2009/01/01

遅ればせ祝辞

どうもひところ、この記事に検索をつうじてアクセスが殺到した時期があり、その検索ワードから、おそらくはそうなんじゃないかな、とは思っていたのだけど、ここによってはっきりした。

大西智子さんが「ベースボール・トレーニング」で、第26回大阪女性文芸賞を受賞されたそうだ。おめでとうございます。

あれま! 大阪女性文芸賞の受賞者一覧を見てみると、「文芸誌O」の内村和さんや、同人雑誌優秀作の鮒田トトさんなどのお名まえが見えるではありませんか。

そういえば、「照葉樹」の水木怜さんも第2回(?)北九州文学協会文学賞の大賞を受賞されたというニュースもあったのだった(むむむ、ニュース・ソースが見つからない)。

みなさん、頑張っておられるなぁ・・・。

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2008/05/20

不器用な愛しさ―水木怜

さて、ちょっと冒険しようと思う。はたして、「照葉樹5号掲載の水木怜さん作「不器用な愛しさ」を巡って私が思うところに、無事着地できるかどうか、本音をいえば、ほとほと心許ないが、それでも敢えて、「二次創作」という言葉について考えてみることからはじめてみたい。

すでにこのブログで幾度かカミングアウトしたとおり、恥ずかしくも私は、その頃「耽美」と言い換えられていた、今でいえば腐女子御用達の「ALLAN(アラン)」という雑誌をかつて毎月買っていた。書くたびに言い訳しているとおり、それは山田章博のマンガが当時唯一掲載されていた雑誌だから買っていたのだが、とはいえ、ケネス・アンガーの名まえを知ったのも、これを読んでいたからで、山田章博以外のページは一切見なかった、とは言えない。もっと正直に書こう。投稿欄が主体といってもよいようなこの雑誌の、その投稿欄もおおむね読んでいた。
そこでは、「必殺! 仕事人」や「西部警察」といったテレビドラマのなかで、彼と彼が怪しい、とか、彼が彼を見る目つきは絶対・・・、とか、そんなお話だ。あの場面で勇次が秀に送ったあの目は流し目としか言いようがなく、きっとあの後ふたりは・・・、なんて投稿が毎月毎月溢れていたのである。
今現在「二次創作」と呼ばれる創作ジャンルが、例えば「テニスの王子様」(許斐剛)の誰と誰(二次創作は愚か、オリジナルさえ読んだことがないので、例をあげることもできない)が×××する、といった、男色をテーマにしたお話が多いことを考えてみると、「ALLAN」(あるいは「JUNE」という雑誌もあったが、私の目当てはあくまで山田章博だったので、「JUNE」は読んだことがなかった、と、あくまで自己弁護)の「・・・」の部分だと考えられて、あたかも源流のようにも思える。
しかし、「必殺! 仕事人」にしても「西部警察」にしても(あるいはおそらく「テニスの王子様」にしても)、そうした関係が物語のなかに出てきたことはなかったはずだ。あくまで視聴者や読者の想像の産物である。二次創作の可能性は、かならずしも男色を必要とするまい。だからこそ、「ALLAN」の投稿欄が、二次創作の源流のように見えるわけだが、二次創作というときの「二次」という言葉を考えたとき、それは、単にキャラクターと世界設定の拝借に過ぎないのだ、と思えば、じつのところ、今いわれる二次創作という言葉は、まったく的外れだろう。単に、キャラクターと世界設定を他に依拠した創作を二次創作というならば、二次創作でない創作がはたしてあるだろうか? わかり易く時代小説(マンガでも同様だが、とりあえず小説として話をすすめる)の、とりわけ戦国時代や幕末を舞台とした作品は、実在した人物(キャラクター)と世界のなかで物語が展開されている。そのキャラクターとしての人物像は、実在の人物そのものではないが、二次創作では、そのものであろうとする、などとは言えない。なぜなら、当時私は「必殺! 仕事人」を好んで観ていたが、秀と勇次が男色の趣味を持っているなどという話は、「ALLAN」の投稿以外のところでは、観たこともなく、それは、徳川家康をズル賢いだけの人物に描いたり、あるいは織田信長に対する義理を通した人物として描くことの、その創作ぶりとなんら変わらないだろう。たびたび戦国時代を書いた山岡荘八の小説のなかで、戦国武将の人物像が一貫していたとはいい難いし、かといって、信念をもって人物像に一貫性を持たせたとしても、その信念そのものが創作に違いない。
だが、もちろんそれは、時代小説の話にかぎらないのだ。例えば、「巨人の星」(原作:梶原一騎)にせよ「タイガーマスク」(原作同じ)にせよ、長嶋茂雄・王貞治・アントニオ猪木・ジャイアント馬場・坂口征二といった当時のスーパースターたちが、実名のまま登場していた。今でも、実名小説、実名マンガは存在する。
さてさて、どこまでもこんな与太話を引っ張っても仕方ない。それなのに、なにをウダウダといつまでもそれを続けているか、といえば、世界とキャラクターだけが拝借物であるのが、二次創作だとしたら、二次創作以外の創作など、存在しない、ということなのだが、このときいわゆるオリジナルとされるキャラクターもまた、同様なのだ。なぜならそれが“人間”だからである。モデルの有無を問わず、それらが人間であるかぎり、誰か、なのだ。たとえそれが、「スターウォーズ」(ジョージ・ルーカス)のように宇宙人であり、かつ、チューバッカのように人間の形をしていなかったとしても、やはり、誰か、なのであり、と同時に、いわゆる二次創作のキャラクターたちが、オリジナルにはなかったはずの男色者であるという性格付けがなされているという意味ではオリジナル(創作物)であるのと同様に、創作されたものである。
オリジナルの不在、なんてお話は、遠い昔に議論され尽くしているが、ここで、もう一度、オリジナリティとしてのキャラクターということを考えてみたかった。いや、違う。水木怜さんの「不器用な愛しさ」という小説を読んだとき、それを考えさせられたのだ。

強引に見えるかもしれない・・・。だが、この小説に現われた人物たちの在りようが、そうした強引さを呼び寄せた。

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2008/05/13

中有の樹―垂水薫

ひさしぶりの読書記事になるが、「照葉樹5号掲載の垂水薫さんによる「中有の樹」について、書こう。

読みはじめたときは、これは面白そうだ、と期待満々で読み進んだ。自分が持つ創造力を駆使して、まったくの異空間を作り上げているのだ。かといって、創造力というよりは、どこかで読んだ世界の焼き直し、入れ替えに過ぎないお伽噺、ファンタジーでもない。
では、それはまったく新しい世界だろうか? 人間の創造力なんて、たかが知れている。というより、それを言葉に置き換える作業のなかで、既成の言葉=概念に依拠せざるを得ないという制約が働くかぎり、それは、ジル・ドゥルーズが「哲学者とは概念を創造するクリエーターである」と言ったとおり、哲学的な作業が求められる。このとき、思わず現出するのが、まさに垂水さんの世界観とも言えそうな“何か”なのだ。いや、“何か”などと思わせぶりは、いやらしい。そう、これまでの垂水さんの小説のなかに再三現われていた自己を取り巻き、浸しくるもの。「中有の樹」を読んだとき、これまでに現われていたそれらの占める意味合いといったものが、朧気ながら浮かび上がってきたように思う。

なにより、タイトルに現われた「中有」という言葉が、この小説の独自性を阻害する。阻害という言い方は少々きついが、「中有」という概念が、この小説世界を規定してしまう。「中有」とは、肉体の死後49日かけて裁かれる期間、すなわち精神の死生の狭間である。

 頭が重く枕に貼りつき、どうあがいても持ち上がらないといった目覚めだった。私は、うすぼんやりとした意識のまま、視界に入ってきた景色を眺めた。赤、茶、黄緑、黄。重なり合った色とりどりの数しれない落ち葉。
 ここはどこ?
 たった一つの疑問符が点るまで、かなりの時間を要した。ただし、時間というものが、こんな姿になっても存在しているならばの話だが。それほど私は、おかれいる状況に自分自身を当てはめて見すえることができなくなっていた。
 辺り一面、にぎやかな色彩に似つかわしくない無音の風景が広がっていた。私の体は、いまにも枝から落ちそうな朽ち葉そのものの姿で風景のひとつとなり、樹齢百年は経っていそうなブナの木の枝にぶら下がっていたのだ。

これが書き出しだ。ここには、語りの場の乖離が見られる。「ここはどこ?」という科白めいた一行が、語りの場を今ここのことにしているのに、「ただし、時間というものが、こんな姿になっても存在しているならばの話だが。」というセンテンスによって、「私」が置かれている状況について、ある程度の認識をもった語り手が現われてしまっているのだ。このセンテンスについては、のちのちまで私(読者)を悩ませた。なぜなら、続く下の引用部でも、「私」は自分の状況を把握することに腐心しているから。

 私は珍しいものでも見るように、肩から胸先へ垂れている幅広の紐と、力なくぶら下がっている宙吊りの自分の両足を、じっと眺めた。
 驚愕は、目覚め同様ゆっくりと訪れた。
 知っている。この紐は母の伊達締めだ。そうして、この姿は首吊り死体。
 ……ええっ。首吊り?
 自分の出した結論に総毛だった。
 まさか、そんな、いくらなんでも……。
 あえいだ。
 ともかく、まずは落ち着かねば。そう。このままの状態では非常に危険だ。とりあえず呼吸を確保しないと。つぎに、何としてでも地上に降りなければ。しかし、どうやって。

