二人作りしわが山斎は―寺山あきの
昨日、出掛けに郵便受けを覗くと、「文芸誌O」第43号が拙宅に届いた。編集発行人様ありがとうございます。
掲載作は、小説が5本と詩が1本。Web版も公開済み。
出掛けに見つけたものだから、そのままバッグに入れていき、電車内で、小説をすこしずつ齧り読みして、寺山あきのさんの「二人作りしわが山斎(しま)は」を読破した。
昨日、出掛けに郵便受けを覗くと、「文芸誌O」第43号が拙宅に届いた。編集発行人様ありがとうございます。
掲載作は、小説が5本と詩が1本。Web版も公開済み。
出掛けに見つけたものだから、そのままバッグに入れていき、電車内で、小説をすこしずつ齧り読みして、寺山あきのさんの「二人作りしわが山斎(しま)は」を読破した。
「文芸誌O」第42号の巻頭に掲載された、小島義徳さんの「さまざまな場所に私はいて」を読んでしまった。なお、ここでも読める。
このところ読書が滞り気味だったというのに、読んでしまったのは、その創作過程をある程度覗き見ていたということもあるし、ほとんど拙作と同時進行のように書かれた作品でもあれば、気にかかっていたし、勝手ながら同志的な感情移入があったわけだが、それだけを頼りにしたのでは、私の偏屈振りにてらせば、18Pは読み切れなかったろう。同人誌小説が溜まったまま数多ありながら、読了したのは、おそらくは、危険な方法論に則るこの小説の、その危険な仕掛けそのもののせいだと言い切っておく。
すなわち、投げ出されていく、断片の集積だけ、という方法。これを読み進める過程で、およそこの小説には、結論めいたなにかも、あるいは終わるためのカタストロフも用意されずに、どこで終わっても同じように、ただ〈了〉が打たれることでのみ終わるのだろう、と想像し、それでもなお、どうやって終わるのだろう、という期待も、わずかながらは持っていた。だが、結末については、とりあえず待とう。
断片の集積という方法が選択されたなら、この小説は、掌篇集かというと、そうではなくて、タイトルがなにかを示すとおり、断片集でありながらなお、ひとつの小説であろうとしているのだから、それらの断片の在りようを追うことにも、この小説を読むうえで、なにがしかなのだ。そうでなければ、17個の断片は必要ない。
それぞれの断片は極めて短いため、例えば、私のように読書が極めて遅い人間でさえ、星新一のショートショートがあっという間に一冊を読めてしまうように、先へ先へと読まされる、ということはある。だからこそ、18Pを一気に読まされてしまったのだろう、と言うことなのだが、それらのバランスを見てみたとき、「私・0」は、その数字が象徴的に、プロローグとしてあれば、たった3行と言う短さも、頷けるのだけど、同時に、この章は、たしかにプロローグとして機能してしまった、という意味で、じつは、これは最後の章にも通じるのだが、ちゃんと小説になってしまったのではないか? という疑問も覚えるけれど、そのまえに、次に置かれた「私・1」の長さが、およそ3P程度におよび、他の章に比して長い、という点が気になる。その後、小島さんは、慎重に、章ごとのバランスを配分して、長短織り交ぜて、配置しているようで、おそらく、断片をそれぞれに書いては、あるいは書き上げてのち、置き位置を入れ替えたり、そのバランスを考えただろうと想像されるが、もっとも長い断片が「私・1」に配置されるとき、これからはじまる一篇の小説を書く心構えが表出しているように見えなくもなくて、すると、その後に、それと同様あるいはそれ以上の長さを持った断片がないとき、失速の感を与えないだろうか?
どうゆうことだろう? これもまた「私・0」と「私・16」の問題にも通じるのだが、小説的たること、小説のあるべき姿といったものを否定するようにも、あるいはあり得たはずのパラレル世界の小説を試行あるいは志向するようにも、冒険的な手法を模索しながら、やはりここには、小説的な作為がバランスをもって働かざるを得ないのではないか? ということである。
作為なき小説はあり得ない。それどころか、言葉を遣うということは、その時点で作為が働くのだ。というのは、あまりに大局的なお話だが、ここで提起したいのは、この小説の問題と言うよりも、かねてあり得べき小説の在りようを回避するとき、なお、回避し得ないで選択を余儀なくされる既成の小説的な形とどこで、あるいはどこまで妥協的に折り合いをつけるのか、という、疑問だ。例えば、表現手段として小説というツールを使うこともまた妥協なら、言葉を使うこと、日本語を使う、ということもまた妥協と言えば妥協なのだ。いずれにせよ、どこかで既成のなにがしかと折り合いをつけているのである。
そうした妥協点を意識したとき、多様な「私」(といっても、それらは各断片で、「あたし」にも「オレ」や「ぼく」にもなるが)は、それらを装う書き手としての「私」を揺さぶらざるを得なくなる。「私・7」で、当初「わたし」だったものが「私」に変わるのを手始めに、「私・10」で・・・
数日前から時おり花の匂いを感じていた男の鼻孔に、また甘い香りが微かに漂って来た。夜になると、昼間聞こえなかった音ばかりでなく、感じなかった匂いさえかぎとることが出来るようになる。 おれは右手に持っている鉛筆をノートの上にぽとりと落とした。そして鼻で思いきりその匂いの微粒子を吸いこんで、しばらく呼吸を停止した。息を吐きながら、匂いの正体を特定しようとした。それはおれを拘束している刑務所の高い塀の向こう、古木が歯抜けのように飛び飛びに生きながらえている桜並木から、南風に乗ってやって来ているに相違なかった。
どうやら「おれ」は、「男」という人称の許に、文章を認めていたらしいが、それがとりもなおさず「おれ」のことになってしまう。すると、「私・11」では、夢を見る男が、「私」でありかつ「彼」になってしまうのだ。
冬のさなかに一週間の酷薄な営業の旅をして、十分に疲れたはずなのに私は眠れなかった。
ついに四十を越えてしまったひとり暮らしの男の、海の底より静かな夜だ。
明りのすべてを消し、厚いカーテンにはばまれて窓から月の光がさしこむこともない暗い部屋で、私は目を閉じ、ほとんど眠っているように見える。いつもの悪い癖で、ベッドの上で仰向けに寝たまま腕組みをしていることを除けば。ただ、躰はすでに一時間の上、微動もしていないし、呼吸もやや緩慢だが規則的になされていた。だから、私は眠っていたともいえる。しかし、正確にいおうとすれば、私はごく浅い眠りに宙吊りになったまま夢を見ているそれも漫然と夢を見ているのではない。それが夢であることを十二分に意識した上でなお夢を見、さらにはその夢について考察したり、随意に夢から離脱してほかのことを考えたりもしているのだ。
それから再び見慣れた夢に戻ることさえ出来る。
とはいえ、彼はそう多彩な夢を見るのではない。同一の夢を反復して見るのだ。それはDVDプレイヤーで再生される映像同様に、きわめて正確に反復された。
「私」と「彼」というふたつの人称を自由に往還する。自由に往還する、などと簡単に言っても、これには、相応の度胸と技巧が要求される。
そして、「私・12」になると、この小説の約束を破るように、ただ三人称「彼」が主格になってしまう。もちろん、そんな約束など、ありはしない。ただ、この小説のタイトルが「さまざまな場所に私はいて」であったということがあたかも約束のように思わせたに過ぎない。しかし、それはやはり約束だったのだ。
海辺で、私は黙って砂の上に腰をおろしていた。
少女は目を輝かせて言った。男のひとの顔ってオートバイにまたがって真っ直ぐ走ってゆく時がいちばんすてき。それから少女は上体を預けながら目を閉じて、言った。わたしはあなたの匂いが好き。
「私・14」では、ふたたび語り手は「私」でありながら、ひたすら少女の「わたし」がカギ括弧を省かれたまま語り続け、かたや、「私」は「少女が言った」と言うばかりで、少女に対しては、なにも言葉を発さない。ここには、「私」と「わたし」というふたつの一人称が、地の文章のなかに同居している。しかし、「わたし」はオートバイで走るときの運転手の顔を見る。それはどうすれば可能だろう? 「わたし」とは、ほんとうに存在しているのだろうか? なんとも怪しげな存在である。その怪しさは、「私」が言葉を失っていることと考え合わせても、あるいはその書き方からも、「私」と不可分の存在のようにも見えるのだ。
「私」がさまざまな場所にいることが、約束だったとはどうゆうことだろう。ここに現われる人々がそれぞれに「おれ」や「あたし」など、人称を微妙に違えているとはいえ、それぞれがそれぞれに一人称である、という意味では、たしかに「さまざまな場所に私はい」るが、と同時に、プロローグの「私」は下のとおりに語っている。
この世にはこんなにたくさんの人間が溢れているのだけれど、誰ひとり同じひとはいない。不思議よね。え? あなたは、そうは思わない? みんな同じだって? そう、それなら私はあなたとは話をしないわ。
プロローグの「私」は誰もが同じではない、ひとりひとりがあくまで固有独立独歩の「私」だというのだが、ここに現われる「私」たちが、言い様のない焦燥を抱えて、何某かに、あるいは自分の生に、苛立ちやためらいを抱えているという点で、似ていることもまた確かだし、それは、「私・14」の「私」と「わたし」の不可分性とも似ている。それらは似ているのだ。例えば、それぞれの断章が、反復されるキャベツや縄跳び、あるいは、夜中の電話や、果ては意識的な善悪や心のなかの電流といった極めて抽象的な科白によって、互いに連絡を持つかのようでさえありながら断片のままであり、連絡をもつようにさえ見える断片たちならなおのこと、「私」たちが似てしまうのだけれど、それでもやはり「私」たちが抱えているのは、それぞれのなにかであり、そして、それらに対処する仕草もまた、それぞれに異なる。連絡を持つように見えても、やはりそれらは連結しているとは言えず、それぞれが異なった「私」である。
さて、それなら、似て非なるそれぞれの「私」だろうか? そのために、選択された多様な一人称だろうか? それだけではおさまらないから、「私」は「彼」や、少女の「わたし」にもなったのではないだろうか。
どういうことだろう?

