「物語」「人間」「描写」考
そろそろ新作を考えないといけない時期なのに、毎年のことながら、なにも浮かばないなかで、それでも頭を「小説」に向けているうちに、つらつらと考えたことなど、書きとめておこうと思う。だけど、とても青臭く、論理的とも言い難く、勝手な独り言なので、無視していただくのが望ましい。
小説の三つの在りよう、なんてことを考えた。それらは、別々に存在しているわけではなくて、ひとつの小説のなかでそれらが連動しながら、それぞれに屹立していれば、それこそ理想だと思うけれど、その実現は難しそうだ。
単純に言ってしまえば「物語」「人物」「描写」なのだけれど、それぞれの役割を考えたわけだ。
まず、次になにが起きるのだろう、これからどうなってしまうのだろうといった、読者を、先へ先へと導引していくその牽引力が「物語」にはあり、「物語」といっても、それはすなわち「出来事」の連鎖で、その連鎖の必然性や必要性が、牽引力の要になるのだろう。
ところが、「物語」については、ここ二・三十年のうちに、いたって評判を落とした。構造主義は、物語分析や神話分析をつうじて、物語の構造は神話で書き尽くされてしまい、数千年間それらの焼き直しにすぎないという。だが、物語と言うより出来事の連鎖として捉えるなら、例えば携帯電話やインターネットの普及などといった現代にしかない状況だから起きる出来事がある。
まして、小説を「人間」を描くことだとするならば、神話に現れる神を含めた人物たちで書き尽くされているのではないか?
というわけで、次に「人物」なのだけれど、物語が上に書いたようなわけで現代を活写するしか能のないものに成り果てたならば、通俗文学・エンターテインメントの方法論にしかならないようでさえありながら、ところが、エンターテインメントでさえ物語に愛想をつかした結果が、いわゆる「キャラクター」という言葉なんじゃなかろうかとさえ思えるのだ。「キャラクター」と言い換えたところで、ようするには、「人間」を描いているかという問いに他ならないのではないだろうか? すくなくとも、逸早くその言葉を使っていた小池一夫の「キャラクター」という言葉などは、「人間」と言ってもいっこうにかまわなかったように思える。例えば、ギリシャ神話に描かれた神々の、個性をもちながら多元的でもあるその在りようなんて、まさにキャラクターではないか。
さて、その上で、では「人間」あるいは「人物」が小説にもたらすものとは何だろう? 読者を頷かせるものではないか、と考えた。「そうだよね」と言わせるもの。納得させるもの。そこに驚くべき人間が描かれていたとしてもなお、「これが人間だ」と思わせなければ、説得力を欠くと言われるのがオチだ。
そして、これこそ、いわゆる同人誌小説が指向しがちの純文学の限界だろう。小説は人間を描け、ということの、限界だ。すなわち、納得できる了解済みの世界の内部におさまるしかない。まして、物語同様に数千年前に書き尽くされた範囲の内側だ。
「人物」を「描写」することも、あるいは「出来事」を「描写」することも、「描写」に変わりない。それでも、あえて、「描写」を小説の核に据えたい。
「物語」が牽引力足りえるのも、「人物」が読者を頷かせるのも、それらが、「物語」としてあるいは「人物」として優れていればこそである。では、優れた「描写」の力とは何だろう? 「描写」は読者になにをもたらすだろう?
「描写」は世界を変える。
今まで見ていた世界を、新しい見え方に、読者の感覚を広げる、それが優れた「描写」の力ではないだろうか? 見えるものをありのままに描くのが正しい「描写」? 大いにけっこうだ。それでも、私とあなたの見ている世界は、違うのだ。その違うことが私の視界を広げる。それが「描写」の力だ。このとき、それらが「描写」されることで、「出来事」≒「物語」や「人物」さえ、世界の拡張に寄与する。
そう考えると、小説(描写)って、なんてエキサイティングだろう。ほ~ら、小説が書きたくなってきたでしょ?! と自分に言ってみるが、残雪を読んでいた昨今なら、世界の見え方を変えられてしまう体験=読書のほうがエキサイティングな気がしないでもない・・・。
| 固定リンク


コメント
へへへ。
無視していただくのが望ましい、と書かれたら、絶対何か書きたくなるわたしでございます。
今、わたしの小説はエンタメだと白鴉で言われており、エンタメでもいいや、と開き直りながらも何か腑に落ちないものがあって、この記事は何かのヒントになりそうな気がします。
読ませていただいて、自分を振り返ってみると、どうしてもわたしは物語を中心に考えてしまっていて、その出来事を構成するものとして人物があって、その出来事や人物を読者にわかってもらうための方法が描写だったように思います。
先の残雪の記事もすべて興味深く読ませていただきました。
「場」や「時間」というものを意図して考えたことなどなく、語尾や小さな言葉一つを大切にすることで、読者に「時間」の重なりを感じてもらえるという「気づき」がありました。
いつも、Lydwine.さんの記事はわたしに新たに考えようというきっかけを与えてくれます。
今年もよろしくお願いいたします。
投稿: 美月 | 2009/01/12 20:12
美月さん、明けましておめでとうございます。
お年賀を頂戴し、ありがとうございました。おもしろい年賀状でした。年賀状と言えば、デザインという固定観念を破っていました。
この記事は、自分でも全然考えていないな、と、読み返すとうんざりです。私の場合、書きながら考えたほうが、よいようですが、このときは、ぼんやり考えていたことを辿って書こうとしたら、脈絡が辿れなくなってしまいました。ドストエフスキーがどうとか、書きたかったのですけどね・・・。
投稿: Lydwine. | 2009/01/12 20:29
Lydwine.さんまで不可能性の文学の穴ぼこに落ちてはいけません。
早い話が、誰かが既に書いた「物語」「人間」「描写」であるからいけない訳で、これまで誰も書かなかった「物語」「人間」「描写」であれば良い訳です。
なんて、口で言うのは簡単で、実際に誰も書かなかった「物語」「人間」「描写」なんて、自分には出来っこないと思ってしまいます。
投稿: euripides | 2009/01/13 00:11
> 実際に誰も書かなかった「物語」「人間」「描写」なんて、自分には出来っこないと思ってしまいます。
ここですよねぇ~・・・。
それでも、「物語」はエンタメの限界、「人間」は純文学の限界、これらを超克できる、最後の砦が「描写」なんだと思いたいのです。でも、クロード・シモンみたいな退屈な小説は書きたくない。誰かがすでに書いている「物語」「人間」を、それでもあえて組み立てておいて、そのうえで、「描写」だけは、書き方だけは・・・、と夢想するのですが・・・。
投稿: Lydwine. | 2009/01/13 00:34