こうした今まさにその驚きを語る「私」が、よしんば死体だからといって、「時間」が失われた世界にいるのかもしれないという認識は、理解できない。だから、この疑問は、「中有の樹」というタイトルを思い出させる。すくなくとも私は、ここまで読み進んで、どうしても「時間」の存在を疑う「私」の科白がわからず、タイトルを思い出した。「中有」という死生の狭間と「樹」。それなら、首吊り死体と化している「私」とブナの木が、「中有の樹」というタイトルに結びつく。まして、「この姿は首吊り死体」とは言いながら、落ち葉を見、紐を見、足を見るその仕草に、たしかに首は動いていないかもしれないが、おそらくは眼球は動いている、すくなくともレンズは伸縮しているらしいと思えば、死体になりかけながらまだ息がある、まさに死生の狭間にいるように読めるから。さらに、「あえいだ」とあり、助かる道を探っているのだから、今はまだ生きているように読める。

ところで、私事だが、中学生のころ、テニス部だった私は、ある日部活の休憩のときに、校庭の景色が真っ白になっていく、という体験をした。白く視野狭窄を起こし、最後には小さな風景が、フッと、消え去って、ようするに私は気を失った。それは、同じ部員の友人が戯れに、タオルで私の首を吊ったのだった。苦痛などすこしも感じることなく、意識を失ったあれ以来、あのまま死ねるなら、もし自殺をすることになったときには、(もちろん硫化水素ではなく)首を吊ろうと決めた。そう、首吊りのばあい、呼吸が塞がるより、頚動脈が締められて、脳の酸欠がおき、柔道などでいうところの「落ちる」状態になる。海で溺れた経験もあるから、呼吸ができないことの苦しみも知っているつもりだ。
と、どうでもいい話はこれくらいにして・・・。

どうやら生きているらしい「私」は助かろうとする。

 パニックと絶望の渦に巻き込まれ溺れながら、私は、ただ目の前に漂っている板切れにしがみつくように、たった一つの思いにすがった。
 肩から頭上に伸びているはずの帯を握ることさえできるならば、何とかなる。あとは、鉄棒の逆上がりの要領でいい。子ども時代、あんなにも苦手だった鉄棒。そのうえ一度として成功したことのない逆上がりではあるけれど。

こうなると、やはり「時間」が失われた存在を疑う先のセンテンスは、迂闊だったと思う。じつは、今回の「中有の樹」という小説は、力作であることに比例するようにも、力が入り過ぎて、筆が滑った感が否めないのだ。
例えば。

 とつぜん、目の中に、止まり木に群れるスズメさながら鉄棒に留まっている小学校時代の同級生たちが並んだ。
 それぞれのくちばしから漏れる笑いと、耐え難いほどの甲高い叫び声が、腹の奥に響き渡る。自家中毒と名づけられた症状をひっきりなしに起こし、一年の半分以上も学校に通えない青白くひ弱な子どもだった私も、バンザイの両手をあずけて鉄棒に下がっている。
 同級の女の子たちは、子どもじみた遊具遊びなどは低学年のうちに終わっていて、六年生になっても逆上がりができない子どもは、私くらいなもの。
 だが、それは考えまい。やり損ないを予感すれば、失敗の方から擦り寄ってくる。なんとしても、やり遂げるしかない。逆上がりを成功させるのだ。
 ほら、両手を首に持っていき、帯をしっかりとつかむ。そして、次に体をエビのように勢いよく、ぐぐぐっと曲げ……。
 六年生の私は、逆上がりにこだわっている。
 仲間になる方法など、他にも数えきれないほどあるだろうに、ただただ逆上がりができさえすれば、あっちで遊ぶ仲間たちに受け入れてもらえる気がしている。

「さながら」というなら、比喩に過ぎないスズメが「くちばし」という言葉によって、鉄棒に並ぶスズメを幻視させるあたりは、とても素敵だし、子ども時代と今を往還する様も、唐突感が否めないあたりはぎこちないながら面白いのだが、先の引用のとおり、あらかじめ逆上がりができなかったことが明かされていれば、このあともさらに続いてしまう少女時代の話は、冗漫に思える。丁寧にも、先に書かれてしまったことが、力みに見えるのだ。というのも、高学年になっても逆上がりができず、高学年になって体が女らしく丸みを帯びたことを鉄棒に当たるたびに思い知らされるといった、成長の物語が語られるのだから、垂水さんにとってここは書かれるべき場所だったのだろう。それを冗漫たらしめないためには、先に種明かしをしないでおいたほうが好かったのではないだろうか? 同じ事態が、時間が失われているかもしれないという疑いなのだ。

 しかし。昔どうしても逆上がりができなかったように、そして、どうしても同級生たちにとけ込めなかったように、今の事態はなにも変わらない。
 目に映っている枝の位置も、地面の向きも、まったく変化なし。跳ね上がったはずの腰はおろか、伸びた手の指先、どの足の爪先さえも、ぴくりとも動かない。
 そんなはずはない。
 私は混乱し泣きわめきながら、ついには、むやみやたらと体を揺さぶった。そのつもりだった。けれども目からは一滴の涙も出ては来ず、体にしたところで、そよ風に揺れる木の葉ほどの揺らぎもなかった。
 もはや手遅れ……。
 疑いもなく、私は一個の首吊り死体になっていた。すでに体は自分の意のままに動かせない。もう取り返しはつかないのだ。

「私」は自分の死を知るのだが、同時に、首を吊った記憶はない。そこがどこなのかもしらない。そう、「私」がぶら下がっているのは、他でもない「中有の樹」なのだ。彼女は死につつあるが、それは精神の死であり、肉体はもっと別の場所で死んでいると考えたほうがよさそうだ。現に、その樹には「私」以外にもぶら下がっているものがいる。ふと、ビリー・ホリデーの「奇妙な果実」を思い出すが、「私」は果実ではなく、ブナの木の葉だ。
「私」に語りかけた別の者があるが、この存在もまた、少々苦しい。この小説世界を説明する存在に見えてしまった。なぜなら・・・。

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2008/04/28

「照葉樹」第5号拝受

Syoyoju5 本日、「照葉樹」第5号が拙宅に届いた。

垂水薫さんと水木怜さん、おふたりによる同人誌で、着実に発行を続けておられる。春の発行は、毎度「木曜日」とかち合う。

今号は、お二方とも一作ずつの掲載。

お二方とも、デジタル文学館にその作品を推薦したことがある。今回も楽しみだ。じっくりと拝読したい。

ととと・・・。気がついた。そもそも「木曜日」24号を全然読んでいないじゃないか・・・。困ったものだ。

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2007/11/08

朝戸風―垂水薫

照葉樹4号の最後を飾っている垂水薫さんの「朝戸風」を拝読。とてもとても楽しんだ。

高校中退引き籠りの明日香がひとりで過ごす真夏の一夜の話だが、まず、明日香と母の遣り取り、ふたりの関係がとても好もしく面白い。

 「あっ、そうですか。どうせ、あたしは高校を中退したもんね。勉強家の父さんみたいに、気楽にエアコンを使う資格なんかないんだ」
 「あのね。えらい勢いで地球温暖化がすすんでると。だから、みんなで協力してエコせんと、今に取り返しがつかんようになる。そう思う母さんの考えは、間違っとるね」
 語気の強さに押されて黙り込んだ。
 これまでの涙ぐましいまでの母の節約は、てっきり家計費だけが原因だと思っていた。まさか、地球規模の大きな深い考えがあっての努力だったとは。

自分の高校中退を卑屈にとらえているようでもありながら、それを自分から口にすることで、開き直っているようにも、エアコンも使わせてもらえないことをゴネる言い訳に使う明日香の科白にドキリとするのだが、それに答える母の科白のなんとも白々しいこと。白々しさのなかで、問題を摩り替えている。父と明日香の待遇の違いという問題を、エコの問題に摩り替えているのだが、明日香はそれに気づかない。なんとも迂闊な娘のようでもあるが、ここに表れているのは、明日香にとっての母の存在の在り様だ。

 それにしても、よく分からない。いつの間に母は、地球環境などという大きな問題に興味を示すようになったのだろう。置いてけぼりを食った気になった。

引き籠りの明日香だが、かといって、家からでることがないながら、自室に籠もっているわけではなく、むしろ父母とは毎日顔を合わせ、会話をしている。とりわけ母には、パートを辞めさせてまで、始終生活をともにしている。母のスケジュールはすべて明日香に告げられ、買い物にいくにしても、帰宅時間さえ約束している。明日香は、その約束が違えられると、パニックを起こしかねないのだ。引き籠りでありながら、極度の寂しがり屋なのであり、そこには、引き籠ってしまった自身への自責が顕現している。そして、そうした娘にたいする母の距離のとり方の、優しいとも、意気地がないともいえる様が、父にはまったく反発できない弱い母の姿と相俟って、妙に納得させられる。
ところが、物語は、そうした父との遣り取りなどが語られる以前、上の遣り取りの直後に、突然着飾って出かけてしまう。だが、その前に・・・。

 言い負かして上機嫌になったらしく、母は鼻唄まじりに、調理台に置いた包みを解き始めた。
 と思う間もなく、一瞬、鼻唄が止まった。
 「母さん?」
 空っぽになったコップを流しに置くのも忘れて、母の顔を覗き込んだ。
 以前と比べて最近は、ずいぶん饒舌になっている母なのに、返事がない。両手を調理台にあずけたきり、体が固まっているように見えた。
 「ねぇ、どうしたと?」
 再度の問いかけにも、母は黙ったまま顔をそむけ、調理台から手を下ろしただけだ。
 エプロンを押さえたり、ポケットに手を差し入れたりしたあげく、いきなり背を向けた。
 調理台に向かって、体を斜めに傾ける。調理台から、わざと娘の視界をさえぎったように見えた。
 元通りに素早く包み直している気配がする。
 やがて、足元のペダルを踏むと、生物の分別ゴミ箱の中へ、包みを投げ入れた。
 この一連の動作を、明日香は、あっけにとられて見ていた。
 ようやく振り向いた母の顔一面に、無数の汗玉が光っている。
 「何か言ってたね。なぁに?」
 今さらのように聞き返す。
 「どうして母さんは、あれを捨てたの、って聞いたと」
 ゴミ箱を指さした。

