先般、受贈した難波田節子さんの「晩秋の客」のうち、表題作で巻頭の「晩秋の客」を読んだ。「季刊遠近」26号に掲載され、2006年上半期同人誌奨励作に選ばれた小説だ。本書の初出一覧には「季刊遠近」ニ七号とあるが、単純な誤解と思われる。
続く「星の声」は、関連性のある小説で、「晩秋の客」で触れられている過去のエピソードに焦点をあてて書かれた作品だが、私は、「星の声」を「季刊遠近」掲載時に読んでしまった。順番が逆転してしまったわけだが、小説体験には、こうしたことはままある。過去の作家など、有名だったり文庫になっていたり、はたまた国語の教科書で読まされてしまったのちに、遡って以前の作品に触れるなんて体験は、往々にしてある。私の場合、大江健三郎の小説など、それこそバラバラに読んでいるから、光君にしても谷間の村にしても、連続性を欠いたまま記憶されている。連作や、シリーズといわずに書くなら、そうした点を踏まえなければなるまい、とは、創作上のこととして思った私事。ここ数年私の創作物では、べつに石井隆の「名美」に倣ったわけでもなく、「かなえ」もしくはそれを連想させる名まえの女性を書き継いでいるのだが、同人誌なら読者は限られていることもあり、最近はその人物造形を既知のものとして端折っていたかもしれない、という自戒である。
とはいえ、やはり「星の声」の前に読みたかった気はする。ただし、先般いただいたお手紙には、「星の声」を書き直していると書いておられた。おそらくここへ載せるにあたって、手を加えられたのだろう。
「晩秋の客」難波田節子
今回は、登場人物たちの配置について、考えた。
まず、難波田さんといえば、書き出しから一気に場景を立ち上がらせる妙技を持つ人だと思うが、下がこの小説の書き出しである。
夜になって虫の鳴き声を聞くと、ロバートは外国に来たんだなあと実感するのだそうだ。
「イギリスでは虫が鳴かないの?」
「うん。何年か前、南フランスへ旅行した友達から、虫が喧しくて眠れなかったって聞いたことがあるけど」
と言う。
宏子は納得しにくかった。
「写真で見るとイギリスは緑が多そうなのに、虫がいないなんて信じられないわ」
「鳴かない虫ならいっぱいいるさ。たちの悪い虻やナメクジは輸出したいほどいるよ」
とロバートは笑う。恵も傍から口を挟んだ。
「あたしなんか、毎晩夜中に体中虫除けスプレーを吹き付けてナメクジ退治よ。日本にいるような普通のだけじゃなくて、十五、六センチある黒い怪物がニョロニョロ出て来るんだから」
なるほど、物語世界に一気呵成に連れていってくれる見事な書き出しではないだろうか。だが、同時になにか、違和感が伴う。ひととおり、イギリスと虫の話題ののちに、この状況が説明される。
そんな他愛もない話をしながら、三人はもう二時間あまりもビールを飲んでいる。ロバートと恵の夫婦は、今夜恵の実家に行く予定だったのだが、宏子の夫が出張中だと知ると急に気楽になって、ここに泊まって行くことになってしまったのだ。恵の母親は再婚しているので、実家には義父のほかに父親違いの弟が二人おり、必ずしも居心地のよい環境ではないらしい。電話に出た母親も、是非帰って来いとは言わなかったそうだ。
恵だけなら寿司を取ってすませるところだが、ロバートは生魚を食べないから、夕食は三人で駅前の中華料理店へ食べに行って来た。宿泊料だと言って、その費用はロバートが払い、夜遅く塾から帰って来る宏子の娘のために、恵が肉まんと餡まんを包ませてくれた。
