「照葉樹」4号の最後を飾っている垂水薫さんの「朝戸風」を拝読。とてもとても楽しんだ。
高校中退引き籠りの明日香がひとりで過ごす真夏の一夜の話だが、まず、明日香と母の遣り取り、ふたりの関係がとても好もしく面白い。
「あっ、そうですか。どうせ、あたしは高校を中退したもんね。勉強家の父さんみたいに、気楽にエアコンを使う資格なんかないんだ」
「あのね。えらい勢いで地球温暖化がすすんでると。だから、みんなで協力してエコせんと、今に取り返しがつかんようになる。そう思う母さんの考えは、間違っとるね」
語気の強さに押されて黙り込んだ。
これまでの涙ぐましいまでの母の節約は、てっきり家計費だけが原因だと思っていた。まさか、地球規模の大きな深い考えがあっての努力だったとは。
自分の高校中退を卑屈にとらえているようでもありながら、それを自分から口にすることで、開き直っているようにも、エアコンも使わせてもらえないことをゴネる言い訳に使う明日香の科白にドキリとするのだが、それに答える母の科白のなんとも白々しいこと。白々しさのなかで、問題を摩り替えている。父と明日香の待遇の違いという問題を、エコの問題に摩り替えているのだが、明日香はそれに気づかない。なんとも迂闊な娘のようでもあるが、ここに表れているのは、明日香にとっての母の存在の在り様だ。
それにしても、よく分からない。いつの間に母は、地球環境などという大きな問題に興味を示すようになったのだろう。置いてけぼりを食った気になった。
引き籠りの明日香だが、かといって、家からでることがないながら、自室に籠もっているわけではなく、むしろ父母とは毎日顔を合わせ、会話をしている。とりわけ母には、パートを辞めさせてまで、始終生活をともにしている。母のスケジュールはすべて明日香に告げられ、買い物にいくにしても、帰宅時間さえ約束している。明日香は、その約束が違えられると、パニックを起こしかねないのだ。引き籠りでありながら、極度の寂しがり屋なのであり、そこには、引き籠ってしまった自身への自責が顕現している。そして、そうした娘にたいする母の距離のとり方の、優しいとも、意気地がないともいえる様が、父にはまったく反発できない弱い母の姿と相俟って、妙に納得させられる。
ところが、物語は、そうした父との遣り取りなどが語られる以前、上の遣り取りの直後に、突然着飾って出かけてしまう。だが、その前に・・・。
言い負かして上機嫌になったらしく、母は鼻唄まじりに、調理台に置いた包みを解き始めた。
と思う間もなく、一瞬、鼻唄が止まった。
「母さん?」
空っぽになったコップを流しに置くのも忘れて、母の顔を覗き込んだ。
以前と比べて最近は、ずいぶん饒舌になっている母なのに、返事がない。両手を調理台にあずけたきり、体が固まっているように見えた。
「ねぇ、どうしたと?」
再度の問いかけにも、母は黙ったまま顔をそむけ、調理台から手を下ろしただけだ。
エプロンを押さえたり、ポケットに手を差し入れたりしたあげく、いきなり背を向けた。
調理台に向かって、体を斜めに傾ける。調理台から、わざと娘の視界をさえぎったように見えた。
元通りに素早く包み直している気配がする。
やがて、足元のペダルを踏むと、生物の分別ゴミ箱の中へ、包みを投げ入れた。
この一連の動作を、明日香は、あっけにとられて見ていた。
ようやく振り向いた母の顔一面に、無数の汗玉が光っている。
「何か言ってたね。なぁに?」
今さらのように聞き返す。
「どうして母さんは、あれを捨てたの、って聞いたと」
ゴミ箱を指さした。
今度は、明日香が母を騙す。明日香が訊ねたのは、固まった母の挙動についてだし、その問いのことを母も訊ねたのに、その問いのあとの行動のことに話題が摩り替わっている。と同時にこの場面で母は、秘密めいた行動をとって、サスペンスを作り出している。あげくが、なんとも怪しげな素振りで母は出かけてしまうのだ。
「そりゃあ、鶏ガラと言えば、もちろんスープよ。チキンスープに決まっとるでしょ。でも、あんまり古い鶏ガラでスープを作っても、おいしくなかもんね。だったら、誰も食べてくれんやろし。そうなると、せっかく高いガス代を使って料理しても、無駄になる。だから、仕方なく捨てたと」
理由を並べ立てる口調が、どうも言い訳っぽい。いつも賞味期限すれすれの食材を格安で買ってきては、喜々として調理する人が口にしている弁解とは、とうてい思えない言いぐさだ。
「ふぅぅん。それで、母さんは仕方なくゴミ箱に捨てたんだ。残念だったねぇ」
まじまじと顔を見つめると、母は、ゆっくり目をそらした。
「あ、そうやった。大事な用があったんだ。ちょっと今から出かけてくるけん」
さりげない調子で、はぐらかすようにつぶやく。
明日香はたじろいだ。
「えっ。今日は料理教室の日だっけ」
「ごめんね。あんたに言っとくのを、母さんが完全に忘れてたと」