まず、この前の記事で予言したとおり購入してきたのが、アルフレッド・ジャリの「フォーストロール博士言行録」。驚いたことに、定価(2200円)より安かった。国書刊行会のフランス世紀末文学叢書のⅥにあたるのだが、なるほど、かつて本屋に並んでいたはずのときに見かけなかったわけがわかった気がする。今回も、書棚をザッと見渡して、あれれ? と思ったのだが、イメージしていたのは、ユイスマンスの「腐爛の華」が同様にフランス世紀末文学叢書に入っていることもあり、私の書棚に入っている「腐爛の華」のような大きな本を予想していたのだ。ところが、わりとちっさい本なのね。とはいっても、今回、あれれ? と思った理由は、ちょうどそのとき別の方が手にしておられた、ということもあるのだが・・・。
さらに、左のとおり、やはりというべきか、澁澤龍彦訳ジュール・シュペルヴィエルの「ひとさらい」も買ってしまった。薔薇十字社刊の装丁も美しく、かつ、シュペルヴィエルの長篇で、本のコレクターでもなければ装丁はともあれ、澁澤が翻訳したシュペルヴィエルの長篇というのに惹かれて、買ってしまった。
そのうえ、またしても、カプチーノをサービスされてしまった。店長さん、ご馳走さまです。カフェを名乗るだけあり、コーヒーも凄くちゃんとしていて、美味しいお店なのだ。
そして、「文芸誌O」の第42号がもう届いてしまった。週明けくらいを予想していたのだが、意外と早く届いた。編集人様、ありがとうございます。いまのところ未読の同人誌が溜まっており、しばらく時間をいただきたいですが、おいおい拝読いたします。ちなみにWeb版も公開済み。ここ。
色々な同人誌小説を開いては摘まみ読みしているのだけれど、どうしたことか、食指の反応が鈍い。
これより下は友人知人のみなさまへ、お願いごとも含んでおります。
第105回文學界新人賞 辻原登奨励賞の牧田真有子「椅子」を読みかけて、かなりうんざり気味になり、それでも、「ワンちゃん」「東京キノコ」の流れで考えれば、この文章もまたなにがしかを語る材料になりそうだと思い、読みすすめてみようとも思いながら、うんざり感は行を追うごとにいや増すばかりで、本を閉じ、「文芸誌O」41号を開き、巻頭の渡辺たづ子さん「白い谷」に眼を走らせると、10Pだからおよそ原稿用紙で30枚程度という短い作品ではあるが、そのまま一気に読んでしまった。「椅子」なんかよりよほど面白い。
久しぶりに美保と待ち合わせて、ずっと気になっていたランチバイキングが人気のタイ料理店に入った。ちょうど一年のご無沙汰だったね、一年なんてあっという間だよね、などとありきたりの言葉を交わしながら、グリーンサラダに入っている香草を一枚ずつ噛んでは、これはパクチーこれはコブミカンと香りを楽しんでいた。そんな時、
「やまいこうよ」
美保が突然そう言い出して何やら語り出したのだが、飲んだばかりのスープに沈んでいる葉っぱが気になって、生返事を繰り返しながら、
「ねぇ、これってレモングラスだよね」
スプーンで掬って見せると、
「ユカ、今の話ぜんぜん聞いてなかったでしょ」
彼女は語気を荒げた。
書き出しだが、改行前も句点ではなく読点であるなら、それぞれの行頭が一字下げされているとはいえ、ひとつの段落ととらえることもできるかもしれない。いや、段落という区切りには、読み易さといった程度のほかに、どれほどの意味があるわけでもないのだから、どこからどこまでが段落か、などと問う必要はない。だが、この書き出しを見ると、たとえばつい昨日の記事に書いた「東京キノコ」のような地の文章に紛れ込む科白が、まず表れ、ついで、カギ括弧つきの科白が表れている。
ここでの地文の科白は、「だよね」といったいかにも口語を装いながら、どうじに、「などと」と書くことで、科白というより地文化されて、本来の語りとは違っている可能性がしめされている。要約や、意訳の可能性があるのだ。まして「これはパクチーこれはコブミカンと香りを楽しんでいた」といった文章には科白の境界線さえ失われている。ここで起きていることはなにか? ここまでのところ、この小説には「美保」という人物しか現れていないが、あきらかに一人称の文章であり、省かれた語り手がいる。それは、なにもカギ括弧のない会話を見るまでもなく、冒頭のセンテンスで「美保と待ち合わせて」いた人物が示唆されている。いや、あきらかに一人称とは書いたが、かならずしもそうではない。語りが誰かに寄り添うことが常態化している近代小説の在り様にかなえば、それでもまだ、三人称の小説の可能性は残されている。まして、まだ人称が表れる以前のこの引用部で、どうやらこの小説を主体的に支配するらしい人物の名「ユカ」が、美保の科白として表れている。
さて、さきを急がずもうしばらく科白の書き様にとどまろう。改行されて美保の科白がカギ括弧のなかに表れたとき、あたかも遠景でふたりをとらえていたカメラの背景のなかでしかとは聞き取れないほどの曖昧な会話を聞いていたのが、一気にカメラがふたりに寄り、その表情を間近に見るようにさえ感じないだろうか? そのうえ、「やま」と平仮名で書かれるのだ。これはなにごとだろう?
「ごめん」わたしはあわてて香草を口に入れ、レモングラスの香りを確かめてからスプーンを置いた。「ちょっとぼんやりしてた、もう一回」
上に続くこの引用部で、「わたし」が現れ、まして、「わたし」が「やまいこうよ」と書いていながら、それを聞いていなかったというのである。そう、いかにも一人称的な距離をもちながらも、一人称を欠いた書き出し部の、あたかもカメラが寄っていくような距離は、語りの場と「わたし」の乖離の仕草であり、乖離といいながら、それは巧妙に仕組まれた仕掛けである。読み手と「わたし」の乖離なのだ。書き出しのいまだなにがはじまるともどこともしれぬ場所に連れ込まれる矢先の読者にたいし、ユカ=「わたし」はそこがいつどこなのか、しっている。この距離を越えていくのだ。このとき、「やま」という書きかたが、それを聞く「わたし」というよりも読者の耳にとどく音だったようではないか。その意味を取り損なった音。表音文字と表意文字が同居する日本語の特異性を活かし、読者を騙すのである。もちろん表音文字と表意文字のトリックなど珍しいわけではないが、読者を物語世界のなかにゆっくりと引き込み、さらには「わたし」という一人称にまで仕立ててしまうこの書き出しだけでも、ドキドキする。
それなら、この後私たち(読者)は「わたし」になるだろうか? もちろんそんなことはあり得ない。私たちは「わたし」のことなど、今友人の美保とタイ料理を食べていること以外のなにもしりはしない。
ところでこの書き出し部分の色使いも覚えておきたい。なぜふたりはタイ料理なのか? 香草とグリーンサラダ、そしてグリーンカレーを食べている。緑色が際立っている。そして美保は「やま」へ行こうというのだから、これは緑色が気にならないではいられないが、思い出してみれば、この小説のタイトルは「白い谷」である。言ってしまえば、この緑色がのちに頻出してくる白をより際立たせている。
物語を見れば、父の遺骨を田力山という霊山に散骨したいという美保のコトバのなかに表れた「白の谷」の話に、「わたし」は若く美しかった叔母を思い出し、体力に自信がなかったはずなのに、山登りを決行する、と要約できるだろうか?
