同人誌ビジネスに纏わる懊悩
このブログでは、何度か、同人誌にかかわる情報を掲載してきた。だからといって、このブログに文芸同人誌にかかわる情報提供の義務などないし、ここから発信したところで、その影響力がどれほどのものなのかと言えば、ほんの微々たるものに過ぎないことは明らかなのだから、沈黙してもいいだろうと思っていたのだけれど、少々気になるし、同人たちへの発信の意味でも、やはり書いておこう。
このブログでは、何度か、同人誌にかかわる情報を掲載してきた。だからといって、このブログに文芸同人誌にかかわる情報提供の義務などないし、ここから発信したところで、その影響力がどれほどのものなのかと言えば、ほんの微々たるものに過ぎないことは明らかなのだから、沈黙してもいいだろうと思っていたのだけれど、少々気になるし、同人たちへの発信の意味でも、やはり書いておこう。
「文學界」は、12月号で「同人雑誌評」を終了するにあたり、完全保存版とまで銘打って、「書きたい人のための全国同人雑誌リスト320」を掲載している。320誌というのは、意外に少ない気がする。
ひとわたり眺めたら、あれれれ??? 見出しページの写真にはその表紙があるのに、「白鴉」さんが見当たらない・・・。
敢えて載せない同人誌も少なくないのだろう。
なんと、今になって、「星と泉」新創刊特大号が、ようやく届いた。
飛脚メール便って、ひどいね。
さて、この雑誌は投稿誌だが、「同人雑誌評」があり、「木曜日」24号を送っていた。そして、取り上げられていたので、いつもどおり、該当箇所のみ、転記しよう。その内容には、言いたいこともなくはないが、あえて触れない。送られた同人誌は12誌と、少なかったことだし、ここを見た同人誌の関係者の方々が、今後の参考にしてくださればよいだろう。
なお、弊誌のほかにも、「胡壷・KOKO」「零文学」「文芸誌O」「季刊 遠近」と、「文芸同人誌案内」などをつうじて親しくさせていただいている同人誌の方々の作品も取り上げられていた。
評者は、木井昭一氏。
「木曜日」の同人と言うのは、上野昂志さんを師匠とする通称上野ゼミという、まぁ読書会のような場の参加者たちで、合評もここでおこなっている。
この上野ゼミの前回が、拙作の合評だったのだが、その後に、やり損ねていた「木曜日」24号完成の慰労会ということにしていただいて、私はただ酒にあやかったのだった。その席上、今「暗夜/戦争の悲しみ」を読んでいて、やっぱり残雪は凄い、最近嵌まりっ放しです、なんてことを言ったら、上野さんが興味を示していたのだった。
そして、さきほど、次回ゼミの課題が決まったと言うメールが届いた。上野さんが、最近の文芸誌を見渡しても面白いものがなく、「暗夜/戦争の悲しみ」を入手したので、その中から2篇を選んで課題にすると。先の席上でも、芥川賞の楊逸「時が滲む朝」が面白くないと言っておられ、課題に迷っていると仰せだった矢先に、残雪の話を持ち出したのではあったが、やったね! 思惑がはまった。
次回のゼミにも出席しよう。
しかし、拙作がわからないという意見のあとで、残雪を取り上げて・・・、ふっふふふ・・・、どうなることやら。すごく楽しみ。
9月11日の木曜日に「木曜日」24号掲載の拙作「冬女夏草」の合評が行なわれたので、記録を残しておく。
ちなみに、二人称の小説といえば、ミシェル・ビュトールの「心変わり」が有名だが、本屋で新刊本を覗いていたら、河出文庫から新たに出た(かつて新潮文庫に入っていた)倉橋由美子の「暗い旅」が、二人称で書かれた恋愛小説ということだった。
といっても、拙作のほうは、二人称というより、どちらかといえば、一人称で書かれた小説と言うべきだろう。
