2008/11/12
2008/11/11
第七回文学フリマ


9日は第七回文学フリマだった。「木曜日」としては参加しなかったけれど、同人S氏と連れ立って覗きに行ってきた。そして、買ってきたのが、左の本の数々、ってほどではない。
真っ先に2階の文芸同人誌案内&「胡壷・KOKO」のひわきさん率いる「九州隊(タイ)!」を目指してエレベーター側の階段を上っていったら、ゼロアカ道場のひとだかりに阻まれて、道を見失ってしまった。そこで、会場側のオープン階段に廻った。
とにかく凄い盛況ぶり。私が会場に到着したのは、午後2時過ぎだったわけだが、とうの昔に例年より増刷したらしいパンフレットが品切れになっていた模様。事務局によれば、1800人は来場しただろうという。参加者を含めれば、2000人を超えたと考えられよう。
そうした中、いわゆる文芸同人誌は、むしろ少数派の異端組。ついにおめもじかなったひわきさんも、九州地区の同人誌を並べながら、「売れない」と言っておられた。正直に言うと、あまり多種な同人誌が並んでいると、どれを手にすればいいのか、迷ってしまう。かといってすべてを購入するのも躊躇われる。今回、ブースに行ってみて、そう思ってしまった。ひわきさんに、お薦めを伺って、「季刊 午前」を購入。
その後グルリと会場を一周しながら、「銀座線」を発見して、石原さんとちょっとだけお話をし、「法政文芸」を買いがてら中沢けいさんのことを伺うと、すでに帰られた由で、お渡しくださいとお願いして「木曜日」最新号を置いてくる。「小説π」を購入すると、同人参加を誘われたので、我々も同人誌を作っているのだと答えたら、正体がばれてしまった。「鏡の中を歩いた日」の長嶋絹絵さんがいらして、ここでも「木曜日」最新号を受け取っていただいた。が、ひとごみのなかを行くうち、胃の激痛に耐えかね、S氏と喫茶店に退避。ブスコパンとホットミルクで遣り過ごす。ちなみにS氏は、前回に引き続いて「精神病新聞」を購入していた。
ひととき、駄弁で過ごし、3時半ごろになってふたたび「九州隊!」ブースを訪れると、ひわきさんとともに、「西日本新聞」の塚越さんにもお会いできた。また、ブースの隣には「零文学」さんが陣取っておられたわけだが、ここで「零文学」のみなさんに軽くご挨拶。と、思い返せば、なにをしていたのか、私としたことが、「零文学」最新号を買い忘れてしまったのだった。馬鹿!
ひわきさんたちと終了後のお酒を約して、一度退散。
2008/11/02
コメント返しで、前言撤回
この前の記事で、当ブログを閉鎖するとしましたが、その記事に多数のコメントをいただき、恥を承知で前言を翻し、閉鎖はしないことにしました。
その経緯は、前記事のコメント欄を参照していただき、かつ、それらのコメントの後半部分について、お返事させていただきます。
2008/10/29
2008/10/20
2008/10/12
2008/10/10
ル・クレジオがノーベル賞を受賞したので・・・
名まえくらいはしっていたが、情けないことに、ル・クレジオの小説は読んだことがなかった。いずれは読むんだろうな、とは思っていたけれど、今のところ未読。もしかしたら、どこかのアンソロジーで触れたことはあるのかもしれないが、記憶にない。
とはいえ、世界有数の翻訳大国といわれる日本でも、これほど多くの著作が翻訳されている現代作家なれば、ノーベル賞といわれても、納得できる。すくなくとも残学の私ですら名まえをしっている方なのだから・・・。
あれっ? そういえば、トゥルニエのほうが高齢だが、ル・クレジオが先に受賞したか・・・。フランスには、クンデラもいる(チェコの出身だが)し、トゥルニエはノーベル賞を獲れないかもしれないなぁ。
正直にいうと、フランスなら、年齢的に言っても、ル・クレジオよりは、クンデラかトゥルニエではないか、と思っていた。
2008/10/07
備忘記録「プルースト効果」
なにかの刺激が、記憶を呼び起こすというのは、いつも書きたくなるし、その刺激が、五感のなかでも嗅覚というのは、語彙がすくないということも含めて書きたい気にさせられるのだが、なんと、匂いが記憶を呼び起こすのは、他の刺激よりも強いらしい。なるほど、だからこそ、書きたくなるのかもしれない。そして、この記事によるとそうした匂いによる記憶の召喚を「プルースト効果」というのだそうだ。
へぇ~!
