2008/11/26

「零文学」第6号拝受

Zerobungaku 本日、「零文学」第6号が拙宅に届いていた。昼過ぎに帰ってきたのだけれど、今まで気がつかず、ついさっき見つけた。

先般の文学フリマの折に、うっかりと買いそびれたのだが、それをここに書いたら、那住さんが送ってくださったのだ。ありがとうございます。

今号の特集は「青春文学」。そう、第5号に引き続いて「青春文学」。さらなる深掘を試みているらしい。
「零文学」第6号に、小説は、連載第1回を含む5篇。連載作はともかく、どれも短いようだ。

なお、那住さんの転居に伴い、発行所が埼玉県に移った。

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2007/11/28

対称的な2作品

文学フリマ購入した本の中から、ふたつの小説を読んだ。まったくの偶然なのだけれど、なんというか、とても対称的な作品だった。しかし、これはそれぞれの雑誌の傾向というか、創作上の力点の置き方という意味で、文学観の違いといえるのかもしれない。
読んだ小説とは、まず先に読んだのが、「零文学第5号掲載、大水由紀さんの「雨」であり、次が「銀座線」第12号の新井希さん「水無月の花」だった。

対称的というのは、単純にいってしまえば、物語の面白さで読ませてくれた「雨」であり、文章の巧みさで読まされた「水無月の花」だったということで、逆の言い方をすれば、大水さんは文章のうえで、推敲が足りないのではないか、と思われる迂闊さが散見したし、構成でも辛い部分があったのだし、対して新井さんの小説はまるっきりなにも起こらない、じつに淡々とした物語だったということでもある。こんな書き方はフェアではないが、正直にどちらに分があるかといえば、やはり新井さんの小説だろう。だけど、大水さんの小説だって、ほんとうに面白かったのだ。

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2007/06/14

11:59→0:00 ―加藤小判

なにを今さら、ではあるけれど、眼についたから「零文学4号を開いたら、まだ読んでいない小説があった。4Pほどの短篇だったから、読んでみた。

たしかに、見開き2Pならワン・アイデアでもいいだろう。おそらくは原稿用紙で20枚になるかどうかという短さなのだから、これだけのアイデアでも充分といえば充分だ。だけど、読みどころが欲しかった。タイトル通り、1分間の話だ。なんとその1分間に14人もの人物が登場する。

 あぁ、あたしまた一つ歳とっちゃうんだなぁ、と思った。
 誕生日の夜。
 幼いころはそれなりにうれしかった誕生日でも、二十歳を過ぎると曲がり角を過ぎたみたいで嫌になってきつつあった。誕生日はいい思い出なんか一つもない。印象に残るプレゼントをもらったこともない。なんでみんなあんなに笑顔で「今日、誕生日だよ」だなどと言えるのだろうか。
 あたしは誕生日が憂鬱で仕方ない。
 恋人は仕事が忙しいらしくて会うどころか電話すら期待できない。せめて朝にはあたしが勤めるショッピングセンターのガードマンさんが「誕生日おめでとう」くらい言ってくれるだろうか。いや、教えてないから言ってくれるわけないか。

最初のA香にはじまり、次にはどうやらA香が言うガードマンがまたしてもほんの10行ほどの独語をおこなう。そうした些細な連結によって、次々と14人の独語があるのだが、かといって、この間が1分間ではない。例えば、K子が窓の外を見ると窓の明かりが消えるが、その窓の主と思しきL一に話が及んでも、明かりが消えたところからはじまるわけではない。時間は、1分の中に限られているが、重層的である。