読書の方は、残雪を読み進めていて、「痕」と「不思議な木の家」を読み終えたところ。最近こうしたわけのわからない小説ばかり読んでいるから、書くものもわけがわからなくていい気になっている、などと、言い訳しておこうかしら・・・。
九州はまだのようだけれど、どうやら長野を皮切りに、兵庫、青森と、順次友人たちの許に「木曜日」24号が届いている様子。kairouさんが早々と、拙作にちょっとだけ触れてくれている(気にしなくていいですよぉ~)。
一方、「照葉樹」さんの第5号が、「木曜日」とほとんど同時に発刊になったらしい。昨年は、箱詰めの「木曜日」と「照葉樹」最新号が、同じ日に拙宅に届いたのだった。なんとも仲良く発行している同人誌である。そして、そのすぐ後に続いて発行になるのが、長野の「文芸誌O」さんだ。昨年は、「週刊 読書人」で弊誌と「文芸誌O」さんが名まえを並べた。
とはいえ、この仲良し3誌にかぎらない。春ともなれば、やはり同人誌発行ラッシュだ。「文芸同人誌案内」さんのトップページを見ても、最近発行の同人誌が多い。四国の雄「原点」さんや横浜の「時空」さんといった、名だたる同人誌が軒並み発行されている。
「木曜日」24号に、編集上のミスを発見してしまった(゜ロ゜;
タイトルには特殊なフォントを使っているが、作品ごとに左ページのみフッターを設定し、そこでもタイトルと同じフォントを使っている。ところが一作、編集途中でタイトル・フォントを換えた作品があり、フッターのフォントの書き換えをし忘れたらしい。短い作品だから、フッターのあるページも1Pのみだから目立たないし、だからこそ、見落としたのだろう。ショック(T-T)
下に、現在印刷工程に入っている「木曜日」24号の表紙イメージと、目次のPDFファイルを置いておくので、せっかちな方は、どうぞ。ただし、表紙の色はあくまで似た色であり、紙質もいつものちりめん皺があるものになる予定。
完成品まで見たくない方は、見ないでね。
なお、発行は4/30の予定。
すでにひと通りできあがっており、あとは「巻頭言」を待つのみだったが、ついさっき師匠よりメールが届き、書いてくださるとのこと。〆切はいつか、との問い合わせ・・・。えっと~。ま、師匠だから。
で、予定の4月末日発行に間に合わせようとしたら、ギリギリラインで10日で、返信。他のページができているから、可能なのであって、ほかの同人たちはそれでいじけないように・・・。相手は師匠ですから。
怖いのは、「だったら今のうちに訂正させて」と言い出すひとがいるんじゃないか、ということ。
ハイハイ。この際だ。ここを見てくれている特権として、ページ数の変動がない範囲で、10日までなら修正を受け入れましょう。また、それまでに著者校をしたいというのであれば連絡をくれれば、PDFを送ります。連絡ください。ただし、PDFを見られる環境を具えておいてね。
表紙については、じつは現在利用中の印刷屋さんは、ある同人がお仕事で関係のある会社で、その同人が定期的に遣り取りをしているため、表紙をJPEGにしたものをその同人に送り、彼の裁量で印刷屋さんと遣り取りしてもらい、色を決めてもらうことにした。
ほぼ完成。
まだなのが、やっぱり、だけど、巻頭言。師匠にメールで問い合わせ中だが、今のところまったく音沙汰なし。巻頭言を廃止するにしても、すでに他のページを作成済みなので、ページ数の打ち直し、背表紙幅の修正など、かなり煩瑣になるため、表裏とも白紙の内表紙的なものを入れることになる。聞けば、師匠ってば、なんと今期から副校長から校長になられたそうだから、忙しいのだろう。
さてさて、今週末には、印刷屋さんに発信したいのだけど・・・。あっ! 表紙の色をどうしよう? あの絵が引き立つ色って、何だろう???