だから、梗概では小説の面白さなど語れない。たとえば、叔母に連れられた幼かった「わたし」が、なにやら怪しげな洞窟に入る叔母に置いてきぼりを喰わされた場面を見てみよう。
なんの前ぶれもなく、ふいに涙が零れ落ちてきた。気づくと同時に泣きたくなり、そうなるともう我慢ができなくなって、わたしは声を上げて泣き出した。そんな泣き方をするのはずいぶん久しぶりだった。だんだんと気持ちが良くなってきた。大きくて暖かいものに触れているような安心感が、わたしを包んでいた。泣きながら、泣いているのは自分でないと、わたしには分かっていた。誰かがわたしの中を通っている。漠然とそんな体感だけがあった。わたしの中では馴染んだ感覚だった。
「だんだんと気持ちが良くなってきた」と読んだとき、泣くことの妙な「快感」を連想し、「大きくて暖かいもの」の存在も、なるほど自然の力かと思わないでもない。思わないでもないが、センテンスを読みすすめればすすむほど、次第に次第に、事態は異常さを醸しだしてくる。そして、「わたし」には「馴染んだ感覚」だという。だが、私たち(読者)が、その馴染みを共有することは難しいだろう。なにごとが起きているのか? ともあれ、「だんだんと気持ちが良くなってきた」という、ある種唐突ですらあるこのセンテンスにはゾクリと気持ちの良い鳥肌がたった。
泣き出した「わたし」は洞窟のなかに招き入れられるのだが、ここにいる白い老婆は、しかし老婆なのか、あるいはアルビノなのかもしれない不思議な存在で、「わたし」が馴染んでいる感覚さえも見通して見せ、叔母には、いくべき場所を語りはじめるのだが、それがまさに「白の谷」だった。そのコトバを聞きながら、「わたし」はあたかもその場にいるように、その風景を幻視する。
「登り口に鳥居があります。ここで、登らせていただく事の感謝をこめて、山の神様にご挨拶をします。謙虚な気持ちを忘れずに。細い道をしばらく歩くと、草木のない乾いた場所、所々に石が積んである瓦礫の荒野のような場所を通り抜けます。人が長く留まってはいけない場所。ここでは休まないように」
わたしには、おばあさんの言葉が映像になって見えてきていた。その広場、むき出しの岩や石がごろごろしているだけの、墓場のような場所。いや、墓場そのもの。ぼんやりしているとすぐに頭が痛くなってくる、決して立ち止まってはいけない場所。引き擦り込まれてしまう場所。
おばあさんが言ったわけでもない頭の痛みを言う「わたし」」は、幻視というよりも、あたかもその場にいるようですらある。そう、頭痛をいうセンテンスは、あたかも今頭痛がはじまりかけているようではないか。「わたし」とは、特殊な存在である。私たち(読者)は「わたし」たり得ない。
「ユカもいろいろ大変だったんだね」見上げると、叔母はハンカチを目元に当てていた。「オバちゃん、ユカのこと何にもしらなくてごめんね」
わたしはまた、あわてて首を横に振った。そして急に泣きたくてたまらなくなった。悲しくて仕方なかった。止めようとしても、わたしの目からは涙が後から後から零れ落ちた。
「どうして泣くの」
叔母は少しあわてたように言った。
「オバちゃんが泣いてるから」
自分が泣いているのではない。叔母が泣いているのだ。オバちゃんの気持ちがわたしに被さってくる、オバちゃんの気持ちがわたしの中に流れてくる。オバちゃんの気持ちが通っていく。でもそれを、どんな言葉で伝えてよいのか分からなかった。
「オバちゃんが泣くから」
またそう繰り返すしかなかった。
「ありがとう、ユカはやさしいね、ごめんね」
叔母はわたしの手をぎゅっと握った。叔母でさえわたしの涙を、ただの感情移入としてしか理解できないのだ。その白くて細くて冷たい指を握り返しながら、わたしはただ寂しかった。
わたしは時々、人の通り道になる。気づいた時はそうなっていた。明るくて愉快な人もいっぱいいるのに、わたしの中を通るのは、いつも悲しい人ばかりだ。わたしを通った人は、わたしを知らない。それなのに、わたしの中には自分のものではない、人の悲しみばかりが積み重なっていく。誰にも分かってもらえない悲しみだった。
通られる存在である「わたし」なのだが、それはすなわち自分がなにかをするのではなく、受け入れるしかない、外側からこられてしまうものと言えようけれど、ここでちょっと穿ってみよう。
まず、ここで表れている「叔母」と「オバちゃん」というふたつの書き方である。少女の「わたし」の科白のみならず、地文のなかにさえ「オバちゃん」が表れている。これはなにごとだろうか? この場面はいうまでもなく回想である。すなわち、「わたし」が過去の「わたし」を語っている、ある種三人称に近い形式なのだと考えられる。美保と「わたし」の高校時代が30年まえだと書かれていることから、するとこの場面はおよそ40年にもなろうとする昔話である。そうした時間の隔たりのなかで、今の「わたし」は少女の「わたし」を客観的に眺め描写する、あたかも「わたし」という三人称の語り手になっているともいえないだろうか。そして、「オバちゃんの気持ちがわたしに被さってくる、オバちゃんの気持ちがわたしの中に流れてくる。オバちゃんの気持ちが通っていく。」とは、一人称の自由間接話法といってしまっては安易だろうか? だが、このセンテンスは、語り手が今現在の「わたし」から少女の「わたし」に摩り替わってしまっていることだけはたしかだ。人称のいかがわしさが露呈しているといっても安易ではなかろう。
さらに、「オバちゃん」が「おばちゃん」でも「叔母ちゃん」でもないことにも眼を向けたい。「美保」は「美保」でありながら、「ユカ」は「ユカ」であることが、思い出されないだろうか? もちろん、片仮名の名まえであってもおかしくはない。片仮名の名まえだっていくらでもありえる。だからこそ、「オバちゃん」だったのではないか? 「ユカ」という名が片仮名であることを際立たせるために「叔母」は「オバちゃん」と呼ばれたのではないか? と思えるのだ。
上の引用に一行空きを挟んで続くのが下である。
その日そこで見聞きした全てを、わたしは幾度となく自分の中で反芻してきた。老婆と叔母の間に交わされる話の全てが、子供のわたしに理解できたわけではない。けれどもその頃のわたしは、会話を一つの塊として、そっくり頭の中に入れておくことが出来た。わたしにはそういう記憶力もあった。物心ついた時から備わっていた五感を超えた感覚は、老婆に言われたとおり、十代の半ば頃をピークとして徐々になくなっていった。そうなってからようやくわたしは誰もものでもない、ただのわたしになれたのだった。
少々説明的で残念な段落ではあるが、今の「わたし」と昔の「わたし」の乖離をいうようにも見えるのだが、このときに乖離しながらなお、それらの記憶を保持していること、あるいは、とにもかくにも、やはり「わたし」が「誰のものでもない、ただのわたし」であることの、同一性もまた失われてはいないのではないか? それこそが、今も昔も、「ユカ」であることなのではないだろうか? 漢字ではないという美保との距離、片仮名というオバちゃんとの接近性が、少女のユカが今の「わたし」であるところのユカであると告げているように思えるのだ。
山へ登ると、既視感というより再訪のように風景を見る。もちろんそれらは白い老婆の科白に促されて見た風景だ。
ところがここに不思議なセンテンスが見える。
さて、「木曜日」23号の同人誌評が出てきた。ネット上に書かれたものはすでに紹介済みだし、そちらをあたってもらうとして、紙媒体のものを今年も転記しておこう。なお、この他に、取り上げられた作品の一覧は、「文芸同人誌案内」さんの「掲示板」にある。
いやはや、以前かなり腐した作品がベスト5に入ってしまった。
「文學界」八月号「同人雑誌評」勝又浩氏筆
美しい平和図までたどり着いたみたいだが、戦後史はまだつづく。十河順一郎「龍の舌」(「木曜日」23号、東京都)が見せているのは六○年安保の影である。主人公「俺」がこんなふうに言うところがある。「街の様子も激変した。したがって地名はほとんど意味がないと思われる。しかし使わないと話の進行上すこぶる不都合だ。そこで一計を案じ地名の一部に英字を入れることにした。東京のかわりに、T京というように」と。「四国の片田舎」から上京、働きながら大学に通い、しかし授業よりも演劇サークルに精勤し、その勢いでデモにも行く。この時代の学生のお定まりのコースみたいだが、彼には他に、寮で同室の生真面目な学生との付き合い、街のやくざに使われる女性との付き合い、という生活もあった。その二人がともに自殺志願者であり、彼がその幇助者となるところも、この小説の迫力の一つである。会社だの家庭だのといったものに責任のある立場から見たら無責任な青春の放埓に過ぎないであろうが、しかし、こういう無謀な燃焼のなかに生命の真実もあるのだと思わせる。そして、時代とともにそうした時間を持ってしまった者には、今の東京は、あの東京とは決して一緒にはならない。「俺」の東京を、東京オリンピック以降の東京と一緒にしてくれるな、ということになろうか。「俺」の東京を葬るように、彼は友人を殺している。小説は、そういう主人公の今への姿勢も生きている。
「週間 読書人」第2696号「文芸同人誌評」白川正芳氏筆
この他、よこい隆「重力のお友だち」(「木曜日」23号)、小島義徳「夜の散歩者」(「文芸誌O」40号)、秋野信子「斎王ものがたり」(「多気文学」2号)、永田郁夫「小林秀雄の文学の思想」(「名古屋文学」24号)にひかれた。
今月の「文學界・同人雑誌評」では、残念ながら、ここで取り上げた同人誌は取り上げられていなかった。やはり取り上げられるとしても、来月のようだ。ちなみにここに、「同人雑誌評」で取り上げられた作品の一覧がある。
「文芸誌O」40号掲載作、内村和さんの「海辺のベンチ」をとても面白く読んだ。面白く読んだのだけど、なにが? というのが自分でもわからない。淡々と読まされてしまった、という感じなのだ。面白がりながら、「ここ!」と言えない。それを探すのが、今回の記事のテーマ。
定年退職してから半年後の男の話なのだから、2007年問題に直面している現代的なテーマといえるかもしれない。現代的なテーマとは、とりもなおさず凡庸なテーマということでもある。そして、大過なく四十年近い会社勤めを退いて、夫婦ふたりの静かな生活になったとき、なんとも微妙な夫婦間の溝がある。これまた凡庸。すると、それぞれにそれぞれがいない時間を生活の中に持っていたふたりが、定年を境にその生活を一変され、四六時中ともに生活するわけだから、そこには心身ともになにがしかの変態が要求されているかもしれない、というのも、凡庸ではある。熟年離婚の話か、とタカを括って読みはじめたのだけど、そうではなかった。
そうか! なにが面白いといって、妻・晴枝の距離感がなんともよいのだ。夫・悦治の視点で書かれ、父の思い出を辿るように下北まで旅に出てみたり、もう亡くなっている兄が継いだ実家の兄嫁を訪れたり、あげく兄嫁の知人の独身女性の車に送られて、動き回るのも悦治なのだが、そのたびに肩透かしのように、事件らしい事件はなにも起こらないどころか、悦治が思わせぶりというほどでもなく、妙に冷や冷やしながら、なにも起こらないのだ。しかし、その間に、悦治のしらないところで、晴枝には決断があり、動いている。定年になって、四六時中一緒にいてもなお、見えない他者として夫婦はある。それは今まで、互いに仕事を持って別々の時間を持っていたから、ではない。この小説の書き出しは、すでに、定年退職から半年が過ぎたところからはじまっているのだ。半年間、ふたりは四六時中一緒に生活しているにもかかわらず、やはり、晴枝を理解できない悦治がいる。そして、晴枝もまた「この頃あなたの心読めるのよ、私」などと言いながら、最終場面で・・・。
ああ、こう書けば、なにも大仰な事件などなくてもよいのか・・・と思いながら、かと言って、「こう書けば」の「こう」が見出せていないのも事実。悦治が絶えず移動するものであることが、運動を起こしているから? 得体がしれないような、不気味ですらある女たち?
