2008/10/01

資源管理型麻雀―鰯藤吾朗

エンターテインメントの小説は、難しい。ましてそれが、何某かの薀蓄に頼ればなおのこと、面白く読ませるのは、極めて難しい。

胡壷・KOKO7号の最後を飾った「資源管理型麻雀」は、二重の薀蓄を身に帯びて書かれている。すなわち、麻雀と水産学の概念としての資源管理だ。この時点で、多分に無理があったといえる。そこで、鰯さんは、一方の薀蓄をはじめから放棄して、いわば読者を絞ってしまった。麻雀牌を並べ、麻雀用語を頻出させて、その知識をもたない人を排除した。それはそれでまったくかまわないだろう。小説は往々にして、読者を選んでいる。読者が小説を選ぶ以前に、じつは小説も読者を選んでいるのだ。単純にいえば、日本語を解さない人を排除していることにはじまって、例えば「胡壷・KOKO」という同人誌に書くなら、同人誌の小説なんて読まない、という人を排除している。だから、ここで、麻雀をしらないひとを排除しているといって、非難するつもりはない。むしろ、資源管理の説明せざるを得ないこととの対比が際立ったようで、面白い。

ところが、読者を選別してしまうからこそ、こうした薀蓄ものは難しいのでもある。なぜなら、麻雀を知っている人を読者に選んだからには、麻雀を知る人を唸らせなければならない。
例えば、今回の小説で、未熟な3人を育てるという名目のもとに麻雀を打つ、すなわちある程度熟練者である主人公の桑野の手の運びを見て、私は、「それはないでしょう!?」と二度ほど思ってしまったのだ。もちろん、それは後から、焦りのあまり手を誤ったと、桑野自身も言うのだが・・・。
というわけで、そう、読者の私は巻き込まれていたわけだ。薀蓄モノはこれが強みだ。それ(今回は麻雀)を知っている読者は、思わず引き込まれてしまう。ズルイとは思うが、それが小説の力だといわれればそうかもしれない。

それでもやっぱりエンターテインメントは難しい。

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2008/09/30

4本の短篇短評

今日(いや、もう昨日だ)は、いずれも極めて短い4本の小説を読んだ。

残雪「カッコウが鳴くあの一瞬」のなかの「霧」と、「胡壷・KOKO7号別枠の井本元義「帰郷」、磯野ひじき「爺さん」、鰺沢圭「アニキ」だ。
簡単にひと言ずつ・・・。

「霧」
やっぱり、わかんねぇ~。まったく霧の中・・・。
ジットリと全身を、絡みつくようにさえ湿らせる霧の中に身を浸しながら、幻覚のように浮かぶ肉親の断片と言葉。霧は白い闇のよう。そのうえ、「まわりの物はみな長いうぶ毛を生やし」て、生き物のよう。およそ黴だと思えばよいのだろうけれど、残雪が書くと、いや、残雪の眼には、ただ黴ではすまず、「しかもひっきりなしに跳びはねるようになっ」ちゃうんだな・・・。
世界は「わたし」を包み込みながら、断片的に、不可解で不条理な現実を投げつけてくる。

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2008/09/29

レバー―納富泰子

もちろん期せずして、ということなのだろうが、「胡壷・KOKO7号の本編3作が、「鍵(キー)」「JUST」「レバー」と、いずれも素直に日本語ではないタイトルが並んだ、という点について、ちょっとどうなの? とは思ったのだった。

それはともかく、「レバー」だ。恐れ入りました。
納富さんについては、「薔薇のように」を超えるまで、「デジタル文学館」に推薦しないつもりだったのだが、「水の音」を読んだときに、遠からずその日がきそうだとも思っていたのだが、あっさりとしてやられた。すでに推薦済み。とはいえ、「デジタル文学館」の司書さんが、お取り込み中だから、もうしばらく待たれたいけれど、「胡壷・KOKO」がお手許にない方もやがて公開されるはずだから、その際には是非読まれたい。

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2008/09/28

JUST―ひわきゆりこ

まったくもって、読者というものは、あるいは私というヤツは、というべきかもしれないが、わがままというか、ひねたものだ。今、私は、「胡壷・KOKO7号掲載ひわきさんの「JUST」を読み終えて、「上手すぎる」といって、もの足りなさを感じているのだから。
それならこの際、上手いとなぜもの足りなく感じてしまうのか、と問うてみよう。

まず、ひわきさんの最近の二作を思い出せば、事件の同時多発(「あした学校で」)と自己の多様性(「象のテラス」)という、きわめて難しいチャレンジがなされていた。じつはそれらこそまさに現実の在りように違いないにもかかわらず、ところが、こと小説、それも中篇程度の100枚以内で書かれる小説では、焦点を絞って書くのが、常套手段といってもいいが、一般的な在りようだ。だけど、換言するならば、例えば、「事件の同時多発」にせよ「自己の多様性」にせよ、それらもまた、それぞれにひとつの焦点にほかならない。例えば、「いじめ」でも「親の不和」でも、それぞれがひとつの焦点になるにもかかわらず、そうした多様な問題が同時多発する現実、という問題もまた、ひとつの焦点と言えるのだ。これは言葉の詐術のようだが、ここに「JUST」という言葉をタイトルにもつ小説がある。

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2008/09/27

鍵(キー)―桑村勝士

胡壷・KOKO第7号巻頭の桑村勝士さんによる「鍵(キー)」を読んだ。

短い小説だ。10Pほどだから、30枚くらいではないだろうか。
正直に書こう。じつを言って、すこし読んで、どの程度の長さなのか確認してしまった。確認して、短いとわかったから、読み進めた。

たしかに、構成力といった点を見れば、桑村さんは格段に上手くなっている。これまでの彼の作品を読んできた私から見ると、かねて、書き出しの緊迫した場面で、一気に読者を引き込みながらも、そうした最初の勢いが、ページが進むごとに失われてしまう尻すぼみの印象が強かったが、やはり今回も、いきなりすでに疲労した段階で渓流沿いをさらにのぼろうとする場面からはじまるのだから、充分に緊迫しているし、切り立った谷川の景色のなかにいるのだから、いわば掴みはあいかわらず上手いと言えながら、そこで、まだその先があるという期待を残し、そしてそこに踏み入り、もう一度山場を作って見せたし、さらに、これまでの桑村さんの創作では、時間の使いかたも雑な印象があったのだが、今回は、むしろそれを逆手にとるような技術的な上手さを見せている。だけではない。タイトルにもある車の鍵の使い方も、上手い。そう、物語の作り方はとても上手くなっているのだ。

だけど、読み進めるのが辛く感じられた。その点については、追って書くとして、とりあえず、桑村さんの上手さを見てみよう。

ところで、今ここでは、いつものようには引用しないでおく。引用すると、文章に触れたくなってしまう。今のところは、物語の上手さなので・・・。

過去に二度までもそこまでたどり着きながら、それ以上進めない、進むことを躊躇わせる場所に、いきなり「ぼく」はいる。釣果はすでに上っているし、雨も降っている、だけど、この先にどんな場所があるのか見てみたい、その逡巡のさまに、1Pほどが費やされる。
だが、結局は、危険をおかさずに戻るのだが、すると、やがてこの物語がその先に進むだろうことを期待して、読者を惹きつけるだろう。さらに、このときに、「ぼく」は鍵をなくしていることに気づくのだ。
すると、この小説のタイトルが鍵だったことを思い出す読者は、それがこの小説にとって、なにごとかを招きよせるだろうと感じとる。
さて、鍵をなくしてしまった「ぼく」は、テクテクと山道を歩くことになる、と思ったら、あっさりと鍵を拾ったという人物が現れてしまうのだ。タイトルになった鍵なのに、こうもあっさりと片付いてしまってよいものか、と驚かされるが、これがあとあとに繋がっていく。それは先の話。
鍵を拾った人物に、「ぼく」が行き損ねている場所の話を聞いて、さて、「ぼく」はそこに行かずにいられなくなる。

このときの時間の使い方が、見事だった。
これまでも桑村さんは、たびたび時間の跳躍を行なってきた。いきなり時間を飛ばしてしまい、回想の身振りになって、飛ばした時間を語るのだ。それは、その時間「今ここ」の出来事を書きそびれる仕草に見えていた。だが、ここで飛ばされるのは、鍵を拾った人物である那須さんの話、あるいは、それを聞く「ぼく」もいれば、ただお茶を飲みながら会話だけで成立するような、いわば退屈な時間だ。
もちろん、ここで、退屈な時間を書いておいても、小休止になって悪くもないが、鍵を見つけた顚末を話して聞かせたり、あるいは、「ぼく」が礼に訪れるといってはじめて聞く話でもあり、すなわち、すでに小休止は書き尽くされている。むしろそうした小休止のあとなら、那須さんの面白い話が語られそうだ、という期待が保留されたと言っていい。そして、山道に分け入る「ぼく」が那須さんのひと言ひと言を、つど、思い出す。そう、危険な山のなかとのんびりとした那須さんの家というふたつの時空を往還する。その落差が、山の危険をより緊迫させる。このテクニックはお見事。

そして、ふたたび、鍵が問題になるのだ。鍵というタイトルが、なんだ、これだけかよ、と思わせる最初の現れ方で、だけど、それでタイトルは処理されたようにも思えているから、忘れていたところで、もう一度現れて、この一篇の小説のタイトルとして活きてくる。

というわけで、物語の構成力は、完成された小説だと思う。

だけど・・・。

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2008/09/20

「胡壷・KOKO」7号拝受

Koko7 たった今、「胡壷・KOKO」第7号が拙宅に届いた。
hiwakiさん、お忙しいなか、ありがとうございます。

今号では、いつもの同人お三方による小説のほかに、別枠として、ペンネームによる4作品が並んでいる。

―KOKO・別枠について―
 今号より、新しいコーナーをつくりました。作品を創りながら私たちは、意識するしないに関らず何かに囚われながら表現しています。「何も考えずに、書きたいように書いてみたい」という欲求を抱く作者は多いと思います。敢えて自分の殻を破った作品に挑戦するコーナーです。初回でまだ破り切れていないかもしれませんが、これからも挑戦する姿勢は持ち続けたいと思います。
 このコーナーにはメンバー以外の作品や、このコーナーのみのペンネームで書かれた作品を掲載しています。まだ始めたばかりで手探り状態ですが、新しい表現世界に踏み出す手懸かりになればと思います。【ひ】