今度は、明日香が母を騙す。明日香が訊ねたのは、固まった母の挙動についてだし、その問いのことを母も訊ねたのに、その問いのあとの行動のことに話題が摩り替わっている。と同時にこの場面で母は、秘密めいた行動をとって、サスペンスを作り出している。あげくが、なんとも怪しげな素振りで母は出かけてしまうのだ。

 「そりゃあ、鶏ガラと言えば、もちろんスープよ。チキンスープに決まっとるでしょ。でも、あんまり古い鶏ガラでスープを作っても、おいしくなかもんね。だったら、誰も食べてくれんやろし。そうなると、せっかく高いガス代を使って料理しても、無駄になる。だから、仕方なく捨てたと」
 理由を並べ立てる口調が、どうも言い訳っぽい。いつも賞味期限すれすれの食材を格安で買ってきては、喜々として調理する人が口にしている弁解とは、とうてい思えない言いぐさだ。
 「ふぅぅん。それで、母さんは仕方なくゴミ箱に捨てたんだ。残念だったねぇ」
 まじまじと顔を見つめると、母は、ゆっくり目をそらした。
 「あ、そうやった。大事な用があったんだ。ちょっと今から出かけてくるけん」
 さりげない調子で、はぐらかすようにつぶやく。
 明日香はたじろいだ。
 「えっ。今日は料理教室の日だっけ」
 「ごめんね。あんたに言っとくのを、母さんが完全に忘れてたと」
 父はともかく、母の行事予定は、すべて明日香の頭に入っている。暗誦できるほどだ。
 だから、断言できる。今日は断じて料理教室の日ではない。そのうえ、こんな時間から出かけなければならない用があるなんて、まったく心当たりがない。

これではまるで、隠すように捨てたなにかを明日香に見せる方策にさえ思える。この母の素振りは、なんとも怪しく見えて仕方ない。

三人称でありながら、あたかも一人称のように明日香に寄り添った文章だから、母の思惑は明日香の想像の形でしか語りようがない。だが、その影で、じつはここで行われているのは、隠された母の巧妙な罠だったようにさえ思えてくる。やけに間の抜けたとぼけた母のようでありながら、なにからなにまで計算ずくの一夜がこの小説だったのではないかとさえ思えてくる。

そうなれば当然のこととして、捨てられた鶏ガラのはずの包みを明日香はゴミ箱から拾い上げるのだが、それが、鶏頭の袋詰めである。以前の垂水さんの「夏トカゲ」を思わせる、少々気味の悪い固まり。そして、明日香を取り巻くのは夏の夜の熱気と、鶏頭を使ってスープをつくるその蒸気、さらに、なによりも鶏頭の目である。鶏頭の目は、高校中退者で引き籠りの自分にたいする社会の目に重ねられる。

 鍋いっぱいの鶏の目が、ご近所の目や社会の目に、取って代わる。
 鶏の目、人の目。
 お願いだから、そんなふうに見ないで。じっと見つめられると、身の置き所がなくなってしまう。意味ありげにチラチラ見られると、戸惑ってしまう。振り向いたとたんに目をそらされると、取り巻く空気が一瞬で縮んでしまう。
 クチバシまでが、人の口に見える。
 ぐつぐつと煮え続ける音は、明日香の悪口を並べ立てては意味ありげに、くすくす笑い合う同級生たちの声だ。あんなに大きなクチバシなど、力いっぱい叩きつぶしたい。

それらが、ここまでに引用した部分を見ても分かるとおり、改行の多い文章で、なにごとかとなにごとかが同時に語られるようにして、引用が容易ならざるくらい絡み合ったままに書かれていく。明日香は社会から離れているようでありながら、家庭という場所もまた、外のようには冷たくなくても、やはり社会であり、冷たい社会との接点でもある。明日香にとって母や父は、外の世界を覗き見る窓になっている。この書き振りが、見事だと思う。明日香のなかには、自責がある。だが、社会から逃げているという思いとは裏腹に、家族をとおして社会を見、また、家族という他者との関係を維持しているのでもある。父からかかった電話に応える明日香の独語がそれを象徴する。

 「たったの一泊だよ。いっつも家にいる母さんのためにも、あたしのためにも、気分転換にいいことだよ。今まで母さんは、おとなし過ぎたんだよ」
 言い返しながら、途方に暮れた。まるで他人が喋っているようだ。
 今まで母さんはおとなし過ぎたんだよ、だって?
 あたしったら、何を口走っているんだろう。あたしを置いて、唯一の居場所である家を自分から出ていく人が、おとなしい訳がない。
 「ふん。利いた風な口をきくな」
 母さん、今、何を考えてるの。このごろの母さんの心の中が見えなくなったよ。想像つかないよ。あたしを置いて、どこへ行こうとしてるの。
 ほんとうは、そう言いたいのに。

少々違和感があった、地球環境云々のくだりの「置いてきぼりを食った」という科白の意味は、とりもなおさず明日香が母と同化していたことにほかならないのだし、しかし、今、明日香は明日香のしり得ない母を見出そうとしている。ところが、ことはそれほど簡単ではない。自由間接話法による上の引用は、明日香と母の乖離のようでもありながら、むしろ明日香自身の乖離にほかなるまい。明日香は「他人が喋っているようだ」というのだ。自分以外の存在を自分の中に見出しているのである。では、母を理解(擁護)する「あたし」と、母を理解できない「あたし」に分裂したのだろうか? 鍋の中に鶏頭と同時に、社会を見出す、目の前で起きていることのなかに、自分の弱さを見出さずにいられない存在、それが明日香であるならば、明日香とは、物事を二重に見るものではないか。あるいはすべてを自己のこととして見ずにいられない、きわめて自意識の過剰なるものといってもいいかもしれない。

 もし、これが鶏頭ではなく、ほんとうに鶏ガラだったなら、と想像する。
 母は娘と一晩をかけて、談笑しながらスープを煮ていたはずだ。おそらく母も、そのつもりで鶏を買ったに違いない。
 そうだった。あのとき、母は袋を覗き込み、弾かれたようにゴミ箱に捨てた後、今からでかけると宣言した。
 直前まで、外出を迷っていたと思う。
 瞬時の判断で娘を置き、家を飛び出したのだ。頭だけの鶏をいきなり目の当たりにして、背中を押されたに違いない。
 鶏頭は、母と自分の行動のきっかけを作ったと思う。

母の行動は、明日香を中心に動いていたはず。「母と娘」が、明日香の独り語りを挟むと「母と自分」になるのだが、明日香が語りの場に寄り添うようにも見えると、母は明日香から離れる。すると、語りの場と母の距離は、妙な具合に乖離する。すでに語りの場にいない母なのだが、あたかも亡霊めいた存在として、ふたたび語りの場に姿を現すのだ。

 菜箸を引き留めた声は、母のような気がした。
 ゆるやかに流れる時間とともに、透明だった液が、わずかに黄色味を帯びてきた。鶏皮が、湯を吸って厚みを増している。硬そうに突っ立っていたトサカも、かなり柔らかくなっているようだ。そっと箸でめくると、根元から外れて落ちた。
 頭の中で響く母の声を、口に出して言ってみる。
 「さわり過ぎると、汁がにごるよ」
 調理台に、菜箸を置いた。
 艶っぽく透きとおった幾つもの黄色い脂が、くっつき合いながら、丸く楕円にと、互いに形を変えて広がっていく。
 鶏の頭と頭の間を埋めるようにして、細かい木屑に似た畳色の灰汁が、とろとろと表面に浮かび上がってきた。
 「ポイントは、ここ。しっかり灰汁をすくい取ると。これを手抜きすると、おいしかスープは出来んけんね」
 明日香の口を借り、心配そうに話しかけてくる母は、ぼんやりなんぞしていない。
 右手にお玉杓子、左手には、水を貼ったボウルを握った。いまや明日香は、母と一心同体だ。
 「料理に根気は欠かせんからね。出来上がるとを楽しみに、じいっと我慢して、努力を続けると。明日香にはできるよね」
 すぐそばに、見えない母が寄り添って立ち、手に手を添えてくれている。

母と一体化するとはなにごとだろう? 母を理解すること? 自分のなかに他者を見出すこと? ここで起きているのは、いかにも母が言いそうなことを記憶のなかから構成した、明日香の独りよがりとも取れる。だが、

 明日香の口から、母が話しかける。
 「ねぇ、このごろ母さん気づいたんだけど。父さんったら、ずいぶん無口になったと思わんね」
 そういえば、以前だと、たまに家族がそろったときなどは、熱心に話す父の口許を、母と明日香が眺めているのが常だったのに、いつの間にか立場は入れ替わり、話している二人のそばで、父が黙って聞いている。

明日香が気づいていなかったことさえも、寄り添うものが口にするのだ。それでも、それは「明日香の口」から発されている。あくまで「明日香の口」であることのなかに、母の不在は明らかだ。すると、