悦治は敬遠していた訳でもないのに、兄の亡くなった後の自分の薄情さを恥じた。静江に貰った干物を置いて門先にいると、白い軽自動車が来た。まだ五十代と見える女の人が繭子さんだった。悦治は躊躇したが義姉に尻を押されて後部座席に座った。何を話していいのか見当もつかないので、
「厚かましくお願いしてすみません」
身をこごめると、繭子さんは小さく笑って、
「気になさらないでください」
と柔らかい声で言うと、義姉に軽く頭を下げてから、車を発進させた。
「今度いらっしゃる時には、おばちゃんに知らせておいてください。私が迎えに来ますから」
繭子さんはさらりと笑顔で言った。悦治は最敬礼ほど深くお辞儀して車を見送ってから、上りの発車時刻にまだ間に合いそうなので、一気に駅の階段を駆け上がった。
定年退職したばかりの悦治にとっては、五十代の女性はなるほど適当な年頃の女性といってもよいだろうから、躊躇もしながら、駅に向かう道中は一気に飛び越えてしまう。こうした時空をあっさりやり過ごす距離感もまた、不思議な気持ちよさがある。そもそもこの5章は、大宮で長野新幹線に乗り換える場面から、義姉を訪れて、上の引用で終わるまでなのだが、ほんの1P半にも満たない、およそ原稿用紙にして5枚にはならない程度で処理されている。かといって、書かれなかったなにかに想像を逞しくさせられるわけでもない。そこにはなにもなかったのだろう、という妙な納得がある。なにもなかったと書くよりは、書かずに済ませてしまう。定年後の空虚感の現出か? とさえ深読みしたくなる。
いや、やはり、なにより晴枝の存在感、悦治との距離感は、とても面白かった。もちろんそれは、悦治の距離感でもある。関係の話なのだから、当然といえば当然だが、悦治にとっての晴枝と晴枝にとっての悦治という二重の距離にズレがある。そして、関係の困難さとはまさにそれ、関係とは二重のものでしかないということを気づかされた、ということが、この小説の驚きだったのかもしれない。他者が、自己の存在を想定してこそ他者たりうるとすれば、例えば定年退職という喪失感の中で自己の自明性を疑うとき、他者という存在も揺らぎを齎されるだろう。それでも自己と他者があるならば、互いの間にたゆたっているもの、関係こそが問題になる。だが、関係といってもそれは小指を結ぶ赤い糸のような1本ではなく、あるいは、赤い糸でさえ、右と左、両方から延びている、とでも考えようか? 結び目はそれぞれの仕方に委ねられている。そして、色合いもまた違う。
ん? 私はなにを言い出しているのか??? わけがわからなくなってきた・・・。この小説で書かれなかった時間を埋めようとしているのかもしれない。
わけがわからなくなった私のことは放っておいて、とにかく、この小説では、自己と他者というよりも、関係の二重化に気づかされたと言っておこう。おそらくは、書かれなかった静江の時間、関係と呼ぶにはあまりにも希薄な関係にもそれを感じたのだろう。兄嫁や繭子もまた・・・。
前に書いたとおり、「文芸誌O」40号掲載渡辺たづ子さんの「光の衣に包まれて」を読んだのだけど、一度記事が消えてしまったので、もう一度、改めて考えていた。
「光の衣に包まれて」は、最終ページに「連作『祈り』 その2」とある。私は残念ながら、「その1」を知らないが、渡辺さんは、ほかにも「輝きの場所」という連作があり、あるいは34号の「ぎゅっとしてて」以来しばらく書き継がれたシリーズもある。同人誌小説は短篇が主体になりがちで、ときに連載で大作をものする方もおられるようだが、おおむね短い小説が多いのではないだろうか。そのなかで、連作という形があり、そこには、自身のテーマを追い求める姿勢がうかがわれる。
この小説では、「祈り」という言葉が示唆的に、キリスト教が導入されているが、そのためだろうか、タイトルにある「光」という言葉が、もうひとつの連作「輝きの場所」の「輝き」という言葉と呼応する。いまだ「輝きの場所」の作品に触れていないのだが、ここでもキリスト教が反映されているのか、あるいは渡辺さんとキリスト教とのかかわりがいかほどなのか、私はしらないし、渡辺さんの信仰については、私の興味の外である。ただ、それらが並んだとき、あらためて、津島佑子の諸作を思い出していた。津島佑子の長篇小説のタイトルにも、おおむね、なにがしか「光」を連想させる言葉があった。
かといって、渡辺たづ子さんの小説、とりわけ「光の衣に包まれて」が津島佑子を連想させるか、といって、そうではない。ただ「光」の言葉から思い出しただけ。
さて、物語をざっと見渡したとき、若菜という学業不振から不良化した娘が更生する道程をその母「私」の視点で描いている、と要約することも可能かもしれない。もって回った言い方をするのは、もちろんわけがある。ひとりの人間の更生が描かれ、ましてキリスト教、あるいは「祈り」が導入されているとすれば、このとき、あたかもデウス・エクス・マキナの仕草で、「神」による救済のもとに更生が達成されかねない。いや、単純の謗りを覚悟して言ってしまえば、この小説もそうなのだ、と言えよう。だが、言うまでもなく、現代日本でそこに説得力はない。渡辺さんはそのあたりを心得ている。実に見事な仕掛けを施した。
講演会場の入口で受付を済ませ、岸田先生の著書を一冊買い求めた。表紙を開くと、几帳面な文字で、先生のサインと言葉が添えられていた。
「イエスは嘆きを喜びに変える」
その文字を少し眺めてから、会場のドアを押す。百席ある会議室と聞いていたが、椅子はあらかた埋まって空席はほとんどなかった。
岸田先生は演壇寄りの隅に立って、主催者らしき男性と話していた。スーツ姿の先生を見るのは初めてだが、長身で細身の身体になかなか似合っている。クリスチャンなので正装する機会が多く、着慣れているのだろう。品格さえ感じられて、今日の主役に相応しく見えた。
真ん中あたりに席を見つけて腰掛けると、隣は太った金髪の外国人女性だった。失礼しますと頭を下げると、たぶん彼女もクリスチャンだろう、どういたしまして、と人懐っこい笑顔で大きく頷いた。
書き出しだが、いきなり岸田先生の素性を明かし、この小説のなかにキリスト教の介在を宣言してしまう。すでに「神」はこの小説に現れてしまった。また、その存在は明らかでありながら、語り手は人称を欠いている。人称のないままに、動き続けている。のみならず、隣席女性とのやり取りでは、鉤カッコもまた省かれている。なお、ここまでで、語り手がクリスチャンではないこともまた明らかだ。
語りつつある場は、このまま講演の場を離れないのだが、先を急がず、もうすこし書き出し部分に眼をとめよう。
定刻どおりに主催者の挨拶が始まり、続いて講演者である岸田先生の紹介へと続いた。
「先生は大学をご卒業後に、いくつかの施設などをご勤務なされた後、ご自分で学習塾を始められました。そのかたわら、様々な理由で学校に行かれない子供達のための居場所作りとして、フリースクールを立ち上げられて、それが今年でちょうど二十年になるそうです。最近は少し体調を崩されたということご事情から、講演会などへのご出席は控えて来られたそうですが、今年はスクール二十周年という節目の年でもありますし、先生がこれまで積み重ねてこられた貴重な体験談を、是非お聞きしたいという話が広がりまして……」
省かれていた鉤カッコがあっさりと表れる。このとき、にわかに演壇上が現前するようではないか? 隣席の外国人女性の笑みと、堅苦しい敬語の主催者挨拶が対比されて、演壇上と客席の距離が立ち表れるように私には思える。主催者の様子が一切語られていないこともその一因だろう。ところが、
主催者から少し離れて、先生は懺悔している罪人のように前で手を組み、背を丸めて項垂れている。いつもの見慣れた岸田先生だ。うつむくと地肌が透けた頭の天辺が目立って、やけに寒々しい。背筋を伸ばして顎を引けば見栄えがするものを、折角のスーツが借り物みたいに見えてくる。
岸田先生は丁寧に描写されて、まして「いつもの見慣れた」といった言葉によって、ぐっと近づく。視線を固めてみせる。
だが、そろそろ少々の不安がよぎる。講演会のレポート? と。
やがて主催者に促され、拍手に押し出されるようにして岸田先生は演壇の前に立った。
みなさま…
太字にした部分は、ゴチック体である。すなわち、とても目立つ。
いつものテノールは出たが、次の言葉が続かない。最初からつまずいている。先生は仕切りなおしするように、軽く咳払いした。それからぎゅっと目を閉じて一呼吸置き、改めて口を開いた。
本日は、こんなにも大勢の方々にお集まりいただきまして、まことに有難うございます。……わたくしはこれまで本を出版したり、色々な場所で講演などもさせていただいてきましたが、えー…しかし……しかし……ここ何年かは、あまり人様の前でお話ができるような状態ではなくて、人様に聞いていただけるような話ができるかどうか、…しかし…、……とにかく、大勢の人前で話すことがあまりなかったものですから…それで…
ゴチック体の部分が、講演内容というわけだが、鉤カッコでくくるのではなく、本を開けば眼を惹く場所が、口語の、しかも未整理の口籠もる様なのである。そして、こののちも、語り手の明朝体によるレポートと、ゴチック体による岸田先生の講演が交互に表れて、この小説は進む。岸田先生の講演は、口語だ。上のような口籠もる様が延々と続くわけではないから、読みにくさはないながら、あくまで語りである。とすると、ここには語り手がふたりいることになる。ちなみに、明朝体の語り手はいまだ自分の人称を明らかにしていない。本を買い、開き、椅子に座り、隣席の女性と挨拶を交わすなら、たしかな存在感を示していながら、なお、なにものともしれない。かたや岸田先生は、ゴチック体の太く黒い文字も鮮やかに、なにか情けない人間味を晒け出している。それはまた、明朝体の語り手による好意ある描写にも拠っているのだから、巧妙だ。