さて、すなわち、このワン・アイデアは、かすかな連結が、最後に15人目として現れるのが、A香であることから、かすかでも人の環とでもいったことを連想させる。かといって、これが人と人の繋がりということはできないだろう。それは、それぞれの名まえのつけ方にも表れていると思われる。アルファベットと漢字の組み合わせは、匿名性と同時に特定性を併せ持つ名づけ方といえよう。
さて、ところで、これが例えば「8:14→8:15」というタイトルだったらどうだったろう? もちろんA香の呟きは微妙に変わらざるを得ないが、例えば、E美をはじめ午前0時でありながらいまだ仕事をしている人間も複数現れているし、かたや布団のなかにいるものもいる。そうした、大多数が目覚めていたり、仕事をしたりするのではない、それぞれがそれぞれにある時間であることが、むしろ重要だったと思われるし、このとき、人の環といった単純さともやはりところを異にするようでもある。A香にとって誕生日を迎えるきわめて個人的に特権的な時間が、他者にはまったく無意味である、と見たほうがむしろ自然だ。例えば8:15であれば、広島の原爆によって14人が一瞬に灰になるといったカタストロフによる関連性が予言されただろう。さて、すると、匿名性と特定性を併せ持つ名まえと、あたかも環をなすごとき連結に、なにが見出せるだろう。むしろ、環をなしてしまうことに、予定調和を感じないではいられない。A香につながってしまうN志はいらなかったのではないか、というのが、単純な感想だ。14人ともいかにも普通の人々である。余命いくばくもない人がいても、今まさに死を迎えようとしているわけではなく「しかし、だからといって自分にはなにもできることがないし、まだはっきりと宣告されたわけではないから、死ぬことへの覚悟なんてできない。とにかく、自分はベッドに寝転んでいるだけなのだ。」というし、まあ、はっきりいってしまえば、どれも退屈な1分なのだ。したがって、4Pという短さは正しい。しかし、読ませどころがない。これはやはり辛かった。はっとさせられるなにもなかったのだ。というわけで、N志抜きに、そこに断絶を置いたまま、最後のA香に至ったほうが、むしろ納得できたように思える。

それとも、N志のあとにある「0:00→0:01」という意味不明の一行に、書き手はなにかを込めていたのだろうか? その意味が私には分からない。この一行も不要だったと思える。

それからさ、これならもっと短くてもいいよね? たとえば、M子など、ページ合わせのためとしか思えなかった。こうした仕掛けは、14人それぞれに、ドキドキさせるなにかが必要ではないだろうか。すごく大変なことだけど、掌篇には、詩のように、徹底した彫琢が必要だと思う。詩のようにといっても、言葉ではなく、出来事の彫琢かもしれないが、平凡な人々を書くにしても、その平凡さのなか、平凡にしかなれないことのなかに、なにかを感じさせて欲しかった。いや、言葉はどうでもいい、というわけではないけれど、言葉をあんまり彫琢しすぎると、詩になってしまいかねないので・・・(汗)。
いや、たしかにここにはだれにも倦怠感や徒労感がある。
すると、N志とA香による最後の2章は、「救い」? それならそれで、これでは甘いのではないか?

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2006/11/20

Over The Rainbow―君島有純

美しい小説を読み、すこし同人誌小説に対する疲れが癒されたので、またしても、文学フリマで仕入れた本を漁り、結局一昨日の「東京」に続いて、「零文学第4号の「Over The Rainbow」を読んだ。だけど、掲載順序は「Over The Rainbow」が先である。
そういえば、高橋源一郎のなかでもとても面白く読んだ「虹の彼方に(オーヴァー・ザ・レインボウ)」は、借りパクされたまま、すでに20年以上が経つのだなぁ・・・。最近、講談社文芸文庫が出たけれど、あの真っ青なハードカバーが懐かしい。いや、文芸誌「海」終刊号の背表紙を飾ったことが思い出される。借りパクられて以来読んでいないが、はたして今読んでも面白いのだろうか・・・。

今回は、大いなる期待を込めて。

Over The Rainbow」君島有純
日本語より外国語に「力」を感じているのだろうから、外国語やカタカナのタイトルが増えたことをとやかく言う気はない。そもそも漢字は日本語ではなかったし、それを日本語というなら、外来語という日本語だってある。ただし、政治や経済ならまだしも、言語の在りようやそれがもたらす概念にはたしかに差異があるとは思うけれど、「力」といっても、言語としての力などというものが相対的に強かったり弱かったりするとは思えないが、作品の顔であるタイトルに外国語を使うことには、読者を誘引せしめるなにがしかの「力」を、外国語に感じているのだろう。
その上で、このタイトルだが、黒部ダムを象徴しているだろうけれど、美しいといえば美しいが、象徴性が強すぎやしないか? という懸念もある。本文中に直接にも比喩にも虹が現れないのだから。一度でもいいから、虹をだしておけばよかったと思う。「Over」を考えれば、黒部湖の湖面に虹彩を見てもいいし、あるいはもっと直接にダムから流れ落ちる水飛沫の中に虹を書いてしまってもよかったのではないか。
と、書いたのだが、君島さんが「零文学」さんの掲示板にて、指摘してくださり、慌てて見直したら、たしかに、「ダムから流れ落ちる放水には大きな虹がかかっている。」とあった。見落としです、面目ない。ダムから見下ろす虹だから「Over The Rainbow」、美しいな。