ロバートは日本のビールほど美味しいものはないと言う。せっかく中華料理店へ行ったのに、紹興酒ではなく生ビールを、それも大ジョッキで三杯も飲んだ。それでも、帰って来るとまたこうして缶ビールを開けることになる。台所には空缶がもう七、八個転がっているし、バターピーナッツや柿の種の空き袋も散らかっている。宏子の二倍はありそうな大きな手で掴み取られて、チーズクラッカーやあられを盛った皿はたちまち空になる。新しい袋を開けると、それもまたすぐになくなった。
テーブルの上に何もないのは格好がつかないので、宏子は彼らが土産に持って来てくれたチョコレートの箱を開いた。ロバートはそれにもすぐ手を出す。
今そこにいる三人の背景とともに、そこにいたった経緯、そして現状まで、淀みなく書かれている。ロバートの大きな手、乾き物のつまみを掴むその手の動きが、説明のなかにも運動をもたらしている。にもかかわらず、ここには欠けているものがある。おそらくは書き手が意図的に書かなかったものがある。たとえば、最初の引用中の「恵も傍から口を挟んだ。」というセンテンスを見て、「傍」という漢字をどう読んだだろう? 「わき」? いや、「傍」はたしかに「わき」とも読むし、私も当初「わき」と読んだが、「そば」と読むほうが一般的だ。いずれにせよ、ここにそうした迷いをもたらす「傍」という漢字を使ったことに、書き手の意図が表れている気がする。いや、意図といっても、書き手が意識的であったかどうかはこの際問題ではない。そのように表出しているのではないか、ということだ。では、書き手が無意識にせよ書かなかったものとはなにか? おそらくは客間なのだろうけれど、居間かもしれない。それより、3人の位置である。3人の関係を見れば、およその想像はつく。だが、家の構造も語られず、やがて帰ってくる娘亜紀にしても、彼らといかなる位置関係で座っているのか、一切明かされないどころか、その登場さえ唐突でさえある。一行空きの後に、
亜紀が塾の送迎バスで帰って来たのは十時近かった。
恵は子どもの頃からの顔見知りだが、ロバートとは初対面なので、亜紀はさすがに堅くなっていた。
「日本の中学生は、こんなに遅くまで勉強するの?」
と驚くロバートに、恵は笑った。
「あたしたちの時代も同じだったわよねえ。毎晩塾で絞られるだけじゃなく、毎週土日には模擬試験受けに行ったじゃない。あんなに勉強したのに、あたしは第一志望の私立高校を落ちちゃったけど」
「メグはむかしから理想が高かったから」
「ううん。母がうるさかっただけよ。あちこちやたらいっぱい私立を受けさせられたけど、結局宏子と同じ都立高校に行ったのよね。大学も同じ、学部も同じ、英会話学院まで一緒に通ったわね。それなのに、宏子は勤め先で立派な旦那を射止めてこんな可愛い子を産み、あたしは一生あくせく働いて暮らす。一体あの勉強は、あたしにとって何だったんだろう。虚しいなあ」
と、最後のところは日本語で言って、恵は大きなため息をついた。宏子は慌てて恵の口を押さえた。
帰ってくると、ドアを開けることもなく、挨拶することもなく、いきなりその輪のなかにいるのである。いうまでもなく、亜紀がドアをすり抜けたわけはないし、靴も脱いだはずなのだから、それらは省略されているのである。まして、最後のセンテンスには驚かされた。宏子の手が恵の口に届いている。ふたりの距離がそうあったことには驚かされる。私はてっきりロバートの「わき」に座った恵の正面に宏子が座っているとイメージしていたから。まるで、森田芳光の映画「家族ゲーム」のように、横一列に座っているようにさえ・・・。
ここまでを辿ると、単に小説的不備としての説明不足にも読めようが、再三意図について触れたとおり、これらは、仕掛けではないかと思われる。イメージではない彼らの位置に眼を向けさせようとしているのではないだろうか?
