2008/06/04

バジルの誘い―石原惠子

あらためて「銀座線13号を開き、石原惠子さんの「バジルの誘い」を読んだ。

かなり驚いている。変な小説を書かれてしまったものだ。
とはいっても、起きていることは、幻想でもなんでもない。ごくありきたりで、私たちがしっているこの世界で、誰にでも起きそうな出来事でしかない。まして、阿佐谷という固有名詞によって、場所も、そして時間だって、およそ現代の在りようとなんら変わらない。私は阿佐谷に詳しいわけではないから、この小説に表れる店舗や道路、建物などが実在しているのかどうか、まったくしらないがGoogleマップを見ると、例えば、南口を直進すると中杉通りに突き当たるといった「わたし」が歩く道程は、そのまま現実世界の阿佐谷なのだ。だけど、変な小説だ。

梗概を記すならば、専業主婦の「わたし」がたまたま見つけたブログ「まゆりんの食卓」に魅入られ、次第に彼女のことをより深く知りたくなって、書き溜められた5年分の記事から、まゆりんという人物に接近していくが、ついに、同じ阿佐谷に住むまゆりんが住むマンションを探り当てる、と言ってしまってもいいだろう。まったく不思議でも変でもない。だが、「まゆりんの食卓」というブログに書かれているのは、おおむね彼女の朝昼晩の献立である。「わたし」がまゆりんが住むマンションを突き止めるとおり、それだけではないのだが、そのタイトルが「まゆりんの食卓」であるとおり、なにより献立がメインのブログである。例えば、

<五月十日。朝食はいくら丼、わかめと葱の味噌汁、こんにゃくの煮物、ヨーグルト。昼は会社の近くで野菜ラーメン。夜は早く帰宅できたので、パエリアとサラダを作った>

といった具合である。「朝食はいくら丼、わかめと葱の味噌汁、こんにゃくと煮物、ヨーグルト」といった、朝食の濃厚さを真似て、夫の顰蹙を買うことからこの小説ははじまっているのだが、そもそも、「わたし」はそうした献立が目当てで「まゆりんの食卓」というブログにいき合ったのではない。「わたし」はバジルを育ててみようと思い立って、「バジル 阿佐谷」という検索ワードで、「まゆりんの食卓」に出会ったのである。
「わたし」が主婦であれば、今夜の献立に迷って、インターネットを覗いた、といったストーリーのほうが、わかり易いにもかかわらず、石原さんはそうはしていない。にもかかわらず、「わたし」はまゆりんを真似る。まゆりんと「わたし」の共通項は、主婦であること、同年齢であること、そして阿佐谷に住んでいることくらいだ。主婦といっても、「わたし」が専業であるのに、まゆりんは会社の経営者でもあり、仕事でしょっちゅう海外に出張したりもしている。
と考えていくと、結局「わたし」はまゆりんと会わずにいることからも、あり得たはずの「わたし」の影のようなまゆりんにたいする羨望のようにも見えるのだが、それなら「ダブル/ダブル」に入ってもいいのかもしれないが、変な小説ではない。

なにが変なのか?

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2008/05/27

北国街道―瀬沼晶子

春の文学フリマ2008で入手した「銀座線」第13号の巻頭作、瀬沼晶子さん作「北国街道」を読了。正直にいえば、入手して以来、巻頭ということもあり、幾度か手を出しかけては、読了までいたらなかったのだが、ある一線に辿りついたら、それからは一気に読めた。

では、前半に苦労した理由はなにかといえば、まず、この小説が「ですます」の語りであり、しかし、「ですます」の語りの難しさとして、丁寧であろうとすることで陥る回りくどさがあっただろう。

 昼の定食を止めてからというもの、なんだかポッカリと暇になってしまって、どうせ酔っ払いの相手なんだもの、と自分に言い訳をして、わたしは、昼日中から四号壜に手を伸ばすことが多くなりました。
 肝硬変で死んだ父の血を、間違いなく受け継いだわたしは、若いころから大層、酒に強く、酔っ払うということがありません。

この書き出しを見て、例えば、最初のセンテンスにいきなり表れる「というもの」や、あるいは、最後のセンテンスの、「ということがありません」といった言い回しが、どうにもうるさく感じられてしまったのだ。
小説の書き出しは、その世界がなんなのか、まったく白紙であれば、いかんともしがたく、説明を要する。それだけに、力も入るし、丁寧にもなる。しかし、逆に読む側に立ってみれば、丁寧であるよりも、早くその世界を見出したいのではないだろうか? とりあえず、見るべき場所を教えられたいのではないだろうか? そのとき、丁寧にもすべてを見せる必要はなくて、とりあえず今見るべき風景を確定して欲しいのではないか、と私には思えるのだが、どうだろう?
この小説の書き出しを見ても、けして、風景を丁寧に書いているとはいえない。「昼の定食を止めてから」とか、「酔っ払いの相手」といった言葉が、およそそこを小料理屋かなにかだろうと想像させるが、その規模も椅子の数もしれないし、あるいは「わたし」というのも、いったい幾つくらいで、どんな顔をして、どんな服装をしているとも、この時点ではしれない。それが当然だろう。映像でもなければ、いきなりそれらすべての現前化など不可能だ。いや、正直に言えば、映像であろうとも、そこには例えば匂いが欠けているし、あるいは、見える範囲、見せる範囲も限定的であり、すべてではあり得ないのだが、それでも文章よりは、いくぶんか、あるいは多分に、多くの情報を提供している。逆にいえば、文章、言葉を表現ツールとする小説は、映像に親しんだ現代人にとって、それほどまでに窮屈な制約下にあることを、相対的に暴露されてしまった、ということには、意識的であっていいのではないだろうか。
情報量の少なさは、欠点とはかぎらない。それを逆手にとることもまた可能なはずだ。語りえないこと、保留されながら次第に開示していくこと、そうした過程のなかに、映像ならざる、小説、文章、言葉ならではの、面白みを作り上げていくことも可能なはずだ。いや、それこそが、小説の面白さだ、と言ってしまってもいい。もちろん、それだけが小説の面白さのすべてではないが。
そのとき、なにかを書かずにはじめる、その制約を、丁寧な文章によるもたつきが、世界の開示を抑圧してしまうのではないだろうか? だからこそ、書き出しこそ力むことなく、むしろあっけらかんと書いて欲しいと思う。

例えば、この小説もまた、そうして保留された風景が、順次説明されていく。すなわち「わたし」は五十二歳であり、近ごろ更年期障害に悩まされているが、かつてはもてたし、今だってその歳には見えないし、恋多き人生を現役で生きている、というわけだ。もちろん、それを説明で終わらせないために、教師と結婚して主婦業におさまっている妹が配され、彼女は「わたし」を相対化するのみならず、電話による会話をつうじて、「わたし」の異変を更年期障害であると保証する。すなわち、「わたし」の生活を他者の視点から説明するものであり、同時に、「わたし」の障害を説明してみせるのだ。
このあたりまでは、正直にいって、かなり苦しんだ。一人語りのスタイルであれば、往々にして陥りかねない「わたし」のひとりよがりにならないように、妹を配し、会話という出来事のなかで、現状を説明するのは、上手いといえるかもしれないが、いかんせん、そのように読めてしまったということは、すなわち、「上手く処理している」と感じさせているということにほかならず、やはり説明だったということではないだろうか。
そう、世界と「わたし」の現状を、読者に逸早く現前化するするために、足早に説明していた、と感じられたのだ。丁寧なのだ。だけど、例えば、この店の造りをはじめ、ここには書いていないことが数多ある。例えば、上には小料理屋と書いたが、水商売とは書かれながら、それさえも説明が一切なかったのだから、店の造りなど、おそらくは意識的に書いていないのではないだろうか。そうした書かないという選択肢もまた小説の作為の一部であるはずだし、それなら、一気に説明せず、保留し続けることもまた小説的作為として選択肢にはあるはずだ。

などと書くと、あたかも瀬沼さんには、そうした保留、あるいは先送りといった方法に無頓着な書き手のようだが、そうではない。いや、もしかしたら、上に書いてきた、足早の説明ぶりは、保留された事柄を相対化されるための方法だったのではないか、とさえ、思えなくもない。

 実は、わたしもたった一度だけ、息子をもったことがあります。生さぬ仲の子で、当時、八つになったばかりの男の子でした。
 あの子のことだけは、どうかした拍子に思い出すことがあります。口数の少ない、何を考えているのか解らない子でした。極端なほど頭の大きな子で、小走りの姿が実にユーモラスだったのを覚えています。
 どう接していいものか、と戸惑っているうちに、あんなことになるなんて……。
 今更、考えても詮無いことです。