大水さんにも感じられたのだから、「零文学」さんの小説の傾向だろうか、主題が明確だ。そして、主題が明確であるがゆえの、窮屈さがある。すると、その場その場の出来事性、事件が希薄になる。独白が多くなるのである。この小説は、三人称とはいえ、一人旅が語りの場なのだから、独白の過多は必然ともいえるが、たとえば、子持ち男との結婚について、自身の迷いの克服がテーマで、その克服として、恋人の娘の背後にその母を感じている自分を見出すという解決にもならない決着は、けして悪くない、というより面白いとさえ思う。だがここには、そこにいたる出来事が書かれなかった。独白を呼び込むための装置としての一人旅なのだ。
いや、それでも出来事はただそこに起きている。それはよし。黒部に向かう道すがら、出会う中学生たちもいるし、記憶を辿って両親も語られている。だが、いや、だからこそ、それらが羊子に気づかせる史穂(恋人の娘)の母の影が浮かび上がってくる何かが欲しかった。則天去私のように、ただ美しい景色に魅せられて気づく自己の内面、というのでは、説得力に欠ける。それは、父母との会話を断ち切ったことにも表れていないだろうか?

日頃私が書いていることと矛盾しているようではある。出来事はただそこに訪れる。出来事と出会ってしまう瞬間瞬間の積み重ねが小説であるなら、これでよいはずではないか? おそらく、この小説がきわめて主題論的な書きようだったから、説得力を求めてしまうのだろう。悩みがあり、その悩みの根源に気づくことで、克服するといった主題が明確だからこそ、説得力をもとめてしまうのだと思う。あるいは、出会うそれぞれの出来事が、書かずにすまされているからかもしれない。母に打ち明けかけて、母の拒絶に合うと口を噤み、父との遣り取りも書かない。書かないことと書き得ないことは違う。書き得ないことをいかにかして書いてこそ、小説足りえるのではないだろうか? それは表現でもいい、あるいは、場面でもいい、嘘になってしまうことをもどかしみながらも書くことこそ小説になるのだと思う。伝え切れないことをもどかしみながらも、書いてしまうしかないのではないだろうか。すくなくとも、父との会話を書いて欲しかった。史穂と対面して欲しかった。

 自分が本当に恐れていたのは、史穂に会って聡史との関係が壊れることよりも、史穂の中に残る、前の奥さんの影を突きつけられることだったのだ、と羊子は気付いた。
娘の中に、前の奥さんへの嫉妬を二重に重ねて、羊子は自分への不安を高めたのである。

こうした、説明に終始するのではなく、幻でもいいから、たしかに史穂や前の奥さんの影を、読者にも見せて欲しかったのだ。父に恋人の存在を語り得ないなら、語り得ないことを書いて欲しかった。euripidesさんが引用した四迷の迷い、だけど、やはりそれでも書いてしまった四迷がいたことを思い出したい。

不倫ではないのに、まるで不倫のような関係というのは面白いし、それが不倫のようではなくなる方法は明確だというのも面白い。そして、娘の背後にその母の影を見い出している自分に気づくというのもなるほど納得できなくはないのだから、そこにいたる過程を、羊子の思考ではなく、出来事のなかに書いて欲しかった。例えば、松浦理英子の人間同士の関係の書き方には、直接的なコトバではなく、ただただ出来事のなかに立ち表れてくるなにかがある。そう、出来事はただそこで出会ってしまうだけだが、そこに立ち表れてくるなにかが、あって欲しかったと思う。あるいは、意識の流れに徹底してしまうか・・・。もちろん、誰のやり方でもない君島有純さんのやり方が読ませる小説たりえるのが、なによりなのだけれど。そういえば、君島さんは有吉佐和子の研究者だったか。有吉佐和子って、全然記憶にないんだよなぁ。なにか読んだかなぁ・・・???