 先日、母が明日香に耳打ちした。
 父さんったら、今度の司法試験を受けようか、どうしようかって、迷ってるみたい。これまで、あんなに頑張ってきたとに、何があったのかしらね。まぁ父さんだって齢だけん、いつまでも受験生って立場に疲れてしまったかもしれんけど、じっさい、あとから入ってくる若い人たちが司法修習生になって、次々と事務所を出ていくとを見送るのも、つらかろうし……。
 受験をやめて何するの、と明日香が尋ねると、母は首をかしげた。
 さぁ。何をするつもりやろ。やめた後のことなんて、母さんにはわからんよ。いっつも父さんは母さんには相談せんで、自分ひとりで考えて行動するけんねぇ。ほんと、あの人はどうするつもりかしら。
 言いながら、母は考えている様子で遠くを見た。
 法律事務所の事務職員になって、二十年が経つ。父は司法試験を受け続けることで、自分を支えてきたと思う。
 それをやめると言い出したなんて、父の胸を、どんな寒い考えが吹き抜けていったのだろう。
 でもね、正直に言うと、母さんは本気で心配してないと。父さんは賢い人だけん、ちゃんと、将来のことを考えとると思うよ。だから母さんだって、これからの生き方を考えなくちゃね。
 母は付け足すように言って、力なく微笑んだ。

カギ括弧が失われてしまう。会話もまた地の文章と化す。それは、語りの場を「先日」と呼ぶ「今」に固定することになるように思えないだろうか? すなわち、明日香の回想として、語られつつある時空を、あくまでスープを作りつつある「今」のこととしているのである。それはまた、語りが明日香と同一化しているようでもあり、そしてなにより、母と明日香の乖離でもある。いや、明日香のなかの母の顕現である。他者ではない、明日香にとってある母である。そして、それこそが他者でもあるのだ。社会の目を恐れても、そのひとつひとつの目の意味を理解していたわけではない。それらに意味を与えているのは、明日香にほかならないし、それはまた母の行動に意味づけしていることもまた明日香なのだ。母がパートを辞めたこと、行動のすべてを明日香に報告していること、あたかも世界は明日香を中心に動いている。だが、そんなはずがない。明日香はそれをしっているし、それを恥じていたはずだ。だからこそ、社会の目を恐れていた。
この一夜に起きたこととは、母という他者が、明日香自身の目をとおったところで存在することの発見であると思える。他者を発見し理解することの不可能を思い知りながら、それでもなおしっているといえるはずの他者が、すなわち自己の鏡としての他者である事実の発見になるのではないだろうか。そしてそれは他者を内包する自己の発見の謂いでもあるだろう。

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2007/11/05

階段―水木怜

昨日の「ともがき」に続いて、「照葉樹4号掲載の同じく水木怜さんによる「階段」を読んだ。ほんの11Pという短い作品だが、とても面白く読んだ。

「階段」という小説は、怪談ではじまる。だから、もしかして、やがて会談の場面などが出てくるのではないか? などと怪しんだが、むしろ会談場面のない小説のほうが稀なわけで、「ほら、やっぱり会談場面がある」というのは、滑稽だろう。

 くる……。
 その瞬間、総子は身体の自由を奪われた。眠りの闇にいきなりぐいと引き込まれ、穴底に落ち込むような異様な感覚がしたと思ったら、薄ぼんやりとした物体が聡子の肩に手を廻し、ベッドの中に寄り添うかのように横たわっていた。

さて、前回誤字の話題が出てしまったので、指摘せざるを得まい。上に引いた冒頭部分の引用でも明らかなとおり、本作では、主人公の名まえが「聡子」なのか「総子」なのか、判然としない。名まえとしては「聡子」が一般的だろうが、一般的な名まえである必要などないのだから、どちらなのかわかりかねてしまう。残念ながら、名まえの混在はここにとどまらなかった。
それはさておき、「ともがき」同様に、なにごとか、その得体がしれない事件が起きるところから場面がはじまる。この手口には、なるほど! と思う。読者にとって小説の書き出しとは、いったいいつどこでだれのなにごとが語られるのか、まったく未知の状態である。そこに場面を喚起せしめ、だけど、なにやらよくわからない、事態が呑みかねる、そうした場面を導入部におけば、それはサスペンスともなり、なおかつ登場人物の心情にもなにがしかの共感を呼び込めるだろう。「ともがき」の冒頭部にあった顔見知りのおばちゃんの科白が、まさに読者の声なのだし、ここでも、「ような」「ように」といった曖昧な書き振りがまたそうだろう。かねて私はこうした直喩を揶揄してきたのだが、それもまた使い方次第というわけだ。

物語としては、脳梗塞によってほとんど寝たきりの今岡聡子(便宜上、「聡子」とする。理由は、そのほうが入力が楽なので)が、先立った夫や息子の霊に励まされたり(招かれたり?)、蜘蛛を恐れたり、あるいはヘルパーの清水さんに助けられて、二階の部屋を自力で出て、一階に下りてくる話、といってしまえるかもしれないが、そうした粗筋では小説の面白さなど微塵も語りえない。

 生死の世界を彷徨っている間に見た夢だったのだろうか、今でも総子には、はっきりとした現実との区別がつかない。昼なのか夜なのかも分からないが、滲むような薄墨の視界に埋没して畳の上に踞くっていた。やっと片付いたと思うとサッカーのユニフォームやら靴下、パジャマ、Tシャツ、トレーニングウエアなどがベッドの布団の中に丸まって隠れていたりする。箪笥の抽き出しにぐちゃぐちゃに詰めこまれた夏物冬物を問わず溢れかえった衣類を、ここにも、ここにもと引き寄せてはたたむ。そんな作業を延々としていた。場所は確かに和夫の部屋だった。肩に食い込むおぶい紐の重みが首筋を突き上げ頭が割れるように痛い。背中には小さな和夫を背負っている感触があるのに、暗い壁には和夫の高校サッカー優勝記念の写真が見える。どこからともなくゴールを決めたときのうねりたつ歓喜の声が聞こえ、総子は和夫の晴れ姿を見損なうと気ばかり焦りながら、独り黙々と手を動かしていたのだった。

 はっと息を飲んだ。掛かった…。墨色の甍を越えて突然、初夏の風と戯れるようにゆらりと舞い上がった蝶がそのままレースの中央に貼り付く瞬間を見た。昆虫好きの和夫が子どもの頃一番好きだったアオスジアゲハだ。和夫が泣きべそをかく顔が浮かんで消えた。

あるいは待ち焦がれた息子の来訪。

 くる…。
 睡魔に呑み込まれたそのとき、くすぐるような子どもの忍び笑いがした。はっと目を開けようとしたときにはもう石になっていた。目を閉じたまま、カチッカチッと響く金属の微かに触れ合う音を聞く。忘れようとして決して忘れることはない、階段の真鍮の手すりにあたる、あの子の半ズボンについたボタンの音だ。
 …チョコレート…グリコ…パイナップル…たどたどしくもあどけない声が階段の下から霧のように這い上がってくる。この階段で飽きもせず遊んでいた和夫の小さな姿が、瞼の奥にはっきりと蘇ってくる。あの子だ、和夫だ、とうとう来たんだわ、階段を上がってくる。グリコで三つ、チョコレートで五つ、パイナップルで六つ、そう、階段は十四段でおしまい、鼻の奥からつんとこみ上げてくる熱い感触が涙となって、つつっと耳元を走るのを感じた。見たい、あの子を…。と思いながらも身体が動かない。もう少しよ、和夫、階段を上って、お母さんのところまで来て! と思うや、首もとにむちっとした汗ばむ小さな腕が、さらりとした髪がゆれて子どもの頃の和夫とおぼしき影が見えた。

じゃんけんで進むゲームについては、私たちのほうでは、チョコレートとパイナップルはどちらも六つと数えていたのだが、そんなことはどうでも、こうしたひとつひとつの場面に浸っていれば、小説は楽しい。
語りの時間を、今ここに限定し、ことさらに生前の息子や夫について書かなかったことが成功していると思える。

また、聡子に寄り添う三人称なのだが、脳梗塞の聡子の舌はもつれており、片言のようになっているため、語り手と聡子は画然と乖離しているように感じられるため、「ともがき」に見られたような、距離感の不自然もなかった。そして、むしろその距離感が、妙に白々としたぼんやり感があり、上のように自由間接話法さえが、逆にすんなりと読めてしまうのだ。これは不思議なものだ。片言は舌のもつれであり、方言とは明らかに違う。科白は片言でも、脳内では、スムーズな科白が言える。もちろん、脳梗塞には、思考にも障害がおきることがあるのだし、だからこそ、ぼんやりとした気配でもある。その持続が、自由間接話法をかくも自由にせしめているというのも、正直驚きだ。今後の参考にさせてもらおう。

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2007/11/04

ともがき―水木怜

照葉樹4号の巻頭掲載作、水木怜さんの「ともがき」を読み終えた。

 洋輔は走って走って走り続けた。口の中は飲み込む唾もないほど乾いて、ひりつく痛みが喉を切り裂くようだ。校区外の青木のばあちゃんの家からでは、いくら足の早い洋輔でも四十分はかかったろう。その間に三度は転んだが、すぐに立ち上がり、血の滲んだ膝小僧も構わず走った。
 やっと校区内の見慣れた景色が目の端を流れる。途中顔見知りのおばちゃんが「洋ちゃん、何で、そげん急ぎよ…」と言う声がひゅうと耳に入ってきては通り抜けた。車道から自動車の整備工場を右に折れ、幅三メートルもない一方通行の路地を走ると、道路で餌を啄ばんでいた数羽の雀が洋輔の気配に驚いて舞い上がる。栴檀の木が屋根にかかるほどせりだした、古い門構えの見慣れた玄関が見えたとき、やっと立ち止まった。いちどきに身体中から汗が噴き出てきた。ランニングの裾をまくりあげて顔の汗を拭う。音をたてぬようにそっと玄関に手をかけたが開かない。今度は思いきり力をかけて引いてみる。鍵がかかっていた。頭を横にして戸の隙間から片目をあてて覗くと内鍵ではなく外鍵が掛かっている。ということはばあちゃんは留守だ。