父はともかく、母の行事予定は、すべて明日香の頭に入っている。暗誦できるほどだ。
だから、断言できる。今日は断じて料理教室の日ではない。そのうえ、こんな時間から出かけなければならない用があるなんて、まったく心当たりがない。
これではまるで、隠すように捨てたなにかを明日香に見せる方策にさえ思える。この母の素振りは、なんとも怪しく見えて仕方ない。
三人称でありながら、あたかも一人称のように明日香に寄り添った文章だから、母の思惑は明日香の想像の形でしか語りようがない。だが、その影で、じつはここで行われているのは、隠された母の巧妙な罠だったようにさえ思えてくる。やけに間の抜けたとぼけた母のようでありながら、なにからなにまで計算ずくの一夜がこの小説だったのではないかとさえ思えてくる。
そうなれば当然のこととして、捨てられた鶏ガラのはずの包みを明日香はゴミ箱から拾い上げるのだが、それが、鶏頭の袋詰めである。以前の垂水さんの「夏トカゲ」を思わせる、少々気味の悪い固まり。そして、明日香を取り巻くのは夏の夜の熱気と、鶏頭を使ってスープをつくるその蒸気、さらに、なによりも鶏頭の目である。鶏頭の目は、高校中退者で引き籠りの自分にたいする社会の目に重ねられる。
鍋いっぱいの鶏の目が、ご近所の目や社会の目に、取って代わる。
鶏の目、人の目。
お願いだから、そんなふうに見ないで。じっと見つめられると、身の置き所がなくなってしまう。意味ありげにチラチラ見られると、戸惑ってしまう。振り向いたとたんに目をそらされると、取り巻く空気が一瞬で縮んでしまう。
クチバシまでが、人の口に見える。
ぐつぐつと煮え続ける音は、明日香の悪口を並べ立てては意味ありげに、くすくす笑い合う同級生たちの声だ。あんなに大きなクチバシなど、力いっぱい叩きつぶしたい。
それらが、ここまでに引用した部分を見ても分かるとおり、改行の多い文章で、なにごとかとなにごとかが同時に語られるようにして、引用が容易ならざるくらい絡み合ったままに書かれていく。明日香は社会から離れているようでありながら、家庭という場所もまた、外のようには冷たくなくても、やはり社会であり、冷たい社会との接点でもある。明日香にとって母や父は、外の世界を覗き見る窓になっている。この書き振りが、見事だと思う。明日香のなかには、自責がある。だが、社会から逃げているという思いとは裏腹に、家族をとおして社会を見、また、家族という他者との関係を維持しているのでもある。父からかかった電話に応える明日香の独語がそれを象徴する。
「たったの一泊だよ。いっつも家にいる母さんのためにも、あたしのためにも、気分転換にいいことだよ。今まで母さんは、おとなし過ぎたんだよ」
言い返しながら、途方に暮れた。まるで他人が喋っているようだ。
今まで母さんはおとなし過ぎたんだよ、だって?
あたしったら、何を口走っているんだろう。あたしを置いて、唯一の居場所である家を自分から出ていく人が、おとなしい訳がない。
「ふん。利いた風な口をきくな」
母さん、今、何を考えてるの。このごろの母さんの心の中が見えなくなったよ。想像つかないよ。あたしを置いて、どこへ行こうとしてるの。
ほんとうは、そう言いたいのに。
少々違和感があった、地球環境云々のくだりの「置いてきぼりを食った」という科白の意味は、とりもなおさず明日香が母と同化していたことにほかならないのだし、しかし、今、明日香は明日香のしり得ない母を見出そうとしている。ところが、ことはそれほど簡単ではない。自由間接話法による上の引用は、明日香と母の乖離のようでもありながら、むしろ明日香自身の乖離にほかなるまい。明日香は「他人が喋っているようだ」というのだ。自分以外の存在を自分の中に見出しているのである。では、母を理解(擁護)する「あたし」と、母を理解できない「あたし」に分裂したのだろうか? 鍋の中に鶏頭と同時に、社会を見出す、目の前で起きていることのなかに、自分の弱さを見出さずにいられない存在、それが明日香であるならば、明日香とは、物事を二重に見るものではないか。あるいはすべてを自己のこととして見ずにいられない、きわめて自意識の過剰なるものといってもいいかもしれない。
もし、これが鶏頭ではなく、ほんとうに鶏ガラだったなら、と想像する。
母は娘と一晩をかけて、談笑しながらスープを煮ていたはずだ。おそらく母も、そのつもりで鶏を買ったに違いない。
そうだった。あのとき、母は袋を覗き込み、弾かれたようにゴミ箱に捨てた後、今からでかけると宣言した。
直前まで、外出を迷っていたと思う。
瞬時の判断で娘を置き、家を飛び出したのだ。頭だけの鶏をいきなり目の当たりにして、背中を押されたに違いない。
鶏頭は、母と自分の行動のきっかけを作ったと思う。
母の行動は、明日香を中心に動いていたはず。「母と娘」が、明日香の独り語りを挟むと「母と自分」になるのだが、明日香が語りの場に寄り添うようにも見えると、母は明日香から離れる。すると、語りの場と母の距離は、妙な具合に乖離する。すでに語りの場にいない母なのだが、あたかも亡霊めいた存在として、ふたたび語りの場に姿を現すのだ。