この二月まで、わたくしどものフリースクールに、若菜ちゃんという十九歳の女の子がいました。彼女はこの春から親元を離れて、短大生として新しい生活をスタートさせましたが、その若菜ちゃんが来たばかりの頃、一年半前ですが、わたしに、「せんせぇくさーい、きちんとお風呂入ってんの?」と言うんです。「風呂というものは一週間に一度くらいでいいんじゃないのか」と、わたしが答えると、「何言ってんの先生、お風呂はふつー毎日入るもんだよ」と言われました。なるほどそういうものかとわたくしは反省しまして、家の近くにある温泉のフリーパス券を買ってですね、そこに毎日通うようになりました。
昼の十時くらいの、人が少ない時間に行って、ゆっくりお湯に浸かってごしごしと身体を洗って、一週間ほどわたしも頑張りました。これでもう臭くないだろうと思って聞くと、彼女は、まだ臭いと言います。そして今度は、「着てる服が臭いんじゃない? 洗濯はきちんとしてんの?」と聞くんです。「洗濯は、そーだなー、半年に一度くらいかな」と答えると、それも普通は毎日するものだそうです。普通の人は毎日お風呂に入って、毎日洗濯した清潔なものを身につけるのだそうです。
なるほどそういうものかと、またわたしは助言に従って、毎日温泉に入って毎日洗濯しました。そういうことはあまり得意ではないのですが、努力しました。するとようやく、若菜ちゃんから合格点がもらえました。もう臭くないと言われて、ちょー嬉しかったです。会場に好意的な笑いが広がった。となりの金髪婦人も、ははは、と頭を揺すって笑いながら、肉付きのよい足を組み直した。
最初から、娘の名前が出てきたので驚いた。そういえば、スクールに通い出したばかりの頃に、若菜は言っていた。
岸田先生って、まじ臭いし。お風呂嫌いなんだって。これまで誰からも臭いなんて言われたことなかったから、自分が臭いの知らなかったって。それ信じられない。これまでスクールは男の子がほとんどだったから、そういうこと鈍感だし、思っても言わなかったみたいよ。てか、女の子来てもすぐ辞めてっちゃうことが多かったみたいだけど、それって臭かったからじゃねえ? 奥さんは鼻が悪い人みたいよ、何も言わないんだって。諦められてたのかもね。お母さんみたいに鼻のいい人だったら、一緒にいるのは絶対無理だね。ほんっと、くっさいから。あれはまじやばいよ。
若菜の科白もまた鉤カッコを省かれている点に注意したい。語り手は、それを娘と呼びながらなお自己を示す人称を明かしていない。若菜を娘と呼ぶなら、語り手は自分の「母」という立場を明かしているわけだが、その直後に、娘の若菜が鉤カッコもなく語り出すのである。あたかも語り手が増殖していくようにさえ見えなくもないが、ことはそうしたレトリカルなトリックに落ち着くわけではない。前段の岸田先生の語るところを見れば、いわば教えるものと教えられるものの逆転である。それは新任教師の挨拶の常套句である「ともに学んでいきたい」とか、教師の退任の挨拶の常套句である「生徒に教えられることのなんと多かったことか」などといった凡庸な科白を、実のこととして語っているだけだが、まさにこの小説の主題は、そうした常套句を凡庸さから解き放しつつ、実践せしめる試みだったと私には思える。
岸田先生の講演は、概ね凡庸の域を出ないと言えよう。自分の挫折を織り交ぜながら、さらには顧みなかった自分の家庭で、当の息子が引き籠りになっていて、自分の無力を思い知るといった話は、成功者が成功者ではない自分を曝け出すさまもまた、こうした講演では当たり前といえば当たり前なのだが、そこに紛れ込む明朝体の語り手が、やがてだれともしれなくなっていく様は、感動的だ。長い引用をする。
正式な入学手続をする時に、初めてスクールを訪ねた。そこで見た岸田先生の印象は強烈だった。痩せて尖った肩に着古したポロシャツを引っ掛けるように着て、膝が丸くなって踝が見えるズボンの下は素足にゴムのサンダル履き、薄い頭髪は櫛の目もなくぼさぼさだった。身なりを構わぬ世捨て人のような姿に、今時こんな人がいたのかと、かえって清しさを覚えた。
本日は、わたし自身の生き方を変えた二つの出来事について、お話させていただきます。
失礼します、と断ってから着席し、先生は手にしていたノートを開いた。
わたしは若い頃、不登校の子供達を預かる施設で働いていました。その頃、不登校に対しての一般的な認識というのは、彼らは自立していないから学校に行けない、というものでした。そういう状態に陥っているひ弱で甘えた子供達を、親元から離して自立させて学校に帰そうというのが、わたしの働いていた施設の考え方でした。わたし自身もこのような考え方をしていました。最終目標が学校なわけです。わたしは、子供達を一日も早く学校に復帰させてあげよう、その為こういう軟弱な子達を何とか強くしてやろうと、指導員としてそれなりの使命を感じて、頑張っていたわけです。
話している間中ずっと、先生の指先は落ち着きなくノートの縁を行ったり来たりしている。
施設はあまり人の来ない山の中にありまして、子供達には勉強のかたわら畑仕事などもさせて、自然に触れながら体力もつくという、わたしにとっては理想的と思えるような環境にありました。そういう空気のいい場所で、朝の六時に起床して、ラジオ体操とマラソン、掃除をしてから皆で朝食を作ります。それから勉強があって農作業があって、夜の十時に消灯です。
こんな至れり尽せりの環境に置かれた子供達が、実際にはどうだったかというと、これはもう、理想とはほど遠いものでした。そこに来るまでは、ほとんどの子達が昼夜逆転生活をしていました。ですから一日の始まりからして、本当に大変でした。
一人一人に声をかけて、揺り動かして、また声をかけて、ああしてこうして、やっとのことで起こしても、彼らはフラフラ状態で、とてもじゃないけど体操やマラソンどころではないんです。こんないい環境の中で、恵まれた生活を送ろうとしているんだ、オレも頑張るからお前達も頑張れ、頑張って変われと、わたしは彼らを励まし、自分を励ましました。努力を重ねることで、子供の身体のリズムも整って、やる気も出てくる、良くなる、そして、最終目標である学校にも行けるようになるんだと、信じていました。
ところが当の子供達は、こちらがいくら努力を重ねても、待っても待っても、いっこうに良くならないんです。一日の始まりに、フラフラでも起きようとする子はいい方で、ちょっと目を離せばすぐにまた布団に逆戻り、一日中フテ寝を決め込む子もいます。規則は守らない、自分からやろうとする前向きさはない、その上、施設をいやがって脱走するんです。
子供を追いかけて連れ戻すというのが、そのうちに、毎日の仕事になっていきました。家に帰りたいと泣き叫ぶ子供を連れ戻しても、またしばらくすると脱走する。こんな繰り返しの中で、わたしは葛藤しました。これが本当に最善の方法なのか、これで本当に彼らは良くなるのか、もっと違うやり方があるのではないか、あるいはもうこういう子達は良くならないのではないか、無理かもしれない、などと疑問を持つと同時に、わたしは段々と苦しくなってきました。
こんな自分の心を受けて、身体は正直なものですね、今度はとうとう、わたし自身が起きられなくなってしまったんです。これまで不登校の子供達を指導していた自分がですよ、えらそうなこと言っていたこの一人前の大人がです。出勤できないなんて、そんなバカなと自分でも思うのですが、自分が一番思うのですが、なにせ身体が動かない。最初は眩暈や下痢という症状があったのですが、それがない日でも、どうしても起きられなくなってしまったのです。
落ち着きなく動いていた岸田先生の手がようやく止まって、視線も定まってきた。
それで仕方なく、休職という形を取って実家に戻り、毎日ぶらぶらと過ごしていました。すると、近所の人の目が気になるんですね、これが。こいつ病気にも見えないし、いい年して仕事しないでいったい何してるんだろう、と思われているだろうなと考えるんです。ま、実際そう言われていたでしょうが…。いつも人から見られている、批判されているというふうに、必要以上に思い込んでしまうんです。ですから段々と、玄関の戸をちょっと開けるのにも外の様子をうかがってから、人がいない時を見計らって、などとなって、そのうちに外出もしなくなりました。
そうなってから初めて、これまで自分がみてきた不登校の子供達の気持ちが分かったんですね。自分が指導者として、彼らを見下ろしていたというのも分かって、同じ立場に立てるようになった。彼らが親しい仲間、友人のように思えてきた。あぁ、あいつらもこんなふうに苦しかったんだなと、ようやく思えてきた。職場は半年休みましたが、結局、そのまま退職しました。その時の病気は今でも断続的に続いています。これがわたしの、一つ目の転機でした。初めてスクールを訪れたその日、私は先生に訊かれるまま、これまでのいきさつを話した。若菜がどんな学校生活を送ってきたか、親として自分が娘をどう見て、感じて、考え、悩み、向き合ってきたかを、思いつくまま、とりとめもなく話した。
ゴチック体の岸田先生の語りに挟まれた明朝体の語りは、いったいいつのことだろう。忙しなく動く岸田先生の手は、眼の前にはじめて訪ねてきた明朝体の語り手がいるときだろうか? 当初私はすっかりそう読みながら、なにか居心地の悪さ、いや、講演中のことではないか? などと迷っていたのだが、まぁ、それは私の迂闊というか粗忽で、その後に突如姿を見せる「私」の文字とともにはじまるセンテンスを見れば、まだ、「私」と岸田先生は会話をはじめていないのだから、それは講演中の岸田先生だったわけだが、やはり、そこにいたるまでは、迷わされる。そして、そう、ついに、「私」が登場する。
この小説のなによりの面白さは、「私」が見つめていた「若菜」という他者が、「私」と「若菜」という関係に変容していく様なのだ。娘という他者ではなく、私と娘の間にたゆたっているものに目を向けていく過程なのだ。娘といえども他者である。見つめ、見守ろうとも、愛そうとも、なにをしても、他者である事実にはかわりがない。私は娘にはなれないし、娘を完全に理解することなどできない。そのための、語りの多層化、眩暈のような語り手のズレだったと私には思える。岸田先生とも、若菜とも、時空を越えて寄り添っても寄り添っても距離をとり続ける。他者であり続ける。