【ひ】さんが、別枠の最後に書かれている。
パラッと覗いてみたら、麻雀牌が並んだ小説なんてものもある。思わず、最初の数行を読んでしまった。面白い試みではないか。いや、阿佐田哲也(色川武大)をはじめ、麻雀牌が書かれた小説がないわけではない。新しい小説を書く、というのではない。自分の殻を破ってみたいというのもまた、挑戦だ。小説でもなんでも、挑戦のない創作なんて、読みたくはない。その意味では、別枠にするまでもないではないか、とも言えるのだが、ここに、「作品を創りながら私たちは、意識するしないに関らず何かに囚われながら表現しています」という意識が働いている。この事実に無頓着ではいけないと思う。だから、別枠なのだ。

kairouさんが書いておられるが、やっぱりこうゆうところに、先に目がいっちゃいますよね。どんなことしてんのかなぁ、って。

Nさん、メールを頂戴しながら、返信し損ねて申し訳ありません。
hiwakiさん、今号も制作お疲れ様でした。別枠という新企画の編集もあったのですから、ご苦労もいつもに増したことと思います。
みなさんの作品を楽しませていただきます。

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2008/04/13

同人雑誌評を巡って―そして入稿

Bungakukai0805胡壷・KOKO6号に掲載されていたひわきゆりこさんの「象のテラス」が、「文學界」の「同人雑誌評」に取り上げられたのは、3月号だった。評者は松本徹氏。ところが、今月発売の5月号で、大河内昭爾氏が再度取り上げて、あまつさえベスト5に選んでいる。とても面白い出来事だと思う。
もちろんそれは「象のテラス」がある水準に達しているから相成ったわけだが、そうした水準を超えたところでは、もう評者の好みの話なのであり、「ベスト」などと言いつつも、優劣と言いうる絶対的な批評などない、と暴露したことになるだろう。じつをいえばそんなことは言うまでもない、とも言えるが、「ベスト」と言い、半年に一度「同人雑誌優秀作」を選出している同人雑誌評の評者のなかでもリーダー格にある大河内氏が、改めて、同人雑誌評という場で、そうした優劣の在りようを示したことには驚きさえ感じられる。まして、その書き振りが面白い。

 ひわきゆりこの作品は前から感性の良さを感じている。つまり文章のリズムが好きなのである。三月号で松本徹氏が取り上げているが改めて論じたい。「象のテラス」(「胡壷」6号、福岡市)にも自然体のゆとりを感じる。とりとめのない話の運びなのに魅力があって、私のぼんやりした気分に逆らわない。・・・以下略

「感性の良さを感じ」ると言いながら、「好きなのである」と書き、それはまるで、普遍的な「感性の良さ」を否定し、あくまで大河内氏の基準に沿う「感性の良さ」に還元してしまう。あまつさえ「私の・・・気分に逆らわない」からこの小説は優れている、というわけだ。ここには、ひわきさんの「感性の良さ」を看取できなかった松本徹氏にたいする遠慮が見えるようでもあるが、そうした遠慮がちな口振さえ、批評の普遍性、作品優劣の絶対的な普遍性の否定が、批評者自らによって吐露されてしまった結果なのだといえよう。

こんなことをしてしまったからには、この際ベスト5とか同人雑誌優秀作なんてことは止めてしまうのが妥当ではないか? とさえ思えてくる。自らの同人誌評とのかかわりを巡って三十余年を振り返り、昭和60年当時にはかろうじて認められた文学界による同人誌への期待が、懸賞(新人賞)制度の確立によって今やすっかり失われたことを認識するらしい今回の書き出しを見ても、そう思う。
「同人雑誌評」を継続するなかで、これと思う書き手には、「文學界」は無理でも、「季刊 文科」にでも精力的に書かせればよいのではないだろうか? まぁ、今でも例えば玄月といった書き手を輩出しているといった自負があるのだろうし、「季刊 文科」にそうした作家輩出ができないこともわかっている、ということなのだろう。

ともあれ、ひわきさん、ベスト5おめでとうございます。
なんだかんだいっても、やっぱり嬉しいですよね。私も嬉しかったですもの。まして今回は、こうした経緯があったのだから、まさに僥倖。喜んで当然だと思います。

ちなみに、今回の「同人雑誌評」では、「季刊 遠近33号掲載難波田節子さんの「ハンモックのある庭」も取り上げられている。

今回、自宅就労という閉じ籠り生活をしていたら、7日に7日であることに気づかず、「文學界」」の発売日を逃してしまった。
ところが、大宮のルミネに入っていた書店が潰れ、ヴィレッジ・ヴァンガードになってしまい、大ターミナル駅であるはずの大宮でさえ、「文學界」を入荷する書店は、駅構内ecuteのリブロかロフト内のジュンク堂しかなくなってしまった(ちなみに、ロフトの中にもヴィレッジ・ヴァンガードがある。ヴィレッジ・ヴァンガードが嫌いではないが・・・)。あげくが、どちらも入荷数がすくないらしく、発売日を逃したら、とたんに品切れだった。結果、新宿まで足を伸ばしたときにようやく手に入れられたというわけ。こんな僥倖が起きたときにかぎって・・・。
Gunzo0805 それで、文芸誌を眺めていたら、「群像」が第二回の大江健三郎賞を発表しているというし、さらに新人賞の予選通過者のなかにH.F.さんのお名まえがあるというので、手にとってみると、なんと円城塔が新作小説を書いて巻頭を飾っているではないか。というわけで、思わず購入した。
円城塔の新作「烏有此譚」は、冒頭部分を覗いたが、どちらかというと、「つぎの著者につづく」より「オブ・ザ・ベースボール」の系譜のようで、いやはや・・・、また退屈のようだ。とはいえ、まだまだ冒頭部分しか読んでいない。
H.F.さん、おめでとうございます。一次通過だって嬉しいですよ。私も昔の「早稲田文学」でしたが、一次を通ったときには、思わず「早稲田文学」を買ってしまいました。まして、とりわけ競争率が高いという「群像」ですから、充分誇っていいでしょう。

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2008/01/24

「胡壷KOKO」6号について書かれた文章集

先日の納富さんの「胡壷・KOKO6号掲載の作品「水の音」について、多くの方が興味を示されたようす。記事を書いた甲斐がある。たくさんのコメントをいただき、「胡壷・KOKO」誌を手にしたいと仰せられた方もある。また、ちょっと探ってみたら、同人誌小説ではきわめて稀なことなのだが、あの記事をブックマークされた方がすくなからずおられる。同人誌小説についての記事がブックマークされることがすでに稀なのに、私のしるかぎり、複数の方がブックマークされたのは、これがはじめて。これもひとえに「胡壷・KOKO」誌あってのこと。

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2008/01/22

水の音―納富泰子

なんと静かな時間のなかにいるのだろう。いや、ここには時間がない。時間の隙間に立っているようにさえ、思える。語り手がいつどこで語っているのか、と問うその現実的な場所が時空の狭間のようにさえ思える。語りの時空は、超時空とでも呼びたい、語られつつある時空とは異次元の場所だ。・・・と、言い切ることの違和感をたしかに感じ、それはあくまで印象論に過ぎないと自覚の素振りも交えながら、あえて、「異次元の語り」などと呼んでみることから、はじめたい。

胡壷・KOKO6号に2年ぶりに掲載された納富泰子さんの新作小説「水の音」だ。

だが、語りの場が見えないわけではない。

 老犬が一頭いるだけの初老の女の独り暮らしになって、二年あまりになる。訪れてくる人間も少なくなった。

というのだから、むしろ語りつつあるときは明確なのだと言っていいだろう。だが、それ以前に書き出しの文章がある。

 いつから、あんな水滴が耳の奥に落ちるようになったのだろう。思い出してみると、夫が去っていく半年くらい前から始まったような気がする。
 夫が家を出ていくと言い出した騒ぎの最中には、水滴の音は途絶えていた。独りになって、しばらくすると、また聞こえ始めたのだった。
 夜の寝入りばなに、耳の奥に水の滴が、ぽっちゃぁぁん、と一滴だけ落ちる。

いまや私たちは、水滴の音を聞くことなど稀なのではないだろうか? 雨音なら聞いても、「ぽっちゃぁぁん」と落ちる水滴の音を聞こうとすれば、静謐な、そしてそれが寝入りばななら、暗い場所である。じつは私の携帯電話のメール着信音はまさにそうした水滴の音にしているのだが、というのも、今や水滴の音など聞く機会がないから、それを聞けば「ああ、私の携帯だな」とすぐに認識できるからなのだが、そんな個人的な話はどうあれ、静けさのなかで、ただひとつ、水が、水は落ちる音を聞く、その静寂からはじまったこの小説は、絶え間なく周囲に水を漲らせながら、「秋江」という女の独りの暮らしを淡々と語っていく。ところが、ここまで引用したどこを見ても、今のところ「秋江」という名は書かれていない。最初に引用した段落に続いているのが下だ。

 平日の午後に週二回、二時間ほど、舜美(まゆみ)という名の若い女に、歌曲の個人レッスンをする。そのときだけは、家の中の薄い空気が明るんで膨らむ。(カッコ内原文ルビ)

舜美を語る仕草の「という名の若い女」などという醒めた書き振りにも、あるいは「空気が明るんで膨らむ」という描写にも、語り手が空気ではない何者かとしての気配を漂わせながら、さらに下に続くのだ。