いや、もしかして、こうした自己と出来事との乖離こそが書かれていたのだろうか? 近代文学を超克(今こそ花田清輝を読もう!)するポスト・モダンな小説かもしれない。「Over The Rainbow」というタイトルも冒頭に触れた高橋源一郎へのオマージュ? そのつもりで見れば、森敦の「意味の変容」を思わせないこともない(嘘・・・)。出来事や、他者に自己を投影させないこと。主題論的に書きつつ、なお、自己と世界の乖離と言うのは、すごく可能性のある書き方だと思う。もし、そうなのだとしたら、それはそれで方法論を洗練させて、突き進んで欲しい。今のままでは、伝わりづらいと思う、というか、違うだろうな、と思っているのが本音。

Judy_garland今、ジュディ・ガーランドが唄う「Over The Rainbow」がふと口をついて出た。

うわっ! ポスト・モダンだの、松浦理英子を引き合いに出すなんて、方向性のいかんを問わず、私は君島さんにすっごく期待しているらしい。

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2006/11/19

東京―大水由紀

4 一応、ひと通り、文学フリマで仕入れた冊子を取り上げようとて、今回は「零文学」4号を手に取った。実をいえば、「零文学」という誌名の同人誌が現れたときには、てっきりロラン・バルトの「零度のエクリチュール」(検索したら「エクリチュールの零度」のタイトルで、文庫もあった)を意識したのかと思ったが、残念ながら、バルトに言及した文章は創刊号以来見ていないが、それは私の勝手な思い込みだから、「零文学」発行の無頼舎さんのしったことではない。無頼を名乗るなら、無頼派についての言及は? といえば、創刊号の特集が神楽坂で、この前の記事でも触れた矢田津世子に触れている。いや、こういうのも、なんか変だな。たしかに矢田津世子といえば、坂口安吾を通じて記憶されている面が強く、私も講談社文芸文庫が出るまでは、それだけの人だったけれど、「茶粥の記」を読んで以来、坂口安吾抜きに充分読むべき作家であると考えているのだから・・・。
そういえば、はらたいらが亡くなったとか・・・。思わず、「クイズダービー」のライバルだった篠沢教授のことを思い出したのだった。なぜこんなことをここで書くかというと、篠沢秀夫さんは、ロラン・バルトの「神話作用」の翻訳者でもあったのだ。
前置きが長い。なぜなら、困っているから・・・。別に明日の日付になるのを待っているわけではない。単純に困っているのだ。

東京」大水由紀
目次によると、次のとおりに紹介されている。

東京―。東京の私大に通う三人の男女。穏やかな性格で東京育ちの陽一。故郷の名古屋をこよなく愛する雄太。地方出身なのが嫌で東京にコンプレックスを持つ千春。それぞれが抱く嫉妬、苦悩を受け入れ克服していく様を描く青春小説。

なるほど・・・、そう読めばいいのか・・・。

彼ら三人の一人称を積み重ねる書き方だ。
・・・・・・・・・・・。
もし、このブログの過去の記事を読んでこられた方なら、ここまで書けば、私の戸惑いがわかろう。そして、彼らは、東京人と、名古屋人と九州人。方言が行き交い、そこに差異を見出している。「壬生義士伝」とこの小説では、方言の意味は似ているようで違う。語りつつある場は大正時代とはいえ、語られつつある場はあくまで幕末であった「壬生義士伝」と現代が舞台のこの小説では、方言の在りようが違うのは当たり前だが、それより、「壬生義士伝」の方言が、ただその地方出身者だから口にするのに対して、ここでは、それぞれのパーソナリティを象徴する。象徴とは、すなわち仕掛けである。方言を使うことと抑圧することという差異によって、性格付けを行っているのだ。じつにわかり易い。そして第三項として、陽一という標準語の使い手の配置も悪くない、というより、まったく無駄に見えながら、じつは重要なはずだった。ビートルズの赤盤と青盤の対比と言う仕掛けに対して見せる陽一の選択が、その役割を象徴している。だが、いかんせん、いずれも弱い。苦悩も苦悩と呼ぶに足りなければ、克服も実感されない。苦悩が書ききれていなければ、克服が実感されるわけがない、といえそうだが、そうでもあるまい。苦悩を書ききってしまえば、克服は安直でも、それなりに説得力は出せるかもしれないし、迂闊を承知で言えば、「上手い」終わり方とはまさにそれだと言えるから、小説としては、その手が手っ取り早いが、むしろ、苦悩は弱くても、克服に力を注いだほうが面白く読めるようには思う。だが、いかんせん、この小説はいずれも弱かった。見るべき描写もない。その上、折角陽一がいながらさらに第三者・恭子を登場させたのは、なおさら輪郭を薄めた。結果、陽一もなにものともなりえず、ただぼんやりと眺めるだけの存在と化している。
期待されるのは、陽一という存在である。こうした天秤の軸となる存在を配置する心意気には期待する。
とはいえ、残念だった。

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