もちろん、紅茶に浸したマドレーヌの香りから命名されたのだろう。
この手の命名って、神話から取られるのも多いけれど、ときに作家に由来するわけだが、面白いというか、優れた文学の力を感じさせる。だって、概念(哲学・学問)に先駆けて、それを表出していたわけだもの。
2008/09/24
購入本

新宿の地下街サブナードで恒例の古書市「古本浪漫洲」がたっていたので、覗いて、2冊買ってしまった。9月1日からやっていたのだなぁ・・・。
永井荷風「雪解」が300円、野坂昭如「姦」は1000円。しめて1300円。
「雪解」の状態はかなりよろしくないが、これは、見つけてしまったからには、買っておかざるを得ないでしょう。
野坂は「マリリン・モンロー・ノー・リターン」のハードカヴァーも同じく1000円で出ていたのだが、我慢した。岩波現代文庫・野坂昭如ルネサンスの③に入っていることだし・・・。
2008/09/19
2008/09/07
入手本の記録
3日ほど家を空けていた間に、左の本、残雪の「カッコウが鳴くあの一瞬」が届いた。Tさん、感謝いたします。
収録作品は、
阿梅、ある太陽の日の愁い
霧
雄牛
カッコウが鳴くあの一瞬
曠野の中
刺繍靴および袁四ばあさんの煩悩
天国の対話
素性の知れないふたり
毒蛇を飼う者
「暗夜/戦争の悲しみ」は厚いが、こちらは薄め(170P)なので、「痕」を読み終えたら、こちらを持ち歩こうか、と思ったが、「暗夜」は読了次第人に貸す約束を、それもふたりまでしていたのだった。あちらをとっとと読み終えねば・・・。
2008/08/26
残雪に関する覚書
ゆっくりと、「暗夜/戦争の悲しみ」を読んでいる。
今のところ、先日の「帰り道」から遡って、残雪の初期短篇2篇、「阿梅、ある太陽の日の愁い」「わたしのあの世界でのこと 友へ」を読んだところだ。どちらも10Pに満たない非常に短い、悪夢に似た短篇。
このブログでは、作品に即して、あるいは作品に沿って、色々と書いてきたが、あまりにも比類のない残雪の世界は、その比類なさのゆえに、その癖のようなものを見つけたいと思う。
そう、小説を書いているだれもが模索しているだろうパラレル世界の文学にも思える残雪は、その特異性が、読み取りさえも困難にする。イメージに溺れていればいい? それにしては、「わたしのあの世界でのこと 友へ」に表れる、「わたし」の語りの詩情はなにか? 不条理とは呼びたくない。条理があるというのではないけれど、イメージが連なり、言葉が連なるとき、残雪が、その場その場で、そのイメージ、その言葉を書き付けずにいられなかったなにかがあるはずだ。
彼女のプロフィールを知れば、例えば、スパイや密告者、異質なものを排斥しようとする周囲の人々に、意味づけすることはそれほど難しくもない。だけど、それなら彼女の小説に現われる肉親者たちの在りようはどうか? それより、「わたし」たちが「わたし」以外のすべての世界といかにして触れているのか? 外部といっても、「わたし」が肉体をもっているかぎり、「わたし」もまた世界の一部だ。「わたし」が外部ではない。それはまた、彼女の家の問題でもある。内側と外側という境界線の不透明さ。内側に見えていたものが外側でもあること。
これから残雪を読み進めるうえで、上に書いたことが足がかりになるか、それともまったく別のものが見えてくるか・・・。
とにもかくにも、今感じていることを書きつけて、先を読もう。
2008/08/18
ご無沙汰さま
一ヶ月以上休み続けている。
ところが、その間に読んだ小説もない。マンガなら、色々読んでいるが、文字だけの本が、まったく読めていない。
待ちに待った、池澤夏樹個人編集世界文学全集の残雪、バオ・ニン「暗夜/戦争の悲しみ」は購入したけれど、待ちに待ったと言いながら、開いていない。ちなみに、残雪の作品の中でも、噂に聞く「帰り道」から読もうと思っている。
再開の計画としては、来月に、拙作の合評があるので、その報告あたりから、と考えている。
なにより、小説を読まないと・・・。
2008/07/10
2008/07/06
同人雑誌評終了というビジネスチャンス
「文學界」の「同人雑誌評」の終了は、考えようによっては、文芸の世界における新たなビジネスチャンスにもなる。もちろん文芸同人誌そのものが衰退していると認識されている現在、その商域はきわめて狭く、チャンスといえるほどのものではないともいえるのだが、そもそも文芸なるものが衰退を言われて久しく、そのとき、文芸愛好家に占める文芸同人誌関係者の取り込みは、文芸という狭い商域のなかなら、ある程度の意味を持つだろう。
また、それをビジネスなどと捉えるのではなく、前向きな姿勢として、「文學界」がやめるなら、うちがやってやるといった文芸誌が現われるとしても不思議ではない。文芸誌にかぎらず、同人誌の批評の場を提供しよう、というなんらかの媒体が現われてもいい。
だが、ビジネスであったとしても、いっこうにかまわない。私は、資本主義経済下に生きているし、弊誌もそこで出しているのだから、ビジネスになることを否定するつもりはない。たとえば、いわゆる書評にしても、広告としての意味合いは否定できない。「同人雑誌評」宛てに同人誌を送ることは、とりもなおさず、書評誌に著書を送ることと同じであり、書評誌に著書を送るのは、書評が目当てだからであり、その広告効果を期待するものだ。現在の書評誌が、書評という名の広告によって、出版社や著者からいくばくかの謝礼なり広告料をせしめているかどうかを私はしらないが、いわゆるグルメ記事などが、記事の名のもとに広告をおこなって各店から広告料を取っていることを考えれば、書評でもそうしたことが起きていたとしてもまったく不思議ではない。そうした猜疑が、書評なるものにたいする疑心を拭わせないのだが、それでも、文芸にたずさわるものの良心を信じていれば、真に誉めるに値すると思えなければ、書評を書かないだろうとも思う。悪書でも、金が取れるなら誉める、ということはないと信じたい。送られてきた本が良書だったので、書評を書くから、広告料をくれませんか、といったやりとりではないかと思う。
いや、そんなことはないな・・・。これでも、私も出版関係に多少の絡みをもつが、かねて、書評に金がかかったという話を聞いたことがない。
さて、なにを言っているかというと、某サイトからメールが届いたのだ。
原稿用紙換算枚数という基準
雪さんにいただいた宿題を、考えてみる。
小説の長さを測る基準は、原稿用紙換算枚数であり続けている。なかには、手書きで書いている小説家もいるし、同人誌に小説を書いているひとにだって、いるらしい。だけど、それが少数派であることはまず間違いない。今や原稿用紙換算枚数で、小説の長さを測るとき、書いたデータをいちいち組み替えて、計算しなければならない手間を強いられている。40行×40字に設定して、計算を簡単にするといった工夫もあるが、たとえば私的な話をすれば、私は同人誌発表が基本だから、もとより同人誌の組みに設定したワードに書いている。そのため、原稿用紙換算しようとすれば、組み換えをおこなう。もとより、原稿用紙“換算”という言葉遣いが一般化したのも、ワープロの普及以来ではないだろうか。
かといって、昔から疑問だったのだけれど、英語などの小説の長さを測るとき、単語数が基準のようだが、いったいあれはどうやって数えているのだろう? まさか、いちいち手で数えているとは思えず、おおよその数でしかないだろうと思えるが、現在に関していえば、たとえばワードなら、プロパティで文字数が出てくる。もちろんそれを400で割ったところで、原稿用紙換算枚数になるわけではないが、おおよその目安にはなる。そうした「おおよそ」という点は、英語等の単語数の「おおよそ」と変わらず、すなわち、小説の長さについて、20枚とか100枚とかあるいは1000枚というときに、ほんとうは18枚でも95枚でも、あるいは970枚や1005枚だって、そういってしまうだろう、といった振幅の範囲内だろうということだ。
小説の長さの提示は、なにに寄与するだろう?