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2008/01/14

シャルドネ―石原惠子

「銀座線」12号の巻末を飾った石原惠子さんの「シャルドネ」を読んだ。

非常に面白い。小説を読む醍醐味を味わったといってもいい。もちろん、小説というものが多様なら、醍醐味といっても醍醐の味が多様だということで、その一端に触れた、ということではあるのだけれど、ここで、なぜあえて「その一端」などとわざわざ書くかと言えば、ちょっとズルくない? という気もしてしまうからで、というのも、とても気が利いた落語のようではないか、と思ってしまったのだ。そして、もちろん三遊亭円朝が文学たり得るように、落語だからいけないというわけではなく、その微妙なところが、ズルくない? という感興なのだ。
とにかく、見事な構成と物語なのだ。かといって、大きな事件が起きる、起承転結のはっきりした物語というわけでもない。むしろ淡々としている。
語り手の「ぼく」はフリーターで、アルバイトを転々としているが、今はアルバイトもしていない。そして、アパートの庭先に葡萄の苗を植える。それは数年前に家を出てしまった父が家でしていたことでもあった。家を出たといっても、両親は離婚したわけではなく、携帯電話を通じて連絡は容易に取れるし、「ぼく」も母さえ、ときに触れ父に会っている。ただ、どこにいるのかしれないまま、どこか別のところで暮らしている。父の、消えたわけ、今住んでいるところ、今の生活、その謎を解きたいと思いながらも、会ってみても、父のペースに飲まれるだけで、聞けずじまいになるばかり。一方、「ぼく」のところには、葡萄を見せてくれといって中年女性が通ってくるようになる、といった物語だ。

例えば、ここ最近回想の書き方について書いてきたが、下に引用する場面など、完璧だと思える。葡萄を植えるために、土を掘り返している場面だ。

 春といってもまだ肌寒い毎日だというのに、額から汗が滴った。今日一日では無理かなと思いながら、ぼくはシャベルを突き刺しつづける。ただ黙々と土を掘り起こした。少しずつだが、地面が軟らかくなってくると、土の香りが立ち上がってきた。懐かしい匂いだ。
 あれは多摩川の河原だった。秋も終わりに近づいていて、野球の練習場の芝が枯れ始めていた。ぼくはまだ小学生で、父と妹、それにウサギのマメ蔵と一緒に出かけたのだった。マメ蔵を外で遊ばせてやるのが目的だ。言い出したのは父で、
 「一度、マメ蔵を外につれていってみないか」

五感に付き纏う記憶の連鎖、これこそ思い出すということではないだろうか? まして、ことさらに「思い出した」などと書く必要などない。ふと「ぼくはまだ小学生で」と書いてしまうこと。上手いなぁ・・・。
父がいなくなったことが中心らしいこの小説であれば、絶えず父のことを語ってみせざるを得ない、すなわち回想の身振りを余儀なくされるわけだが、その仕草も、ときに出来事によらないで、あっさりと書いてしまう。

 実家の葡萄も、年によって一つも実をつけないことがよくあった。わけを尋ねると父は、
 「葡萄だって調子が悪い年もあるだろう、きっと」
 こともなげに言うのでぼくは黙って頷いたが、あとから考えればずいぶんいい加減な答えだ。
 幼いころからぼくは、わからないことは真っ先に父に訊いた。ごくまれに母に尋ねることもあったけれど、母には「難しいことはお父さんに訊きなさい」とあっさり断わられたものだった。
 中学生になってからは父への反発心もあって、友人に尋ねたり図書館で調べたりするようになったが、最後はやはり父が頼りだった。
 父はたいていのことなら即座に答えてくれたし、わからないときはぼくと一緒になって調べてくれた。世界一の物知りがぼくの父親でよかったと、誇らしく思っていた。けれど今になって考えると、すべてが正しかったわけでもない。実際、「順風満帆」をぼくはつい最近まで、父に教わった通り「じゅんぷうまんぽ」だと思っていたのだ。

自分のこととして語るその身振りが、いかにも父を語る回想の身振りを回避して、今ここの「ぼく」のコトバにしている。だからこそ、出来事であるよりも、説明と紙一重のところを渡り切る。いや、じつをいえば、これもまた「ぼくにとって、父はこういうひとでした」という説明の身振りに違いないのだが、これが小説的洗練なのだろう。父が消えたことと同時に「ぼく」は社会に溶け込めずに、モラトリアムを託っているという現実もまたあるから、あくまで父の物語に収斂しない。父の謎と同時に「ぼく」の今があり、それは生活のなかで連動する。

そして、こうした細部の書きぶりが小説的洗練に満たされて、スラスラと読まされるだけでなく、物語にもそうした洗練が活かされている。

ここからはネタばれだ。

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2007/11/28

対称的な2作品

文学フリマ購入した本の中から、ふたつの小説を読んだ。まったくの偶然なのだけれど、なんというか、とても対称的な作品だった。しかし、これはそれぞれの雑誌の傾向というか、創作上の力点の置き方という意味で、文学観の違いといえるのかもしれない。
読んだ小説とは、まず先に読んだのが、「零文学第5号掲載、大水由紀さんの「雨」であり、次が「銀座線」第12号の新井希さん「水無月の花」だった。

対称的というのは、単純にいってしまえば、物語の面白さで読ませてくれた「雨」であり、文章の巧みさで読まされた「水無月の花」だったということで、逆の言い方をすれば、大水さんは文章のうえで、推敲が足りないのではないか、と思われる迂闊さが散見したし、構成でも辛い部分があったのだし、対して新井さんの小説はまるっきりなにも起こらない、じつに淡々とした物語だったということでもある。こんな書き方はフェアではないが、正直にどちらに分があるかといえば、やはり新井さんの小説だろう。だけど、大水さんの小説だって、ほんとうに面白かったのだ。

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2007/11/22

ふたりのGOSPEL QUEENと・・・

Shirley_caesarMahalia_jackson 読書に特化といっているのだから、こんなことを書くのは、ルール違反だけれど、ときには外れたくなる。ようするに、読了の小説がないだけなのだけれど、それというのも、じつはゴスペルにはまった時期があり、クリスマスが近づいたから、というわけでもなく、ただふと思い出し、CDを引っ張り出してきて聴き、もしかしたらと思って検索したら、やっぱりYouTubeにあった。このひとたちの映像が観られるとはかつては思っていなかったので、しばらく徘徊してしまった。
そして、いつでもすぐに見つけられるように、この記事を残しておこうと思う。

このひとたちとは、SHIRLEY CAESARMAHALIA JACKSON

これなんて、まるでJBのようだ。途中で終わってるけど(涙)。そういえば、我が家にあるCDの「SHIRLER CAESAR WITH THE CARAVANS」の1曲目は"I Feel Good"だった。

そして、あのAretha Franclinも愛したというMAHALIA JACKSONこれは、Louis Armstrongとデュエット。さらにこれはNat King Coleと。Dinah Shoreと一緒もある

ところで、ついでに書けば、最近、朱里エイコに傾倒中の私。うわっ! レナウンのコマーシャルって、まるで鈴木清順みたいだ!

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2007/11/21

マリア―柳沢佳苗

「銀座線」第12号掲載の柳沢佳苗さん「マリア」を読んだ。

わからなさに戸惑いながら、なお、「面白い、面白い」と口にさえだして読んでしまった。
正直に言えば、さっぱりわからない。なにが書いてあるのか、なにが書きたかったのか、皆目わからない。なによりタイトルがわからないのだけれど、だけど、ほんとうは、「なにが書いてあるのか」はわかる。なにしろ詳細な描写しかしていない小説なのだから、むしろ情景はいやというほど、現前化されている。ところが、行を追うごとに、すでに書かれていたはずの事象が無効になっていく。それどころか、時間さえが、瞬く間に過ぎていく。
そして、あらためて、作者の意見、書きたいことなどじつのところはどうでもいい、その瞬間、時空に出会うことこそ小説なのだ、という、私のかねての思いを新たにされていたのだ。だから、この小説は、私にとって、ひたすら面白いのだ。

 変わった夢を見た。

書き出しである。この小説が、わけのわからない小説だったといったあとにこの書き出しを見れば、なるほど、夢の話だと思うだろう。それなら時間が飛んでいこうと、前段が忘れ去られようと、なるほど夢の在り様ではないか、と。なるほど、読み終えたあとになってみれば、あるいは、混乱を感じはじめたときにここを思い出せば、それでよいのだろうけれど、この小説のなかで起きていることはかならずしも夢らしくないのだ。夢と現のあわいとでもいうべき世界だととりあえずは言えるかもしれない。

 昨日、頭を使いすぎたせいだろうか。ぶらぶらと書店の中を歩いていると、何を思ったのか管理栄養士の国家試験でも受けてみようかと参考書を一冊購入していた。大学を卒業して十年以上が経っていた。

これが書き出しに続く段落である。まず、「頭を使いすぎたせい」で起きた事態とはなにか? この時点では「変わった夢を見た」ことなのか、あるいは、「何を思ったか」というなら、今さら国家試験を目指してしまったことなのかもしれないだろう。それでも、「頭を使いすぎた」といい参考書を買ったというなら、なるほど、勉強して頭を使いすぎた、という話のようではある。