菜箸を引き留めた声は、母のような気がした。
ゆるやかに流れる時間とともに、透明だった液が、わずかに黄色味を帯びてきた。鶏皮が、湯を吸って厚みを増している。硬そうに突っ立っていたトサカも、かなり柔らかくなっているようだ。そっと箸でめくると、根元から外れて落ちた。
頭の中で響く母の声を、口に出して言ってみる。
「さわり過ぎると、汁がにごるよ」
調理台に、菜箸を置いた。
艶っぽく透きとおった幾つもの黄色い脂が、くっつき合いながら、丸く楕円にと、互いに形を変えて広がっていく。
鶏の頭と頭の間を埋めるようにして、細かい木屑に似た畳色の灰汁が、とろとろと表面に浮かび上がってきた。
「ポイントは、ここ。しっかり灰汁をすくい取ると。これを手抜きすると、おいしかスープは出来んけんね」
明日香の口を借り、心配そうに話しかけてくる母は、ぼんやりなんぞしていない。
右手にお玉杓子、左手には、水を貼ったボウルを握った。いまや明日香は、母と一心同体だ。
「料理に根気は欠かせんからね。出来上がるとを楽しみに、じいっと我慢して、努力を続けると。明日香にはできるよね」
すぐそばに、見えない母が寄り添って立ち、手に手を添えてくれている。
母と一体化するとはなにごとだろう? 母を理解すること? 自分のなかに他者を見出すこと? ここで起きているのは、いかにも母が言いそうなことを記憶のなかから構成した、明日香の独りよがりとも取れる。だが、
明日香の口から、母が話しかける。
「ねぇ、このごろ母さん気づいたんだけど。父さんったら、ずいぶん無口になったと思わんね」
そういえば、以前だと、たまに家族がそろったときなどは、熱心に話す父の口許を、母と明日香が眺めているのが常だったのに、いつの間にか立場は入れ替わり、話している二人のそばで、父が黙って聞いている。
明日香が気づいていなかったことさえも、寄り添うものが口にするのだ。それでも、それは「明日香の口」から発されている。あくまで「明日香の口」であることのなかに、母の不在は明らかだ。すると、
先日、母が明日香に耳打ちした。
父さんったら、今度の司法試験を受けようか、どうしようかって、迷ってるみたい。これまで、あんなに頑張ってきたとに、何があったのかしらね。まぁ父さんだって齢だけん、いつまでも受験生って立場に疲れてしまったかもしれんけど、じっさい、あとから入ってくる若い人たちが司法修習生になって、次々と事務所を出ていくとを見送るのも、つらかろうし……。
受験をやめて何するの、と明日香が尋ねると、母は首をかしげた。
さぁ。何をするつもりやろ。やめた後のことなんて、母さんにはわからんよ。いっつも父さんは母さんには相談せんで、自分ひとりで考えて行動するけんねぇ。ほんと、あの人はどうするつもりかしら。
言いながら、母は考えている様子で遠くを見た。
法律事務所の事務職員になって、二十年が経つ。父は司法試験を受け続けることで、自分を支えてきたと思う。
それをやめると言い出したなんて、父の胸を、どんな寒い考えが吹き抜けていったのだろう。
でもね、正直に言うと、母さんは本気で心配してないと。父さんは賢い人だけん、ちゃんと、将来のことを考えとると思うよ。だから母さんだって、これからの生き方を考えなくちゃね。
母は付け足すように言って、力なく微笑んだ。
カギ括弧が失われてしまう。会話もまた地の文章と化す。それは、語りの場を「先日」と呼ぶ「今」に固定することになるように思えないだろうか? すなわち、明日香の回想として、語られつつある時空を、あくまでスープを作りつつある「今」のこととしているのである。それはまた、語りが明日香と同一化しているようでもあり、そしてなにより、母と明日香の乖離でもある。いや、明日香のなかの母の顕現である。他者ではない、明日香にとってある母である。そして、それこそが他者でもあるのだ。社会の目を恐れても、そのひとつひとつの目の意味を理解していたわけではない。それらに意味を与えているのは、明日香にほかならないし、それはまた母の行動に意味づけしていることもまた明日香なのだ。母がパートを辞めたこと、行動のすべてを明日香に報告していること、あたかも世界は明日香を中心に動いている。だが、そんなはずがない。明日香はそれをしっているし、それを恥じていたはずだ。だからこそ、社会の目を恐れていた。
この一夜に起きたこととは、母という他者が、明日香自身の目をとおったところで存在することの発見であると思える。他者を発見し理解することの不可能を思い知りながら、それでもなおしっているといえるはずの他者が、すなわち自己の鏡としての他者である事実の発見になるのではないだろうか。そしてそれは他者を内包する自己の発見の謂いでもあるだろう。