書き出しのふたつの段落だが、ふたつめのセンテンスの「乾いて」は「渇いて」のほうが適切だと思うし、雀が舞い上がるのも、洋輔の「気配」ではなく、洋輔の出現そのものだと思うけれど、そうした指摘はお仲間内であることだろうからここではこれだけに留めて、なにより、この書き出しは、躍動的な場面のなかに読み手を一気に引き込んでくれる。「車道から自動車の整備工場を右に折れ」といった細かさも、いまだどこともいつとも、なにものとも知れぬ、今まさに世界が開ける書き出しにあって、顔見知りのおばちゃんの九州弁と相俟って、景色を現実めかせている。この躍動的な書き出しは、素敵だと思う。そして、これに続く、だが時系列でいえば、この場面の前であり、洋輔がなぜかくも懸命に走ってきたのか、そのわけにつながる、少年たちによるカエル爆破から火事に至るエピソードも、のちに「宇宙戦艦ヤマト」などというコトバが表れるのだから、およそ1970年代と思しきこの時代のこととして、とても楽しく読める。もちろんそれは、70年代に小学生であり、やはり牛ガエルをつかまえたり、爆竹を使ってカエルを爆破したりした経験をもつ私の個人史も影響しているだろう。ただ、そうした時代背景を考えると、コンビニやビデオ屋といったコトバが使われているのが、ちょっと気になる。「宇宙戦艦ヤマト」のテレビ放映が1974年、セブン-イレブンの一号店が1975年、VHSの普及型ビデオデッキの一号機が1977年、九州の事情は異なるかもしれないが、中学生のころに「宇宙戦艦ヤマト」の再放送に熱中した私としては、あのころにコンビニやビデオ屋といったものが、普及していただろうか? と首が傾げる。とはいえ、そう、ランニング・シャツ一枚で、外へ出ていたよ、などと郷愁を起こさせるし、4つめの段落の書き出しである「家の中は閉め切っているというのに、ひんやりとしていて初夏の心地よさが暗い部屋中から洋輔を包み込む。」というセンテンスには、はっとする。あるいは、10Pにある「校庭にはたった今までドッジボールに野球にと興じていた汗ばんだ熱気が、縦横無尽に残された足跡に浮かれてそこここに残っている。」といった文章も、「浮かれて」というコトバ遣いには首が傾げるものの、やはり、はっとする。このふたつに見える空気感は、とても好いと思う。

このあと、悪ガキ仲間5人組の、芋や酒ビンを盗む話なども披露されて、そのたびに、王丸という少年がひとりで罪を被り、仲間たちは、王丸ひとりが罪を被ることにもどかしさを覚え、親や先生たちも、王丸ひとりが悪いと決めつけることに義憤を覚えるわけだが、この仲間たちがもっとちゃんと書かれていたら、と惜しまれる。王丸という少年は魅力的だけれど、青木、蒲池、つねやんという3人のキャラクターが見えてこないのが残念だ。

さて、文章に目を向けてみると、まず、引用に見えるとおり、三人称である。三人称だが、一貫して洋輔に寄り添っている。それは、少年の語りの難しさを回避しながら、そうした消極性のみならず、小学生にはできないだろうと思わせる上に見るような空気感を含めた描写の妙を披露する手立てにもなり、かつ、少年(洋輔)の視点をも内包する。ここに、微妙なズレが起きてくる。すなわち、語り手のコトバなのか、洋輔のコトバなのか、判然としなくなる。もちろんこうした書き方であれば、どちらでもかまわないのだが、少年の語りの難しさと折り合いをつけなければならなくなるのもまた事実だ。たとえば、上に引用したなかにも、「おばちゃん」とか「ばあちゃん」といった洋輔のコトバ遣いが紛れ込んでいる。

 王丸のかけ声で作戦は開始された。洋輔は今までにも昆虫や家の紫陽花についた小さなカタツムリで爆破ごっこをしたことはあるが、今度の牛ガエルのような大きな物を爆破した経験はない。あんな大きな物を爆破したら、どうなるだろう…。妄想が妄想を膨らませ、肉片が飛び散るおぞましい状況が目に浮かぶ。想像しただけでもぞわっとするような奇妙な快感に襲われた。

一人称があるわけではないが、後半の語りは明らかに洋輔のものであり、あたかも自由間接話法のような仕儀ではないか。いや、もっとあからさまな場所もある。

 …みんなはどうしたろう…、逃げ帰ったのは僕だけかも…、あれからどうなったんだろう…。やっぱり行かないと…、僕は卑怯者になる…、行かないと…。

まさに自由間接話法である。だが、ここでふと疑問が湧かないだろうか? 洋輔の方言が消えてしまっているのだ。自由間接話法になりきれず、かたや、「母ちゃん」とか「ばあちゃん」といったコトバ遣いが、三人称にもなりきらないままにある。

 母ちゃんの人間としての生きる姿勢を見ていると、父親は褒められたものじゃないとたまに愛想が尽きるのだ。そんなに好きなら何でもっと母ちゃんの人生を大切に思ってあげなかったのだろう。家庭と仕事を両立させて忙しく働く母親に、あれこれと嫌味ばかり言って付け回し、ついに家庭を崩壊させてしまった父親の肩を持つ気持ちは全く起こらないが、息子の洋輔への愛情は溺愛に近い。とにかく、母ちゃんには勿論、洋輔に対しても徹底的に独りよがりの愛情のピンポイント集中豪雨だ。

語りの場の距離が、微妙といえば微妙である。しかし、この距離が埋まらない。むしろ足枷になっていくようでさえある。

 洋輔は腹の中に溜まった言葉を呑みこむ。王丸の言う通りかもしれない、洋輔の母親は離婚を機に働き続けた大手の旅行会社から独立し、今は小さいながらも世界を股にかけて仕事をしているのだ。母ちゃんは英語もペラペラでいつも颯爽としており、みじめな姿など見たことがない。だからエリートと言われても仕方がないが、しかし、それとこれとは別なのだ、気持ちが収まるはずがない。僕だったら絶対男を殺す…、と思った。

説明を回避しようとして、洋輔の心理描写による独り語りになると、自由間接話法になりかけて、しかし「と思った」と締め括らずにいられなくなる。王丸以外の悪ガキ仲間が書かれていなかったように、颯爽とした洋輔の母も書かれないままだったから、説明しなければならなくなりながらも、いかにも説明的であることを回避して、三人称のままに書くのではなく、洋輔に語らせる。これまでに母の仕事振りが既述であったなら、「と思った」と書いただろうか? やはり書いただろう。

 母ちゃんは離婚してからは父親のことを指して必ず、あんたのお父さん、と言う。その前夜からさんざん母親のことで、復縁話の持って行き方を父親から吹き込まれた洋輔はかなり気分が悪かった。別に僕が父ちゃんを選んで生まれてきたわけじゃない、自分で良かれと思い結婚したんだろうに、子どもの僕にむかっていちいち、あんたのお父さん、と言うのもどうかと思う。

このときの「と思う」は前段の「と思った」とは明らかに違う。前段は、三人称に一人称が紛れ込むという自由間接話法のある種の不自然を誤魔化す、すなわち、三人称の語り手のコトバ遣いにも見える「と思った」なのだが、後段は、洋輔の科白の延長上にあり、「僕」のコトバ遣いのままに段落を終えているのだ。「母ちゃん」ではじまりながら、「母親」というコトバ遣いも紛れ込みながら、自由間接話法に落ち着いていこうとする。この「と思う」は面白い。そして、自由間接話法は完成していく。

 母は洋輔に馬乗りになって頬や頭や胸のいたるところを叩き続けた。あのときの状況をまざまざと思い出した。…洋輔のために頑張ってる…。母はもしかしたら王丸の母ちゃんのように好き勝手に男を作って暮らしたいのかも…。僕が母ちゃんの重荷になってるのかも。

こうなれば、もう怖いものはない。

 苦しくなって寝返りを打った。いいもん、僕にはばあちゃんがおるけん…。暗闇の中で訳も分からずこみ上げた涙を拭った。

方言までが表れ、語り手は洋輔になりきってみせる。

こうした語りの距離が、乖離しながら自由間接話法を駆使するにせよ、あるいは一体化するにせよ、もう一歩進んで欲しかった。
さらに言えば、いかんせんこの小説は、前半のエピソードののちは、会話と説明に終始した感がいなめない。書き出しの躍動感、前半に見られた出来事や空気感に満ちた描写を持続してくれたなら、よい小説になったと思える。

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2007/10/31

届いた・買った・読んでる本

Syoyoju4Yashizakenomi まず左の「照葉樹」の4号が、水木さんから届いた。ありがとうございます。水木怜さんが2作に、垂水薫さんが1作。追って拝読しよう。

右側が、買ってきた本。いかにも面白そうだったので・・・。
おや! 今(11/1,13:00)気づいたら、池澤夏樹の世界文学全集の第Ⅰ集8巻に入る予定だ。
それはさておき、カバーの紹介を引用しておこう。

 ここはアフリカの底なしの森。10歳の頃からやし酒を飲むことしか能のない男が、死んだやし酒づくりの名人をとりもどしに「死者の町」への旅に出る。
 頭蓋骨だけの奇怪な生き物。地をはう巨大な魚。指から生まれた凶暴な赤ん坊。後ろ向きに歩く死者の群れ……。幽鬼が妖しくゆきかう森を、ジュジュの力で変幻自在に姿をかえてさまよう、やし酒飲みの奇想天外な大冒険。

これはなんとも面白そう。エイモス・チュツオーラは、ナイジェリアの作家だそうだ。差し詰め、アフリカのマジック・リアリズムってところだろうか?