 夫は、離婚の時、秋江に新しく預金口座を開かせ、律儀に毎月十万円ずつ振り込んできた。「慰謝料」だという。

ここにいたってようやく「秋江」という名が明かされる。すなわちようやくこの小説が三人称で語られているのだとわかるのだが、すると、冒頭のセンテンス「いつから、あんな水滴が耳の奥に落ちるようになったのだろう」と問うもの、あるいは男を「夫」と呼ぶものが、秋江だとわかる、というより、まるで一人称のように書かれていたのだから、舜美を「若い女」と呼ぶこともふくめ、秋江の言葉遣いに思えていたものが、ふいに、距離をとり、それらの言葉を呟く秋江ならざるもうひとりの語り手がぼんやりと現れる。だが、「いつから、あんな水滴が耳の奥に落ちるようになったのだろう」と呟いたのは、紛れもなく秋江だったはずだ。三人称ではありながら、その語り手は秋江とほとんど一体化するように、寄り添っている。寄り添いながら、それでもなおそれは秋江の一人称ではない。この書き出しの、秋江であって秋江ではないという語り手の、語られつつある場に対する距離が、まさに異次元を思わせる。
上に現れた一頭の犬リュウを引き取ってきてから老いてしまった今まで、あるいは家の周囲、夫との離婚、それらが語られていくその時間の不明さ。今が語られないわけではない。風水に凝っている舜美によって侵されていく秋江の家が描かれている。ところがその一方で、絶えず水の気配が物語ではなく、景色のなかに流れる。歌曲のレッスンをする秋江が聞くヒトであるならば、水の気配もおおむね聞こえてくるものとしてあるが、その一方に、風水のみならず霊感ももつ舜美は見えざるものまで見るものだ。秋江が唄い、いつもにない声が出たときには、舜美がいうのだ。「フォーレさんが肩を抱いていた」と。あるいは、秋江の夫がきているとまで。すると、庭先の舜美と眼を合わせるその場のなんと恐ろしげなことだろう。舜美はエンジュという字は鬼を含む(槐)から刈れとまでいいながら、雨が降れば川になる坂は鬼坂だという。
こうしたイメージと音の淡々とした連鎖を静かに語っていく、秋江であって秋江でないもののなんと不思議な立ち位置だろう。いや、立ってなどいない。座ってもいない。なぜなら秋江でもあるのだから、この語り手の場所は曖昧模糊として、物語を消し去っていくばかりのようなのだ。それは水が浄化して流していくようにさえ、絶えず、なにもなかったことになるようにさえ、思えた。

 雨水が溢れて鬼坂が薄い急流の川になるときだけ、通る車には表情が出る。

 雨が降れば、古い家を囲んだ赤煉瓦塀が鮮やかに濡れる。塀には野ブドウの蔦が這っている。野ブドウは、秋になると青や紫の愛らしく美しい実をつけるので、子供のころの秋江のままごと遊びにいつも使われていた。
 大粒の雨が降ると林はざわめき、家の中まで、賑やかな音が満ちる。雨の音は、激しくなったり和らいだり、さまざまな息を吐く。雨脚がゆるくなったときに窓を細くあけると、湿りけのある風がひんやりと、一筋しのびこんできて、落ち葉のくすんだ匂いを秋江の肌にまつわりつかせる。

いつのこととしれない時に雨が降っているのだ。

 冬瓜はすべて消えていた。かわりに、プラスチックの白い収納庫に、水がたっぷりと溜まっていた。破れた皮だけが不服そうな感じで隅の方に浮かんでいた。
 台所の灯を映して、銀箔のように揺れる透明な水だった。浸した指先が、薄い感じで濡れる。フォーレの歌曲「河のほとりで」の旋律が浮かんだ。叶えられないかもしれない切望がひたむきに、美しいソプラノで歌われる曲だ。
 柄杓で掬い取るとき、水のしたたって落ちる音が、澄んだ音色で聞こえた。その音は、寝入りばなに、耳の奥に落ちるようになった水滴の音に似ていた。
 耳の奥に感じているのは、うすあかりのなかの、昏くひそやかな水たまりだった。水たまりに、水滴が一滴だけ、どこか見知らぬところから落ちてくるのだった。
 落ちたあと一瞬、流れている時間が止まる。
 水の音の余韻が、尾を引いてしんしんと胸に広がる。

この一滴の水が語り手そのもののようにさえ、私には思える。この冬瓜さえ、もう過ぎ去った昔の話なのだ。
だが、秋江の耳のなかで鳴るのは、水の音だけではない。

 舜美が週二回、親しく家に出入りするようになって、三ヵ月が過ぎたころから、なぜか秋江の耳から、寝入りばなに聞こえていた水滴の落ちる音が遠のいた。
 かわりのように、チャイムの音が耳のなかに響くようになった。眠りに引き込まれていくなかで、一回だけ耳の奥に鳴る。ぴん、と大きく響き、ぽぉぉん、と低く遠くに聞こえる。

ここにも顕れるオノマトペもまた、やはりそのように聞く秋江とそれを文字にするものの気配を漂わせている。しかし、その両者が乖離してしまわないのだ。

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2008/01/13

象のテラス―ひわきゆりこ

言うまでもなく、とまで言うのは語弊があるにせよ、考えようによっては、人は常に分裂している。ひとりの人間が、多様な在りようを強いられている。社会を構成する階層ごとに、自己の在りようを微妙に、あるいは大きく変えている。そうした社会の各階層を、時として同時的にも生きているのが人間だ、と言ってもいいが、例えば父母のまえで娘であり、友人のまえで友だちであり、学校に通っていれば教師のまえで生徒になるし、勤めれば部下にも上司にも同僚にもなる。子を産めば、母になる。多様な自己を生きている。
このとき、小説は、例えば恋愛を軸にすえれば、誰かの恋人であろうとする自己に軸足を据え、例えば反対する両親やあるいは片恋によって拒絶されるなり友人の恋人を好きになるなどなど、恋人であり得ない自己との齟齬が、統合なり諦めなり、なにがしかの超克の身振りによって成立するだろう。このとき、恋人であることと同時に娘である自己のその同時性が、恋人であろうとすることに軸足を置くからこそ、齟齬として物語たり得るのだが、では、私たちははたしてそうした軸足といったもののなかで日々を過ごしているだろうか? ときに応じて軸足をずらしながら生きているのではないだろうか? それも、同時的に。いや、仕事に軸足を置いているひとや家庭こそ自分の軸足だというひともあるだろうけれど、それでもなお時に応じて、足場を変えているだろうし、ましてふいにそうした軸足の足場を失ったらどうか?

5号の「あした学校で」で、事件の同時多発という生きることの多様さに戸惑ってみせたひわきゆりこさんの「胡壷・KOKO6号掲載の新作「象のテラス」は、事件あるいは生活の多様さというよりも、あたりまえの生活のなかの自己の多様さに踏み込んだ意欲作だ。なんとなく、繁忙な生活を送っておられるひわきさんだからこそ、こうしたテーマになるのかな、などというのは邪推というべきだろうから、とっとと忘れて、この小説を見ていきたい。

 喉の渇きで目が醒めた。掛け時計は二時半を指している。コタツにもぐり込んだまま寝てしまったので、汗をかいていた。上半身を起こし、とりあえず手が届く範囲を眺めた。潰れたビール缶、袋からこぼれ出したスナック、トマトソースがこびり付いた総菜のパックなどが散乱している。再び仰向けに寝転がった目を天井の灯りが刺した。
 またやってしまった。時間が経つにつれて捨て鉢になってゆく自分が嫌いだった。今年の元旦、私は無職になった。そして、一年ちょっと付き合ったサトルが去って行ったのが一週間前。どうしてこんなふうになってしまったのだろう。私はまたくどくどと考えていた。

書き出しを見れば、自己の多様性というよりもやはり事件の同時多発ではないか、と思える。失職と失恋、さらにそれらがもたらしたらしい自堕落な生活。だが、ここで眼を引くのがことさらに時間を示す書き込みの多さだ。昨日の記事でも小説の時制について書いたばかりなのだが、この小説でも時間の在りようにこそ眼を向けるべきだと思える。ふたつめのセンテンスにすかさず時間が告げられているのだが、それよりも、ふたつめの段落に見える時の書き方だ。すでにコタツと書かれていれば、それは冬の話なのだろうとは見当がついているのだが、「今年の元旦、私は無職になった」といわれても、語られつつある今ここはいつなのか、明確に示されていなければ、およそ1・2ヶ月の間ではあろうけれど、それからどれだけの時間が経過しているのか曖昧なまま、ところがサトルが去ったのは一週間前だと明文化されている。ところがこうした時間の書き方こそ、この小説の世界を今ここたらしめていく。すなわち、明確な時の提示が必要なのではない。今であることが問題なのだ。今「私」は職を失い、恋人に去られて、自堕落な生活をしているのである。
さて、上に私は「あたりまえの生活」と書いたが、この小説ははじまって間もなく下の出来事に直面する。

 布団にもぐり込もうとした私は、仰天した。自分の目が酔いでおかしくなったのかと思った。
 私のベッドでは小さな女の子が熟睡していた。瞬間、「誘拐」、「連れまわし」などの言葉が浮かんだ。どうして見たこともない幼児が、私のベッドで眠っているのだろう。遠慮がちにのぞき込むと、鼻がわずかに膨らんだり萎んだりしている。閉じられた唇はぷっくり盛り上がってくすみなく淡い。なんてちっちゃな口なんだろう。
 顔全体を眺めていると、女の子のおかっぱ頭から手繰り寄せるように昨夜の記憶が戻ってくる。お酒を呑んだ時の人の頭なんて、ほんとうにいい加減なものだ。