 家に帰ってから参考書を手にすると、臨床栄養学の項目を勉強した。勉強というものが新鮮に感じたのか、三時間もしていた。しかし慣れない勉強をしたのがいけなかったのだろう。糖尿病、高脂血症、胃十二指腸潰瘍、クローン病など様々な病気について覚えようとしたせいだ。

なるほど、やはり栄養学のお勉強のために頭を使ってしまったらしい。この短いセンテンスと述語の淡白さに対して、病名まで列記する綿密さ。短いセンテンスを連ねながら、スピード感を削ぐ細かさ。

 大量の血を吐く夢を見たのだった。止まらなければ命が危ないと思うほどの血の量だったので、目が覚めたのである。それだけならそう変わったことでもないのだろうが、目覚めたときに鼻水とよだれが出ていた。寝ているときによだれを出す習慣はなかった。体調を崩したのかと思ったが、その後鼻水が出ることもなくだるいわけでもなかった。体の擬似反応が起きたのだろうか。一人でただひたすら血を吐き続ける夢に危険を察知し、体が勝手に反応したのではないかと思った。それにしてもよだれに鼻水とは納得がいかない。そんな目覚めの朝だった。

と続くなら、冒頭の夢とは、まさにこの大量の血を吐く夢のことを指していると考える。もう夢は終わり、語りの場は目覚めた朝にいたったのだ、と。
ところで、この段落のふたつめのセンテンスにある「ので」だが、続く段落を見ると、これが頻出してくる。

 しかし、こんなことではじめたばかりの勉強をやめるのもおかしな話なので、午前中の二時間食べ物と健康という項目を勉強した。その項目を選んだのは今朝吐いた夢を見たので、体に入れる食べ物と健康という言葉で気持ちをプラスマイナスゼロという状態にもっていこうとしたからである。

ふたつだけのセンテンスで構成されたこの段落のどちらにも「ので」という接続詞が見え、あまつさえ、うしろのセンテンスは、「からである」としめられるのだから、言い訳と説明の仕草なのだ。逐一ご丁寧に説明している。こうなれば、わけのわからない小説になどなりそうもないではないか。
体の擬似反応としては、むしろよだれが垂れたことから、血を吐く夢が構成されたのではないかとも思えるけれど、それはどうでもいい。すくなくとも、今までのところ人称を欠きながらも明らかに一人称であるこの人物は、血を吐く夢を見たからよだれが出たのだろうと考えたのだから。

さて、逐一辿るのはいい加減にして、ほんのすこしだけ飛ぼう。この人物は昼食を摂る際に、学んだばかりの栄養学の復習を試みるのだが、

 食べる前に疲れてしまった。これでは先が思いやられる。絶対音感ではないが、絶対食感があるならば自然な形であらゆる食べ物の栄養素や色素や体の機能が浮かんで食するのだろうが、私の場合はそうではない。覚えているかどうかといった強迫観念なのである。これでは先が思いやられる。毎食、強迫観念と脳の衰えの恐怖感を味わうことになると思ったら気分が滅入ってきたので、外出することにした。

そろそろ怪しい・・・。これはわざとなのだろうか? 食感とは歯ざわりとか固さを指すもので、ここでいうなら、むしろ味感(なんて言葉はないだろうけれど)になるのではないか? まして、味から体の機能が感じとれるなどということは考えにくいが、たしかに味覚とは身体にとってそれがなにものであるかをしらせる信号だから、こうした考え方もなるほど面白いといえば面白いし、それをくどくどと書くのではなく、あっさりと書いてしまうのも妙な面白さがある。だけど、「あっさり」とは書いたが、こんなことを書いているというくどさでもある。はっきりいってしまえば、「食べる前に疲れてしまった。気分が滅入ってきたので、外出することにした。」で充分な段落だといえよう。

 地下鉄に乗り、車内広告で上野の国立博物館で開催されている北斎展を目にすると、行ってみようかと思った。千代田線の湯島駅で降り、地上に出ると急に喉が渇き珈琲ショップに入った。休日のせいか店内は込んでいた。合い席の大きなテーブル席しか空いていなかった。窓側の席が空いていれば落ち着けるのだが、そう都合よくはいかなかった。空いている席に座りアイスコーヒーを飲むことに集中した。半分以上を一気に飲んだ後、周囲を見渡すと店内の広さに対し人口密度が高いので落ち着かなかった。しかし鞄から参考書を取り出し、今飲んでいるコーヒーについて調べた。コーヒーには苦味成分であるカフェインが含まれる。そうだった。基礎知識である。苦味成分のカフェインと思いながら残りの半分をストローから吸い上げた。なんだか味気ないが。わずかになった氷の間の茶色のコーヒーを吸い上げていくと、コップの中がクリアーになっていく反面、周囲はセピア色に変わっていく気がした。目の前にある大きな鏡の中にあるコーヒーショップの店内はセピア色である。室内の電球のせいだろうか。そのうえ目の前の鏡は古びていて、くもっている。ストローをくわえたまま鏡の中の店内を覗いていると、一瞬吸い込まれるような気がしたので参考書を鞄にしまい外に出た。

正直にいえば、「この作者は、もしかしてただ下手なだけではないか?」と疑わずにいられない。落ち着くことの反復、コーヒーひとつに集中するなどという書きぶり、カフェインに「そうだった。基礎知識である」などという大仰な口ぶり、そもそもこの段落だって、この小説のなかでただコーヒーを飲むことにどれほどの意味があるのだろう・・・。そう、もちろんそうした出来事の集積が小説である。そこで、気になるのが、「周囲はセピア色に変わっていく気がした」などというやけに気取った文章だ。これまでのなんともすこしずつ的が外れた分析といった様相の文章の羅列のなかで、この文章に合うと、「おや?」と思う。だが、それもまた照明や鏡のせいになっていく。そう、説明というか、この人なりの分析がはじまるのだ。

 桜並木を歩いている。桜が咲いている。散りかけの時期である。風が吹き、花びらが舞っている。花びらの渦の中へ迷い込んだようだ。花びらは舞っていて自分の周りは止まっている。音は遠くにある。人は多いが話し声は遠くにある。自分の足音だけが身近に聞こえる。自分の心臓の音が中心にある。目は花びらの舞を凝視する。きれいだと感じた。桜並木を過ぎると、目の前に噴水が見えた。振り返ると桜の木々は緑色だった。

ついに、なにごとかが起ころうとしている。もちろん葉桜というものはある。だが、花吹雪舞うなかをゆき過ぎて振り返った桜並木は、緑色だというのだ。さらに続く段落が下だ。

 視線をずらすとかき氷を売っている露天があった。見上げると空は青く、陽射しが眩しかった。汗ばみながら噴水の近くまでくると、噴水の周りの水辺では太陽の光が遊んでいた。光っては消え、違う場所で又光る。噴水の吹き上がる水が風で飛沫となって、手や顔にほのかにかかる。気持ちがいい。暫く突っ立っていると炎天下のせいか頭が熱くなってきたので木陰に入ることにした。木々の中を歩いていると若干涼しかった。風が木々の中を通り抜けていく。立ち止まり見上げると枝からクモの糸が垂れていた。先には葉っぱをつけている。その葉っぱが風でくるくると回っている。そのクモの糸を辿っていくと茂っている葉の隙間から一筋の光が射し込んでいるのが見えた。気分が明るくなる。

「気持ちがいい」とか「気分が明るくなる」といったなんとも悲しいほどに素っ気ない書きぶりというか、あるいは余計なひと言と言おうか。これはいったいなんなのだろう? もしかして、はぐらかされているのだろうか? 桜のさきにはかき氷に炎天下の太陽・・・。そう、時間がずれていく。だが、ずれているのは、時間だけではない。

 博物館の前の信号が赤から青に変わり、横断歩道を渡っていると視界の中に入ってきた。自分でも不思議に思うが見なくてもいいようなものを目にしてしまう。小鳥がぺしゃんこになって横断歩道に張り付いていた。何度、いや数十回車に轢かれた姿である。もうすぐ道と一体化になるというより、すでに組み込まれた図柄のようである。今はかろうじて鳥の形ではあるが、後数十回この上を車が通っていったら形すらなくなってしまうのだろう。顔を上げると信号の青が赤に変わる瞬間だった。あと少しではあったが、まだ渡りきってはいなかった。だからといって急ぐ気にもなれなかった。後ろを車が通っていくのがわかった。自分の後ろのはずなのに一瞬自分の中を通り抜けていくような気がした。もう一度振り返って、轢かれていく小鳥の姿を見ようとは思わなかった。