ヤバイと言っていた同人もなんとか書いてきたが、きわめて短く、全体で200ページには達しなかった。
未達は、あと三つの予定。そのうち、ひとつは、かなり危険らしい。無理かもしれない。それも仕方ない。
また、ひとつは念のため暫定版を送ってくれたので、おおよその長さはわかっている。直すつもりらしいが、それほど変らず、まして長さはほとんど変らないだろう。
さて、そこで各作品をレイアウトした結果、頭が痛い。
なんと既着原稿10作品のうち、偶数ページ数に納まるのは2作品のみ。目安箱はみっつ。私が書いたとしても4つ。とりあえず、かつての没コラムをすこし改めて、用意している。また、目安箱のつもりもなく送ってこられた方の作品が、目安箱に収まってしまう長さだったから、そちらに回してしまったのだが、これを無理矢理見開きにしたものか? じつは、昨年はそうした。だけど、それでも奇数ページの多さはいかんともしがたい。奇数ページはじまりの作品をいくつか出さざるを得ない。
連載作品は最後に置いているのだが、今回最終回で、どうしたものか、とも思っているのだけれど、というのも、これがまた奇数ページ数。最後の掲載作の前に目安箱というのも、なにか締まらない。ひと言次第だが、これも奇数ページではじまることを覚悟してもらおう。
そういえば、ひと言の集まりも悪い。
ようするに、作品掲載順に悩まされている。短い作品に犠牲になってもらおう。
〆切直前の週末に仕上げてくるだろうという予想に反し、この2・3日で、ドッと原稿が届いた。長い作品は出揃ったと思われる。書くと思われる同人のうち未達は三人だけになり、いずれもそれほど長いものになるとは思えない。長くてもせいぜい10Pに届くかどうか、といったところだろう。もちろん、20~30Pの作品を投稿してくれても、いっこうにかまわないのだが・・・。
今年もなんとか10人150Pはクリアできる。すくなくとも現状ですでに、あとひとりで10人に達するし、150Pは越えている。200Pは難しいかもしれない。
おっと、たった今、メール着信。予想外の方が参加の意向。短いが、今日か明日には提出してくれるとのこと。
というわけで、現在随時編集レイアウト作業を進めている。カード作成も平行しているし、本が読めない。本が読めないのは、たとえば電車に乗っても読んでいないのだから、読書スランプのせいだけど。
昨日今日、三つのメールが届いた。原稿を添付したメールを送った、というのだ。ところが、添付原稿付きのメールはひとつしか届いていない。
届いた分は、23Pと、けして短くはないが、長いというほどでもない。家に帰ったら、受信ファイル・サイズの指定を確認せねば。だが、各人のもとへ不送信の通知もないらしいから、怪しい。
なんと、ついさっき、家庭等諸般の事情からゼミを離れておられた方からメールが届いた。100枚程度の作品を今年の「木曜日」に提出したいと・・・。
これでKさん休載の分が埋まり、私が短い以外は例年どおりになりそうだ。
とびとびだが、「木曜日」の原稿が集まりつつある。今日も、1本届いた。とはいえ、コラム。いつもは長いものを書いてくれるヒトが、今年は休載してコラムだけ。
長い作品は、ギリギリまで届かないものだ。短いものほど早く届く。もちろん、短ければすべて早いというわけではない。むしろ、長いもののほうが、〆切を守る傾向にある。
おそらくは、短いものはいつでも書ける、といった余裕に流されるのだろうけれど、逆に、長いものを書くひとは、それなりに書き慣れていて、ペースを掴んでいるという見方もできる。
しかし、今年は〆切厳守を言い渡しているから、〆切超過は許しませんぞ。
去年〆切を守らなかった3人に釘を刺しておいたほうがいいかな? そういえば、毎年コラムしか書かない方がいるが、彼も去年は〆切を守らなかったな。彼には、昨日メールを送っていない。信用しているからではあるのだけれど、やっぱり釘を刺しておくか。去年は、うっかりしていたらしいが。それに、コラムは穴埋めで、ページ数も1Pに決まっているのだから、多少遅れてもさしたる支障がないこともたしかではある。
ここ数年最後の提出になっている人物がいるが、彼は自ら、間に合わなければ休載と言っているので、かわいそうでもそうなるだろう。あともうひとり、いつも遅れる方がいるが、はたして今年はどうなるか???