昨日書いたように、記憶を手繰り寄せる身振りは、説明に陥りかねず、少々饒舌になってしまうあたりはご愛嬌とはいえ、それより、見知らぬ少女が自分のベッドを占領しているのだから、「あたりまえの生活」ではない。だがそれが起きている今ここの出来事だから、ただ仰天しているよりも、少女の寝顔に見蕩れるようにも眺めてしまう。それどころではないだろう? というかもしれない。冷静な頭にとってはそうかもしれない。しかし、そこに顔があるとき、それを見て、なにかを感じることこそやはり出来事の現前だ。今ここの出来事だ。「私」が「私」のベッドで熟睡する少女に出会っているその現場に、この小説はいる。そしてそうした現前性のゆえにこそ、記憶を手繰り寄せる仕草が呼び寄せられるのだし、それに自覚的だからこそ、饒舌にもなる。
さて、思い出す仕草のまま、すなわち今ここの語りのまま、昨夕に少女が唐突に上りこんだ顚末を足早に語ると、下の文章がある。

 思い出そうとするのだが、思考が混乱してきて面倒になった。明日のことは明日、考えよう。朝になったら女の子は消えていて、またサトルからメールが入るかもしれない。今までだって、そうだった。コタツにもぐり込んで目を閉じると、すぐに睡魔がやってきた。

このとき、私は「私」同様に混乱した。そう、この小説の時間の使い方の、巧妙なのか、あるいは迂闊なのか、はかりかねる仕草。語りつつじつは語っていない時間の在りようだ。書き出しのふたつめのセンテンスですでに「二時半」と書かれながら、わざわざなのか「掛け」時計である時計が示していた二時半。掛け時計ならおよそデジタルとは想像しにくい。24時間表示ではないだろう。午前とも午後とも書かれていなかった二時半が、ここにきてようやく午前二時半なのだと明かされている。酔った「私」はともあれ少女が熟睡しているのだから午前だろう、といわれればそうかもしれないが、迂闊な私は二時半といわれても、「またやってしまった」という文章から、自堕落な生活の、昼夜が曖昧な生活を考えていたため、二時半という時間を曖昧なままに読み飛ばしていた。

さて、この小説は、ここまでをイントロダクションとして、以下では見出しがふられた章立てがされている。すると、この小説は、ユウコという名の少女の出現というサスペンスを軸に進行するだろうと想像してしまう。ちなみに、ユウコという名は、イントロダクションのなかですでに明かされている。
ところが、まさにその「ユウコ」という名が、最初の章の見出しになっている。ちょっと戸惑う。ユウコの存在が軸になるなら、この「象のテラス」という小説の全篇をつうじて彼女が話題のはずなのに、この章だけがユウコなのか? と。
これがまた、そうなのだ・・・。唐突な登場のユウコは数日を「私」と過ごす。このとき、サトルの記憶を交えながら、見知らぬ少女を抱え込む不安を抱え、それでも生活を送る、その生活を書く手振りは、面白く読まされる。食べさせなければいけない、と思って、賞味期限切れとしりつつ冷蔵庫にあったチャーハンを与え、かと思えば、ユウコのわがままに梃子摺る。楽しく読まされ、しかしここでも、なるほど失職と失恋のなかで、捨て子のような少女との交歓をとおして癒され、やがてユウコの正体もしれる、といったストーリーだろう、などと高を括ったのが、なにもわからないまま、あっさりとユウコが消えてみせるのだ。

そして、次章の「サトル」になるのだが、それでも私は疑っていた。サトルを巻き込んで、ユウコの素性探しかな? などと。こんな読み方はいけません。その都度書かれていることに出会うことが読書なのだから。
だけど、この小説は見事に私をはぐらかしてくれた。いともあっさりと、ユウコは忘れ去られ、サトルと「私」の高校生時代にまで遡る恋愛模様を回想するのが、「サトル」という章なのだ。いかんせんこの章は、数年におよぶ長い時間を凝縮した物語で、なんとも安っぽい恋愛小説の梗概を読むようだった。サトルには魅力がなく、出来事もあっさりと書かれてしまう。ところが、その章を読み終えたとき、私は、「面白いじゃないか」と呟いていた。駆け足で辿る数年間。そう、ここに時間のなにごとかが起きている。もちろんここにはユウコは現れない。なのに、私の頭のなかには、やがてユウコと出会い、暮らす「私」がいる。だが、この章の書きぶりを見れば、その足早な仕草を見ても、時間の遡行というより、やはり今ここの「私」による回想の身振りなのだ。それはイントロダクションの存在や、そこに表れていた時間の使い方にもよるのだろうけれど、語られつつある場は過去であっても、語りつつある「私」は、イントロダクションと同じように今ここにいるのだ。
すると、ユウコを忘れ去ることも、語りの場の問題ではなく、「私」の問題になる。ところで、「今ここ」とはいっても、それは具体的にはいつだろう?

次の章「ミアさん」になると、失職する以前の職場が語られる。やはりここにはユウコは存在し得ない。だが、この背景にはサトルがいるはずである。しかし、その影は(男の読者としては)恐ろしいほどに希薄だ。服飾学校生のころにサトルと交際をはじめた「私」が、就職できないまま卒業してアルバイトをはじめたアジア雑貨店の店主がミアさんであり、この章はミアさんと「私」のことばかりが語られているのだ。サトルとは対照的に、ミアさんはとても魅力的な女性であり、来訪者たちも面白い。

さて、こうして見ると、「サトル」にせよ「ミアさん」にせよ、それぞれがひとつの小説たりえるのだ。もちろん「ユウコ」も。それぞれに書ききれなかった断片を継ぎ接ぎしたように見えなくもない。だが、この小説がそれぞれではなく、ひとつの小説になるのが、「私」の在りようなのだ。だから、「ミアさん」のあとに「わたし」という章が置かれる。統合が図られるのだが、いや、はたしてそれは統合だろうか?

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2008/01/10

春の文学フリマ2008申し込みその他

春の文学フリマの申し込み受付が開始されたので、早速(でもないが)申し込んだ。一応、同人たちへの報告もかねて、書き込んでおこう。

どうも捻くれ者で、アクセスが異常値を示すと、更新をサボってしまう。「胡壷・KOKO6号の感想も出揃いはじめてしまった。おそらく来月の「文學界」の「同人雑誌評」にも載ってくるだろう。その前に私も記事を書きたいものだ。
なお、今月の「同人雑誌評」には、「白鴉」21号から2作が取り上げられ、1作はベスト5入りを果たしている。せっかくだし、是非読んでみよう。

また、寺内邦夫さんから届いた年賀状によれば、「島尾紀」が、推薦図書になったそうだ。おめでとうございます。

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2007/12/30

最後の夏―桑村勝士

読書の記事がないまま、今年を終えてしまうのはどうか、と思い、じつは読みかけていた桑村勝士さんの「最後の夏」を読んだ。「胡壷・KOKO第6号の巻頭掲載作だ。

非常に面白く読ませる小説だと思う。
なんといっても、絶えざる躍動的なアクションの連続で、先へ先へと読まされてしまう。そこで、絶えざるアクションのなかに物語を構成する術を体得したといえる桑村さんの、今後の課題を、僭越を承知で考えてみたい。

 息が続かない。
 肺の奥底まで空気を吸い込むが少しも追いつかない。酸素を使い果たした呼気をそのまま出し入れしているみたいだ。心臓は胸板から飛び出しそうに躍っている。
 かけ声を絞り出し、面を打ち込んでいく。喉が焼ける。汗が目に突き刺さってくる。
 宮田祐介は、壁にかかっている時計にちらりと視線を振った。監督の谷岡が懸かり稽古の指示を出したのは、たしか「午後六時十九分」だった。面の格子越しにとらえた長針は、そろそろ一周しようとしていた。が、まだまだ「止め」の号令はかかりそうもない。
 体育館地下の剣道場には、暴力的としかいえない熱気が充満していた。湿気を孕んだ空気が、動くたびにしつこくまとわりついてくる。

上が書き出しだ。物語の世界に読者を引っ張り込むにあたって、とても効果的だと思う。効果的な場面なのだが、これまでも何度か書いたように、書き出しには力が入りすぎるきらいがある。「飛び出しそうに躍っている」「突き刺さってくる」「視線を振った」といった強い語尾がそれなのだが、たとえば、牧田真有子しかり、なのだが、するとその力みを持続できるか? という課題と同時に、こんなところに力を入れてしまって、大切な場面が書ききれるのか? という疑問が起きる。
単純にいってしまえば、この小説ではそれが持続できたとは言いがたい。そのかわり、重要な場面もまたそれなりに書けているといえるのだが、書き出しのインパクトが強すぎる感は否めなかった。充分に読者を惹きつける場面なのだから、文章からは力を抜いてもよかったのではないだろうか? まして魅力的な表現だったわけでもないのだから、書き手の力みばかりが眼についてしまったのだ。そのため、正直に書くと、読みはじめたときには「これはヤバイぞ」と思ってしまった。

さらに、この小説が剣道を素材としているならば、それはそれでよいのだけれど、冒頭に長々と稽古の場が書かれることで、このあと、どれだけ魅力的な剣道の場面が読めるのか? と訝しむ。
それでも、この小説は、祐介が早々に怪我して、高校生活最後の大会から脱落することで、剣道以外のアクションを起しつづけた。かといって脱落者として、剣道とは無縁になるのではなく、あくまで剣道部内の物語であり、最後の大会も書かれている。

いや、それでも前半はとてもよかった。

 川辺が「着座。面取れ」と号令をかけた。稽古中は勝手に面を外すことは許されない。汗が浸みて滑りの悪くなった面紐が、きりきりと少しずつこめかみを締めつけてくる。その痛みに耐えながら、ひたすら待ち続けていた号令だった。
 面紐を解くと、頬に張りついていた面の裏地が剥がれ、瞬間、ふわっと風が流れ込んでくる。煮えたぎっている空気が、このときだけは冷たく澄んだものに感じられる。
 解放された安堵と喉の渇き。最後の礼が終わると、部員は吸い寄せられるように流し場へと走り出す。祐介もその群れに続いた。
 蛇口を最大にひねり、跪いて頭を突っ込む。冷水が肌を刺し、頬へと伝っていく。うなじから背中へ分かれた流れが道着の後襟を濡らす。頬から口元へ落ちてくる甘露を夢中で吸い取る。目を閉じたまま、ざらついた流しのコンクリートへ額を押しつける。熱が奪われ、次第に頭の芯が痛んでくる。その痛みが心地よい。