そして、このときに導入されるのが、「祈り」だ。
「どんなふうに祈ったらいいのですか」
「心に浮かぶ言葉そのままで。ただ、わたしの経験からいうと、感謝の言葉は入れたほうがいいと思います。とても感謝できないような精神状態でも、とにかく口に出して感謝することを続けていくと、言葉が心の状態を作って整えてくれるような気がします。理屈ではなくて」
こんなやりとりがあって、よくは分からないけれど、私も祈るようになった。神の名は知らないが、とにかく毎晩毎晩、祈った。そして最後に、聞いていただいて有難うございました、と締めくくった。最初は独り言のような呟きも、続けているうちに、誰かが聞いていてくれるような気持ちになってきた。それが励みになって、今度は、娘を授かったことに感謝する祈りを加えた。娘がいることを、心から感謝できるような自分になれればと思ったからだ。
娘が変わることではなく、自分が変わること。その際、「祈り」という言葉を介する。どこに届くあてもない言葉を紡ぐことの理不尽は、言葉にすることの自己への照射にほかならない。それぞれがそれぞれひとりひとりであり、そうしたひとりの自己を、誰にともない言葉の発信によって見出す。対して、岸田先生は、キリストの声を聞くのだが、ではなぜそれを自己の声としてではなく、キリストの声として聞くのだろう? 自分が望まないことを言うからだ。自分の意思に反した意見だから、それは他者の声として聞こえるのだろう。でありながら、それを受け入れるとき、他者が再生産される。
だが、考えてみれば、かの「私」が登場する直前の、岸田先生を語る語り手が、今のことを語るとも、初対面の岸田先生を語るともにわかには知りえなかったことのなかに、岸田先生とキリストの声という他者の再生産が先取りされていたのかもしれない。それは、過去を語る「私」と今を語る「私」の乖離としての他者の現前だろうか? それとも、講演をするスーツ姿の岸田先生とポロシャツにツンツルテンのズボンに素足の岸田先生が時空を越えて一体化する、あるいは、ひとつの語りの場を共有する二様の岸田先生だったと見るべきか? 私としては、後者を取りたい。
一人称のまま、語り手が重層化しながら、それをそれと感じさせないこの手法にも驚きがある。とてもよい小説だと私は思う。
せっかくHTML版がネット上にあり、引用がコピペでできるのだから、もっと丁寧に辿りたかった気がするけれど、ごめんなさい。ちょっと疲れました。端折ってしまいましたが、このくらいにします。
感動しました。
不特定多数に自分勝手な「読み」を公開することには、自分勝手であることが滅失し、ある種の押し付けがましさが伴う。感想の域を超えてしまう。こんなことを思いました、こんなふうに読めました、ではすまされなくなる。euripidesさんも「感想・作品評をブログ、ネット上に公開するのは神経がぴりぴりしますね」と言う。まったく同感なので、だけど、いやだからこそ、「文芸誌O」39号を取り上げて、「文芸同人誌は、頑張っていますよ」と発信しましょうという檄としたい。
「昭和変幻」内村和
皇紀発祥以来の異常に長かった昭和という時間に生きた房江という「女の一生」だが、流転の一生ということもなく、まして昭和には戦争という大きな溝がありながら、どうやら空襲があったわけでもない田舎らしく、また疎開者も見えず、戦争で死んだ者は身近にいながらも、戦争そのものが房江におよぼしたなにかは、きわめて希薄である、という点が、昭和を描く、という試みにあっては珍しく見えるが、たしかにタイトルにさえなりながら、昭和は、ただ単に房江が生きていた時間がそう呼ばれた時間だったに過ぎない。そしてそうした数十年間を描く、およそ30枚前後と思しき短さに凝縮した三人称が、見事だ。
物語は、すでに房江が老婆となった昭和の末から語り起こされる。
今夜はこの地区の観音様の春祭りである。開闢以来そのままだった観音堂の修復が完成した祝賀も兼ねているから、境内は最近にない賑わいである。特設された煌々と明るいライトの下で、早くから詰め掛けた房江たち老人が、堂前に敷かれた茣蓙に一塊になって陣取っている。
最初のこの段落で、語り手は、全体を見渡す視線を持ちながら、しかしなお老人たちのなかで房江という人物が特権化されていることが示されているのだが、続く老人たちの科白を見ると、
「めっぽう暖かいねえ」
「地球温暖化だか何だか知らないが、今頃桜が満開になるなんてさ」
「そうさ、桜は八幡様の祭りと相場が決まっていたのに」
「昭和も長くなりやしたからなあ」
「まあそれでも房江さんが気にかけていた観音堂も立派になったしね」
「色々あったが、こうして皆が集まって、お祭りが出来るような有難い世の中になりやしたね」
「お互いに平らになって、暮らし振りも誰彼なしに、小楽になりやしたからな」
「戦争に負けたお陰だなんて言ったら、戦死した人たちに申し訳が無いな」
「ここでは、源治さん一人だけの犠牲だったが……」
そっと房江の方を伺うように見た誰かが、済まなそうに言った。
「房江さんが一番の苦労人かもしれない」
この村に生まれてこの村を出ることなく、ひたすら家の為に働き通してきた房江を労わるように、長老の文吉が締めくくったが、
「貧乏や苦労はお互い同じだよ。皆しがらみの中で、堪忍袋をぐっと絞めて過ごしてきたと思うよ」
房江はきまり悪そうに周りを見回して言った。待っていたように房江の幼馴染の吉三郎も、
「わしは山本家の小作人で、年貢目いっぱい取られたから、暮らしの足しに日庸とりに出なくては、十分子どもにも食べさせることも出来なかったですわ。夜昼なしに働いたもんだが……こんな便利な世になるとは考えもしなんだなあ」
と続けたので、
「年金のお陰で、ゲートボールや温泉に行くのも、嫁や息子に気兼ねしなくて良くなったからね」
「お互い今の暮らしは、夢のようですなあ」
老人たちの感慨を込めた会話は、そこここで波紋のように広がって果てしなく続いていた。
この時点では、老人たちの素性など読者はしらない。そこにいきなり誰がとも書かれずに複数の老人たちの科白が並ぶのだから、顔も見えない老人たちのその在りようは、そこがまた観音堂の境内でもあれば、なにか妖しげにさえ見える。「なりやした」という語り口調が軽快で、昔の在りようさえ、今現在に連なる理のなかで、諦めにも似た思い出話に成り果てている。
それでも、房江こそが観音堂を気にしていたといい、源治というこの村唯一の戦死者の名まえが告げられると、その名がまた房江に関連することもわかる。話題の中心に房江が置かれる。
ところがこの後、冒頭に触れられた観音堂修復の経緯が延々と語られる。このときまさにこの小説の三人称が活きるのだが、説明に終始しかねない危うい場面を老人たちの会話を交えて、読ませる。そして、房江ひとりに収斂しようとしていた語りの場をもずらしてしまう。
そんな中でその昔庄屋だった家が、不在地主で土地を大半を失った上に、商売の才覚のない当主が経営していた醤油会社を潰してしまった。一家で夜逃げ同様に東京に行ったことなど、暫く村中の話題になっていたが、いつの間にか人々は忘れていた。ところが、最近その息子が突然社長として、近くの町の工場団地に従業員百人を持つ工場を建設したという情報に人々は仰天した。その上、工場進出の記念として、観音様の幟立てを寄付したいと申し入れをして来たのだ。昔から伝わっている杉丸太の幟立は、祭りの度に公民館の軒下から大勢で担ぎ出していたが、高齢化した今は困難になっていたので、渡りに船とばかりに有難く頂こうと意見がまとまった。
幟立てが完成したから、ついでに寄付を募って観音堂の改築、観音様も修繕して今日の祭りがあるのだが、この場面ではあたかも社長が戻ってきてこの物語にかかわってくるかとも思わせる。すなわち、説明であったはずのここが、社長と村を主軸にしたひとつの物語として、小説が絶えざる運動を続けているのだ。もちろん、やがてそうした説明が終わると一行空きを挟んで物語は一転昭和六年に遡り、それ以来社長は一切この物語に姿を現わさないのだから、この段落に異議を唱えることは可能である。せめて、最後にふたたびこの観音堂の場面に語りの場がもどったときに、社長が鷹揚に登場してもよかったとは思うが、先を急ぐことはない。
昭和六年の九月に起きた満州事変のことを、房江は今でも忘れていない。十二歳になっていたから、チョウサクリンとか、ソンブンなどという名前も未だに覚えている。「景気が良くなるかなあ」そんな話が囁かれたほど、村は不景気と恐慌で、地主を除けばみんな本当に食うにこと欠くほど貧しかった。小作農の娘たちは通称キカイと言った町の製糸工場に働きに行くのが普通だった。小学校を卒業した娘たちが出来る、唯一の親孝行の手段でもあった。中には遊郭に身売りをさせられたとかいう、隣村の娘の噂もあったほどだった。山間の村々の四つの川筋からの川が合流した依田川は、水質が良くて豊富だという地理的な条件もあり、多くの製糸工場が競い合って繁栄していた。町の工場通りの下道と呼ばれる通りに沿った堀割は、いつもサナギの臭いをさせて水量豊かに流れていた。房江の村から町に入る上り坂の途中には「世界」という丸い窓のある遊郭もあった。房江はキカイに行くということは、貧しい我が家では当たり前だと小さいときから思っていた。勿論四歳年上の姉の静が稼いだ銭を父親に送っていることも知っていた。早く姉ちゃんのようになりたいと房江は小学校の五年生頃から背伸びをするように日を送っていた。