巻頭については、やはり考えている人物にしたいと思うが、とりあえず作品を見て考えることにしよう。問題なさそうなら彼にするつもり。
表紙については、ほとんど気持ちが固まってきた。
毎号傾向が変わるのはよろしくない、というのが、その根拠。かといって固めてしまうのも詰まらないが、せめて2・3回はおなじような傾向にしたい。なので、昨年同様に「えっ?!」というような少々きわものの表紙を目論んでいる。また怒られるかも・・・。きわものは賛否が極端に分かれるんだよなぁ。去年なんか、過去最高という方と怒る方に二分した。
「木曜日」24号の表紙案をふたつ作成してみた。
PDFにして、ここに提示、同人に意見を聞こうかと思ったのに、どうしたわけか、IllustratorからPDFへ、書き出しがままならない。残念。
そんなことをして、「木曜日」24号ファイルを見ていたら、ついついファイルを開いてしまい、新作を読み返し、2・3の修正を施してしまった。といっても、言い回しや誤字(あいかわらず見つかる)の修正ていど。ワンセンテンス増やしもしたが、一行に満たない。
こんなふうにしょっちゅう覗いていたのでは、細かい修正はできても、大きなところの修正にはいたらない。全体を見渡したときに、必要なもの、不要なもの、というのが、客観的というか、時間経過のなかで立ち上がってこない。堪え性がないなぁ・・・。
昨日、いつも一番乗りの方から、原稿が届いた。先日会ったときに、いつ送ればいいかというから、3月末日までに送ってくれればいいと言ったのに、3月の1日にくれるとは、なんというか・・・。
私が載せると決めたのだから、これで3人4作品が確定した。とはいえ、今のところ短い作品ばかり。読み応えがあるといえる長さの作品は、まだまだこれからだろう。そうした長さが期待できる同人は、今年は3人。長めの作品が期待できる方のひとりがすでに提出しているのだが、短いとはいえ、2作だから、それなりにページは稼いでくれた。もうひとり期待できた方が休載で、私も短い。今年のページ数は200を切るかもしれないが、それでも150はいくだろう。ところで、ここまでの4作品すべてが、奇数ページ数・・・。穴埋めエッセイ「目安箱」は間に合うんだろうか? まぁ、いざとなれば、作品によって、奇数ページはじまりでもかまわない。ひとり2作掲載ならなおのこと、むしろ連続したほうがよいな。テーマも似てるし。
さてさて、そろそろ本格的に「木曜日」24号の作成に着手するとしましょうかね。
表紙は、いまだにフォーゲラーと一昨年同点決戦進出作品で迷っている。
それから、今年こそあのひとの作品を巻頭におこうと思っていた方が、今年は休載宣言しているので、どうしたものか。常時執筆していて今まで巻頭になったことがない同人は、私の記憶に間違いがなければ、現在3人のはずだ。上のおひとりの他には、私ともうひとりだが、もうひとりのほうは、現在連載中で、たしか今年最終回のはず。連載作品が巻頭では、これまでをしらないひとが白ける。
となると、私?
それはイヤ。編集担当とは、編集をする特権を与えられたものであるからして、作品掲載の順番は私の趣味で決める。自作を巻頭にするような恥曝しはしない。
文学フリマ事務局より封書が届いた。春の文学フリマ2008のブース取得のお知らせ。けして籤運が強い私ではないはずだが、4回連続当選で、文学フリマに関するかぎり、とてもラッキーだ。いよいよ「木曜日」も〆切厳守で、早めに作らなければならない。まだ、お金を振り込んでいないから確定とは言えないが、近々に振込みを実行するので、同人たちよ、よろしく! といっても、ここを見ている同人はほんの2・3人に過ぎないが。
なお、文学フリマ事務局通信によると、第七回文学フリマの日取りも決まったそうだ。もちろん、春参加の「木曜日」は参加予定なし。
昨年はかなり表紙に凝って、見た目を演出したわけで、その意味では文学フリマに合わせたようなものだったが、ところが売れ行きは最悪だった。雑誌の方向性が見えない、という弱点だったのではないか、とも思いはじめている。今年はフォーゲラーを目論んでいたけれど、それではまたおなじ轍を踏む気もする。もう一度シンプルにもどそうか? 一昨年同人たちにどれがよいかと投票してもらった表紙案のうち、同点決戦のすえ落選になった絵があるので、今年はそれにしようかな・・・。
「木曜日」の同人たちに、あらためてメールアドレス変更通知のメールを送ったところ、なんとなんと、24号原稿第一便が届いた。掌篇と呼ぶべき短い作品だが、2篇。ふたつ合わせれば20Pになる。早っ!
その代わりでもないが、いつも長いものを書いてくれる方が、今年は休載というメールも届いている。
というわけで、本格的に「木曜日」24号が動きはじめたらしいと、あわてて、それ様のファイルを作っていた。そこでかねて懸案だったエクセルによるデータ表の更新を試行。ペンネーム、タイトル、ページ数を入力し、順番を決めたらソートをかければ、ページ割とか、分担冊数、金額等が自動集計される表を作ってあるのだけれど、それを印刷所に提出する発送簿にも反映させたいとかねて思っていたのだ。ペンネームと本名を照合するなどは出来ていたので、そこに住所録を追加して、発送が必要な人物だけを拾い出し、分担冊数なども記載される。それが目標だったのだが、経理の仕事を離れ、エクセルをしばらくいじっていないうちに、すっかり関数などを忘れている。文字列による拾い出しができない。
あ~、すっかり頭が悪くなっている。以前は、SEのシステム部長などからも、エクセル・マスターの称号を授かっていたはずなのに・・・。
あれっ? 読書に特化のブログじゃなかったっけ???