        *

 シャワーを浴びた後、汗で重たくなった道着を脇に抱え、祐介は剣道場の入り口に立った。午後九時をまわっていた。
 室内灯が床板を白く照らしている。
 学校のそばを通る国道の音、天井越しに伝わってくる階上のフロアを踏みつける足音、蛍光管の小さな唸り。雑多な音が混じり合って室内に漂っている。稽古の喧騒との落差のせいか耳が敏感だ。

剣道をやっていたわけでも、地下の稽古場という場所を経験したことのない私でも、とてもよくわかる、清々しい場面であり、描写だと思う。
そしてここに、桑村さんの弱みもあるのではないだろうか? 後半になると、語りの場をなんどとなく先送りしてみせ、回想の形になる。

 定員オーバーの五人を乗せてタクシーが急発進した。
 ウォームアップ会場へ駆け込んだとき、息が切れて声が出なかった。かろうじて、谷岡の前で「先生」と、ひとことだけ出た。谷岡は目を剥き、「なんだあ? 早く言わんか!」と声を荒げた。
 祐介は息を整えながら、とぎれとぎれに、試合が始まりそうだと伝えた。谷岡は、なにか言い出しかけたが、言葉をぐっと飲み込んだ。
 選手は慌てて面を外し、祐介の後を追ってきた一年生が連れてきたタクシーへ乗り込んだ。そのテールランプを祐介は谷岡と列んで見送っている。

最初のセンテンスははたして必要なのだろうか? そしてそのセンテンスがあることで、最後のセンテンスが必要になってしまう。いや、じつは必要などないのだが、ここが桑村さんの真面目さというべきか、書かずにいられなくなり、過ぎ去った時間を語る仕草として、アクションの現前性を削いでしまうのだ。それは、最後の電車の場面でも同様だ。上の引用の場面が終わると、いきなり部員たちは電車に乗っている。のみならず、そこからまた試合のようすを回想する。前半に見られた、今ここのアクションの清々しさが失われ、それは書き手の失速にも見えてしまった。

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2007/12/13

「胡壷・KOKO」6号と残雪「黄泥街」が届いた

Koko6Huang_ni_jie 今日、我が家に左の2冊の本が届いた。「胡壷・KOKO」6号と、残雪「黄泥街」だ。

胡壷・KOKO」さんは、日頃からお世話になっているHP文芸同人誌案内を運営されているひわきゆりこさんから届けられた。ありがとうございます。桑村勝士さん、ひわきゆりこさん、納富泰子さんの小説と、中山淳子さんのエッセイが掲載されている。じっくりかつしんねりと拝読したい。
表紙は毎号ひわきさんの手作りコラージュだが、今号は「読書」と題されている。

 何もかも忘れて本の世界を彷徨った子どもの頃。やがて彼は成長し、時間がある時は窓辺の安楽椅子で本を読む。彼は安らぎと困難を乗り越える力を得る。

という文章が添えられている。
見ていたら、その昔「だれも知らない小さな国」をはじめとする佐藤さとるのコロボックル・シリーズに夢中になった遠い昔の幼い頃を思い出してしまった。それがまぁ、ずいぶんひねた読み手に育ってしまったものだ・・・(苦笑)。

「黄泥街」は、私が今残雪を探していることをしっている方が、日本の古本屋に廉く出ている、と報せてくれて、遂に手に入れた。残雪の本をはじめて手に入れた。嬉しい。ありがとうございます。
じつをいうと、「廊下に植えた林檎の木」(私が持っているのは、本ではなくてコピー。古書価格は今のところ高過ぎ。今回の「黄泥街」が10冊も買えてしまう)を、もうあとほんのちょっとで読み終えるところで、読まずにいたのだ。読み終えてしまうのがもったいなくて・・・。

「黄泥街」のプロローグ部分だけ、下に書き写しておこう。翻訳はもちろん中国現代文学小屋の近藤直子さん。きっとゾクゾク感じてしまう方がいるに違いない。残雪好きが増えると、古本の価格が高騰してしまうかな?

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2007/06/25

またまたデジタル文学館

えっと、書かないつもりだったのだけど・・・、備忘の意味で、ちょっと感想程度に。

既読作品は既読作品で、噂を聞きながら読み損ねていた小説、まったくしらなかった小説、とにかく「デジタル文学館」に載っている小説をすべて読んでしまった。いやはや、こんなことになるんじゃないかと思ってはいたが、やっぱり小さくなってしまう。まいったね。凄い作品が並んでいるよ。ことに、「薔薇のように」(「胡壷・KOKO」納富泰子さん)はかねて傑作としっていたし、同人誌小説の秀作アーカイブといったら、あれなしには成り立たないと思っていたわけで、凄いのだけど、「地の涯てのアリア」(「屋上」百瀬ヒロミさん)の凄いことったら・・・。

少々ずるいといえばずるいかもしれずに、唐突感はありながら、あの終わり方ったら、恐るべし。あの謎かけをしてしまったら、あの終わりかたしかないようにさえ思えてきた。あれでなければ、その内容に納得はどうあれ、いずれにせよ、なんとなくなるほどね、と小説として納得して、それだけのものに終わっただろう。終始ワクワクさせながら、ドンデン返しとか、そんなサスペンス的なものでもなく、終わり方にも驚かされた小説なんて、凄い! としかいいようがない。姿の見えないヘロデと聖なる幼子殉教者を連想したのは、つい最近にシュペルヴィエルの「エジプトへの逃避」を読んでいたからかもしれない。聖なる幼子殉教者は2歳以下だけれど、まだ産まれていないイエスの物語にも読めてしまった。そして、語られている場所は日本ではないけれど、日本のことでもある。日本を含む世界のことだ。読み終わっても、後味がよいとはとうてい言えない、まさに「読者を不安にする小説」。小説が好きなら、「薔薇のように」と「地の涯てのアリア」はぜひとも読んで欲しい。

」(「南風」和田信子さん)も面白かった。タイトルにはもう一工夫欲しいと思うけれど、妙な具合に物語が膨らんでいく、牧子の出来事との微妙な距離感。

他者との距離なら、「てゅら」(「胡壷・KOKO」ひわきゆりこさん)。「お客さん」にも独特の距離があり、「ひとり未満ひとり以上」も含め、ひわきさんの他者というのも面白い。ただ、ひわきさんはとても丁寧で、「うんうん」と納得させられてしまう。「ひとり未満ひとり以上」にはそうした納得がいかなかったあたりが私好みだったのだけど、「なるほど」ではなく、「うんうん」と頷かされる納得というのも、それはそれで、越えているよなぁ。

雲切れ」(「科野作家」武井久さん)は、正直に言うと、私の好みではなかったけれど、この方向にも小説はあるし、これは好みの問題だから・・・。

他は、既読だった作品で、納得のラインナップとだけ書いておこう。

ちなみに、リンクはすべてPDF版なので、そのつもりで。

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2007/06/18

ひとり未満ひとり以上―ひわきゆりこ

Etwas6 現在は「胡壷・KOKO」誌で活躍され、サイト「文芸同人誌案内」を運営されているひわきゆりこさんの「ひとり未満ひとり以上」を「デジタル文学館」に推薦したわけだが、この作品は、すでに終刊になっている「えとわす」誌の6号(1998年7月15日発行、見たとおり、表紙もすごく素敵)に掲載されていた。とはいえ、私もつい最近読んだばかり。非常に面白く読んだからこそ、推薦した。

ひきこもり女性のお話だから、昨年の拙作がそうだから、もしかしたらそうした女性の物語に思い入れがあるのかもしれないが、この作品は前世紀の1998年に書かれている。すくなくとも1998年に発表されている。おみそれしました。

まず、タイトルだ。「ふたり未満ひとり以上」ならよくわかるが、「ひとり未満ひとり以上」である。境界線は、ひとりとその直前の間に引かれている。重ならずに接している幅「0」の境界線である。その間に隙間はない。立ち入る隙がない。とすれば、隙間が示唆されるのではなく、接しているふたつ、「ひとり未満」と「ひとり以上」のそれぞれが示されていると考えられる。読了した時点からいえば、「ひとり未満」とは「私」であり、「ひとり以上」は「布美加」だと思うのだが、ことはそれほど簡単ではないのではないか、と迷いがある。はたして、「私」は「ひとり未満」だったろうか、そして、ふたつが離れがたく、隙間なく接した存在であることの、息苦しさだ。そこには誰も立ち入る隙がない。??? 本当に?