こうして、語りの場は時間の遡行とともに、房江に寄り添うことになる。昭和九年という時を満州事変から語り起こしながら、十二歳の少女の房江にとって喫緊の課題はキカイに行くこと。張作霖や孫文という名をしっているといいながら、その名を片仮名で書くことで、語り手はまさに十二歳の少女房江に寄り添うのだが、このとき、「景気が良くなるかなあ」と囁かれたこととしての意味しか持ち得ないながら、なお、やはりその満州事変というコトバから語り起こすという仕草によって、近づきつつあった大きな時代の波を示唆して、語りの場の、未来からの視線が示されてもいる。最初のセンテンスが「房江は今でも忘れていない」と締められれば、昭和九年の満州事変が、その時すでに房江になにごとかをもたらしたようにも見えるし、続くセンテンスさえが、満州事変と房江の繋がりを語りながら、それが景気回復への期待という形の繋がりであり、戦争の影より、景気の悪さという問題こそが房江にその記憶を刻ませたものであった。すると、戦争の影よりも、キカイにいくことという課題が、語りの場を支配する。
姉の静が、薮入りで帰ってきた夜、蚊帳の裾を少しまくって、隣の寝床に入って来た勝代に、
「製糸工場になんか来ちゃあだめだぞ」
何の前触れもなく、押し殺したように小声で言った。
「どうして? 六年終わったらキカイに行くだぞって、父さんがこの間言ったよ」
「だめだよ、いい所じゃないから勝代は来ちゃあだめだ」
「そんなこと言ったって、他に稼げるところがないよ。親孝行したいから、絶対エントツ女学校に行くよ」
「それはな、自分の生んだ源治を農学校に出したいって、義母さんが言っているからだ」
「そうだけれど、私だって源治はかわいい弟だもの、農学校へ行かせてやりたいよ」
「義母さんはね、私や房江をこの家から早く追い出したいだけだから」
「そんなことないよ。この間お祭りに、桃色のビロードの鼻緒のついた桐の下駄を買ってくれたもの」
静は大きく息を吐いてから首を振った。
「山の前の梅ちゃんは腸結核という病気になって、家に戻されるという噂だよ。梅ちゃんの家だって、うつる病気だから困っているって聞いたよ。私だってー少し咳が出るから肺病がもしれない、だからさ、父さんに頼んでやるから、源治よりもずっと勉強が良く出来る房江は、高等科に行かしてもらいな。金にはならなくても、近所の蚕の手伝いや子守仕事の方がいいよ」
静は咳を堪えるようなしぐさをして、勝代の手をしっかり握って二三度振った。手は妙に生温かった。心がシーンと静まり返るような感覚が、房江の中を駆け抜けて行った。
先の引用に続いたここでは、おそらく後から名まえを変更したことによる、房江の名が勝代になったり房江になる混乱が見られるが、それはともかく、源治という名の正体が明かされ、継母や姉の結核の気配、さらに紡績工場の実態といったこれから表れるだろう事件の予兆が語られている。それでも、房江の晩年をしっている私たち(読者)は、もしかしたら房江は結核を患うかもしれなくても、すくなくとも昭和の終わりまでは生きながらえるはずだと思いながら、なお、書き出しの老人たちの妖しげな様が、もしかしたら彼らには肉体がないのかもしれない、という疑いを付き纏わせていたから、どこかで、房江がキカイにいくことにたいする懸念を払拭しきれない。これもまた三人称の効果かもしれない。
30枚ほどに凝縮された房江の人生でありながら、事件が起き、その事件に読者をきちんと立ち会わせる書き方は非常に好感を覚えた。昭和を語るとき、あたりまえのように戦争の話に終始するのではなく、空襲のない場所であれば、もっと身近に起きていること、結婚相手の男がいないことや、実子の源治を最優先する継母と気の弱い父、結核の上で身を投げる姉、ヒロポン中毒で紡績工場を追われて身を投げる友人、子連れで出戻った友人のその子を引き取って育てることといった、戦争とは無関係ではないながら、そこに生きて生活するものにとっての出来事が語られる。姉と友人が身を投げたのが、観音堂のそばの今は埋められた池だったというのも、房江と観音堂の因縁として冒頭の場面に通じている。
面白く読んだから、多くは語るまい。せっかくサイトでも読めるのだから、上に施したリンクからでも読んで欲しい。もちろん、本を手に入れるのも良いだろう。
もちろん、先に書いた名まえの間違いは痛い。推敲の甘さを言われても仕方ないだろう。ただし、老いるにしたがって周囲の男たちに伍す房江の気の強さこそが、むしろ勝代という名を嫌わせたのだろうな、と思うと、書き手による命名の仕草が仄見えてしまったという意味では、面白くもある。
いつも、まるで私はなんでもわかっちゃうのさ、とでも言いた気な、なんともいっぱしの論者気取りの文章を書いているのだが、先般*yuka*さんが「いやしい鳥」について触れておられた文章を読んで、鳥の物足りなさに示唆を与えられたのだけれど、今日また、ryoさんによる「ツクヨミ」評を読んで、私が読み落としていた点を教えられた。母が実は思慕の対象でもあるならば、黒い影が母であると同様に、白と黒のあからさまな対称性からいっても、白い巫女もまた母でありえるわけだ。相反する母親像が抽象的な形で語られてもいたというわけで、この点は、重要だったなぁ。なぜなら、それはあの妖精の人形に同化する幽体離脱の場面に連なるある種不自然な段落にも関係し、となれば、幽体離脱とその後の転落にも隠喩が読み取れてくるのだから。
また、euripidesさんは、「タイドプール」に触れておられ、「そのうち四人は体をくっつけ合い、小さく横一列に並び、あの六畳の部屋で過ごすのと同じように窮屈に固まった。」という文章に言及されている。そう、このシーンの書かれていないままなのになぜか四人のくっつけ合った「背中」を幻視させることの美しさを無視してしまってはいけないよなぁ。ジャン・コクトーの「恐るべき子供たち」のついたてで仕切ったポールの部屋さえ思い浮かべたじゃないか(本当は萩尾望都のマンガで思い浮かべたけど)。さらにその背景には、吉田喜重の「鏡の女たち」(←このパッケージ、一色紗英が真ん中って、なぜ?)の少女の後ろで荒れぎみにどんよりした色の海まで思い浮かべたんだから。
長野の文芸同人誌「文芸誌O」の巻頭掲載作に戻ってみた。こんなふうに、あっちへいったりこっちへ戻ったりしていると、誰がどこの同人誌に書いていたとか、あの作品はどの雑誌だったか、わからなくなりそうだ。下手をしたら、一般の文芸誌とも区別がつかなくなるかもしれない。やはりこのブログは私のためにこそ、役に立つ。と予防線を張っておく。
「ツクヨミ」渡辺たづ子
なんとも微妙なバランスを保つ小説だ。タイトルが持つ幻想性を引きずりながら、読み始めると、いきなり現実世界を突きつけられて、おやっ? と思うのだが、同時に、一人称の語り手「わたし」は高熱を発して眩暈を感じてもいる。
朝からの頭痛が本格的になってきた。係長の大きな地声が正面から響いて、こめかみに食い込んでくる。眼精疲労かと手持ちの頭痛止めを飲み、パソコンを消して書類整理などしてみるが治らない。昼休みを待って総務で体温計を借りると、熱は三十八度八分あった。こんなに高い熱を出したのは何年振りだろう。数値に眩暈がして、その場に早退届けを預け家に帰ってきた。
薬箱の底から解熱剤を見つけて飲んでいると、母がパート先の保育所から帰ってきた。保育士として定年まで勤めあげた母は、今年から臨時職員として年少クラスを担当している。子育てのプロだ。
「市販の薬なんか飲んでないで、帰ってくる途中でお医者さんへ寄ってくればよかったのに。薄着なんかしてるから風邪ひくのよ、野菜きちんと食べないで偏食だし夜更かしばっかしてるし。いつも言ってるでしょ」
タイトルになにか妖しげな幻想世界を期待し、頭痛がなにかの到来を予言させながら、いきなり現実世界と相似の生活が、係長の大きな地声に乗って提示される。パソコンや書類整理、総務といった生々しく現実的なコトバが続いて、語られつつある世界の在りようが、私たちのよくしっている現実世界となんらかわらない場所であるとしる。
ふと、「わたし」は家に「帰ってきた。」と告げる直後に、改行こそされながら、母も「帰ってきた。」と記す同語反復によって、「わたし」と「母」が、それこそ「わたし」の眩暈にも似て、不可分の存在になるかと思うと、母が説明される。この時、母は「わたし」ではなくなる。三十八度八分といえば明らかな病人である「わたし」なのだから、このとき「子育てのプロだ。」という短い断定的なセンテンスは、やけに心強いものとして読めるし、続く母の科白にはたしかに棘が混じりながらも、現実的な科白ととれなくもなく、いいながらもせっせと「わたし」のためにすべきこと、例えば氷枕や氷嚢でも用意しているのかとも思う。氷嚢は古いか・・・。冷えピタでもいいや。それはともかく・・・、
二十五にもなろうとする娘に対して、母は相変わらずの命令口調。語尾には突き刺さるような苛立ちがある。家族に病人が出たという面倒な状況に、まず腹が立つらしい。こちらの体調を思いやるなど二の次だ。
母という人は、常に張りつめた空気を纏っている。ぴったりと包み込んで、自分を守っている。外側からの揺れに敏感で、すぐ身構えるような反応をする。そんなに自分が大事だなんて、なんて羨ましい人だろう、おめでたいことだ。いずれにしても、こんな人がどうして保育士などしていられるのか、よく勤まるものと感心する。仕事では別人格になると、本人は言っているのだが。
読者の期待を裏切って、母は頼りにならない。ここで起きているのは、先の「子育てのプロだ。」というセンテンスが、「わたし」の実感としてあるのではなく、ただ保育士を長く務めた客観的事実に過ぎず、母あるいは家庭人としての「母」はそれを疑わせる人物であることの提示である。外の世界でどうあろうと、この「母」は「わたし」の母として、家のなかに存在する。このとき、母の保育士という職業は、家庭内の母と、子育てのプロとしての母を相対化するための装置になるのだが、同時にその職場の姿が見えない。見えないことの苛立たしさもまた、この引用部には見て取れるだろう。
と同時に、高熱を発しているにしては、やけに明晰だ。朦朧感がない。すると、これは今の事件ではないのか?