ようやく探していた「木曜日」11号が、1冊だけ見つかった。配給が1冊だけということはないはずだが、かといって、おそらくは20冊以上あった本が、いったいどこへ消えてしまったのか??? 捌けるはずもないのに・・・。
そこで、拙作をRUPOによる版下の本から、読み取ったのだが、やはりてこずった。euripidesさんは慣れたからどうということはない、というが、いやいや「デジタル文学館」を運営していくのは並大抵のことではないはずだ、と、身をもって思い知った。OCR読取ソフトの性能差はあるだろうけれど、スキャンだって大変だし、確認校正作業が簡単なわけがない。今後の推薦については、できるかぎり援護したいと痛感。
で、「コレラの時代の愛」読了には今しばらくかかりそうでもあれば、次の記事から11号掲載の拙作を、連載しちゃおうかな・・・と。
euripidesさんは、「世界文学のフロンティア」は3巻のみを所有されているらしいが、コメントいただき、他の巻の、興味深い名まえはいったいどんなテキストが入っているの? とお尋ねなので、この際、総目次を作成してしまおう。
「旅のはざま」
翻訳の森、羽ある種子 今福龍太
旅 ルイサ・バレンスエラ
プラ・ダーレム、死の寺院 アルフォンソ・リンギス
冬の精神 亡命生活についての考察 エドワード・W・サイード
戦いの後の光景 フアン・ゴイティソーロ
バハマからのレポート ジューン・ジョーダン
ボーダーの呪術師 ギリェルモ・ゴメス=ペーニャ
野生の舌を飼い馴らすには グロリア・アンサルドゥーア
『真夏』より デレク・ウォルコット
私の外の他者/私の内の他者 トリン・T・ミンハ
「愛のかたち」
愛から出発するために 沼野充義
波と暮らして オクタビオ・パス
これは愛じゃない セルゲイ・ドヴラートフ
幻影 アイザック・バシェヴィス・シンガー
ねずみ ヴィトルド・ゴンブロヴィッチ
野外の一日 ジェイン・ボウルズ
愛 1944/なんてすてき タデウシュ・ルジェヴィッチ
私がイエス様とポーチに座っていると
風が吹いてキモノの胸元が開き、
イエス様が私の乳房をご覧になった日のこと グロリア・サワイ
色陽 李昂
愛 ウラジーミル・ソローキン
男たちの街 ベス・ヌジェント
詩としてのセックス ジャネット・ウィンターソン
「夢のかけら」
蕩尽された未来の後に 沼野充義
死者の百科事典(生涯のすべて) ダニロ・キシュ
海岸のテキスト ガブリエル・ガルシア=マルケス
最後の涙 ステーファノ・ベンニ
一分間 スタニスワフ・レム
災厄を運ぶ男 イスマイル・カダレ
ユートピア/奇跡の市 ヴィスワヴァ・シンボルスカ
ゆるぎない土地 ヴォルフガング・ヒルビッヒ
魔法のフルート ボフミル・フラバル
かつて描かれたことのない境地 残雪
コサック・ダヴレート アナトーリイ・キム
ハーン=ハーン伯爵夫人のまなざし―見えない都市 エステルハージ・ペーテル
金色のひも アブラム・テルツ
「ノスタルジア」
帰郷の苦悶 四方田犬彦
『カントーズ』72、73、74 エズラ・パウンド
ヴィエロポーレ、ヴィエロポーレ タデウシュ・カントル
塵(ゴミ)、都会、死 ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー
黄金時代 E・M・シオラン
赤薔薇・白薔薇 張愛玲
女郎遊び 莫言
『詩集』より ウンベルト・サバ
欲望のオブジェ―スーヴェニールについて スーザン・スチュワート
「私の謎」
〈わたし〉をめぐる揮発性の原理 今福龍太
だれでもない人々 フェルナンド・ペソア
雨に踊る人 アルトゥーロ・イスラス
暗闇にとりくむ ジミー・サンティアゴ・バカ
『ヴォルケイノ』より ギャレット・ホンゴー
シャム双生児と黄色人種 メタファーの不条理性を通して語る文化的専有とステレオタイプの脱構築 カレン・テイ・ヤマシタ
『ザミ 私の名の新しい綴り』より オードリー・ロード
記憶の場所 トニ・モリスン