 布美加が突然あらわれた頃、私は一日中、規則を守ることに集中していた。それは祐輔が私を置き去りにした頃でもあった。
 祐輔がいなくなってからというもの、私は私の中でいろいろな決まり事を作った。それがあまりに沢山なので、時どき何かを忘れて規則どおりに行動していないのではないかと不安になるほどだった。
 目が覚めるとまず、神経を集中してその時の天気を予想した。それから、枕元に置いてあるメモ帳に日付と天気を書き込んだ。起きあがって北に面したカーテンを引き、予想が当たっていれば○、外れていれば×をマーカーで塗りつぶすように重ねて書いた。三度に一度くらい、祐輔が選んだ遮光性の強いカーテン生地の威力について意識を動かした。
 目が覚めて最初の食事は、カラス麦を中心にしたシリアルとナッツ。それに干しぶどうを六粒入れて牛乳をかけたもの。牛乳を温めてからかけるとカラス麦が柔らかくなって美味しいのだけれど、一人になってからは冷蔵庫から出した牛乳をそのままかけた。シリアルは祐輔が買い置きしていた物が気が遠くなるくらい沢山あったけれど、牛乳は買いに行かなければならなかった。時には牛乳がなくて、水をかけて食べた。硬いシリアルは食べるのに時間がかかった。何度も何度も噛んでいると、ものすごく大量に食べた気がした。飲み物は水だけ。食事の後の歯の磨き方にも、口をゆすぐ回数にも決まりがあった。
 外出する時は規則をひとつ残らずきちんと実行するために緊張した。ある時、アパートを出て小さな路地を歩いていた私は、祐輔のことが頭に浮かんできて涙が出そうになった。その時、ネコがゆったりと路地を横切っていったので、私はその場で規則を追加した。車がすれ違えない細い道でネコに出会ったら、その場で回れ左をして最低五分は道なりに進まなければならない。回れ左をするために、私はちょっとの間、思考を集中させなければならなかった。そして、五分たったらいま来た道と違う道を通らなければならない、という規則も作った。この規則のおかげで、私は何度か迷子になった。その他にも電柱やマンホールに関する規則や薬局の前を通るときの規則など、いろいろな規則があった。
 私の頭の中は起きている間じゅう規則でいっぱいになった。それなのに、少しでも余裕があると新しい規則を作ろうと、そのことばかり考えていた。
 布美加が何の前触れもなく訪ねてきた時、来客に関しての規則を作っていなかった私は、たいそうあわてた。自分がどう行動したらよいのか判らなかったからだ。でも、布美加はそんなことはお構いなしに、勝手に上がり込んで祐輔が使っていた奥の四畳半に荷物を置いた。
 久しぶりに会う布美加は活力にあふれていて、私の思考が付いて行かないくらいの勢いでしゃべった。私は規則を作ることも忘れて、布美加の言葉の断片を拾うのに集中しなければならなかった。

長々と引用したのは、書き出し部分だ。壊れているのは、「私」だ。そしてそれというのも、どうやら祐輔を失ったことによるらしい。ところが、布美加もなにやら不穏ではある。

 ひと息つくと、布美加は部屋の中を点検していった。そのやり方は、私にとってとても奇妙なものだった。布美加は目を通して入ってくる情報をひとつ残らず声にして、並べ立てていった。祐輔が置いていったイーゼル、何枚かの完成しているのかいないのか判らないキャンバス、油絵の具で汚れた手作りの棚。本棚の前では、端から一冊ずつ題名と著者名に出版社まで読み上げていった。本の数はそう多くはなかったけれど、月刊誌の題名と発行月、出版社を二年分、読み続けた。単調に繰り返される布美加の声は急に抑揚を失って、私は眠くなってきた。居間に敷きっぱなしにしていた布団にもぐり込もうかと思ったくらいだ。
 私の考えていることが伝わったのかもしれない。祐輔の部屋から出てきた布美加は、荒い動作で布団を畳み始めた。
 「朱色の生地にクリーム色の梅の花模様の掛け布団。カバーはファスナー式の白。ベージュのマイヤー毛布はチェック柄。シーツは黄色いタオル地。敷き布団は緑の絞り柄」
 布美加の声だけが途切れずに続いている。
 布美加は畳一枚分の台所も、二個しかない茶碗の数や模様からキッチンマットの材質まで解説し、冷蔵庫を開けた。小さな冷蔵庫の中はほとんど何も入っていなかったので、点検はすぐに終わった。
 「買い物、買い物」
 とつぶやきながら、荷物の中から財布を出してきた布美加は、キュウリ、キャベツ、ハム、パン、マーガリン、牛乳など、次つぎに食品名を並べ立てながら出ていってしまった。

規則という自分から発するものによって行動を抑圧されていた「私」に対し、布美加は物の名まえを口にすることで、自分の周囲の世界を捉えようとしているらしい。だが、布美加は新たな環境である「私」の部屋に転がり込んできたばかりなのだから、それもまたむべなるかな、とも思える。ところで、なんといっても私がこの小説に魅せられた決定的な場面が下だ。

 ぼんやりとした頭で薄目を開けた私は、叫び声を上げそうになった。反射的に布団から転がり出て、柱で向こうずねを強く打った。すねを押さえて痛さを我慢していると、少しずつ昨夜の記憶が戻ってきた。布美加が来て独り言を言い続け、買い物に行ってしまったのだ。待っている間、ちょっとのつもりで布団にもぐり込んだらそのまま寝てしまったようだ。戻ってきた布美加も私の横にもぐり込んだのだろう。何しろ布団はこの一組ですべてなのだ。
 私はその場に起き直って、転がり出た布団をながめた。私が寝ていた場所がぽっかりと空いていて、その向こうであどけない顔をした布美加が眠っていた。布美加の手は、私の胸があったあたりでゆっくりと上下に動いている。私はあらためて布美加の顔をのぞき込んだ。彼女はとても不思議な顔をしていた。布美加の顔なのに、布美加ではない。造作のすべてが丸みを帯びているようで、どことなくたるんだように見える。それなのに、何か柔らかい意志を持った優しさのようなものが漂っている。彼女の幼い頃の写真を見ている気分になった。
 布美加は柔らかく握り拳を作った両手を精一杯のばし、目と目の間に皺を寄せてから大きなあくびをした。口を閉じた彼女の顔を見て、私は声を上げそうになった。その顔から柔らかさが見る見る消えていき、私が馴染んでいる顔つきになった。
 布美加が目を覚ました。昨夜きた時と同じ顔になった布美加を見て、私は自分がいま見たものが信じられなかった。人の顔が見ている間に変わっていく、などということがあるのだろうか。それとも眠っている時は、みんな違う顔をしているのだろうか。祐輔の眠っている顔を思い出そうとしたけれど、うまくいかなかった。あせればあせるほど祐輔の顔は薄くなっていき、普段の顔さえ細部まで克明に頭の中で描くことができなかった。
 自分の記憶がおかしくなってしまったようで、涙が出てきた。こんな時に有効な規則はないものかと考えながら座り込んでいると、布美加の声がした。
 「朝御飯、食べよう。昨日の夜、パンと牛乳と玉子とハムとキュウリとバターとサラダ油と買っといたから、食べよう」

この直前で、「私(亜美)」は祐輔との幸せな夢を見て、寝ぼけているのだが、人(布美加)の寝顔がなんとも不思議なものに描かれたこの場面に驚かされた。もちろん寝顔が幼い者に見えるということには驚きはないし、何度となく書かれてきたものであるが、目覚めたあとの顔との差異のなかに、驚きを見出す、まして「自分が見たもの」という、自己の感覚の事件として、起きるこの場面には、驚きがあった。そして、こうした布美加の「別の顔」は、物語のなかで、たしかな「別の顔」になっていくのだ。すなわち、退行性倒錯を見せて、明らかな「壊れ」が表れてくるのである。「私」自身が捉える感覚の問題としてあった布美加の顔の変化が実現していくなら、ここで、はたして布美加は実在しているのか? という疑問も沸き起こってくる。まして、しだいに布美加と祐輔の関係も明らかになってくるならなおのこと、ここにユングを導入するなら、シャドーということになりそうなのだ。精神分析の身振りを入れたからには、この際書いてしまうと、それでも「私」は倒錯症、布美加には統合失調症、すなわち、懐かしき浅田彰のパラノとスキゾと分類したほうがよさそうではある。そしてここに、「きみちゃん」というどうやらすっかりボケてしまったらしい老人が、「ふうちゃん」こと幼児化した布美加の友だちとして現れる。そう、隙間がなかったはずの「ひとり未満ひとり以上」の隙間に、祐輔やきみちゃんという存在がいるのだ。
そうではない。隙間ではない。接しているふたりの間に隙間はなく、このとき祐輔もきみちゃんも外部なのだ。そして、外部が外部になり、「私」と布美加が一体化したとき、物語は平和に終わる?
最後まで読めば、この小説の恐ろしさが見える。一体化することなどできないのだ。ドッペルゲンガーと一体化することはできても、あくまでも「的」でしかないシャドー的な他者と一体化することなどできない。それでも、こと物語のなかではそれも可能ではある。だが、この小説はそうした安易さに寄り添うことなく、出来事のなかにふたりを放り出していく。
ふたりは、自分たちの可能性を賭けて、繁華街に出向き、祐輔に出会う。それでふたりは救われただろうか?

 「おねえさん、うちで働いていかない?」
 いくつかの声のひとつに思わず振り返った。そこに立っていたのは、赤いハチマキにブルーのはっぴを着た祐輔だった。一瞬、人違いだと思った。髪を短く切り、サラリーマンのようなズボンを履いていた。少し太ったのか、頬の辺りが膨らんで見えた。私と布美加は手を握り合って突っ立ったまま祐輔を見つめた。私たちに気づいたのか、祐輔は何も言わず店の中に引っ込んでしまった。

あまりにあっけない祐輔の登場であり退場だ。ここに救いを見出すことなどできない。彼女たちはすべてを捨てて、「これから」訪れるはずの「よいこと」を待つ。

なんとも漠然とした記事だなぁ~。とにかく読まれたし。

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2007/01/10

渦―納富泰子

Photo_31季刊文科」36号が発行されながら、店頭に並ばず、店頭に並ばないのに発行されたというのも、なにかおかしな話だが、例えば定期購読者たちや執筆者の手許にはすでに昨年末には届いていたという。そして、すでに手に入れた方々から聞こえてくる納富さんの作品「渦」の評判に、それこそ、うずうずしながら、「売ってないよぉ」と繰り返していたら、見かねた納富さんがお手許の誌を送ってくださり、ようよう手に入れたわけだが、なるほど店頭に並ばないわけがわかった気がする。そのわけについて、書いてしまいたい気もしたのだが、編集委員の代表格のような大河内氏の病と療養、編集委員のひとりであった吉村昭氏の急逝、それに伴う追悼特集の作成、そうした突発事がいわゆる年末進行にぶつかる、と、不運が重なった上のことなのだろうし、なによりお優しくも納富さんが、「そっとしておきましょう」と仰せなので、納富さんのお顔をたてて、論うことはせずにおく。すでに消去してしまった記事だが、せっかくkatsuさんからコメントをいただいたので、生産管理学的な見方をすれば、編集委員と編集者との二重構造にも問題がありそうに思えなくもない。
ここで論ったところで、鳥影社さんや「季刊文科」の関係者さんの耳に届くとも思えなければ、耳に届いたところで、どうということもないとも思うけれど・・・。