読み手をはぐらかすように、ずらすのだ。「視界の中に入ってきた」ものをそのセンテンスはおろか、続くセンテンスですら明かすことなく、保留して、なにかを見てしまった、その「見なくてもいいようなものを見てしまう」ことのなかに読者を晒す。そして、「自分の中を通り抜けていくような気がした」というのだから、空間までもずれてしまったらしい。
さらに、いったい栄養学のお話はどこにいってしまったのだろう? もちろんこの人はなにも口にしていないから、忘れられたのだろうけれど、この後、あれほど物語の場を占拠していた栄養学が、まったく表れないのだ。ここにもズレがあるといえる。だが、時間はさらにズレ続けている。

 博物館の入場券を買って敷地内に入るとベンチに座った。見上げるとイチョウの木の葉が黄色く色づいているのが見えた。風が心地よく吹いている。イチョウの木の先には雲が流れている。黄色く色づいた葉がざわざわと音をならし、舞い落ちている。落ちた葉を踏みつけるとサクサクという音がするだろう。

今やイチョウが色づいている。
さて、しかしここからがこの小説の佳境とも言うべき、なんとも面白い場面である。そのためには、まず「私」が登場する。

 (カシャ)。心の中でカメラを撮る音をまねし、目を閉じた。そして再び開いた。この風景を私に焼きつけたのだった。ベンチから立ち上がり北斎展へと向かった。

ようやくにして現れた「私」は、やっと北斎の絵を見るのだが、一枚の絵に釘付けになる。だがそのわけは・・・。

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2007/11/14

「銀座線」さんが・・・

Ginzasen12 詳細は追って、改めて記事にするつもりだが、「銀座線」のIさんが私が紛失した最新号をわざわざご郵送くださった。感謝感謝です。謹んで読ませていただきます。といっても、失礼なことも書いてしまうかもしれませんが、それもまた、本音で読み書く、ということで、敬意の表われとご理解ください。

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2007/07/12

「銀座線」と「ノスタルジア」から

今日は、拙作の合評だ。ワクワク、ドキドキ、ヒヤヒヤなのだ。と、いいつつ、ゼミに出席するのは、じつはひさしぶりだし、合評は拙作だけではなく、もう1篇も取り上げるため、どうしてもそちらを読んでおかねばならない。さて・・・。

Ginzasen10 それなのに、山のなかに埋もれていた「銀座線」10号(2004年12月発行号)を見つけたから、読んでいなかった作品を数行ずつ眺め、その中で、そのまま読み進めてしまう小説を探していたら、ふたつを読んでしまった。瀬沼晶子さん「虹霓をわたる羊の群れ」と藤咲文さん「淋しいこども」。最後まで読ませるだけの面白さがあって、平均点以上だと思うのに、あと一歩が欲しい、と感じるのが、「銀座線」。

「虹霓をわたる羊の群れ」なんて、とても素敵なタイトルではないか。雌雄の虹と羊雲、面白いのに、なぜ、幻視でもいいから、実際に羊雲と虹を交錯させないのだろう? どうせなら、鰯雲も出して、生き物だらけの空を幻視して見せて欲しかった。あと一歩というところで、現実的なところに留まろうとする、そのギリギリのところに文学的なものを見出しているのだろうか? かといって、語られている葬祭屋の物語と生き物がわたる空が交錯してこない。葬祭屋で、花いじりばかりしている男が主人公なのだが、この花やその色が、虹や雲、青い空と対照され、地上と天空を同時に見渡すような小説になっていたなら、このタイトルも活きていただろうなぁ、と惜しまれる。地上の話もそれなりに詰まらなくはなかったのに、どうもタイトルのための天空描写のようで、ちぐはぐの印象がぬぐえなかった。

対して、タイトルがいただけないのが「淋しいこども」で、ストレートに過ぎる。さらに、母にせよ義妹にせよ、あまりに類型的だった。30代の女性が結婚詐欺に合う物語で、その過程は説得力があったが、その背景として、結婚をせがむ母や、キャリアウーマンでありつつ妻である義妹を置くのも、説得力に寄与していながら、その母と義妹のやりとりや、それより弟ばかりを大事にしている母の姿は、遣りすぎの感があった。タイトルからすると、むしろ結婚詐欺こそ、そのための道具であり、主眼は母になおざりにされた女だったのかもしれないが、こうした母親を恨む物語は、その距離が難しい。こうまで、嫌だ嫌だと書かれると、正直母親の理不尽よりも、それをいう由季子のほうが、嫌になってしまう。だからこそ、結婚詐欺の被害者という憐れみが必要だったのだろうか? やはり、今ひとつちぐはぐなのだ。さらに巨人の足という仕掛けまでがほどこされている。こうした仕掛けは、けして嫌いではないのだけれど、その使い方は難しい。

ふたつともに、虹霓と羊、巨人の足という仕掛けをことさらに扱いすぎていやしないだろうか? その仕掛けは面白いのだけど、その面白さに頼りすぎていないか? 巨人の足はまだしも、虹と羊は、ことさらにラストシーンに持ち出すことはなかったように思える。もう一歩、なのだ。

さらに、「世界文学のフロンティア4・ノスタルジア」の「紅いコーリャン」の原作者・莫言による「女郎買い」が短かったので読んでみた。召使だった曾祖父による季範(チーファン)先生の話を大祖父さんから聞いた私というなんとも重層的な語り。もちろん語られるのは季範先生のエピソード。だが、翻訳(藤井省三)が悪いのか? もともとそうなのか、大祖父さんと曾祖父さんがごっちゃになって、自在とはいいがたく、楽しめなかった。大祖父さんと曾祖父さんのどちらであろうと、季範先生の話なら、物語としてはどちらがどちらでもいいようなものの、それならはじめからこうした重層的な語りの場など必要ない。「私」はそうした重層的な他者の語りを経たところでしか季範先生のことをしらないとしても、はじめに、あるいはどこかで、それを言ってしまえば、あとはどうとでもなる。例えば、岡本綺堂のように。
覇王別姫」(16歳で書いたって!)「傾城の恋」の張愛玲、これもまた映画原作「赤薔薇・白薔薇」に期待しよう。本当は先に読もうと思ったのだが、さすがに映画原作だけあり、少々長いのだ。
映画を比べても、莫言よりは張愛玲に分がある。

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2007/06/22

夏の妹―曠野智子

またしても、すこし古いネタだが、もとより新刊書のネタのほうがすくないくらいのここなのだから、同人誌についても、眼について読んだ小説が古いものでもいっこうにかまわないだろう。ひわきさんの「ひとり未満ひとり以上」なんて、1998年のものだったのだから。

というわけで、2005年12月1日発行の「銀座線11号でオオトリをつとめた曠野智子さんの「夏の妹」という小説を読んだ。なんともいいようのない面白さだ。常になにかを欠いているような書きぶり、言葉・描写の不足が、風景をいびつに見せている。視界のなかにところどころ白濁が散っているような、物足りないような、それでいていたって現実的な世界。
「ような」を繰り返すこの文章が、この小説のいわく言いがたさを象徴している。

 車を降りればうだるように暑かった。クーラーの冷たい空気が逃げていき、かがむ背中に日が差してじっと汗がにじんでくる。
 先ほどから沙希が鐘楼の下で、鐘を打ち鳴らせとわたしを呼んでいた。
 「いま行くよぉ」と答えながら、嫌だ、嫌だと思う。何に対してなのか自分でも良く分からないまま口癖となって唱えている。
 寺の脇にある駐車場で、ドアの影に隠れてスーパーのレジ袋を探していた。出掛けに思い出し、引き返してまで持って来たのだから忘れたはずがなかった。袋を片手に靴を履いたのを覚えている。後部座席に回ってクッションを持ち上げてみても助手席や運転席の下にもない。こんな調子じゃ将来認知症になってもわかんないだろうな、と思いながらダッシュボードを開けると、中に丸めたのが二枚あった。

書き出しだが、例えば、「寺の脇にある」ではじまるセンテンスから書き起こせば、風景はより鮮明になっていただろう。しかし、景色であるよりも、うだる暑さと、車を降りる動きこそ、いま「わたし」の感じていることだったし、読み手が感じるべきことがらだった。視覚より先に、温度と動きを感じさせたかったのだろう。だが、続くセンテンスで、「かがむ背中」と書きながら、降りた車の脇でなぜかがむのか、そのわけがしれないから、なにごとが起きているのか、読者は迷う。どこを向いてかがんでいるのか、それさえがわからないのだ。「嫌だ、嫌だ」と思いながら、ただ「口癖」だといわれれば、ここで起きていることにたいする意味づけが剥奪される。
それでも「寺の脇にある」ではじまる段落にいたって、ようやく「わたし」の行動が形になる。景色としては、「わたし」が日差しの強い駐車場で、車の中にあるはずのレジ袋を探し、鐘楼の下で沙希が呼んでいる。レジ袋の意味はいまだしれないが、小説のはじまりは、なにもないところになにかを現出させるきわめて奇跡的な出来事なのだ。ほんのすこし、後先をずらすだけで、小説の世界が変わる。この書き出しは、沙希という存在がなにか意味ありげでありながら、出来事や行動の意味、心象よりも、動きこそが書かれる小説だというようにも見える。だが、急がず、もういち度書き出しのふたつの段落を見てみたい。書き出しのセンテンスから、「クーラーの冷たい空気が逃げていき」という文節までを見れば、まさに今、車が目的地について、ドアを開けた刹那を連想しないだろうか? 「クーラーの空気が逃げてい」くというのだから、冷気は閉じ込められていたように思える。ところが、改行されると「先ほどから」と書かれている。それなら、沙希は「わたし」より以前に寺にいて、鐘楼で待っていたようにさえ読めないか? 私(読者)はすっかりそのように読んでしまい、先々さんざん迷うことになる。