『私の父はトルテカ族』より アナ・カスティーリョ
裸足のパン ムハンマド・ショクリー
写真に抗して アンドレイ・コドレスク
物語の終り レイナルド・アレーナス
「怒りと響き」
怒りと響き 四方田犬彦
猥褻動物収容所 ピーター・グリーナウェイ
サタジット・レイ サルマン・ルシュディ
書くことの伝記 アフリザル・マルナ
水辺で/森の中で ジョナス・メカス
『大説・南』より 金芝河
そぞろ歩き クルツィオ・マラパルテ
『売淫(プロステイチュシオン)』より ピエール・ギヨタ
声 モハメッド・ムラベ
ギニア ピエル・パオロ・パゾリーニ
ある映像についての調査 ジャン=リュック・ゴダール、ジャン=ピエール・ゴラン
『悦びなき社会』より ハンス=ユルゲン・ジーバーベルク
故郷から遠く離れすぎて ポール・ボウルズ
パスはかなり期待していたのだけど、「波と暮らして」って、たしか絵本で読んだあれではないかな??? まぁ、パスだけが楽しみだったわけではないので、いいけど。いや、絵本は原案だけだった。おそらく、その原案というのが、これなのだろう。その後、どこかで、その原案というのを探したような気がしないでもないが、再読だってべつにいいさ。それに、サイード、ゴンブロヴィッチ、シオラン、ファスビンダー、莫言、ペソア、アレーナス、グリーナウェイ、メカス、パゾリーニ・・・、楽しみではないか。ルシュディって、あのひと?
それから、今日、ジュンク堂で見つけて、買ってしまったのが、左の本。美術書関係の棚は、あまり歩くべきではない。ついつい手が出てしまう。とても素敵な本だ。これが1900円って・・・、安すぎではないの??? ときに本の価格がわからない。
ちなみにこの本は、先般クロエさんが気になる新刊本にあげておられたが、素敵ですよ。
さて、「木曜日」23号の同人誌評が出てきた。ネット上に書かれたものはすでに紹介済みだし、そちらをあたってもらうとして、紙媒体のものを今年も転記しておこう。なお、この他に、取り上げられた作品の一覧は、「文芸同人誌案内」さんの「掲示板」にある。
いやはや、以前かなり腐した作品がベスト5に入ってしまった。
「文學界」八月号「同人雑誌評」勝又浩氏筆
美しい平和図までたどり着いたみたいだが、戦後史はまだつづく。十河順一郎「龍の舌」(「木曜日」23号、東京都)が見せているのは六○年安保の影である。主人公「俺」がこんなふうに言うところがある。「街の様子も激変した。したがって地名はほとんど意味がないと思われる。しかし使わないと話の進行上すこぶる不都合だ。そこで一計を案じ地名の一部に英字を入れることにした。東京のかわりに、T京というように」と。「四国の片田舎」から上京、働きながら大学に通い、しかし授業よりも演劇サークルに精勤し、その勢いでデモにも行く。この時代の学生のお定まりのコースみたいだが、彼には他に、寮で同室の生真面目な学生との付き合い、街のやくざに使われる女性との付き合い、という生活もあった。その二人がともに自殺志願者であり、彼がその幇助者となるところも、この小説の迫力の一つである。会社だの家庭だのといったものに責任のある立場から見たら無責任な青春の放埓に過ぎないであろうが、しかし、こういう無謀な燃焼のなかに生命の真実もあるのだと思わせる。そして、時代とともにそうした時間を持ってしまった者には、今の東京は、あの東京とは決して一緒にはならない。「俺」の東京を、東京オリンピック以降の東京と一緒にしてくれるな、ということになろうか。「俺」の東京を葬るように、彼は友人を殺している。小説は、そういう主人公の今への姿勢も生きている。
「週間 読書人」第2696号「文芸同人誌評」白川正芳氏筆
この他、よこい隆「重力のお友だち」(「木曜日」23号)、小島義徳「夜の散歩者」(「文芸誌O」40号)、秋野信子「斎王ものがたり」(「多気文学」2号)、永田郁夫「小林秀雄の文学の思想」(「名古屋文学」24号)にひかれた。