さて、「渦」である。なんともいえない座りの悪さを抱えた小説である、などと書き出すと、いかにも否定的に聞こえそうだが、先般の辻原登「沈黙交易」の、主格と主題が揺れ動くさまにも似て、座りの悪さは浮遊感といってもよく、爽快とはほど遠いながら、けして悪寒を伴うものではない。
例のごとく書き出しを見てみよう。

 鍬山の源吾の養家は、筍が終るころから、背後に迫った山林全体に若葉がモクモクと膨れあがってくる。
 梅雨時の雑木林も、たっぷりと重く膨らむ。雨水を含んだ枝がずしりとしなだれ、棲みついたカササギが羽音高く飛び立ちでもするなら、下を通る者は頭からずぶぬれだ。屋敷の途中の十段ほどの磨り減った石段にも雨水が溜まり、ぬるりとした水の層に、あやうく滑りそうになる。

はたして鍬山とは源吾の姓だろうか、それとも地名か。そして、いまだ文法学者を悩ませているという「象は鼻が長い」という主格の不分明にも似たセンテンス。「若葉が」という文節が主格たりえていながら、「養家は」と書きはじめるならば、この文節は、このセンテンスのみならず、この小説全体をつうじた主格を印象づけるようである。ましてここまで、源吾という名こそありながら、「鍬山の」という書き出しの文節が、先に書いたとおり、姓とも地名ともつかぬ座りの悪さを抱えたままだから、源吾の正体もしれない。
ふたつ目の段落にいたっては、景色が動き、「ずぶぬれだ」としながらも、そのずぶぬれになる者は「下を通る者」と、仮想的な人物である。それに先立って、「するなら」と、これもまた仮想のなかの出来事なのであり、実態としての人間はおろか、実態のある出来事さえ、いまだ姿を現わなさい。畢竟、この小説の主格、語られる主体として、養家、それも家族関係といった養家というより、建物としての養家が印象づけられよう。このとき、「沈黙交易」にあった読み手のヤドリギたる主格の不在が、座りの悪さを感じさせるのだが、もちろん、小説において、読み手のヤドリギが必要不可欠なわけではない。それでもここには源吾という名が早々と示され、とりあえず、語りの場に登るであろう人物が書きつけられてもいる。
家を主格とする小説といえば、納富さんが「午前79号に書いた「母屋」が思い出されるが、同人誌「午前」に書かれた小説の読者がどれほどいるか、と思えば、それには触れずに先を読もう。なお、念のために書いておくと、「母屋」は「午前」誌において、小説ではなく、小品(ある記録)として掲載された。

 福岡市に住む源吾と深真子の夫婦は共働きなので、週末にしか、佐賀県のはずれにある鍬山の養家には行けない。往復、車で六時間もかかる。福岡のマンションに病気がちな老猫を飼っているので外泊は無理だ。息子は二人とも、転勤で遠方に暮らしている。
 養母の龍子さんが老いて死に、源吾が相続をしたときには、江戸時代に建った古家や手入れの要る面倒な山林、すぐ雑草に覆われる畑や過疎化で小作人を捜すのが困難な田など、譲られても始末に困るばかりだ、と深真子は思いあぐねた。
 源吾は深真子ほど物事を生真面目に考えないので、なるようになるさ、と言って、家の前の荒れた畑を耕し、畝を作って種を蒔いた。

一行空きを経て前に続く場面である。
最初の段落で、いきなり鍬山が地名であること、そして、源吾・深真子夫婦というヤドリギから、養家と夫婦の位置関係までが示され、一応の安定を得たように思える。だが、この段落にもまだ、なにか得体のしれなさが付き纏っていないだろうか? 先に、家族関係としての養家ではなく家としての養家、とは書いたが、いまだ家族関係としての養家の影は、一掃されたわけではない。そこに住まう源吾の養い親やその家族とその関係が、「養」の文字がいかんともしがたく何事かの気配を漂わせながら、見え隠れしているのだ。
それが、改行されて次ぎの段落に移るやいなや、すでに養母が亡くなっていることが告げられ、と同時に、以降では「古家」「家」と書かれて「養」の文字が消える。それは、すでにその家が、「養」という形容を必要としなくなったということだろう。
ここには注目したい点がもうひとつある。たったひとつのセンテンスで書かれたふたつ目の段落が、「深真子は思いあぐねた」としめられて、その内面を語るさまが、語りの場、読み手のヤドリギを、一気に、深真子に降りたたせたように見える。ところが、続く同様にひとつのセンテンスで成り立つ段落が、直前の「深真子は」に対抗するようにも、いきなり「源吾は」とはじまり、わざわざ「物事を生真面目に考えない」とことわって、そのありさまを語るのだ。「物事を生真面目に考えない」から語り手もその内面に触れ得ないようにも見える。触れ得ないから、触れないのであって、だから、内面が語られた深真子こそがヤドリギなわけではない、と思える。
いまだ読み手はヤドリギを確定できず、源吾と深真子というふたつのヤドリギの間を揺動する。では、夫婦ともにヤドリギなのだろうか? それもまた小説の場なら充分にあり得ることである。そして、「龍子さん」という「さん」付けする仕草。これはなにを意味するだろう? 語り手の顔が仄見えないだろうか? ただ三人称というには、この仕草はあまりにも思わせぶりである。
そして、またしても一行空きを挟むとすぐに、

 古い家の厠には、とても入る気がしなかった。扉もひび割れ、灰色の床は斜めになっており、迂闊に入ると床板とともにご先祖様がたの乾いた糞便の上に落ちてしまいそうだった。大工を入れて修理をする気持ちにもなれない。福岡市で暮らしてきてマンションや会社のビルなどの小綺麗な環境に慣れた深真子は、畳が沈む古家に踏み入るだけで黴や汚れが空気感染のように体中に染みつく気がした。
 厠の不便と、畑の泥汚れや真夏の全身の汗を洗い流すシャワーが欲しいこともあって、雑木林や竹林から離れた榎の大木の横に、龍子さんが遺してくれたお金で小屋を建てた。厠と台所と風呂場と、体を休められるくらいの狭い部屋だけである。
 近くに住む大工は、小学校では龍子先生に教わったと言い、普請に入った日と終った日に母屋の通り土間に立ったまま、つきあたりに見える仏壇を短く拝んだ。
 大工はそのついでに金尺で天井板から長押までの壁の寸法を測り、「この家は、確かに百七十年以上は経っている」と言った。

古い「家」の厠に入る気がしないのは誰か、と、迷う。そして、この段落の最後のセンテンスにいたって、どうやら今度こそようやくヤドリギが深真子になったらしい。そう思えば、「龍子さん」という呼び方も、納得がいく。それでもあくまで主人公は家なのだ、というように、ここでも最後は家の在りようが語られる。

さて、延々と、ほぼ1ページに相当する書き出しを辿ってきたが、これ以降、語りの場は、すっかり深真子に寄り添いながら、進む。だが、ここまで辿ったような主格の揺動を引き摺るかのように、深真子のさまも、茫洋として、それは時さえも越えて漂うように、それでもなお存在している。あたかも神のごとき書き手が作中で語りだすメタ・フィクションの仕草にさえ見えながらなお、語られつつある時空を生きているから、神のような不確かな存在ではない。不思議な存在である。
では、本当に不思議な存在だろうか? なぜ時空を超えるのか? 深真子の過去は、上の引用にある部分以外にはいっさい語られることがない。あたかも深真子には過去などなかったかのように、その家族のこともなにも語られない。
そして、なにより物語が、源治の成長を辿るような長い時間の中の、源治の養母・龍子さんと実母・お鶴さんの物語であり、深真子は、龍子さんの「記録帳」を読むものであり、お鶴さんの話を聞くものであり続けている点において、深真子の存在の浮遊感が際立つ。
それはまた、ふたりの母が、源治という支点を軸にして成り立つ関係でありながら、支点は支点に終始するように、ぼんやりと、希薄なままに、ふたりをそっと見ているさまにも、似ていよう。

 実母と養母の繰り広げる派手な喧嘩を、小学生の源吾は、どこにも居場所のない気持ちで見ていただろう。深真子は、記録帳のその時代のページをめくるが、子供の辛い気持ちを推し量る言葉は一言もない。源吾はどちらの母親にも愛されることが少なく、気弱で心優しい父親は寡黙だった。

ふたりの母同様に、深真子の視線もまた、小学生の源治に届かず、「見ていただろう」と想像するしかない。

 夢中で言い争っている母たちの間で、「筍どろぼう」と呼ばれて竦んで立っている子供の姿が、見えるような気がする。古い写真で見た、坊主頭の、くたびれた木綿のズボンをはいて、いつも眩しそうな眼をした少年だ。

幻視は、「気がする」だけで、深真子はけして源治の子供時代に立ち会えない。
このとき、語るものであるお鶴さんと、書き遺し死んでしまった龍子さんのその在りようの対比も面白いが、すると、なにかが妙なのだ。遡ってみよう。

 ずいぶん前のことだが、源吾の実母であるお鶴さんは、深真子と源吾の新婚家庭に入り浸っていて、一ヵ月のうち三週間くらいは長逗留した。深真子を話し相手にして、なかなか佐賀には帰らなかった。
 その日々に、お鶴さんからたっぷり聞かされた話と、龍子さんから十五年の空白を置いて聞かされた話や遺された記録帳などによると、源吾は、昭和二十五年、七歳のときに、実父寅太郎の姉である龍子さんの家に、養子縁組で貰われている。転校した先の小学校の担任教師まで、龍子さんだったという。養子を一日中眼の届くところに置いて躾け直すつもりで、上司に頼み込んだに違いなかった。