2008/07/05
映画封印宣言
昨日突然の呼び出しを受け、歌舞伎町で台湾料理など食しながら、同人の某氏と呑んでいたのだが、そのさい、このブログで、映画について書くのはやめておけ、と言われてしまった。たしかに、私には映画を語るセンスがない。その自覚はあるつもりだから、中途半端になりもして、なおのこと、詰らない、ということらしい。
ふむ、やっぱり映画は封印したほうがよさそうだ。
そもそも観る映画の選択にセンスがない、とまで言われてしまった。あれらの選択には、わけがあるのだが、それは書かずにおこう。でもさ、「暗いところで待ち合わせ」とか「クワイエットルームにようこそ」もセンスがないの? それにね、私って、ダイアナ・ロス&シュープリームスはCDも持っていて、けっこう好きなんだ(私にとって、CDを買うというのは、それだけで稀有なことなのだ)。だから「ドリームガールズ」という選択も、私としては、必然だったのだよ、などと言い訳しておこう。
と・・・、それでは、文学については、語るセンスがあるということか? という疑問が私の胸を掠める。某氏の意見は、換言すれば、そうゆうことにもなってしまうのではないか? あれはあれで、誉めてくれていたのかもしれない。
なんか、言いつけみたいだけど、そう言われたと書いてもいいから、封印しろ、とまで言われてしまったもので、封印の宣言。
2008/07/02
2008/07/01
2008/06/28
検討中
トップバナーをいじくっているうちに、ブログタイトルが気になりはじめてしまった。今のシンプルなタイトルは、大上段にかまえた感じがしてきた。偉そうかなぁ、と・・・。
かといって、すでに一度変更しているし、リンクをくださっている方や、登録されている方を煩わせるのも、申し訳ない。アドレスは変わらないのだから、お気に入りやRSSの登録にはさしたる問題はないにせよ、それでもね。
ところで、トップバナー、重過ぎですね。
2008/05/28
面白~い!!!
やばい! なんの気なしに軽く開いてみたら、とまらない。これは久々の大ヒットだ
この読書が遅い私の、まして少々スランプ気味の今なのに、あっという間に1/3くらい読みすすめてしまった。
えっ? なにかって?
2008/05/24
入手本と私的一大事

まず、この前の記事で予言したとおり購入してきたのが、アルフレッド・ジャリの「フォーストロール博士言行録」。驚いたことに、定価(2200円)より安かった。国書刊行会のフランス世紀末文学叢書のⅥにあたるのだが、なるほど、かつて本屋に並んでいたはずのときに見かけなかったわけがわかった気がする。今回も、書棚をザッと見渡して、あれれ? と思ったのだが、イメージしていたのは、ユイスマンスの「腐爛の華」が同様にフランス世紀末文学叢書に入っていることもあり、私の書棚に入っている「腐爛の華」のような大きな本を予想していたのだ。ところが、わりとちっさい本なのね。とはいっても、今回、あれれ? と思った理由は、ちょうどそのとき別の方が手にしておられた、ということもあるのだが・・・。
さらに、左のとおり、やはりというべきか、澁澤龍彦訳ジュール・シュペルヴィエルの「ひとさらい」も買ってしまった。薔薇十字社刊の装丁も美しく、かつ、シュペルヴィエルの長篇で、本のコレクターでもなければ装丁はともあれ、澁澤が翻訳したシュペルヴィエルの長篇というのに惹かれて、買ってしまった。
そのうえ、またしても、カプチーノをサービスされてしまった。店長さん、ご馳走さまです。カフェを名乗るだけあり、コーヒーも凄くちゃんとしていて、美味しいお店なのだ。
そして、「文芸誌O」の第42号がもう届いてしまった。週明けくらいを予想していたのだが、意外と早く届いた。編集人様、ありがとうございます。いまのところ未読の同人誌が溜まっており、しばらく時間をいただきたいですが、おいおい拝読いたします。ちなみにWeb版も公開済み。ここ。
色々な同人誌小説を開いては摘まみ読みしているのだけれど、どうしたことか、食指の反応が鈍い。
これより下は友人知人のみなさまへ、お願いごとも含んでおります。
2008/05/22
明日の予定・心積もり
いまだにSOLD OUTにならないところを見ると、どうやらフォーストロール博士は私を待っているらしいので、明日は新宿へ出るまえに千駄木経由で、例の古書店を訪れよう。
ちょっと高いんだけど、澁澤訳シュペルヴィエルも買っちゃいそうだなぁ。
ただ、かの古書店は、開店時間が不定で・・・。まぁ、夕方ごろに着けばよいだろう。
2008/05/20
2008/05/08
同人雑誌評終了について、他
最初に、「お疲れ様でした」と最後の同人雑誌評を書き終えられた大河内氏に、感謝を込めて書いておこう。
だけど、そのうえで、あえて書く。
まず、同人雑誌評の終了について、やはり読売新聞の記事だけではわからなかったことがある。なにより終了は、「文學界」編集部から申し入れてきた、ということだ。言い出しっぺは、評者たちではなく、編集部だったらしい。このとき、しばらく休養を余儀なくされた大河内氏の体調、あるいは高齢という事情を斟酌したであろうことは想像に難くないが、かといって、評者、とりわけ大河内氏が、それを甘んじて受け入れたことは、後で触れるとして、「文學界」の購読者に占める「同人雑誌評」目当ての購買者の数は、すでに「文學界」あるいは、文藝春秋社にとって、意味のない数字になっていると考えられよう。