 入れた覚えも丸めておいた覚えもわたしにはなかったが、沙希が入れたんだろうとみて、足元に置いていた沙希の下着とズボンを拾った。小石を払いたたんでいく。濡れた下着を内側にズボンと一緒に丸め、レジ袋の中へと押し込んでやれば、別段汚いものでも恥ずかしいものでもなんでもなくなる。ただの衣類だ。重くなった荷を揺らし手提げ部分をきつく固結びすると、口がすぼまっていくのと同時に生暖かい尿のにおいが鼻先をかすめた。

先の引用に続く段落だ。「別段汚いものでも恥ずかしいものでもなんでもなくなる」という言葉遣いが、それが「汚いもの」で「恥ずかしいもの」であることを告げる。あえて反語的な身振りを使うのは、それを「汚いもの」「恥ずかしいもの」ということにたいする抵抗感さえ込めた身振りといえよう。すなわち、ここまで下着もズボンもその存在を書かないままにきて、なおかつそれを「汚い」とか「恥ずかしい」と「わたし」は口にしないという、書かない身振り、ここに、その汚さ恥ずかしさそのものが表れていやしないだろうか。

 こんにちは、砂利を鳴らして駐車場の脇を老年の夫婦らしき二人が通る。
 人の気配を感じていたものの、声を掛けられた拍子に、わたしは思わず丸く張ったレジ袋を車の中へ放っていた。

「わたし」は「汚い」「恥ずかしい」と思いながら、それを口に出さない、あるいは、そう思っている自身の気持ちを偽る。「汚い」「恥ずかしい」と暗に思い、言い募りながら、あからさまに言えないことのもどかしさを身に纏ったこのレトリックこそ、この小説の遣る瀬なさだ。

 沙希が緩やかな坂をびっこを引いて駆け下りてくる。大きな声で挨拶を返し、夫婦がわたしから目線をそらしたのでほっとする。二人が沙希に向かって会釈してくれたのにもほっとする。こういった小さなことにもびくついていて、わたしは沙希といると疲れてしまう。
 沙希は息を上がらせてわたしの傍に寄ると、腕を摑んで「猫がいた」と言った。続けて「あのね、お父さんとお母さんもねぇ」と言う。
 坂道を降りていく二人を背に、沙希の華やいだ様子なのが気に障り「もう着替えはないんだからね」と言わなくていいことをわたしは口にする。沙希の顔が曇ったので「そうだね。お父さん、お母さんだね」などと沙希の言いたいことを理解せずに返している。

どうやら「わたし」は車を運転してきたらしいのだから、それなりの年齢に達しているのだろうけれど、沙希は、尿を漏らしながら、言葉には甘えを含みつつもしっかりしている。足も不自由らしい。それはわかるが、沙希と「わたし」の関係はいまだしれず、はたして彼女はいったいいくつくらいなのか、およその見当さえつかない。いや、じつをいえば、「わたし」だって、運転ができるといっても、いったいいくつなのか? じつは「わたし」ならざる客観的な眼には、いまだに風景が曖昧なのだ。お父さんとお母さんといっても、沙希の両親だろうけれど、それが、「わたし」とどういう関係なのか、わからない。風景のなかの白濁点とは、「わたし」のことであり、沙希のことにほかならない。恥ずかしさのなかで言い淀む対象そのものだ。そう、恥の対象は、沙希であると同時に、「わたし」自身でもある。沙希を恥じることの恥を身に纏っている。
「猫がいた」と言ったあとに、「お父さんとお母さんもねぇ」と沙希は言った。単純に考えれば、沙希はお父さんとお母さんを見たのだ。しかし、「わたし」は沙希の言葉足らずのゆえに掴み損ねた意味があったはずだと思っている。先を読めば、沙希は「わたし」にとって、タイトルにある妹だ。すなわち「お父さんとお母さん」とはふたりの両親であり、その墓参りに訪れている。したがって、「わたし」が沙希の言葉を理解できないこともわかるのだが、この時点では、両親の死は明かされていないのだから、もしかしたら、沙希は先にきていた両親を見たと言っているのかもしれず、なぜ「わたし」が沙希の科白が理解できないのか、むしろ読者こそ理解できない。

 沙希は馬鹿ではない。
 けれどわたしは沙希を前にすれば頭の悪い相手に物を知った風な、見下げた口調になった。沙希はされたことを忘れたように、わたしが笑えばまた笑う。

あえて「馬鹿ではない」と、ワンセンテンスの段落にしてまで断ることの、いかがわしさが、とりもなおさず沙希は馬鹿だといってしまう。いや、「馬鹿」ではない。「馬鹿」ではないが、馬鹿のようななにごとかなのだ、と口籠もりつつ言うのだ。沙希が4歳のときに父親が事故で死んで以来施設に入っている現在高校生、ということは追々わかってくる。しかし、およそ精神薄弱者とは思われながら、あきらかな言葉としては、いっさい表れることがない。

盆と正月だけ、施設から訪れる沙希。しかし、今年の夏の訪問では、「わたし」には恋人がいて、3人で過ごすことになる。自分の恥である沙希であり、沙希を恥じることがまた自己の恥である「わたし」が、恋人のまえで、それらの恥に晒され、身に引き受けていく二日間の話だ。恋人・邦彦の優しいのか無頓着なのかしれぬ姿にも、沙希の描き方にも、物足りなさが残るものの、そこにこそ、彼らを直視できず、「わたし」でしかあり得ない「わたし」の弱さと、その弱さにたいするやりきれなさが立ち表れていたようにも思える。沙希がキスをしたといい、気になりながら、それ以上のことを問えずにいる「わたし」、沙希を引き合わせながら、こうした妹がいる自分を愛し続けられるかと問わない「わたし」。それらは切実だ。沙希の存在がふたりの関係を壊すわけはない、はずだから、問うこともなければ、その疑問が文章になることさえない。だが、それならなぜこの小説が書かれただろう。この小説が3人の時間を主軸に置いただろう。2日目には、無理をいって邦彦を呼んだのだろう。そして、隣室に沙希がいるのに、自分からセックスを求めただろう。沙希の存在が「わたし」と邦彦の関係になにかをもたらすはずだし、だけどそれはマイナスのものであってはならない。そして、マイナスのものであってはならないと思わずにいられないことの苛立ちが、口籠もり、語るべきことを語れなくする。

関係のなかの語りえぬものは、まさに小説的なテーマといえる。だが、この小説では、「わたし」と読者という関係のなかに語りえぬものが表れてしまったのではないだろうか。自己を透徹に見つめてさらけ出す私小説ではなく、かといって、自己表現といった自己満足目的のための私小説でもなく、語れないことのもどかしさ、口籠もる私小説だったように思える。もちろん、それは曠野智子さんに沙希のような妹がいる、ということではない。そんなことは、私はしらない。曠野さんの家族のことなど私のしったことではない。それでも、ここに表れた「わたし」が、関係を結ぼうとしながら結びがたさに口籠もらざるを得なかった相手が、私(読者)だったと思えば、発信源としての「わたし」は、私小説と呼ぶべきものに思えるのだ。

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2007/01/07

サイレント・インターメッツォ―アイアトン喜久子

このところの怠慢ぶり、かといって、創作のほうも、構想さえまったく沸かないという停滞に、我ながら業を煮やし、同人誌のなかでもきわめて短いものを見つけて読んでみた。とはいえ、あいかわらず読んでいないわけでもなく、例えば、「野坂昭如セレクション2」の「ああ水中大回天」を読んだし、上野師の「肉体の時代」を読み進めてもいるのだ。とはいえ、野坂昭如は何度か書いたばかりだからしばらく控えたいし、上野さんは小説ではない。

というわけで、読んだのが、「銀座線」第11号掲載、アイアトン喜久子さんの「サイレント・インターメッツォ」だ。ほんとうに短い3ページほどの小説で、タイトル欄と余白を見れば、本文は2ページでおさまってしまう。

