は、血を吐く夢を見たからよだれが出たのだろうと考えたのだから。
さて、逐一辿るのはいい加減にして、ほんのすこしだけ飛ぼう。この人物は昼食を摂る際に、学んだばかりの栄養学の復習を試みるのだが、
食べる前に疲れてしまった。これでは先が思いやられる。絶対音感ではないが、絶対食感があるならば自然な形であらゆる食べ物の栄養素や色素や体の機能が浮かんで食するのだろうが、私の場合はそうではない。覚えているかどうかといった強迫観念なのである。これでは先が思いやられる。毎食、強迫観念と脳の衰えの恐怖感を味わうことになると思ったら気分が滅入ってきたので、外出することにした。
そろそろ怪しい・・・。これはわざとなのだろうか? 食感とは歯ざわりとか固さを指すもので、ここでいうなら、むしろ味感(なんて言葉はないだろうけれど)になるのではないか? まして、味から体の機能が感じとれるなどということは考えにくいが、たしかに味覚とは身体にとってそれがなにものであるかをしらせる信号だから、こうした考え方もなるほど面白いといえば面白いし、それをくどくどと書くのではなく、あっさりと書いてしまうのも妙な面白さがある。だけど、「あっさり」とは書いたが、こんなことを書いているというくどさでもある。はっきりいってしまえば、「食べる前に疲れてしまった。気分が滅入ってきたので、外出することにした。」で充分な段落だといえよう。
地下鉄に乗り、車内広告で上野の国立博物館で開催されている北斎展を目にすると、行ってみようかと思った。千代田線の湯島駅で降り、地上に出ると急に喉が渇き珈琲ショップに入った。休日のせいか店内は込んでいた。合い席の大きなテーブル席しか空いていなかった。窓側の席が空いていれば落ち着けるのだが、そう都合よくはいかなかった。空いている席に座りアイスコーヒーを飲むことに集中した。半分以上を一気に飲んだ後、周囲を見渡すと店内の広さに対し人口密度が高いので落ち着かなかった。しかし鞄から参考書を取り出し、今飲んでいるコーヒーについて調べた。コーヒーには苦味成分であるカフェインが含まれる。そうだった。基礎知識である。苦味成分のカフェインと思いながら残りの半分をストローから吸い上げた。なんだか味気ないが。わずかになった氷の間の茶色のコーヒーを吸い上げていくと、コップの中がクリアーになっていく反面、周囲はセピア色に変わっていく気がした。目の前にある大きな鏡の中にあるコーヒーショップの店内はセピア色である。室内の電球のせいだろうか。そのうえ目の前の鏡は古びていて、くもっている。ストローをくわえたまま鏡の中の店内を覗いていると、一瞬吸い込まれるような気がしたので参考書を鞄にしまい外に出た。
正直にいえば、「この作者は、もしかしてただ下手なだけではないか?」と疑わずにいられない。落ち着くことの反復、コーヒーひとつに集中するなどという書きぶり、カフェインに「そうだった。基礎知識である」などという大仰な口ぶり、そもそもこの段落だって、この小説のなかでただコーヒーを飲むことにどれほどの意味があるのだろう・・・。そう、もちろんそうした出来事の集積が小説である。そこで、気になるのが、「周囲はセピア色に変わっていく気がした」などというやけに気取った文章だ。これまでのなんともすこしずつ的が外れた分析といった様相の文章の羅列のなかで、この文章に合うと、「おや?」と思う。だが、それもまた照明や鏡のせいになっていく。そう、説明というか、この人なりの分析がはじまるのだ。
桜並木を歩いている。桜が咲いている。散りかけの時期である。風が吹き、花びらが舞っている。花びらの渦の中へ迷い込んだようだ。花びらは舞っていて自分の周りは止まっている。音は遠くにある。人は多いが話し声は遠くにある。自分の足音だけが身近に聞こえる。自分の心臓の音が中心にある。目は花びらの舞を凝視する。きれいだと感じた。桜並木を過ぎると、目の前に噴水が見えた。振り返ると桜の木々は緑色だった。