鞄を替えたおかげで、分厚い「犬身」の持ち歩きが可能になり、とはいえ、こんなもの電車のなかで立ったまま読める代物ではないから、通勤時には読めないけれど、通勤電車のなかで本を読めないのはいつものことなれば、それはまぁいいとして、ようするに今は「犬身」を楽しんでいる。まだようやく100Pを越えたくらい。

 「わたしもです。魂は合意の上でいただくものだ」
 まじめくさった顔で現実離れした科白を平然と吐く、この人のこういうところがほんとうに気味が悪い、カクテル作りの腕は抜群なのに客が少ないのは、こういう気味の悪さのせいなんじゃないか、と房恵は朱尾に同情した。朱尾がしきりにわたしを呼び出すのも、普通の人間には相手にされず心を打ち明けられないからなのかも知れない、朱尾とわたしはきっと寂しい者同士でお互いを慰め合っているんだ、そう考えて房恵は納得し、いつしか朱尾と週に最低一、二度はメールの交換をするほどの仲になったのだった。

あきらかに悪魔の科白を吐く朱尾。ところが、その科白に反応する房恵の、この距離感! これこそ松浦理英子の凄さだなぁ、と思う。朱尾の科白でこの章を終わらせるのが、小説的洗練だろう。きっと私ならそうする。逆に、ここでくだくだしく朱尾の科白を引っ張って見せれば、おどろおどろしくも、あるいはファンタジックにも、エンターテインメントになるだろうけれど、松浦理英子の器用な自由間接話法にかかれば、それもまた朱尾と房恵という人間(いや、悪魔と犬? でもなんでもかまわないが)同士の距離の問題になる。房恵に見える朱尾という男の在り様であり、その在り様をいかに受け止め、交歓を作り上げていくのか、という謎掛けと謎解きになっていく。

この小説でも、房恵は「種同一性障害」なんて、なんとも怪しい人間で、いわゆる普通の人間同士の関係を構築し損なっているわけだが、それというのも、こうした他者を見、自分とその人との距離・関係を絶えず測っているような、なんとも厄介な人物だからにほかなるまい。そして、それこそが、松浦理英子の描く人物たちだ。といっても、房恵は、社会と関係を構築し損なっているわけでもない、というあたりも、忘れてはならないのではなかろうか。かつて、たとえば「ナチュラル・ウーマン」や「葬儀の日」といった小説の登場人物たちとは、いまや違う。とりあえずは、ちゃんと社会生活を営んでいる。それはまるで、松浦理英子自身に反するようにも・・・、なんて書き方はよろしくない。
ようするに、社会生活と人間関係は、まったく別物だ。社会生活ぐらいなら営めても、人間関係は構築しがたい。いや、完全な人間関係など、構築不可能だ。他者の完全な理解など、できるわけがない。「葬儀の日」以来、松浦理英子は絶えず、他者の完全なる理解を目指しながら、その不可能を思い知るしかない人間を書き続けている。それなら、人間同士ではなく、犬になってしまった今回は、どうなのだろう? 犬になれば、他者(人間)を理解できるだろうか?

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2007/05/28

恥ずかしい記事・・・と、良い記事

昨日の記事にまったく間抜けな誤読があった。誤読というのも恥ずかしいような間違い。実に恥ずかしい。それも引用部に明らかなのだから、なんともお粗末。やはりコピペ引用なんて横着はいけない。
ともあれ、これはモバイル投稿だが、帰り次第、直します。
22時、改定しちゃった。

Bungeishityo17 そして、「文芸思潮」第17号を入手。
照葉樹」さんの2号に掲載されていた水木怜さん作「エスプレッソが冷めたら」が、同人雑誌優秀作として、転載されている。水木さんのご尊顔もプロフィールとともに拝見。
さらに、「エスプレッソが冷めたら」に続いて、同人雑誌紹介で「照葉樹」さんが取り上げられて記事になっているのだが、およそ水木さんが書いたと思しきこの記事が、とても良い。自誌の紹介に留まらず、広く同人誌を喧伝してやろうという心意気が込められている。
「同人誌を通じて、いろんな方との交流や、作品の合評の場を持つことが出来ました。」といった文章に、おこがましく勝手ながら、その末席くらいに私もいるのかなぁ、などと自分に引き寄せて読んでしまった、という贔屓目もあるけれど・・・、それでも、同様に同人雑誌優秀作宮崎眞弓作「乙姫通り」が掲載された「いかなご」さんの記事がちょっと可哀相に見えてしまった。いや、「いかなご」さんの記事も、自誌の成り立ちを事細かく説明する仕草が、それはそれでとても好感が持てる良い記事ではあった。せっかくだから、「乙姫通り」も追って読んでみようと思う。そうそう、「照葉樹」紹介のページには、水木さんと並んで、垂水薫さんのお姿も拝見できてしまった。

さらに、「文芸思潮」は、全国同人雑誌賞 最優秀賞を創設した。選考委員を公募してもいるが、「選考委員ご希望の方に掲載号(有料)をお送りします。」って、やっぱりここは、商売っ気目当ての賞設定だなぁ・・・。とはいえ、もちろん、「エスプレッソが冷めたら」も候補作にエントリーされたわけだ。各号の優秀作2作が候補作になり、3回6作品になった時点で、最優秀作を決するとのこと。詳細は、このあと「文芸同人誌案内」さんの掲示板に書き込もうと思う。

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2007/05/20

靄―水木怜

さて、これまで色々と言い訳しては、「照葉樹3号オオトリの作品、水木怜さんの「靄」について書かずにきたのは、じつをいえば、困っていたのだ。どう書いたものか、と・・・。
力作なのだ。非常に力の籠もった小説だ。ところが、それが辛かった。書き手の力みがひしひしと伝わってきて、それだけ、書き手の声なき声が聞こえてきてしまう。「どうだ!」「頑張ってるぞ!」「読め!」という声が聞こえるようなのだ。

老夫婦のドメスティック・バイオレンス、進行するボケ(物忘れ)、そこに仕掛けとしてのテレビゲームの人生ゲーム、問題を顕在化するための会話の相手としての松代。どれをとっても小説の要素としては、非常によかったと思う。そして、終わり方、ある意味ではずるいような、その終わり方が、たしかに優れた物語だったと思う。それだけに、力みとバランスの悪さが惜しかった。恐らくは、このバランスの悪さも力みのゆえだと思える。例えば、せっかく人生ゲームという仕掛けがあるというのに、語り手が美佐子の過去を丁寧に語ってしまう。もちろんそこには、美佐子のボケが進行しており、そのために人生ゲームはつねに途中で終わるといったこともあるが、逆に、それなら、人生ゲームが遠い過去を語るためだけの装置になってしまい、近い過去を語る語り手と二重化してしまう。それが同じ時間を語って語りの場が多層化するときに、語り手が語り得なかったなにかがゲームのなかに浮かび上がってくるならば、それはそれで面白かったかもしれない。
酔うと暴力を振るう元治も、酔っていないときとの対比が足りないのではないだろうか? このバランスはとても難しいが、元治が美佐子なしにはいられない存在であることも、この小説の要だったはずだ。それが過去の話に終始した感がある。今のこととして、美佐子を必要とする元治が見えて欲しかった。元治の書き様に書き手が戸惑っているようにさえ見えた。元治という人物造形に水木さんがまだ迷っていたのではないだろうか? というのも、冒頭近くに下の段落がある。

 酒が入ると「か」が詰まって「くぁっ」と鼻から空気が漏れるような不快な声で幾万回とも数えきれないほど「ばくぁたれ」と言われてはきたが、六十を越えたこの頃になって美佐子はこの言葉がつくずく耐えられぬようになっていた。

「つくずく」は「つくづく」だろうけれど、些事はさておき、対して下の文章がある。

 元治は酒が抜けるとすっかり気弱になる。そんなときは帳尻を合わせるように家のことに手を出したが、重箱の隅を掘り返すような嫌みも言う。
 「味噌ば買うとけよ、ばくぁたれが」

「か」が「くぁ」になるのは、酒が入ったときだったはずなのに、酒が抜けて気弱になりながら照れ隠しのような仕草がかわいく見えなくもないここで「くぁ」と言ってしまうのである。

 「このふうたんぬるか、ばくぁたれが! なんば、もたもたしとっとか」

という言葉ではじまった小説であれば、その言葉遣いに読者の眼は向いている。するとやはりこうした齟齬は、元治に対する書き手の迷いに見えてしまう。そして、ひたすらに美佐子に寄り添う語りが、「つくずく耐えられぬようになっていた」といった極めて強い語尾を繰り返してしまう。語りの場が美佐子に寄り添えば寄り添うほど、元治が遠い存在になるのは悪くない。むしろ読者を美佐子に感情移入させる良策だともいえる。しかし書き手のなかでは、元治の人物造形をしておかなければならない。書き手と語り手の乖離は、必然なのだ。まして、語りの場が登場人物のだれかに寄り添うなら、むしろ乖離していなければならないといってもいい。

とはいえ、この物語そのものは、美佐子の一生があまりに哀れなのが少々鼻につくものの、とても面白い題材だ。終わり方も私はよいと思う。できることなら、書き改めて、もう一度チャレンジして欲しいお話だった。じっくり書けば、かならず良い小説になると思えた。

水木さんは、物語創作力に優れていると私は思っています。物語を小説にしていくというステップにあって、水木さんは旺盛にチャレンジされているのでしょう。まったく不遜なことを書き殴って申し訳ありませんが、過程として捉えています。「鳴らない電話」を見ても、小説もどんどん上手くなっていると思うし、物語創作はもとより上手いのだから、次はまたさらに面白いものを読ませていただけると楽しみにしています。