数週間前に墓地に接した家に越してきた「わたし」が、はじめてその墓地を訪れた女性を見て、話しかけるのだが、ふたりの会話が成立しているとはいえない。話しかけるのは「わたし」ばかりで、彼女は反応を示しながら、その反応も、「わたし」の納得できるものではない。ようやく彼女がなにかをいっても「わたし」は聞き取り損ねてしまう。彼女は墓地に白い包みに包まれた白い箱を持ってきており、最初にはそれを墓に供えるように置き、「わたし」が聞きそびれた彼女のコトバとは、改めてその箱のふたをあけてなかのなにかを差し出しながらいわれたものだった。立ち去った彼女を見送って、その箱を確認する「わたし」はそこに骨を見いだす。

 土中に埋葬されるのはどんなものだろうと、その時が近づく中で空想する――しとしと雨の降る日には、わたしも冷たくぬれて行く。強風の日には土に守られながら、風に向かって走った日々を思い出すだろう。今日のようによく晴れた日には、そう、「マダム・バタフライ」からアリアが聞こえ、ディープ・ブルーの海がそこに浮かぶのだろうか……。

冒頭からふたつ目の段落である。じつはこの小説は、すでにここにすべてが書かれていたといってもいいだろう。「その時が近づく中」とはいつのことか? もちろん今である。では近づきつつある「その時」とは? もちろん歳を重ねることの謂に読むべきなのだろうが、では、ここに越してきた「数週間前」というその「数週間」というあまりに曖昧な時間はなにを指しているのだろう。
箱を開き、骨を見た「わたし」は、

 突然、思い出した。これは金木犀ではない、わたしが十年余も前に好んでいた香水の香りだ。そっと、白い骨に触ってみた。冷たくはない、むしろ、温かくてわたしの指にまつわる感触だ。骨は、私の指の一部になりたがっている。

そして、最後の部分を見れば、

 自分の部屋に戻り窓を見ると、夕焼けが終わろうとしていた。オレンジ色が濃いブルーに包まれて行く中で、突然、無数の小さな蝶がわたしの窓を覆った。
 一つ、一つが舞っている、狂ったように。粉のような金木犀の花びらを撒きながら。そして、やがて、一つ、一つ、オレンジ色とダーク・ブルーの中に消えて行った。

それはまさに「今日のようによく晴れた日には、そう、「マダム・バタフライ」からアリアが聞こえ、ディープ・ブルーの海がそこに浮かぶ」ことの顕現にほかなるまい。それなら、彼女に差し出された骨壷とは、「わたし」の骨だったに違いなかろうし、それこそ、その時は近づいているだろう。

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2006/12/04

半夏生―瀬沼晶子

今日の記事をどうしようかと思いながら、周囲にポンポンと投げ散らしたままの同人誌を次々と手にし、どこかで手がとまるのを待つ気でいたら、存外早く手がとまって、読みきってしまったのが、「銀座線」11号の瀬沼晶子さんの「半夏生」だった。

半夏生」瀬沼晶子
だけど、なにが面白くて、一気に読まされてしまったのだろう? それがわからない。それでもとにかく、気持ちよく読んで、その気持ちよさのまま読み終えた。

 空梅雨だと報道されたばかりなのに、ここ数日の空模様は本格的な淫雨となりそうだった。
 総武線の大久保駅に降り立った途端、白保澪子(しらほみおこ)は、会社をあとにしたときの高ぶった気持ちが、急速に醒めていくのを感じた。
 乱立するラブホテルの煤けた屋根の波。ハングル文字の目立つビルの、錆びた外階段の手摺りにもたれて煙草をふかす女。セックスを強調する、あからさまな看板の数々……。夜になれば極彩色のネオンに満ちるであろう街は、雨のなか息をひそめ、その猥雑な匂いを温存しているかのようだった。
 風向きが幾分変わったのだろうか。握りしめたままの地図が湿気を帯び、両のふくらはぎがじっとりと濡れはじめた。
 会社のパソコンでプリントアウトしてきた地図に目を落とし、自らを鼓舞するかのようなため息をひとつつくと、澪子は改札に向かって歩きだした。
 薄暗いガード下をくぐり、ちまちまとした商店街を通り抜ける。雑然とした街並みは、何処か故郷の市場を思わせないでもない。けれど、ここには豚の頭(チラガー)も海蛇(イラブー)も、米兵の姿もなかった。
 べたぁとした風になぶられた髪を指で梳きながら、もうすぐ精霊(ソーロン)の迎えだと澪子はふいに思った。(カッコ内原文ルビ)

書き出しである。「高ぶった気持ち」は「冷める」が適切ではないかと思うが、通いなれぬ道をいく白保澪子が、どうやら沖縄の出身であることがわかる。移動と気配、そのなかから場景を立ち上げるこの書き出しは上手い。「白保澪子」とフルネームを書き、さらにルビまで振る素振りには、語り手を示唆し、あくまで白保澪子とは距離をもった存在であることまで示される。ところが、この後、そうした神かカメラのごとき視線は失われ、語りの場はそれこそ「べたぁ」と白保澪子にくっついて離れない。
しかし、なんとも素っ気ない文章ではないか。そう、文学的たろうとして捏ね回す比喩が見当たらない。非常に好感を覚えた。もちろん、比喩がないわけではない。「夜になれば極彩色のネオンに満ちるであろう街は、雨のなか息をひそめ、その猥雑な匂いを温存しているかのようだった」というセンテンスなど、隠喩と直喩が交じり合う、比喩のためのセンテンスですらある。しかし、その比喩は凡庸を極めてむしろ慣用句にも近く、捏ね回すといった身振りには遠いといえよう。
にもかかわらず、この小説には、ときに聞き慣れないコトバが混ざる。もちろん、「チラガー」であり「イラブー」「ソーロン」が顕著な例だが、この小説で島とはいわれながら一度として書かれないその地名を、これらのコトバがすでに教えてくれている。そして、この後澪子は祖母の記憶を辿る。そこで、いま一度もうすこし前を見直してみると、やはり聞き慣れないコトバが見い出せる。「淫雨」である。大久保駅周辺の猥雑な気配があえて呼び寄せたような「淫雨」というコトバ、こうした連想ゲームのような物語として、捉えてみようかと思う。ただし、先に触れた語り手と澪子の距離を忘れないで欲しい。この物語は意識の流れではない。

 島で包丁人(ポウーザー)と名を知られた祖母は、精霊の迎えの一週間も前から、お墓の掃除や拝所の挨拶回りと準備に余念がない。天ぷら、三枚肉、かまぼこ……。ごちそうの詰まった重箱と酒をお墓に供え、
「ウートートゥ。あと一週間ですよ。今年も忘れずに帰ってきて下さいねぇ。ウートートゥ」
 と唱え、迎えの朝ともなれば、仏壇いっぱいの果物を飾る。一番の場所に決まって据えられたのは、祖母が丹精込めて育てたマンゴーだった。
「ウートートゥ。ご先祖様、ようこそ……」
 澪子の胸のうちで、毎年、夏ごとに繰り返された、祖母のやわらかな声音が響く。と同時に、随分と遠くなってしまった故郷の輪郭が、薄れていることに気づいた。

先に続く部分だ。たしかに意識の流れに似ている。それならなぜ、一人称ではなく、あえて三人称では成らなかったのだろう?

 幹線道路に出た途端、風景が一変した。澪子は立ち止まり、肩先と頬とで傘を支え地図に目を落とした。目指す先は、新宿区の労働基準監督署だった。
 十七年のあいだ勤めた会社を、今、辞めざるをえなくなっていた。それは、とりもなおさず夫が死んで、澪子が独り身として過ごしてきた年月だ。

この後状況説明がなされるのは、少々興ざめではあるが、こうした場面展開の繋ぎ方には目を見張る。今、なぜここで説明するのか、ではなく、動きが召喚した説明なのだ。すくなくともそのように装うことには成功しているだろう。

 独身にもどった自分を、就職活動に突き動かした正体を澪子は知っている。それは、島を出てみたい、という子ども染みた憧れだけで、ただの一度も働いたことのない自分の生きかたを、やり直したいという一念だった。普通高校を卒業したきりで、なんの資格も持たない澪子が、一部上場企業の住宅メーカーに就職できたのは、バブル経済の余韻が残っていたおかげだったのであろう。むろん、当初はアルバイト契約で、私鉄沿線に新設されたばかりの住宅展示場の雑用係だった。

最初のセンテンスには、なにか言い知れぬ混乱がある。澪子による、自己が自己を分析することの乖離と、その距離の不自然さにも気づいているから、なんとも舌足らずにならずにいられず、思わず、「知っている」と語るものが、すなわち三人称を語るものが首を出しかけている。澪子の複雑な内面を語る第三者の戸惑いが、ひょっこりと第三者として顔を見せてしまった。すると、次のセンテンスにいたっては、すでに結婚して島を出ていたはずなのだから、どうにも文脈を欠いているといわざるを得ない。おそらくは「それは、島を出てみたい、という子ども染みた憧れだけで(結婚して)、ただの一度も働いたことのない自分の生き方を、やり直したいという一念だった」ということなのだろうが、夫の死にもさしたる感慨がないとは言え、結婚がそれだけのことだったとは書かれていないのだから、やはり戸惑う。それはともかく。