では、イメージではない位置、とはなにか? 語りの場には、すでに引用の中に現れた4人だけが登場する。宏子はごく一般的な専業主婦だが、長男である夫の両親が隣に住み、ひとり娘は受験生である。すなわち、家という閉鎖空間に縛られ、家族との関係の中にのみ身を置き、そこにストレスを感じてもいる。この宏子を中心に物語が進むのだが、語りの場は、見てきたとおり、宏子を象徴する家の中に限られる。家の外の場面、中華料理店などは、回想や科白の中で処理される。「地球の裏側」とも書かれる遠い外部からの訪問者、タイトルにもなるロバートとその妻・恵。ロバートは書き出しから象徴的に、まったくの外部の者である。さらに日本語は未熟で、概ね英語で話す。宏子とロバートというあまりにかけ離れた存在を結びつけるのが、宏子の唯一無二の親友で旧友、ロバートの妻の恵だ。彼女は通訳の役目さえ果たすが、さらには宏子の過去にも通じている。新婚のロバートと恵なのだから、このふたりを前にして、むしろ恵の過去こそが、ロバートに披瀝されるべきかもしれないのだが、恵の過去は、やはり宏子の回想で処理されることが多い。
そして、物語を動かすのが、宏子の娘・亜紀である。やけに大人びた、この少女が語りだすと、他愛もなかったはずの会話が、一気に、彼らの関係性を揺さぶるのだ。
「ママは何でもすぐに単純に結論を出したがる人なんです。あたしが生意気なのは、兄弟がいなくて、家族が大人ばかりだからだと思いこんでますけど、あたし一日の大半は学校で同じ歳の子どもの中にいるんです。子どもだって、考えたり悩んだりするのに、ママはそういうこと信じないんです」
亜紀のこの科白は、のちに大きな意味をもつが、その時を待つまでもなく、この小説の根幹に触れている。なぜなら、亜紀が、常日頃から、宏子の知らない時間を、生きて生活していることを示唆しているからである。この家という空間だけが世界ではないのであり、それは、世界の裏側にいくまでもないのだ。すると、世界の裏側の住人は、
恵が早口で通訳すると、ロバートが興奮したように身を乗り出した。
「ぼくはさ、子どもの頃、親父が離婚する度に引っ越していたから、友達ができなかったんだよ。兄弟もいないから、家に帰っても誰もいない。みんなが手をつないで家へ昼飯を食べに帰る時も、一人だけ不味い学校給食で我慢した子だった。すごく淋しくて惨めだったよ。親父が憎らしくてたまんなかった。でも、もし亜紀ちゃんみたいに友達がいっぱいいて、友達からの刺激がある環境にいたら、もう少し違った大人になれたかな」
「もしかすると、もう少しお父さんに優しくなれたかもしれないと思います」
それまで、通訳役を、適当にはぐらかしてみたり、言い換えたりしてきた恵の反応も面白いが、亜紀の登場によって語られ始めたロバートの過去が、亜紀の科白で、大きく揺さぶられる。ロバートは、自分の辛さが癒されたかもしれないというのに、亜紀は父親を許せと、癒すより辛さそのものを消し去れといっている。まったくもってこまっしゃくれた少女だが、ここで起きているのは、宏子の家という閉鎖空間の外部が、また宏子の家のような閉鎖性を同じように抱え込んでいる、そうした普遍性への転換ではないか。宏子の家が特権的に閉鎖空間なのではない。外部もまた、たとえ地球の裏側までいってさえ、小さな閉鎖空間の連なり・・・。いや、閉鎖空間などないのだ。だから、亜紀はドアも開けずに帰ってくるのだ。部屋に入ってくるときも出て行くときも、その境界を越える仕草が語られないままに、移動する。
それでも、やはり、閉鎖空間は存在する。宏子を圧迫する場が存在するし、そうしたものの外部に脱出した恵が羨ましくもある。というより、亜紀が喝破するとおり、家の外について、「ママはそういうこと信じ」られない。畢竟、この揺さぶりのゆえに、亜紀はそうそうに風呂に追い立てられ、退場を余儀なくされる。それでも一度揺れだした場は、余震を免れない。ロバートさえ布団に追いやってから、恵と宏子は、語り始める。この小説のなかで、もっとも大きな事件が、回想されるのである。そして先の亜紀の科白の大きな意味が明かされていく。また、次の作品「星の声」で中心的な役割を担う事件だ。あるいは、この記事で書いてきたことが、最後にいかなる決着を見せるのか、語りたい気も満々あるのだが、こういっては失礼かもしれないが、この本がベストセラーになるとは思えず、読者は少ないと思うので、いまさら、らしくもないが、この先は買って読んでね、と投げ出そう。