えっと、書かないつもりだったのだけど・・・、備忘の意味で、ちょっと感想程度に。
既読作品は既読作品で、噂を聞きながら読み損ねていた小説、まったくしらなかった小説、とにかく「デジタル文学館」に載っている小説をすべて読んでしまった。いやはや、こんなことになるんじゃないかと思ってはいたが、やっぱり小さくなってしまう。まいったね。凄い作品が並んでいるよ。ことに、「薔薇のように」(「胡壷・KOKO」納富泰子さん)はかねて傑作としっていたし、同人誌小説の秀作アーカイブといったら、あれなしには成り立たないと思っていたわけで、凄いのだけど、「地の涯てのアリア」(「屋上」百瀬ヒロミさん)の凄いことったら・・・。
少々ずるいといえばずるいかもしれずに、唐突感はありながら、あの終わり方ったら、恐るべし。あの謎かけをしてしまったら、あの終わりかたしかないようにさえ思えてきた。あれでなければ、その内容に納得はどうあれ、いずれにせよ、なんとなくなるほどね、と小説として納得して、それだけのものに終わっただろう。終始ワクワクさせながら、ドンデン返しとか、そんなサスペンス的なものでもなく、終わり方にも驚かされた小説なんて、凄い! としかいいようがない。姿の見えないヘロデと聖なる幼子殉教者を連想したのは、つい最近にシュペルヴィエルの「エジプトへの逃避」を読んでいたからかもしれない。聖なる幼子殉教者は2歳以下だけれど、まだ産まれていないイエスの物語にも読めてしまった。そして、語られている場所は日本ではないけれど、日本のことでもある。日本を含む世界のことだ。読み終わっても、後味がよいとはとうてい言えない、まさに「読者を不安にする小説」。小説が好きなら、「薔薇のように」と「地の涯てのアリア」はぜひとも読んで欲しい。
「泪」(「南風」和田信子さん)も面白かった。タイトルにはもう一工夫欲しいと思うけれど、妙な具合に物語が膨らんでいく、牧子の出来事との微妙な距離感。
他者との距離なら、「てゅら」(「胡壷・KOKO」ひわきゆりこさん)。「お客さん」にも独特の距離があり、「ひとり未満ひとり以上」も含め、ひわきさんの他者というのも面白い。ただ、ひわきさんはとても丁寧で、「うんうん」と納得させられてしまう。「ひとり未満ひとり以上」にはそうした納得がいかなかったあたりが私好みだったのだけど、「なるほど」ではなく、「うんうん」と頷かされる納得というのも、それはそれで、越えているよなぁ。
「雲切れ」(「科野作家」武井久さん)は、正直に言うと、私の好みではなかったけれど、この方向にも小説はあるし、これは好みの問題だから・・・。
他は、既読だった作品で、納得のラインナップとだけ書いておこう。
ちなみに、リンクはすべてPDF版なので、そのつもりで。
「木曜日」23号掲載作については、書かないつもりだったが、小梢さんが、ブログ掲載してもいいから、感想をくれろというので、以前22号掲載の没法子さん作品にも触れたことだし、書く。1号につき1篇くらいはいいだろう。
私小説という言葉が、「私」という人称で書かれた小説のことだと言い切ってしまえば、この小説は「私小説」だ。正確には「わたし」だけれど、一人称の小説だ。それを「一人称小説」と呼ぶことも可能だろうけれど、それでもまずは私小説の在り様から考え直したい。それなら、一人称小説と私小説の違いとはなにかということからはじめなければなるまい。一般的にいえば、その小説の書き手と、書かれている「私」が等身大であり、書かれている事件なり出来事なりが、書き手の実体験に基づいて書かれているのが「私小説」で、そうしたとき、じつは「私小説」はかならずしも一人称で書かれていないものも含む。例えば、私小説の嚆矢のようにさえ言われる田山花袋の「蒲団」だって、じつは一人称小説ではない。すると、いわゆる「私小説」とは、人称はどうあれ、あくまで作家の実体験に即すということになるが、では、それが実体験か創造か、その境界をいったいだれがどうやって保証するのだろう?