「医者に寄れる余裕なんかあったら早退けしてないって」
頭の芯からくる絶え間ない疼きと熱でふらつく身体を支えながら、病院の待合室に長時間座ってなんかいられない。とにかく家に帰って横になりたかった。
「そんなに辛いの? じゃお母さんが今からお医者さん連れてってあげるから。点滴か注射でも打ってもらえば…」
「もういいってば」
母の言葉を振り払うように途中で遮って、わたしは部屋を出た。
いつもそうだ。母はまず、自分の感情を優先する。苛立ちをこちらにぶつけた後で余裕を取り戻し、穏やかに取り繕う。あなたを思って少し感情的になったけど、本来の私は優しいの、とでも言いたいらしい。胸を張って、良き母親という幻想の中で生きている。はた迷惑な人だ。
熱はどうなの、身体の具合はどうなのと、まず子供の心配をするのが母親ってもんだろう。まず子供を案じるってことが出来ないのかよ。計算なしで怒るなら怒れ。苛立つならずっと苛立っていろ。子供にまで善人面して取り繕うな。
呑み込んだ言葉が喉元から溢れ出そうで、痛い。
感情的なもの言いが、やはり今ここの事件であることを告げると同時に、さすがにこのあたりまでくると、いたわりのコトバさえ悪意に受け取る「わたし」の仕儀に、「母」よりは「わたし」の理不尽にも思えてくる。だが、それこそが・・・。
こののち、一行空きがあり、
母は若い頃、何度か流産を繰り返した。そして子を持つのを諦めかけた頃、わたしを宿したのだという。
「神様がいらした」と母は言う。「それまで神なんて考えたこともなかったのに、その時はそれこそお百度参りみたいな心境で毎晩祈ったの。私に子供をお授けください、お腹の子供をどうか世の中に出してくださいって。ミホは祈りの果てに生まれてきたんだよ」
昔から何度も聞かされてきた。母特有のその大げさな言い回しに、その度、子供心にも違和感を持った。自分が望まれて生まれた子供だとは、とうてい思えなかった。ほんとにわたしで良かったんだろうか。わたしが間違えて出てきてしまったのではないだろうかと。
ミホが好き? ミホが誰よりも一番好き?
小さい頃はよく訊ねた。ミホちゃんが一番好き。誰よりも一番好き。その度に母は、大きく頷いて答えてくれた。こんなやりとりを何度繰り返しても、しかし、母が望んだのはわたしではなかったと、思えてならなかった。
母は自分を表現する言葉をたくさん持っている。とても独り善がりな言葉だ。それらは母の頭の中で生まれて、頭の中で育つ。そこだけに留まって決して心の底にまで行きつく事はない。だいたい、お百度参りみたいな心境、ってなんだ? いつかそう訊いてみたことがある。そんな心境を理解できる人とは思えなかったからだ。すると母は答えたものだ。
「心をこめて、全身全霊」。
そりゃ、ただの慣用句だろ。
一行空きとも相俟って、状況説明に読めていた文章が、「だいたい、お百度参りみたいな心境、ってなんだ?」というセンテンスが違和感を呼ぶと、最後の「そりゃ、ただの慣用句だろ。」というセンテンスにゆきつく。ここには思わず笑いが零れるだろう。と同時に、この感情的な言い放ちによって、ミホという名であった「わたし」が、まさに今、熱に魘されながら、手繰り寄せた記憶とそれに解釈を加えていることが明らかになる。たえず過去を語りながら、その語られつつある時空は、いつでもない書き手の時空ではなく、今まさに高熱を発して、仕事を早退して帰った家で、語りつつある「わたし」がいる、その場所なのである。だとすると、言ってみれば、ジョイスの「ユリシーズ」よろしく意識の流れなのだろうか?
心の中で毒づいて、ただ黙ってその場を立ち去るだけのわたしは、まるで中学生だ。自室のドアをばたんと閉めてベッドに倒れこむ。
あんな人が自分の母親だなんて。
溜息と一緒に涙が後から後から湧きあがって止まらない。たったあれだけのことで、思春期の中学生みたいにぐじゃぐじゃになるなんて。熱のせいで参っているからだ。身体が弱っているからだ。いい大人がどうしちゃったんだよと自分に言い聞かせながら、振り払おうとしても母が消えない。心の中で広がるばかりだ。
自省を語る段落もありながら、母を罵り続けるこの前半は、正直にいえば、少々シンドイ。母より、「わたし」に辟易としてくる。それが、熱の朦朧とした頭が描き出した、誇張した記憶である可能性が、告げられている。
わたしはベッドで仰向けになったまま、天井からゴムで吊るした小さな妖精の人形に手を伸ばす。人形作家の友達にプレゼントされたものだ。コスモスの花びらみたいに幾重にも重なったピンクや紫のドレスを着て、トンボのような羽を四枚背中につけている。手を離すとゴムの収縮で、両手を広げて優雅に宙を舞う。その軌跡を、わたしは目で追った。追っていると、自分も宙を舞っているような気分になる。追いながら、この熱い身体を抜け出して、わたしは妖精の中へ移動する。わたしは移動した。
ゆらゆらと漂いながら、わたしはベット(原文のママ)のわたしを傍観している。泣きはらした後の腫れた瞼、眼の縁が赤らんでいる。熱っぽくどんよりと曇った瞳、上気した頬。わたしはわたしを見ながら、しだいにわたしを離れていく。何かに両足を掴んで引き寄せられている。どこかに摺りこまれるようだ。すり鉢のような、深くて暗い穴。怖くはない。ゆっくりと回転しながら、わたしは落ちていく。
佐藤さん、柳川さんで同語反復に触れた矢先だから、とくに気がつくというわけでもあるまい。「わたしは妖精の中へ移動する。わたしは移動した。」という同語反復は、だけど、ただの同語反復ではない。ふたつ目の移動する「わたし」とはすでに妖精の中へ移動した「わたし」、すなわち妖精となった「わたし」が移動しているのだ。さらに、意思を思わせる語尾「する」に対して、結果を示唆する「した」という語尾が、その偏差のゆえに、移動の自由を奪われた「わたし」を連想させ、やがて、「わたし」は両足を掴まれて、「どこかに摺りこまれる」。幽体離脱のこの場面の、自分を見る生々しさは見事だと思う。
「※」で区切られたこの後には、母をめぐる記憶のなかで、夢を中心に、断片が積み重ねられていくのだが、その冒頭で語られるのが、タイトルを象徴する巫女の物語である。そして、遡ってみれば、
やがてわたしの身体の真ん中に、一本の線が見えてくる。身体の真ん中を縦にすっと伸びた、白くてまっすぐな筋だ。これが呼吸のたびに少しずつ太くなっていく。太くなって伸びていく。わたしの中を、白い道が伸びていく。重く被さっていた黒っぽい母の記憶が薄れていく。道の白に同化して、消えていく。わたしの中は白い道だけになる。わたしは自分を取りもどす。
という違和感を伴う段落が見え、この意味も巫女の物語のなかで明らかになるのだが、あえていえば、おそらくこの段落は、あとから挿入したのではないだろうか。どうしても違和感が残る。むしろ巫女の物語と夢を読めばなおのこと、付け足した感がいなめない。
それはともかく、子どもの頃にひとりで二階の部屋に早々と休む自分の孤独と、毎晩の母の朗読を中心にしながら、積み重なっていくイメージは、ときに夢とも現実ともつかぬ場面にもなるが、それが、記憶を辿るものなら、曖昧になるよりも、より膨らみもして、
ずいぶん後になってこの時のことを思い返した時、あの足音は母だったのではと、ふと考えた。いつも聞いていた優しい母の足音は、あれはただの抜け殻。あの晩に聞いたものこそが、まさに母の実体。黒いひとがたは母という人の深部から出てきた黒い影、母という人そのものだと、わたしには思えたのだった。
すべては母に収斂していく。二階の暗い部屋で、階下の微かな音や、階段を登ってくる足音を聞いている子どもの姿は、とても共感できる。
問題は、やはり説明だろうか。母の保育士としての仕事振りを見ていたことも語られている。
保育士としての母を、わたしは小さい時から見ていた。周りにはいつも園児たちが群がって、先を争って母を独占したがっていた。母が声をかけ、母が手を差し伸べると、園児たちの顔が輝いた。母が笑うと園児たちに笑顔が広がった。外で見る保育士の母は、わたしの誇りだった。そんな人の子供である自分まで誇らしかった。けれどもそれは、母の一面にすぎなかった。
毎晩ベッドで母を待つ時、わたしは時々かくれんぼの振りをして布団を被って息を潜めた。わたしは母に群がる園児達みたいに、母と遊びたかった。
保育士というコトバだけで相対化されていた母が、眼に見える形で相対化され、布団を被る自分のイメージから嫉妬を示しながら、この後に続く母の在りように相対化を深める。ところが、ここでもはじめの段落の「外で見る保育士の」からはじまるふたつのセンテンスや、あるいは、次の段落の「わたしは母に群がる園児達みたいに、母と遊びたかった。」という文章が、私には不要に思える。
子供が眠りに就く前に親が読み聞かせるのは義務と、母は捉えていた。どんなに疲れていても果たさねばと自分に言い聞かせ、実行していたふうだった。少し大げさな言い方をすれば、だからわたしと向き合う時の母には、義務の遂行に向かう悲壮感らしきものが、常にほんのりと漂っていた。
母のこととしてよりも、母を見る「わたし」、「わたし」が感じている母を語ることが要請されていると思うのだが、やはり執拗だと思えるし、このあとも延々と説明と愚痴が続いて、これも前とおなじ仕草だが、自責もしてみせる。
最後の終わり方はじつに見事だと思う。さりげなさといい、決着といい、申し分ないとさえ思う。はっきり言ってしまえば、なにも解決していない。ある種とても短絡的な自己変革がなされるのだから、終わりのための終わりとも見える。それでもなお、とても気もち