 けれど、澪子は本当に一生懸命、仕事をしてきたと信じているし、勉強もしてきたという自負もあった。意を決して、パソコン教室に通い、技能検定を取得したのもその頃だ。
 働きはじめた当時が、一番楽しかったのかもしれない。
 澪子は、労働基準監督署のあるビルに、いっときぼんやりとした視線を投じていたが、ひと息ついてから唇を強く結ぶと、パンプスのかかとをならしてロビーへと入っていった。

「ぼんやりとした視線を投じていたが」、だからといって澪子が回想していたとは書いていない。「澪子は知っている」と書かれていたならば、それは誰とも知れぬ語り手の文章だった。澪子の回想ではない。それでも、「いっときぼんやりとした視線を投じていた」と書かれるとき、その間こそが、それまでの説明的な文章を呼び込んだように見える。なるほどこの小説が三人称で書かれながらなお意識の流れを思わせるのは、こうした、あたかも時間の流れに沿うかのような書かれ方のせいではないだろうか。そして、これこそが、今ここで読みつつある私たち読者に、語られつつある今ここを顕現せしめているようだ。
そして、そうした時間を持続していくために呼び込まれるのが、刺青であり、林檎であり、妊婦だ。そうした仕掛けが出来するたびに、澪子は記憶を呼び覚まされ、あるいは、回想に先んじて、温泉に浸かっているのであり、墓参に向かうのである。そして、「別にいいじゃない」という夫の口癖を真似ると、だが夫に向かってではなく、祖母のコトバ「ウートートゥー」を口にして物語が終わる。雨(アメ)が降り続き、澪子は飴(アメ)を手にしている。

もっと丹念に辿りたい気もするが、だけど、渡部直己さんの仕草にも似たコトバ遊びに落ち込んでいきそうで、すると、この小説の面白さはもっとほかにあるようにも思えてきた。かといって、その面白さがなんなのか、わからないのだけれど、とにかくこの小説は気もちよく読めたのだ。気障に文学的な比喩のない素直な文章だろうか? それもあるかもしれないが、一行空きを使って、いきなり温泉に浸かっていたときには、ちょっとした違和感を感じたのだから、やはり上で触れた時間の使い方が気もちいいのかもしれない。もちろん、義父が魅力的でもあるが。ただし、彫り物が中途半端なら、浅草あたりではそうとう肩身が狭かったはず。鳶にとってステイタス・シンボルでもあったから。とはいえ、そのあたりが義父の山師たるところでもある。

その後ツラツラ考えてみれば、かつて拙作「薔薇色の鼠」でやろうとしたこと、場面をいかにつなげるか、それを実現しているのが、この小説ではないか、と思い至った。拙作でも、全体的な出来はともかく、場面展開については、それなりに楽しめたと思い、かつてはそうして、書くたびに自分なりのテーマを設定して、ようするに習作なのだけれど、最近になってようやく統合的な書き方をしようとしていたのに、そうして培ってきたはずのものが、活かされていないのではないか、と考えさせられてしまった。むむむ・・・。

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2006/11/18

過越しのオレンジ―新井 希

ふと、文学フリマの折に「銀座線」の方が、「木曜日」の同人雑誌評を見て、「うちは(「文學界」の)三月号に取り上げられたんですよ」と言っておられたことを思い出し、探してみたら、なるほど巻頭の楢崎真理子氏の「今年のりんご」と新井希氏の「過越しのオレンジ」が見つかった。してみると、やはり巻頭作が取り上げられる確立が高いようだが、とはいえ同人誌の側に、巻頭作に気を使うという傾向があるから、必然ともいえる。
そこで、あえて捻くれ者を気取り、というわけでもないのだが、巻頭作ではなく、「過越しのオレンジ」を読んだ。すごく考え込んでしまった。

過越しのオレンジ」新井 希
これまで書いてきたことを、もう一度考え直さなければいけないらしい。たしかに「上手い」小説というのは存在するのだと思いしらされた。もどかしくもなく「上手い」小説だ。外連でもなく、終わり方に苛立ちもしない、ただ「上手い」小説。
言うべきことが見つからない。綺麗な終わり方だが、その綺麗であることが、苛立たしいわけでもなく、自然に受け止められる。ああ、上手いなぁ・・・、と素直に感心してしまった。でも、私は「上手い」小説が、読みたいわけではない。もちろん下手な小説は読みたくないが、楽しみたい、面白がりたい、ワクワクしたい、ゾクゾクしたい、ドキッとしたい、感動したい。模範解答を見せられても楽しくはない。感動できない。そうゆうことだと思う。だけど、上手かったなぁ・・・。あんなふうに書けばよいのかぁ・・・。
と書いてみて、この昔話になってしまうあたりが、この小説の限界ではなかろうか? 抽象的で申し訳ないけれど。
問題は上手く書くことと驚きに満ちた小説が場所を共有できるか、occupyといえば夏目漱石の課題だが、いままで簡単に否定的に使ってきた「上手い」ことの意味を、もう一度ちゃんと探ってみないといけないだろう。迂闊に使えなくなってきた。

そこで参考になりそうなのが、矢田津世子だ、なんて言ったら唐突だろうか? ふと、矢田津世子の「茶粥の記」を思い出したのだ。
さいたま市の大宮駅といえば、新幹線が止まるターミナル駅で、乗降が多いから、朝ほどではないとはいえ帰宅ラッシュの電車で乗り過ごすなんて、まずあり得ないのに、私は座っていたわけでもなく乗り過ごした。それほど没頭してしまったのが、「茶粥の記」だった。あとにもさきにもそんな経験は二度とない。あの、なんでもない小説のあの魔力を、ちゃんと読み解かないといけないのではないか、と。「茶粥の記」の魔力が上手さだったのかどうかは、だいぶ時間がたっているので、言いかねるが、この文章を書いていて思いだしたのが、上のエピソードだった。再読の価値は充分にありだろう。

ところで、どうでもいいことだが、「銀座線」さんが取り上げられたのが、どちらも果物絡みのタイトルというのは面白い。

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明日、あさって、しあさってと―岡田四月

Photo_20 なにも、「azeto」や「小説π」の他の小説が読めないというわけではないのだけれど、せっかく文学フリマで色々な同人誌を手にしたのだから、あちらこちらに手を出して、パラパラ捲っては、手がとまる小説を探している。そして今回は、「銀座線」11号のこの作品に手がとまった。

明日、あさって、しあさってと」岡田四月
描写の無造作、語られつつある場の自在さと、語りの場の距離感、それらは、かねて書いてきた上手いことのもどかしさを考えてみると、むしろ下手さの面白さというべきかもしれないが、もちろん、誤解を承知で「下手さ」と書いている。けして下手ではない。

 紫子(むらさきこ)は縁側に座っていた。膝の具合が悪く正座ができないもので、足を前に投げ出して夕べの空を仰いでいる。それは儚げにも蠱惑的にも映る藤紫色をしていた。昔は外に出てもっと眺めていたいと思っても夕食の仕度の途中だからと逃してばかりいた。だが一人きりになり、のんびり夕涼みをしていられる身となった今では何度か拝ませてもらっている。(カッコ内ルビ)

書き出しであるが、これだけでは、紫子がはたしてどうして一人きりになったのか、あるいはなぜ膝の具合が悪いのか、判然とせず、おそらくは夫に先立たれた老婆だろうとは思いながらも、事故に合ったのかもしれないし、離婚したのかも知れず、可能性は開かれたままだ。「儚げにも蠱惑的にも映る藤紫色」といった描写が、文学的たろうとする嫌らしさに偏る気配を見せていると言えなくもないが、私にはそれほどの野心を感じられない。むしろ、無造作な描写ではないだろうか。なんとも技巧的ならざる素直な文章がそう思わせる。

 じっと見ていると吸い込まれていきそうだった。そしてその時はきっと顔も手も足もかつてのように艶やかな色白に変っている気がするのだった。腕を胸の前へ伸ばし、手を片方ずつためつすがめつしている。皺は仕方がないと思っている。だが変幻自在に少女や娘になれるようで、そうなると人目も憚らない。近隣の人々の陰口ももうどうでもいいのだった。魔法の一刷毛でみずみずしい素肌が蘇ったと信じ込んでいる。いやそんな経過もなくふっと戻りたい場へ戻れるのかもしれない。蚊に刺されれば面を歪めたが、寄りつかれないよりましと思っているのか、それさえすぐに受け入れているようだった。蜘蛛やなめくじには挨拶せんばかり、相手が向かってきそうであれば自分がどいて道を譲ってやるといった具合だ。横座りしていると錯覚することもある。しかし出来ない相談というもので上体が傾いているだけだった。「横座りは体に悪いんですよ」と誰かが言っていたのを思い出し、「でもねえ、悪いものって、魅力的だったりもするじゃない」と心の中ですっかり酔っている。(斜体字原文傍点)