端的に言ってしまえば、小梢さんが書いた「山の星」は、明らかに創造の産物である。だが、それを保証しているのは、じつのところ、私が小梢さんという個人を知っているからに過ぎない。ここには顛倒がある。実体験を保証するのではなく、創造を保証するものを提示してみたのだ。さらに、小梢さんという個人をしっているという事実が保証する創造の範囲である。
私小説が、実体験的な出来事を書くことを指すのみか? と問いたい。そうした狭義の定義付けが、実は実体験を書いていない小説までも束縛しているのではないか? すなわち、出来事の真実性のみならず、書かれた「私(わたし)」と書き手との距離である。小梢さんが「わたし」と書いたとき、出来事が創造であろうとも、小梢さんという一個人と等身大の語り手を連想しないだろうか? あたかも小梢さんという人が、こうした出来事に出会ったときには、こうした行動を取り、こう考えるのだと。
もちろん、一人称で書かれていても、それが書き手と等身大に書かれていない小説はいくらでもある。谷崎潤一郎の「卍」しかり、太宰治「女生徒」しかり。しかし、これらは性別を異にすることで、その差異をあからさまにして、むしろ語り手と書き手の距離こそが小説的なテーマになっていた。ところが、小梢という書き手があえて熟年の女性「わたし」を語り手にすえることに、私はこの小説の面白さを感じた。この小説のなかでは、「わたし」もまた、書き手にとって、想像上の第三者・他者なのだ。夫も子どももありながら、初老の絵の師匠と関係し、さらには若い水泳インストラクターとも関係を持つ有閑マダム「わたし(凛子)」はたしかに異性の眼から見れば可愛いといえなくもないが、どう考えたって、同性の共感を呼ぶものではない。こうした人物を一人称小説の「わたし」として造形することに、面白みを感じたわけだが、反面、小梢さんという人物をしらない読み手や、すくなくともこの小説ではじめて小梢さんの作品に触れた読者には、いかに読まれるだろうか? これを有閑マダムのナルシスム小説と読むものにこそ、私小説の悪しき呪縛があるのではないか? 「わたし」を小梢と等身大の人物にしか読めない貧相な読書があるのではないか? 例えば、この小説に現れる雄一郎にせよ拓哉にせよ、小梢という書き手によって創造された人物である。どうように「わたし」こと凛子が創造された人物でなにがいけないだろう? いや、むしろ、小説を書くときに、そのようにしか、すなわち、等身大のところからしか出来事や第三の人物たちを見ず、書かない、あくまで等身大の語り手のところからしか世界を作り出さない書き手の創造性の欠如、貧乏臭さを暴く書き方だったといっては褒め過ぎ・・・。ただし、凛子が小梢さんと等身大でないことは批判の対象になるものではないはずだ、とは書いておきたい。そして、あえてこんな「いやな女」を書くことこそ、そうした書き手と語り手の乖離をきわだたせているのだと思われる。一人称の「わたし」が書き手にとって他者であること、この点で、私はこの小説を面白がる。
ただし、私がこうした大枠の書き方をするのも、細部の楽しさに乏しかったからでもある。
月に二度、わたしはアトリエへ通うようになった。ひとつのカンバスに向かい、籠やら葡萄やらの静物を描く。そのわたしを、雄一郎は横から見ながら筆を動かした。わたしはときどき冷たい汗でびっしょりになった。わたしを突き通す雄一郎の目があまりにも鋭利だったからだ。モデルになることがこんなに緊張するとは思わなかった。雄一郎の目に見据えられるだけで、喉が乾き、絵筆が震える。
ある日、わたしはりんごのデッサンをしていた。その日はわたしを見つめる雄一郎が、描き始めたときからイライラしているように感じられた。彼は何度も色を塗り重ねては削り取っている。激しい動作は気配で分かる。いつもとは明らかに違う。横目で見ると、眼光は異様に鋭く、私(ママ)の身体の中まで突き刺さるような殺気だ。いたたまれなかった。

「鋭利だったからだ」とか「異様に鋭く」といった言葉遣いには安易さが否めないながら、ここでは詩人(表現者)でもあったウニカ・チュルンを描くハンス・ベルメールを連想しながら、やはり「わたし」はチュルンとはほど遠い。すなわち表現者としての「わたし」が描けていなかった。すると、絵を習うこともただ雄一郎が目当てであり、プールにいくのも拓哉が目当てにしか見えず、ひたすら男目当ての女にしか見えない。それが共感しようのない女凛子という第三者造形に寄与しているといえなくもないが、上に引いた場面は、この小説の核ともなり得たと思えて、残念だった。