ようやく物語がその姿を明確にする端緒といってもよいが、さて、いったいこの視線はいったい誰のものか? 前の段落は素直に三人称なのだといってしまえばよかろう。だが、日本語において、純粋な三人称とはいかにして可能だろう。後ろの段落でいきなり出てくる「聞かされた」という受動は、つぎの段落の「という」と聞き手を呼び込む。さらに「違いなかった」という推量のさまにまでいたれば、ここに深真子の声が聞こえずにいない。深真子こそがこの物語の牽引者、主導者であることは、先に見たとおりなのだけれど、なにかが引っかからないだろうか? 上に続く段落を見よう。

 寅太郎もお鶴さんも、子供を大声で叱ったり命令口調でものを言ったりするタイプではなかったので、源吾のショックと不安はさぞや大きかったに違いない。

さらに、すこし進んだ先、龍子の家(養家とはいうまい)を逃げ出した源治が実家(とあえて書く)に戻った場面を引用する。

 実家では、年子の兄の一郎が熱を出して学校を休んでいた。「源治がね、叱られると思うたのか戸口の蔭でうなだれて立っているのを、手洗いに立った一郎がみつけたのよ。一郎が土間に駆け下りて、ぐしょ濡れの弟に抱きついて、『もう源吾をよそにやらんで。僕たちとずっと一緒におる』と泣き叫んで、二人で固く抱き合ったまま離そうとしても離れなかったのよ」と、お鶴さんから深真子は聞かされたのだった。

「のだった」という語尾が、三人称を強調するような距離感を生み、なるほど、まだ違和感の正体は明らかにならないかもしれない。それなら一気にページを進み、お鶴さんの死の場面を抜き出してみよう。

 源吾とふたり、秋の薄ら寒い日の広い家に一人でいるお鶴さんを訪ねた。「一郎とはもう親でも子でもない」と本心ではないことを大声で叫ぶお鶴さんは、おそろしく痩せて、水しか欲しがらなかった。週末ごとに訪ね、どんなに思いを尽くして励まし慰めても、源吾は一郎の代わりにはなれず、お鶴さんは意識を失うまで一郎の名を呼びつづけ、脳溢血で、すとん、と死んだ。
 今度は、寅太郎の喪服は、きちんと寸法が合っていた。
 喪主代表になった一郎の挨拶が母親を恥じたものであったので源吾が激怒した。深真子は、物陰で源吾をなだめた。
 それぞれの車で寺に向かうことになった。全員が車で来ていたので、運転をしない深真子がお鶴さんのお骨を抱えて一郎の車の助手席に座った。
 一郎は横目で深真子の膝の上を見たが不意に顔を強張らせて「こんなもの、抱かんでいい」と叫んで骨箱を奪い取り、着替えの服などが乱雑に置いてある後ろの座席に投げた。兄嫁がつんのめるように走ってきて一郎を叱り、「深真子さん、しっかり抱いとかんば」と、骨箱を押し付けた。

龍子と鶴とは一体だれなのだろう? と書いてみたら、違和感の訳がわかるだろう。深真子とは、あるいは語りつつある主体は、一体だれなのか? なぜ龍子と鶴だけが、敬称を纏うのか? それなら、今、引用した場面の直前を見てみよう。

 龍子さんが死んで、次の春にお鶴さんが転んで大腿部を複雑骨折した。そのあと腰が直角に曲がってしまったお鶴さんは、この身で広い二軒の家の見張りは大変だと言いだして、一郎との同居を強く望んだのだが叶えられなかった。すると一転してお鶴さんは、自分がこれまで一郎夫婦へ施してきたさまざまな金銭的援助を数え上げて「恩知らず」と攻撃し、会う人ごとに一郎の悪口を告げて、あちこちに手紙を書いて送った。お鶴さんは、過去に龍子さんから受けた仕打ちを、刷り込まれたように、そのまま反復しているのだった。お鶴さんは、「長男らと違って次男夫婦は優しくしてくれる」と要らぬことを言い、一郎夫婦の気持ちをわざと逆撫でする。

かつて同じひとつの出来事を語っても、お鶴さんの科白と龍子さんの文章には、なにをその背後に据えるか次第で、大きな意味の異なりを見せていた。しかし、ふたりは同じ出来事を経験していた。別の立場からひとつの出来事に対峙していた。
そして、また違う場所から、まるでタイムトラベラーのような、異界のからの視線で、それはまた読者や聞き手の視線で、絶えず吹いている風に揺られて、フワフワとその空間を漂うように、それらの出来事を見ているのが深真子だ。

 季節になると、筍が母屋の床下にぞっくりと立つようになった。龍子さんに止められ抑えられていた竹林はある日、油断の隙間に気づいたのだ。繁殖する快感を隙間に向け、歓声をあげて押し寄せてくる。深真子の体のうちにもぞくりと筍が立つ。
 龍子さんが筍や竹を業者に売っていたのは、吝嗇だったからではなく竹林の勢いと戦うためだったのだ、とようやく気づく。侵略されてしまったあとではもう遅い。子孫が住まない家は崩れるしかない。母屋のなかでは、日記も賞状も手紙も何もかも湿って歪み、灰色になり茶色になり、日に日に意味を失い、つくも神さんすら淡くなって消えてしまった。

深真子は、科白にも文章にも、コトバにならなかったことに気づく。その気づきは、だけど、源治が筍を盗んだことを咎める龍子さんを説明しないが、それは問題ではない。深真子は、龍子さんやお鶴さんを理解した自分に出会っているのだ。いや、龍子やお鶴さんになってしまうのだ。

 穴に刀を納めた。落としたとたん、家がかすかに揺れたような気がした。一心に覗き込んだが、あいかわらず沈黙している穴だった。刀の落ちたあたりから見上げると、きっと明るいひび割れの空があって、そこから覗きこんでいる女がいるのだ、と思った。覗きこんでいる女も、いずれ落ちてくるように見えるかもしれない。
 何となく立ち去りがたいまま、しゃがみこんでいた。しばらくすると、蛇の山の小道を強い眼をした小柄な和服の男が早足に下りてきて、マムシのように深真子を睨み、ふっと消えた。陰翳が濃く、あまりにあざやかな一瞬だったので、生身の人間ではなかった気がする。そのあとあたりが急に翳って激しい夕立がきた。小屋に走って雨宿りをしていると眠ってしまい、目覚めると、穴に刀を落としたのも和服の男を見たのも、夢だったように思えた。

畑に立てた風車が、風の表情を伝えていた小説のなかで、もうひとつの風が、床下に開いた罅割れのような穴からかすかに吹き上げてくる風だった。ここに引用した場面については、龍子にでもあらかじめ武家の子孫としての誇りといった話が書かれていたなら、より刀が活きたのではないかとは思うが、それはさておき、見聞きするものだった深真子が、その穴から見上げられる視線を思い描く。視線が逆転し、見られている。続く段落でも得体のしれない男の視線に曝される。
そしてこのとき、穴からの風を、深真子は感じていない。穴の呼吸が止まっている。

最後の場面を引用してしまう。揺れ動いていた自他、已今当、此彼の境界が溶解していく。それでも、ただ、穴の中だけが、まだ彼方であり続けているようにも思える。

 穴がまた、少し大きくなったような気がする。穴の暗闇を覗き込んでいると、ふっとなかから誘われる。前のめりに落ちていきそうになる。
 お鶴さんはあんなにお喋りに夢中だった。龍子さんは一心に弟の家への道を歩いていた。寅太郎は、畑から収穫したばかりの作物を宅急便でマンションに送ってくれて、それはもちろん音たてて張り裂ける水気たっぷりとした大根で、お礼の電話をすると電話口で、ほっほっ、と笑った。「深真子ちゃぁん」お鶴さんの甘えた声が、耳元から肩にまつわりつく。龍子さんの「帰らんでよォ。私のそばにおってよ。明日も、明後日も、明々後日も来んばよォ」と哀願する声が、背中に聞こえる。親たちの声も姿も昨日のことのように親しく鮮やかなのに、なぜ、いま、あの人たちはいないんだろう。どこに消えてしまったんだろう。これはいったい何なのだろう。
 柱時計の躊躇うような音が、ゆっくりと時を打つ。源吾が来るたびにネジを巻く磨いた竹の根でくるりと丸く縁どられた振り子時計だ。時計の柔らかに尾を引く音に誘われて、俄かに鳥肌が立ち、穴のふちに足元が不安定になる。
 いそいで畑の源吾のそばに行って、素手のまま、玉葱畑の草取りを始める。引き抜いた草の根から土の臭いが、クンと立ち上る。現実が身体の中に戻ってくる。生えたばかりの草は柔らかで抜きやすい。肥えた黒い土が、粘るように指にまつわりついてくる。
 土って気持ちがいいだろう? と源吾が言う。地面と身体が繋がって新しい力が流れ込んでくるだろう? 空っぽになるだろう?
 不意の風に、雑木林がざわめき竹林がしなった。庭の木々を覆った蔓が、曇天の空に向かってぶわっと膨らんだ。色褪せた風車がどれも激しく廻っている。
 立ち上がって眺めると母屋は小さくうずくまり、裏山に溶けるように繋がりかけている。

源治の科白から鉤カッコが消えている。「これはいったい何なのだろう」という叫びにも似たセンテンスを見ても、たしかに深真子に寄り添っているはずなのに、なお、いまや三人称の書き手は、だれともしれない。
畑をいじる際の、まさに今を語るらしい語尾と、源吾の問いかけ。過去は字のとおりに、過ぎ去ったのだろうか?

ところで、深真子という名だが、家の奥行きと穴があれば、ときに紙面に「深」という文字ばかりが浮き立つほどで、まして、深真子という名がはじめて紙面に表われたとき