よくもここまで同人雑誌と係わったという感慨のもとに、私としては先月五月号本欄のタイトルを「週刊読書人」の時代も含めて「三十有余年」としたのだが、「文學界」に限って言えば二十七年間になる。編集部でも幕引きの好機と見なしたのか、同人雑誌評のコーナーを今年いっぱいで打切る計画のようである。私の感慨のいかんにかかわらず、同人雑誌減少の現在、「文學界」ではすでに予定のことだったであろうが、減少傾向は、この二ヵ月続いている。私が初めて執筆した頃は百二、三十冊を維持していた。
上が、今回の大河内氏による「同人雑誌評」の書き出しだ。なんとも曖昧な書き方で、苛立つ。大河内氏の三十有余年や二十七年がなぜ、編集部にとって幕引きの好機なのだろう? 感慨深げに「三十有余年」といった文章を大河内氏が書いたことが、編集部に待ってましたとばかりに、同人雑誌評の終了を言い出させたようにも読めるし、それ以上に、「計画のようである」とは、なんとも曖昧だ。評者諸氏の気もち次第にも、または新たな評者があれば継続するようにも読める。「打ち切りになることが決まった」と断言していた新聞記事は、さすが新聞ということか?
また、減少傾向を「この二ヵ月」と言われては・・・。すくなくとも「文學界」に届く同人誌の絶対数が減ったことは、たしかだと思う。だが、およそ2~3月に発行されたはずの時期にあたる「この二ヵ月」は、一年のなかで発行数が少ない時期にあたることくらい、三十有余年の同人誌評者なら、わからないはずがなかろう。正直にいえば、ボケたとしか思えない。
などというのは、あまりに口が過ぎる。それなら、下手な言い訳だな、と言おう。なぜなら、大河内氏は、わかっているのだ。
しかし純文学志向といったものが時代錯誤的孤立感を深める中で、同人雑誌を老人雑誌と陰口をきかれる推移は留めようもなく、文壇解体の流れは加速されて同人雑誌を飲み込んでいった。一方では文壇などすでに眼中になく、純粋な研鑽の成果を発表する場として自足していた同人雑誌も存在したし、文学同好会誌、もしくは短歌、俳句の結社誌と同様のものとして変質していった。それ故同人雑誌側にとって「文學界」の同人雑誌評の有無は必ずしも一律ではなかった。むしろ「文學界」同人雑誌評の存在すら承知していない人たちの方が大方で、このコーナーを多少の刺激剤として期待しているむきは、われわれが考えるほど多くなかったのであろう。
「同人雑誌評の有無は必ずしも一律ではなかった」という文章には、首が傾げるが、おおよそ言いたいことはわかる。そしてそのとおりなのだ。例えば、文学フリマに参加している人々のいったい何人が「文學界」の同人雑誌評なるものをしっていただろうか? あるいは、知っていて無視していただろうか? 今も若い書き手はいくらでも現われている。評者たちは、例えば、岩代明子さんという比較的若い書き手を同人雑誌優秀作として「「文學界」で紹介している。今回の優秀作の鮒田トトさんも、40代なのだから、けして老人ではない。
では、なにをもって大河内氏は高齢化というのか? ここで見るべきは、彼が好んで使う「文壇」というコトバではないだろうか? 上の文章を見れば、彼は「文壇」は解体し尽くしてはいないが、その流れがある、と言いたいらしい。小説家や評論家らがいる世界を文壇というなら、小説家も評論家も存在している現在、それはたしかにあるし、解体のしようもない。だから、大河内氏の言う「文壇」とは、もっと狭義のなにかである。例えば、野坂昭如が小説のタイトルに据えたような「文壇」のことでもあろうが、野坂の「文壇」はもっと狭義であり、職業作家たちの盛んな交流、例えば文壇バーなどに集ったその場のようなものだっただろうが、大河内氏がいうのは、それと同様の、あるいはその延長のような交流が同人誌にもあったという幻想である。いや、幻想というのは失礼だろう。たしかにそうした交流がなかったとはいわない。小説家や評論家と同人誌の書き手たちが、交流する場があったのだろう。そしてそうした場所に存在していた同人誌が、高齢化の憂き目に合い、若手を取り込めずに、衰退したというわけだ。
だとすれば、「文學界」の同人雑誌評が相手をしていたのは、そうした同人誌だったということだろうか? あえてそれをとりあえず同人雑誌と呼ぶとして、同人雑誌ならざる同人誌が存在していることも、上の文章を読めば、大河内氏は充分に承知しているし、また、今回も「星座盤」という若い書き手たちによる同人誌の創刊号から作品を取り上げている。
「同人雑誌」とか「文壇」といった狭い視野が、同人誌を高齢・固定化などと、読売新聞に書かせた。
しかし、このとき考えたいのは、「同人雑誌評」という欄が、誰のものだったか、という問いだ。
すなわち、大河内氏が「このコーナーを多少の刺激剤として期待しているむき」などと謙虚に口籠もりながら言う人々、すなわち読み手の側にだって、大いに問題があったはずだ。同人雑誌評というコーナーを「文學界」のなかの継子に仕立てたのは、ほかならぬ、同人誌の書き手たちにほかならないのではないか? 同人誌の書き手以外の誰も見向きもしないコーナーなど、継子にならざるを得ないし、そうなれば、毎回新人賞と同じ号に掲載される同人雑誌優秀作だって、継子そのものだろう。
かといってねぇ、素人の作品をいちいち読んであれこれ言ってくれる、たしかにありがたい存在だったとはいえ、その在りようにかまけていられるわけもなかったのだよな。