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2007/05/19

「木曜日」23号が早速

木曜日23号が早速、「文芸同志会通信」の作品紹介に載っている。期せずして「季刊 遠近」さんの31号と並んだ。これから追々他も取り上げてくれるかもしれない。などと書いて、強要してはいけない。とにかく、「木曜日」23号の2作品を取り上げた記事がここで、「季刊 遠近」さん31号の2作品がここ
さらに、上を書いた後に鶴樹氏は追記され、「照葉樹」さん3号の1作も記事になっている。ここ

また、「照葉樹」のryoさんから、コメント欄に感想をいただいたが、同様の内容が、その談話室(BBS)でも書かれているし、ryoさんのブログでは「木曜日」23号をkairouさんの記事とともに紹介してくれている。

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2007/05/17

えっと・・・、私事ばかり

今日は、鞄の中に本がなかった。忘れてしまった。「照葉樹」さんも読了し損ねてしまった。ごめんなさい。あっ! 「照葉樹」さんのHPも新しくなっている。

岩波文庫が野坂昭如が2冊。シリーズ化するらしく、偉い! 嬉しい。さらに面白そうな新刊文庫がほかにもあったが、今日は手持ちがなかったので我慢。

ところで、こちら! いいのかしら? 嬉しい。今夜のところは、これだけを紹介して、終わりにしておこう。そして、私はそこへいって、何度も読んで、ニヤニヤしながら眠ろう。itu:kairouさん、深く感謝です。

おっと、もうひとつ。「文芸同人誌案内」さんの「木曜日」のページがさっそく更新された。Hさんはとても忙しくされているらしいのに、まったくありがたい。感謝です。

木曜日」も読まなきゃなぁ~・・・。

おお~! ダンセイニがブームかしらん??? maaya331さんもダンセイニにはまった様子。それもボルヘス選書の「バベルの図書館」に見つけるなんて、渋い!

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2007/05/15

鳴らない電話―水木怜

照葉樹3号掲載2作目、水木怜さんの「鳴らない電話」を読んだ。短い、一人称独り語りの体裁。いや、独り語りとは言い難い。語られている相手、「あなた」がいる。だが、「あなた」が口を挟むことはない。

例えば、谷崎潤一郎の「」が女の独り語りのようでいながら、詳細に見れば、ときに谷崎潤一郎を思わせる聞き手が語り出してしまうし、明確な言葉はなくても、語り手が、「何ですか?」とか「そうですね」などと言っては、質問者、聞き手にしてそして書き手である「わたし」の存在を示唆して、語り手と書き手の乖離を見せたが、この小説では、明確にも、思わせぶりにも、「あなた」が口を挟むことはない。それは、「照葉樹」2号掲載の垂水薫さん作「星垂る飛ぶ」を思い起こす。
ところがこの小説は、ほんのつかの間、3ヵ月ほどの不倫関係、それも20年も昔の3ヵ月を辿る物語である。このとき、語り手と書き手の乖離は、語りつつある今の「私」と語られつつある過去の「私」の間に起きる。
ところが、不遜を承知で言えば、水木さん上手くなったなぁ、と思う。不倫小説なら定番のように、相対化の対象たる男の妻・幸子が現れるが、その書き方のバランスがとても上手い。相当にしたたかで、かつ個性的でありながら、顔がしかと見えてこない。見えてこないために、「私」と相対化されないのだ。その背景には男の眼をとおした幸子ばかりが語られて、「私」にとってはきわめて断片的な映像と、言葉だけが残っているという事情もある。
しかし、終わり近くなって、結婚していることが明かされる「私」の夫も、それが延々と明かされずにきたことにもたしかなとおり、まったく希薄であり、すると、自分たちを相対化するはずの女や男がただ風景になり、物語は「私」と「あなた」のことだけに集中していく。ましてそれは、語り手の「私」だけである。というのは、「あなた」にとっては、「私」は幸子と相対化されるために愛されていたのだから。

 君って僕の理想のタイプみたいに思ってたけど、付き合ってみたら思い違いだってことが分かった。みんなおんなじなんだね。結局女の人ってみんな同じだってこと、隣の芝生は青いって言うけど本当だね、僕の錯覚だったみたい。でも良かった、おかげで幸子だけは特別だってことにはっきり気付いたのさ、幸子に悪いことしたよ。

「あなた」は年上女房がマザコンのようなまったくのろくでなし(小説家!)で、「私」も絶えず、「なぜあんな男に惚れたのか」と自問しているが、かといって「私」が理想とすべき男性像が現れるわけでもない。唯一男嫌いのきっかけになったらしい最初の男が語られるが、それが学校の「先生」で、小説家の「あなた」が「先生」と呼ばれるとおり、ふたりは相対化されるよりもダブるばかり。
言ってみれば、まったく独りよがりでもある女の戯言である。「あなた」がしょうもない男であれ、「私」も身勝手である。もとより不倫を承知で関係を結ぶのだし、あわよくば奪おうと目論んでいるのだから言うまでもないが、「私」の眼には自分を相対化する存在も、「あなた」を相対化する存在もなく、ただふたりきりの世界なのだ。外部を一切否定してただふたりきりで引き籠ったような世界、その世界観が、男の私には少々の憧れとともにやはり怖ろしげだ。

それから、もしかしてこれが音楽家でもある水木さんに、知らぬ間に身についた技なのだろうか、リズムとも違う、メロディーとも違うが、なにか文章に流れがある。文章をこねくって作り上げたのではない語りの文体が、そうした音楽性を呼び込んだのではないか、と思うのは、水木さんが音楽家であることをしっているからだろうか?

さて、さんざん褒めてきたが、私の口の悪さも待たれているようなので(自分の都合のいいように解釈)、多少の苦言。

句読点の使い方に首を傾げる点がいくつかあった。段落の終わりを読点(、)で結ぶのは、わざとだろうか? するとそこにはリズムの形成といった思惑が働いていたのかもしれない。

それから、ネタばれだが、犯罪ネタは難しい。この状況で、疑惑が発生しないというのは不自然だろう。すくなくとも警察はひと通りの探索はするだろうし、そのとき、「私」には隠そうとする意志さえなかったのだから、その場にいた痕跡は明らかで、するとまったく疑われないというのはやはりおかしい。ふたりの関係をしっていた幸子もいる。自殺に見えても、念のためひと通りの捜査をするのが、警察だと思う。

もうひとつ。タイトルに工夫が欲しい。

とはいえ、おおむね面白く、楽しんで読んだ。女の妄執が怖いし、駄目男には憧れる。
駄目男を演じたときの三浦友和のファンなのだ。「台風クラブ」「無能の人」そしてなんといっても「東京上空いらっしゃいませ」(大好きな曲がテーマ曲になっているから、だけでなく、傑作だと思う)の三浦友和が好きな私は、この男のようになりたい。たとえこんな結末でも。いや、こんな結末さえ、ちょっと羨ましい・・・。

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2007/05/14

羽ならし―垂水薫

照葉樹3号巻頭掲載作、垂水薫さんの「羽ならし」を、非常に面白く読んだ。そして、驚いた。垂水さんは、自己を取り巻く世界・空間の捉え方がとても面白い。

物語を見てみれば、老老介護といってもいい姑と嫁のふたり暮らしの家に、不登校を続ける孫(曾孫)が訪れて数日を過ごす話で、そこでなにが起きるかはおよそ想像がつこうというものだ。ほとんどボケてしまった九十五歳の姑と、語りの場が寄り添う嫁・文枝は六十九歳。それでも仕出もする小料理屋に勤めに出ている。孫は、不登校である自分を責めてもいて、ふとしたはずみでパニックを起こしかねないというのだから、この時点ですでに姑・ばばさんが何某か、ボケならではの奇跡めいた仕儀をもって、パニックを起こした曾孫・怜奈を宥めてみせるだろうことは想像できてしまう。
そして、思ったとおりの物語でもあった。

ストーリーで小説を量る向きには、よくできたお話の域をでないだろう。それでも、この小説は面白い。

では、なにがそれほど面白かったのだろう。
ばばさんは、すでにほとんど人間離れしている。心優しくはありながらも、なにか得体のしれない存在に近い。

 公民館のチャイムが、朝の六時を告げている。寝室を覗くまでもなく、怜奈はまだ眠っているに違いない。
 小さな仏壇に、炊きたてのご飯と水とお茶を供えて、引き出しから数珠を取り出した。
 手に掛けながら仏壇の座布団に座る。意識などしなくても、お経は口から自然とこぼれ出る。
 ばばさんが毎朝のおつとめから遠ざかって、ずいぶんと年月が経つ。
 時折うなるように口ずさんでいるので、まだ経文は覚えていると分かるが、ばばさんが仏壇に向かうことは、ほとんどなく、たまに鉦を鳴らして、お供え物をいただくときだけだ。
 強いられた覚えはないのに、いつの間にか毎朝ここに文枝が座るようになった。
 もっとも、お経を唱えるばばさんの声を聴いていると、おかしなことに文枝自身が死者になって、供養をしてもらっている気になるのが昔の常だったので、こうして自分でお経を唱える今の方が、はるかに気が楽だ。
 高く低く流れる声が、早朝の古家の壁土と木と襖と障子紙に染みわたっていく。目をつむって、ゆらゆらと自分の声に聞き惚れながら心地よく詠う。
 違和感にドキリとなって体を固くした。心もち声を小さくして耳をうかがう。やはり、別人の声が唱和している。
 紛れ込んできた張りのある声が、しだいに大きくなっていく。怜奈だ。まったく気配に気づかなかったけれど、真後ろにいた。
 声に、よどみがない。お経など、いつ覚えたのだろう。
 振り向いて孫の表情を見たくなった。けれども目を合わせると、怜奈が立ち上がって姿を消してしまいそうな気がする。じっとこらえて平静をよそおい、お経を読み続ける。
 とつぜん、二部合唱が三部合唱になった。
 ばばさんの声が、かすれて切れ切れに混じり、お経が妙に高くなったり低くなったりし始めた。怜奈の読経は必死に堪えていた文枝だったが、ばばさんの参加には耐え切れず、ついに、経文を喉に引っかけ、むせてしまった。戸惑いを咳払いにごまかし、急いで二人の読経の声に合わせる。
 胸の中で語りかけた。
 ねぇ、あんた、これって、どうなってると?
 仏壇の夫に向き合い、真剣に話しかけるなんて、ほんとうに久しぶりだ。