ついに、なにごとかが起ころうとしている。もちろん葉桜というものはある。だが、花吹雪舞うなかをゆき過ぎて振り返った桜並木は、緑色だというのだ。さらに続く段落が下だ。
視線をずらすとかき氷を売っている露天があった。見上げると空は青く、陽射しが眩しかった。汗ばみながら噴水の近くまでくると、噴水の周りの水辺では太陽の光が遊んでいた。光っては消え、違う場所で又光る。噴水の吹き上がる水が風で飛沫となって、手や顔にほのかにかかる。気持ちがいい。暫く突っ立っていると炎天下のせいか頭が熱くなってきたので木陰に入ることにした。木々の中を歩いていると若干涼しかった。風が木々の中を通り抜けていく。立ち止まり見上げると枝からクモの糸が垂れていた。先には葉っぱをつけている。その葉っぱが風でくるくると回っている。そのクモの糸を辿っていくと茂っている葉の隙間から一筋の光が射し込んでいるのが見えた。気分が明るくなる。
「気持ちがいい」とか「気分が明るくなる」といったなんとも悲しいほどに素っ気ない書きぶりというか、あるいは余計なひと言と言おうか。これはいったいなんなのだろう? もしかして、はぐらかされているのだろうか? 桜のさきにはかき氷に炎天下の太陽・・・。そう、時間がずれていく。だが、ずれているのは、時間だけではない。
博物館の前の信号が赤から青に変わり、横断歩道を渡っていると視界の中に入ってきた。自分でも不思議に思うが見なくてもいいようなものを目にしてしまう。小鳥がぺしゃんこになって横断歩道に張り付いていた。何度、いや数十回車に轢かれた姿である。もうすぐ道と一体化になるというより、すでに組み込まれた図柄のようである。今はかろうじて鳥の形ではあるが、後数十回この上を車が通っていったら形すらなくなってしまうのだろう。顔を上げると信号の青が赤に変わる瞬間だった。あと少しではあったが、まだ渡りきってはいなかった。だからといって急ぐ気にもなれなかった。後ろを車が通っていくのがわかった。自分の後ろのはずなのに一瞬自分の中を通り抜けていくような気がした。もう一度振り返って、轢かれていく小鳥の姿を見ようとは思わなかった。
読み手をはぐらかすように、ずらすのだ。「視界の中に入ってきた」ものをそのセンテンスはおろか、続くセンテンスですら明かすことなく、保留して、なにかを見てしまった、その「見なくてもいいようなものを見てしまう」ことのなかに読者を晒す。そして、「自分の中を通り抜けていくような気がした」というのだから、空間までもずれてしまったらしい。
さらに、いったい栄養学のお話はどこにいってしまったのだろう? もちろんこの人はなにも口にしていないから、忘れられたのだろうけれど、この後、あれほど物語の場を占拠していた栄養学が、まったく表れないのだ。ここにもズレがあるといえる。だが、時間はさらにズレ続けている。
博物館の入場券を買って敷地内に入るとベンチに座った。見上げるとイチョウの木の葉が黄色く色づいているのが見えた。風が心地よく吹いている。イチョウの木の先には雲が流れている。黄色く色づいた葉がざわざわと音をならし、舞い落ちている。落ちた葉を踏みつけるとサクサクという音がするだろう。
今やイチョウが色づいている。
さて、しかしここからがこの小説の佳境とも言うべき、なんとも面白い場面である。そのためには、まず「私」が登場する。
(カシャ)。心の中でカメラを撮る音をまねし、目を閉じた。そして再び開いた。この風景を私に焼きつけたのだった。ベンチから立ち上がり北斎展へと向かった。
ようやくにして現れた「私」は、やっと北斎の絵を見るのだが、一枚の絵に釘付けになる。だがそのわけは・・・。
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