同人雑誌とやらと文壇とやらが蜜月を誇った時代であれば、なるほど、継子ではなかったのかもしれない。しかし、同人誌は同人誌であり、文壇なるものと隔絶して存在している。
そう考えれば、同人雑誌評の終了、喜ばしいではないか。私たちが作っているのは、同人誌であって、大河内氏が言う同人雑誌ではない。文壇なるものに諂う義理も道理もない。よきかなよきかな。
正直に言えば、かなり残念に思っているのさ。だからこそこの際、悪態でもついて、同人雑誌評の終了を歓迎しようよ、ってことで・・・。
2008/04/29
2008/04/16
2008/04/13
同人雑誌評を巡って―そして入稿
「胡壷・KOKO」6号に掲載されていたひわきゆりこさんの「象のテラス」が、「文學界」の「同人雑誌評」に取り上げられたのは、3月号だった。評者は松本徹氏。ところが、今月発売の5月号で、大河内昭爾氏が再度取り上げて、あまつさえベスト5に選んでいる。とても面白い出来事だと思う。
もちろんそれは「象のテラス」がある水準に達しているから相成ったわけだが、そうした水準を超えたところでは、もう評者の好みの話なのであり、「ベスト」などと言いつつも、優劣と言いうる絶対的な批評などない、と暴露したことになるだろう。じつをいえばそんなことは言うまでもない、とも言えるが、「ベスト」と言い、半年に一度「同人雑誌優秀作」を選出している同人雑誌評の評者のなかでもリーダー格にある大河内氏が、改めて、同人雑誌評という場で、そうした優劣の在りようを示したことには驚きさえ感じられる。まして、その書き振りが面白い。
ひわきゆりこの作品は前から感性の良さを感じている。つまり文章のリズムが好きなのである。三月号で松本徹氏が取り上げているが改めて論じたい。「象のテラス」(「胡壷」6号、福岡市)にも自然体のゆとりを感じる。とりとめのない話の運びなのに魅力があって、私のぼんやりした気分に逆らわない。・・・以下略
「感性の良さを感じ」ると言いながら、「好きなのである」と書き、それはまるで、普遍的な「感性の良さ」を否定し、あくまで大河内氏の基準に沿う「感性の良さ」に還元してしまう。あまつさえ「私の・・・気分に逆らわない」からこの小説は優れている、というわけだ。ここには、ひわきさんの「感性の良さ」を看取できなかった松本徹氏にたいする遠慮が見えるようでもあるが、そうした遠慮がちな口振さえ、批評の普遍性、作品優劣の絶対的な普遍性の否定が、批評者自らによって吐露されてしまった結果なのだといえよう。
こんなことをしてしまったからには、この際ベスト5とか同人雑誌優秀作なんてことは止めてしまうのが妥当ではないか? とさえ思えてくる。自らの同人誌評とのかかわりを巡って三十余年を振り返り、昭和60年当時にはかろうじて認められた文学界による同人誌への期待が、懸賞(新人賞)制度の確立によって今やすっかり失われたことを認識するらしい今回の書き出しを見ても、そう思う。
「同人雑誌評」を継続するなかで、これと思う書き手には、「文學界」は無理でも、「季刊 文科」にでも精力的に書かせればよいのではないだろうか? まぁ、今でも例えば玄月といった書き手を輩出しているといった自負があるのだろうし、「季刊 文科」にそうした作家輩出ができないこともわかっている、ということなのだろう。
ともあれ、ひわきさん、ベスト5おめでとうございます。
なんだかんだいっても、やっぱり嬉しいですよね。私も嬉しかったですもの。まして今回は、こうした経緯があったのだから、まさに僥倖。喜んで当然だと思います。
ちなみに、今回の「同人雑誌評」では、「季刊 遠近」33号掲載難波田節子さんの「ハンモックのある庭」も取り上げられている。
今回、自宅就労という閉じ籠り生活をしていたら、7日に7日であることに気づかず、「文學界」」の発売日を逃してしまった。
ところが、大宮のルミネに入っていた書店が潰れ、ヴィレッジ・ヴァンガードになってしまい、大ターミナル駅であるはずの大宮でさえ、「文學界」を入荷する書店は、駅構内ecuteのリブロかロフト内のジュンク堂しかなくなってしまった(ちなみに、ロフトの中にもヴィレッジ・ヴァンガードがある。ヴィレッジ・ヴァンガードが嫌いではないが・・・)。あげくが、どちらも入荷数がすくないらしく、発売日を逃したら、とたんに品切れだった。結果、新宿まで足を伸ばしたときにようやく手に入れられたというわけ。こんな僥倖が起きたときにかぎって・・・。
それで、文芸誌を眺めていたら、「群像」が第二回の大江健三郎賞を発表しているというし、さらに新人賞の予選通過者のなかにH.F.さんのお名まえがあるというので、手にとってみると、なんと円城塔が新作小説を書いて巻頭を飾っているではないか。というわけで、思わず購入した。
円城塔の新作「烏有此譚」は、冒頭部分を覗いたが、どちらかというと、「つぎの著者につづく」より「オブ・ザ・ベースボール」の系譜のようで、いやはや・・・、また退屈のようだ。とはいえ、まだまだ冒頭部分しか読んでいない。
H.F.さん、おめでとうございます。一次通過だって嬉しいですよ。私も昔の「早稲田文学」でしたが、一次を通ったときには、思わず「早稲田文学」を買ってしまいました。まして、とりわけ競争率が高いという「群像」ですから、充分誇っていいでしょう。
2008/04/11
2008/03/22
編集雑記・驚き篇
なんと、ついさっき、家庭等諸般の事情からゼミを離れておられた方からメールが届いた。100枚程度の作品を今年の「木曜日」に提出したいと・・・。