Photo_21 先に続く段落である。いよいよ老人らしいが、なんとも不思議な段落ではないか。いや、不思議と感じられるだろうか? ひとつひとつのセンテンスになんの不思議もないし、破綻もない。淀みなく外連な描写もない、見事な描写といってよいだろう。だが、「一刷毛」が藤紫の夕日なのだとしたら、近隣の陰口など起こりえず、すると色白に塗り込めた老婆(横浜メリー?)を連想させる。そして、こうしたズレが招き寄せるように、語りの場がズレる。最初の段落で「拝ませてもらっている」と受身で語られるなら、語りは三人称でありながら紫子に寄り添うかに見せ、読み手は紫子に同化したはずなのに、「いやそんな経過もなくふっと戻りたい場へ戻れるのかもしれない」と、語り手は紫子の心理を計りかねると、「・・・思っているのか、・・・ようだった。」とすっかり外側に立ち、続くセンテンスでは、場景描写に終始、だが、ふたたび最後のセンテンスで、「心の中ですっかり酔っている」と紫子の内面に寄り添う。計りかねていたはずの紫子の内面をいきなり読み解いてみせるのだから、この最後のセンテンスは、実に不思議だ。まして、紫子は心の中で「でもねぇ、悪いものって、魅力的だったりもするじゃない」と呟くその相手は、思い出の中。まして彼女はその悪いもの(横座り)をしているのでもない。だからこそ、「酔っている」のだが、その前に、こうした語り手と語られている者(紫子)との乖離の中で、「横座りしていると錯覚することもある」というのなら、錯覚しているのは一体誰なのだろう。酔っているのが紫子なら、錯覚しているのは紫子である。無駄とも思える「こともある」という語尾が、語り手に距離をもたらしたのだろうか。「横座りしていると錯覚する」と言い切らず、「こともある」と一呼吸置くことで、語りの場のズレを召喚しているように見える。もちろん、つねに錯覚するわけではない、という解釈こそ妥当だろう。だが、酔うなら、紫子はこの時錯覚しているのではなかったか? すなわち、この時、紫子の性癖の説明から語られつつある場へ、一気に語りの場を引き戻す仕掛けでもあったわけで、ここで起きているのは、説明者である語り手と語られつつある今この場を生きている紫子の乖離ともいえよう。

 何十年もかけて恐れや不安から解放されつつあった柔らかな目も時折曇ることがある。もしや最期について思いを巡らしているのではないかと推し量ってみる。だが、今は違う。紫子は中学生で、その目が暗くなったのである。最初は家で半紙を広げ、楽しそうに絵を描いていた。クレヨンを握った手を頻りに動かし、おさげ髪の細面、ほとんど八頭身の女生徒の姿を。紫子は彼女の存在が気になっていた。この年齢の女子にはよくあるたわいない憧憬だったが、彼女を見かける度に強くなり、ついにその姿を紙上に表してみたのだ。彼女は白いブラウスを着てボタンをすべて留めていた。長めのタイトスカートと靴は鮮やかな赤で塗った。当時周りにはそんな格好をした女子はいなかったが、夢で見て紫子の脳裡に焼き付いていたのだ。迷わず描き出されていた。

一段落ごと、すべて引用したのではキリがないが、三つ目に続く段落だ。最初のセンテンスが、またしても「ことがある」という語尾である。まして今回は「時折」というコトバがあるのだから、まったく無駄といえよう。それでも、続く文章を見れば、こうした一呼吸が、やむなく呼び込まれたものだと思えないだろうか。「推し量ってみる」のは誰か? さらに、「だが、今は違う」と書く時の「今」とはいつだろう? 語りの場の「今」は自在である。縁側に座りながら、なお「今」は中学生となって憧れの少女の絵を描くのだ。とはいえ、この段落の距離感は、いかにも不思議だ。語り手は、紫子に寄り添いきることができない。「描き出した」とは書けず、「描き出されていた」と受動態を使うなら、能動を請け負っているのはだれかといって、ほかでもなく紫子だ。
ところで、この段落にいま少し立ち止まるなら、「紫子は中学生で、その目が暗くなったのである。」というセンテンスはなんなのだろう? このセンテンスだけを見て国語の試験よろしく「その目」を解釈すれば、「中学生の紫子の目」に読める。だが、暗くなった目がなにものにも発展していかない。
いい加減で引用を控えたいのだが、

 彼女とは同じクラスではなかったが、運動会など接するチャンスはあった。髪を片方の肩前に集めて三つ編みしていたり、左右の三つ編みを耳上で巻いておだんごにしていたのも覚えている。美人ではなかったが、姿勢がよく楚々としていて、小作りの目鼻だちは時に凛とした感じを与えた。

外連もなければ文学的野心も見えない素直で無造作な、とても好感の持てる描写だが、この段落にいたってついに書き手は、第三者の描写に終始し、語りつつある人称を省くことで、落ち着きを得た。

 紫子は今度はグラウンドにいた。二百メートル競争が始まろうとしている。数回走っていずれも上位を占めていた。ニクラス合同で行われることとなったのだが、気になっている彼女と競うはめになる。なぜ……。紫子は困ったと思った。だが負けたくはない。彼女は百メートルが得意だが油断はならなかった。

三人称のまま、語り手はすっかり紫子に寄り添った。こうして、しばらくは紫子の回想が語られるが、

 翌日は日差しがさほど強くなく膝の具合もよかったので、午前中から縁側に出ていた。例によって紫子はいともたやすく別の場所にいた。昨夕の感情を引き摺ってか、また中学生だった。ある女生徒からラブレターを貰ったところだ。共通の友人から渡されたのだが、本人もラブレターも極めて健康的で無邪気そのものだった。仲良くしていただけますかといった内容の素直な文面で、宛名の後の余白には陳腐なせりふの文字が躍っていた。すらりとした快活な少女だった。父親は実業家のようで、戦前は裕福な家庭らしかった。彼女の方がずっと垢抜けているのに、なぜ自分にこんな手紙を寄越すのか不思議がっていると、
「こんにちは」
 という声がした。紫子は我に返った。このところ世話をしてくれるさおりだ。ボランティアとしての活動が貯金され、その分自身の老後面倒をみてもらえるという、この町のシステムのお蔭だ。

「いともたやすく別の場所にい」るのが小説である。だが、読者を連れていかなければならない。だが、その連れていき方もまた恣意的である。だから、「こんにちは」という声を中学生の紫子が聞いたように思い、少女が声に反応する姿を思い浮かべた読者のその少女の影像が、続く文章を読み進めることで、スウッと老婆の姿に置き換わってしまうこうした書きぶりは、なんとも美しいと思う。「こんにちは」という声が一気に時空を転換したわけではない。「なぜ自分にこんな手紙を寄越したのか」ではなく、「寄越すのか」と中学生の時空にいながら「不思議がってい」たはずなのだから、「我に返った」といっても、ぼんやり考え込んでいた中学生の紫子が我に返ったとも読め、まして「このところ世話をしてくれる」といってもこのセンテンスではなんの世話かもしれず、語られつつある時空、あるいは紫子の姿は、この段落を読み進むごとに、徐々に変貌していくのだ。

このまま逐一辿っていたら、いつまでたっても終わらない。
この後、さおりとその息子優という登場人物を得た物語は、三人称を駆使して、逐一それぞれの視点を手に入れて語られるのだが、記憶に長けた老女と見えた紫子がボケていることがわかると、中学生のころの記憶との乖離を際立たせる。周囲からは夫と過ごす姿が語られるが、紫子の記憶には、夫の記憶は希薄だ。だが、それがないわけではない。影のようにある夫の記憶の、その現われかたも面白いし、視点の移動は、ときに誰のものともしれないから、眩暈を呼ぶ。紫子は、優を夫の迎えかと思い、優は、まだ若い紫子の写真に見つめられて、自分が見つめられたのかと錯覚する。

終わり際の優とさおりの会話は、もっと整理して欲しい気がするが、終わり方も洗練されていると思う。物語が動き始めるのは、さおりが現れてから、なのだから、そこにいたるまでが長いといった、所謂上手な小説作法に則っているとはいえないだろう。だからこそあえて、冒頭に「下手さ」などと書いたのだが、そうした小説作法に則すことこそが、同人誌小説が往々にしてはまり込む陥穽、上手いことのもどかしさだろうと思えている私には、嬉しい誤算だ。いかにもきちんとした同人誌といった体裁である「銀座線」が、かならずしもいわゆる同人誌の型にはまることのない小説を掲載していた。もちろん、読む側として、同人誌小説の型などという偏見も多分に問題を孕んでいることは認める。

何はともあれ、面白い小説だった。

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