少々唐突感さえあったこの章にやられた。垂水さんの「夏トカゲ」や「星垂る飛ぶ」のかのヒタヒタと浸しくるものが、読経の声、音として早朝の部屋を満たすようで、だけど、今回のそうした浸すものは、背後から訪れながら、やけに暖かく語り手を包んでいる。怜奈とばばさんは視線を交わしたかもしれない、それとも両者ともただそれぞれの読経に専心していたかもしれない。背後で起きていることはしれないまま、声に包まれ、かねて見忘れていた正面の夫の遺影(位牌?)を見出す。このとき、仏壇が、浸されてしまった閉鎖空間のその向こう側、開かれた場所へつながる回路になるだろう。

そして、生き物たち。犬の桜次郎と猫のチョイ。なぜ桜次郎が「鈴木君」や「小泉君」のような名ではないのか、それについてはなにかあってもよかったと思うが、そうした名づけには文枝による意味づけがされるのだが、それは逆に、怜奈の周囲がさまざまな動物で満たされていることでもある。人間と動物の境界がない、とも読めるのだ。すると子を食べてしまう兎とは、不登校という自己の在り様が、姉のわがままを呼び込み、母の怠惰を誘うといった、家族内の悪影響を象徴してしまいかねないが、そうした象徴性に寄りかかるほど生易しくない。むしろ、そうした人間であれ動物であれ、生身の存在に感覚の出来事として触れたときにこそ、事件が起きるのだ。

 孫は心穏やかに眠っただろうか。そっと様子をうかがった。寝息は聞こえない。かといって、起きている物音もしない。期待していた犬と猫の気配も感じ取れない。
 孫の寝室を通り過ぎ、年老いた二人の寝床になっている部屋の戸を引いた。
 ばばさんが寝ぼけて夜中に部屋を抜け出さないための重い引き戸が、湯上りの手には、いっそう重い。きしむ音に、ばばさんの高いびきが一段と高くなる。
 部屋に踏み入れた足先に、生暖かい毛皮が触れて動いた。思わず口に出かかった叫びを推し戻し、薄明かりに目をこらす。何のことはない。桜次郎だ。たかが子犬にびびった自分の臆病さに、苦笑いした。
 ばばさんのベッドの傍が、いつも文枝の寝る場所だ。
 人も犬も起こさないよう気遣いながら、そろりそろりとベッドに近寄っていく。足裏に、布団の軟らかな肌ざわりを感じた。
 ありがたい。帰りの遅い祖母のために、怜奈が布団を敷いてくれたようだ。
 ためらいなく踏んだ布団の中で、グギャァアと一声、こもった声が上がり、飛びのいた。
 掛け布団をめくると、非難がましい猫の目が文枝を見上げている。チョイだ。
 チョイと桜次郎を部屋に押し込め、眠っているばばさんを見下ろしている怜奈の真面目くさった表情が、目に浮かんだ。独り寝のばばさんが寂しくないように、とでも思ったのだろうか。
 ハムスターを殺したと打ち明けた怜奈の話が、忘れようとしても頭の隅に引っかかっている。そのせいか、桜次郎とチョイが見あたらないことで、怜奈を疑うよからぬ憶測をしていた。危惧に終わってほんとうに良かったと、改めて思う。胸の鼓動がまだ速い。
 真夜中に二匹の動物をそれぞれの寝床に連れていくのは億劫だ。かかとでチョイを布団の外に押しやり、猫のぬくもりが残る敷布団に体を横たえた。
 足元が重い。チョイが丸まっているのが分かる。枕元には、いつの間にか桜次郎までが寝そべっていた。むっとくる犬の匂いが鼻をつく。

そして最後の場面だ。まったくよくできた終わり方、上手な終わり方に堕するようだった。ところが、この小さな家を超えていくさま、そして、たくさんの生き物たちを見出していくさまは、素直に感動的だった。ばばさんの指し示す先に見出される生き物たちに、だけど、すでに人間離れしたばばさんなら、教育的にもなり得ず、かといって飛行機雲をわざわざ使う仕草にもけして則天去私の身振りでもない。この終わり方には、素直に感動した。

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2007/05/10

読んだ小説1本、届いた本が2種類、買った本が1冊

クロエさんが紹介している新たな世界文学全集は興味津々だなぁ・・・。euripidesさんなどが、褒めちぎっていながら私は出会えていない残雪などの名まえがある。でも、中には既読もあるから、揃えるということはないな。文学全集って、揃えたことがない。

今日は、「文學界」の新人賞2作目、谷崎由依「舞い落ちる村」を非常に面白く読んだのだけど、これもまたちょっとだけ時間を置いてから書きたい(あとで書いた「舞い落ちる村」の記事は、ここ)。まして今日は、やはりというべきか、「照葉樹」さんの3号が届いたのだ。ありがとうございます。じっくり拝読いたします。だけではない。段ボール箱も届いた。そう、めでたく「木曜日」23号が届いたのであります。フフフ・・・。

ガ~~~~ン!! 今、発見・・・。ノンブルのサイズにばらつきがある。私のミスだ・・・。いたくショック・・・。

もし、「木曜日」に興味がある方がいたりしたら、プロフィールから、メールをくださいませ。ちなみに目次はこうなってます。Syoyoju3Mokuyoubi23

 

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2006/12/02

読むことの奥深さ

いつも、まるで私はなんでもわかっちゃうのさ、とでも言いた気な、なんともいっぱしの論者気取りの文章を書いているのだが、先般*yuka*さんが「いやしい鳥」について触れておられた文章を読んで、鳥の物足りなさに示唆を与えられたのだけれど、今日また、ryoさんによる「ツクヨミ」評を読んで、私が読み落としていた点を教えられた。母が実は思慕の対象でもあるならば、黒い影が母であると同様に、白と黒のあからさまな対称性からいっても、白い巫女もまた母でありえるわけだ。相反する母親像が抽象的な形で語られてもいたというわけで、この点は、重要だったなぁ。なぜなら、それはあの妖精の人形に同化する幽体離脱の場面に連なるある種不自然な段落にも関係し、となれば、幽体離脱とその後の転落にも隠喩が読み取れてくるのだから。
また、euripidesさんは、「タイドプール」に触れておられ、「そのうち四人は体をくっつけ合い、小さく横一列に並び、あの六畳の部屋で過ごすのと同じように窮屈に固まった。」という文章に言及されている。そう、このシーンの書かれていないままなのになぜか四人のくっつけ合った「背中」を幻視させることの美しさを無視してしまってはいけないよなぁ。ジャン・コクトーの「恐るべき子供たち」のついたてで仕切ったポールの部屋さえ思い浮かべたじゃないか(本当は萩尾望都のマンガで思い浮かべたけど)。さらにその背景には、吉田喜重の「鏡の女たち」(←このパッケージ、一色紗英が真ん中って、なぜ?)の少女の後ろで荒れぎみにどんよりした色の海まで思い浮かべたんだから。

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2006/11/11

夏トカゲ―垂水薫

続いて、やはり垂水薫さんの「夏トカゲ」だ。「照葉樹」2号のオオトリである。オオトリを務めるだけあり、さすがに面白い。
同人誌には、同人誌評で取り上げられようという魂胆から、同人数にかかわらず、作品数を少な目に抑えることで薄くし、かつ巻頭にもっとも優れていると判断された作品を掲載し、2作目3作目とやはりその優劣に順じて並べる傾向があるという。賞に応じて作品傾向を変えたり、郵送日付まで考えるといった新人賞の獲り方さながら、同人誌評に取り上げられるための方法論もあるらしいのだ。
少年マンガ誌を見ても、それぞれ出版社ごとに考え方があり、作品の掲載順の基準が異なる。例えば、集英社の「少年ジャンプ」なら読者アンケートに基づく毎回の人気投票がそのまま掲載順序になり、対して小学館の「少年サンデー」は、やはり巻頭には人気投票が反映されるものの、かつて古谷三敏の「ダメおやじ」が常に「少年サンデー」の巻末を飾っていたとおり、オオトリにはマンガ家の格といったものが反映される、と聞いたことがある。
だとすれば、同人誌にもそれぞれに掲載順序について、考え方があってしかるべきだし、その考え方が「少年ジャンプ」のようであったとしても、それはなんら不都合はないわけだが、同人誌評、とりわけ「同人雑誌評」(「文學界」)に取り上げられることが目的化された同人誌作りという姑息さは、やはり嫌らしいと思う。
その点、「照葉樹」は、1号ごとに編集担当者を交代する、それに準じた掲載順序らしく、なにより同人のお二方の「書きたい」から同人誌を作っているというだけの姿勢は好もしい。
もちろん、そうした姑息さが「同人誌評」にとってどれだけ有効なのか、私はしらない。すくなくとも今年の「木曜日」は220P以上でありながら、先に記事にしたとおり、2誌で計4作が取り上げられた。おっと、宣伝になってしまった。明日は第五回文学フリマなので・・・。ちなみに「木曜日」はブース№B-50
前置きがながくなってしまった。

夏トカゲ」―垂水薫
これまた非常に面白かった。楽しんだ。何といってもトカゲたちの存在感が圧倒的だ。