これでKさん休載の分が埋まり、私が短い以外は例年どおりになりそうだ。
2008/03/18
編集雑記
とびとびだが、「木曜日」の原稿が集まりつつある。今日も、1本届いた。とはいえ、コラム。いつもは長いものを書いてくれるヒトが、今年は休載してコラムだけ。
長い作品は、ギリギリまで届かないものだ。短いものほど早く届く。もちろん、短ければすべて早いというわけではない。むしろ、長いもののほうが、〆切を守る傾向にある。
おそらくは、短いものはいつでも書ける、といった余裕に流されるのだろうけれど、逆に、長いものを書くひとは、それなりに書き慣れていて、ペースを掴んでいるという見方もできる。
しかし、今年は〆切厳守を言い渡しているから、〆切超過は許しませんぞ。
去年〆切を守らなかった3人に釘を刺しておいたほうがいいかな? そういえば、毎年コラムしか書かない方がいるが、彼も去年は〆切を守らなかったな。彼には、昨日メールを送っていない。信用しているからではあるのだけれど、やっぱり釘を刺しておくか。去年は、うっかりしていたらしいが。それに、コラムは穴埋めで、ページ数も1Pに決まっているのだから、多少遅れてもさしたる支障がないこともたしかではある。
ここ数年最後の提出になっている人物がいるが、彼は自ら、間に合わなければ休載と言っているので、かわいそうでもそうなるだろう。あともうひとり、いつも遅れる方がいるが、はたして今年はどうなるか???
巻頭については、やはり考えている人物にしたいと思うが、とりあえず作品を見て考えることにしよう。問題なさそうなら彼にするつもり。
表紙については、ほとんど気持ちが固まってきた。
毎号傾向が変わるのはよろしくない、というのが、その根拠。かといって固めてしまうのも詰まらないが、せめて2・3回はおなじような傾向にしたい。なので、昨年同様に「えっ?!」というような少々きわものの表紙を目論んでいる。また怒られるかも・・・。きわものは賛否が極端に分かれるんだよなぁ。去年なんか、過去最高という方と怒る方に二分した。
2008/03/16
今日買ってきた本
どうにも、アナトーリィ・キムの「コサック・ダヴレート」が頭から離れないので、この際読んでみようと「リス」を買ってきた。長篇なので、「コサック・ダヴレート」ほどとんでもないことはないと思うが、もしかしたら、大仕掛けの仕掛けが見られるかもしれない。
ちらりと覗いてみると、「私」と「僕」という語り手が見られるし、「あなた」なる二人称も見える。おとぎ話というが、あなどらずにかかったほうがよさそうだ。
2008/03/13
技術と推敲
野坂昭如は、まったく推敲と言うものをしない、と豪語していた。というより、読み返したこともないという。およそ疑わずにいられないが、でも彼のあのリズムがある文章は、たしかにいじれないだろうという気がしないではない。いじってリズムを作るという方法もあるだろうが、それは勢いを削ぐ気がして、勢いとリズムを両立させられるのは、書いてしまうことのなかにしか生まれないのかもしれない、などとも思う。
詩が観念的なもののように言われ、自動筆記のように書かれるものだと言った誤解が多いけれど、シュールリアリズムの手法である自動筆記にしても、じつは自動筆記で立ち顕れてきた言葉を練っていく作業を経てこそ詩になった。
石川淳の小説が、初期のものは、構成などはかなり出鱈目だけど、晩年になると、ひとつひとつのセンテンスにさえ出鱈目なものが表れてくる。あれっ? これって文章になってないじゃん! とか、まえの文章とつながらないぞ、とか。そう、破れてくる。彼くらいになると、技術なんてどうでもよくなってしまうのかもしれない。
そう考えていくと、直しこそ技術、という気がしてくる。itu:kairouさんの記事に頷かされる。概念としての小説の完成度をもとめていけば、直しを重ねたほうがよいのだろう。もちろんそこには、小説の概念、小説教室的なフローチャートを踏まえる必要がでてくるわけで、すなわち、主題論的にいかに上手に書きたいテーマを伝えるか、といった技術になる。
だが、実験的な小説が、主題論的ではないというわけではなくて、実験が主題になる実験小説ならいざしらず、例えば、松浦理英子の「裏ヴァージョン」という小説が、仕掛け(実験)が仕掛けに終わるのではなくて、その仕掛けこそが、彼女が常に追い求めてきた関係性の困難という主題を切実に表出していた。そうした仕掛けが主題を表出する小説なら、諏訪哲史の「アサッテの人」についても言えるだろう。"文"学というなら、人間でも社会でもなんでもいいが、それらを語るために、文章やコトバになにができるのかを追及してこそ、そう言えるのではないか、と思えば、やはり既成の技術に頼っていたのでは、もの足りない。
論文には、形がある。すなわち技術だ。新しい論旨(主題)を伝えることが目的だから、むしろ型にはまっていなければいけない。小説も、真に伝えるべき主題があるなら、そうした型にはまり込めばいいのかもしれない。
だけど、そうした主題はすでに失われたというのは、柄谷行人が「近代文学の終り」で書いたことだが、柄谷に負うまでもなく、大きな問題の不在はすでに何度となく言われてきたことだし、彼はそれを論証してみせただけだとも言える。もちろん、論証に意味がないわけではなく、大いに重要だとは思うが、だけど、それはそれでやはり嘘で、大きな問題ではなくても、個々の抱えた問題なら絶えず生産され続けている。個々には、切実な問題がつねにある。存在論的といってもいいし、クオリアといってもいいが、語らずにいられない問題が存在する。ところが、そこにはすでに新しさはない。すなわち新たに書かれる必要性がないのだ。個々には語らずにいられない必然性があっても、読む側にしてみれば、べつに貴方の問題を読まなくても、すでに同じような問題は溢れているから、それを読めば充分だよ、ということになる。
さてしかし、文章・言葉の問題として考えたときには、技術に偏りながらも、いまだ触れたことのない言葉・表現に出会うことはある。私がチマチマと細部に拘るのも、これゆえと言える。逆にいえば、そうした読み方でしか、多くの小説に期待できるものがない、ともいえよう。再生産ばかりが横行しているから、細部しか読むところがないといってしまってもいい。
例えば納富さんの「水の音」の水の描写には、たしかに読むべきところがある。では、あそこに辿りつくことは、例えば私に可能だろうか? 例えば、今書いているものに推敲を重ねれば、ああした描写が生まれるだろうか? もちろん、納富さんの再生産ではない、私の描写ということになるわけだが、推敲が技術的なものではないものになりえるか、という問題と言えるかもしれない。
2008/03/12
2008/03/06
今度こそ休止宣言
思うところあり、ここに創作日記めいたことを書くのはやめようと思う。そして、読書に特化したい。これまでも休止などと言いつつ、なんやかやと書いてきたが、今度こそ、3月いっぱいは休止する。
ほんとうは、休止ではなく、いい加減で、読書記事を書こうと思い、コルタサルを開いたのだが、やはり推敲途中の今は、「このアイデアは、使えるかな・・・」とか、「そうか、こんなふうにもっていくのも、手かも」とか、気が散って、全然頭に入ってこないのだ。
いったい去年はどうだったろうかと、去年の2~3月頃の記事を見て回ってみたが、エメなんかを読んでいるじゃないか、と思ったら、やはりその間は創作が停滞していたようだ。
作品温暖化未然
気候と同様に温まってきたということだろうか? ファイルを開かずに、記憶だけで手探っていたら、ふたつほどアイデアが出てきた。
まずひとつは、いらないと思う部分が出てきたので削除。2行減った。
もうひとつは、終わりちかくの段落をひとつ、まるまる書き換えたいと思いはじめている。イメージも浮かんでいる。だけど、それがはたしてよいか、と、迷いがまだある。
もうすこし頭のなかで検討しよう。検討するうち、今浮かんでいるイメージとは別のところへいく気もする。
と、辿っているうちに、今浮かんでいるイメージは、あまりにも終わりにむかうカタストロフめいていると思えてきた。それはイヤだ。
かといって、元のままというのは、もの足りない。もの足りないというより、考えが足りない。カタストロフに陥ることなく、あれを使いながら・・・。やっぱりあれにケリをつけなければいけない。直喩による曖昧化でカタストロフをやり過ごすか?
いずれにしろ、もうすこし温めよう。
2008/03/03
「木曜日」24号に向かう
「木曜日」24号の表紙案をふたつ作成してみた。
PDFにして、ここに提示、同人に意見を聞こうかと思ったのに、どうしたわけか、IllustratorからPDFへ、書き出しがままならない。残念。
そんなことをして、「木曜日」24号ファイルを見ていたら、ついついファイルを開いてしまい、新作を読み返し、2・3の修正を施してしまった。といっても、言い回しや誤字(あいかわらず見つかる)の修正ていど。ワンセンテンス増やしもしたが、一行に満たない。
こんなふうにしょっちゅう覗いていたのでは、細かい修正はできても、大きなところの修正にはいたらない。全体を見渡したときに、必要なもの、不要なもの、というのが、客観的というか、時間経過のなかで立ち上がってこない。堪え性がないなぁ・・・。
2008/03/02
原稿到着
昨日、いつも一番乗りの方から、原稿が届いた。先日会ったときに、いつ送ればいいかというから、3月末日までに送ってくれればいいと言ったのに、3月の1日にくれるとは、なんというか・・・。
私が載せると決めたのだから、これで3人4作品が確定した。とはいえ、今のところ短い作品ばかり。読み応えがあるといえる長さの作品は、まだまだこれからだろう。そうした長さが期待できる同人は、今年は3人。長めの作品が期待できる方のひとりがすでに提出しているのだが、短いとはいえ、2作だから、それなりにページは稼いでくれた。もうひとり期待できた方が休載で、私も短い。今年のページ数は200を切るかもしれないが、それでも150はいくだろう。ところで、ここまでの4作品すべてが、奇数ページ数・・・。穴埋めエッセイ「目安箱」は間に合うんだろうか? まぁ、いざとなれば、作品によって、奇数ページはじまりでもかまわない。ひとり2作掲載ならなおのこと、むしろ連続したほうがよいな。テーマも似てるし。
さてさて、そろそろ本格的に「木曜日」24号の作成に着手するとしましょうかね。
表紙は、いまだにフォーゲラーと一昨年同点決戦進出作品で迷っている。
それから、今年こそあのひとの作品を巻頭におこうと思っていた方が、今年は休載宣言しているので、どうしたものか。常時執筆していて今まで巻頭になったことがない同人は、私の記憶に間違いがなければ、現在3人のはずだ。上のおひとりの他には、私ともうひとりだが、もうひとりのほうは、現在連載中で、たしか今年最終回のはず。連載作品が巻頭では、これまでをしらないひとが白ける。
となると、私?
それはイヤ。編集担当とは、編集をする特権を与えられたものであるからして、作品掲載の順番は私の趣味で決める。自作を巻頭にするような恥曝しはしない。
2008/02/28
2008/02/27
読者は誰か?
やっぱり凄く問題を抱えた小説なんだと思うけれど、例えば、アナトーリィ・キムの「コサック・ダヴレート」なんて小説を、その正否はどうあれ、とりあえずは辿ってみせたLydwine.とか名乗る不遜な輩ならどう読むだろうと、挑発の身振りで「木曜日」掲載を決意した。
かといって、Lydwine.としては、読み解きめいたことをするつもりは、もちろんないが。
春の文学フリマ、ブース確保
文学フリマ事務局より封書が届いた。春の文学フリマ2008のブース取得のお知らせ。けして籤運が強い私ではないはずだが、4回連続当選で、文学フリマに関するかぎり、とてもラッキーだ。いよいよ「木曜日」も〆切厳守で、早めに作らなければならない。まだ、お金を振り込んでいないから確定とは言えないが、近々に振込みを実行するので、同人たちよ、よろしく! といっても、ここを見ている同人はほんの2・3人に過ぎないが。
なお、文学フリマ事務局通信によると、第七回文学フリマの日取りも決まったそうだ。もちろん、春参加の「木曜日」は参加予定なし。
昨年はかなり表紙に凝って、見た目を演出したわけで、その意味では文学フリマに合わせたようなものだったが、ところが売れ行きは最悪だった。雑誌の方向性が見えない、という弱点だったのではないか、とも思いはじめている。今年はフォーゲラーを目論んでいたけれど、それではまたおなじ轍を踏む気もする。もう一度シンプルにもどそうか? 一昨年同人たちにどれがよいかと投票してもらった表紙案のうち、同点決戦のすえ落選になった絵があるので、今年はそれにしようかな・・・。
2008/02/26
可愛く憎く未熟な我がコ
全体のことを考えながら見直してみた。
すると、膨らませたいと思っていた部分が、いじれなくなってきた。もとよりいじれなくて悩んでいたのだが、いじってはいけない気がしてきた。仕掛けを盛り込んである段落だけに、ここを膨らませたりしたら、そうでなくても見えづらい仕掛けが、まったく見えなくなるだろう。違う仕掛けを施すことになりかねない。じつは、仕掛けを考えれば、全体のなかで、かなり重要な段落だと気がついたわけだが、そんな仕掛けは誰も気づかないだろうな、と思うと、小説(物語)のバランスとしては、やはりちょっと残念な段落ということにもなるわけだから、その両立が欲しいところだけれど、今の私ではこれが限界か・・・。
不遜を承知で、誰の小説に似ているだろうと考えたとき、仕掛けとしてはコルタサルを思い出さないでもないのだけれど、もちろんあれほどの完成度は望むべくもない。全体としては、誰にも似ていない、と言いたい。
ようするに、我がコがけっこう可愛くなってきたかも・・・。可愛く感じたり、憎らしく感じたり、両極を右往左往する時期にいる。それというのも未熟のゆえ。
今は寝かせて、まだ推敲途中のつもりだが、原稿用紙換算40枚で14200字。増えたり減ったりで、全然変わっていない。
2008/02/24
チュルンを読書中&推敲のこと
やっぱりというべきか、ウニカ・チュルンの「メゾン・ブランシュでの休暇」を開いて読みはじめてしまった。現在、マンディアルグの序文「SAVOIR-VIVRE」と「ハンス・ベルメールとの出会い」さらに「ミステイク」まで読み進め、あとはいよいよ「メゾン・ブランシュでの休暇(抄)」。この本にはさらに「小児読本(抄)」も収録されている。
この翻訳は、なんかチグハグだ。どうしてマンディアルグの序文が「SAVOIR-VIVRE」という原文のままで、「ミステイク」は片仮名なのか、わからない。どちらも訳注がついて、序文は「処世知」だといい、「ミステイク」は「MistAKE」であり、「mist」はチュルンの母国語であるドイツ語では「糞」の意味になると但し書きがあるのだ。この訳注を見ればタイトルの扱いは、逆ではないか? 「ミステイク」こそ原文どおりのタイトルにして、訳注をつければよいのに。
さらに、「メゾン・ブランシュの休暇」と「小児読本」が抄訳であり、ところが「ハンス・ベルメールとの出会い」にも、じつは割愛した部分があるという。「メゾン・ブランシュの休暇」は仏訳版を真似たそうだが、やはり




