二人作りしわが山斎は―寺山あきの
昨日、出掛けに郵便受けを覗くと、「文芸誌O」第43号が拙宅に届いた。編集発行人様ありがとうございます。
掲載作は、小説が5本と詩が1本。Web版も公開済み。
出掛けに見つけたものだから、そのままバッグに入れていき、電車内で、小説をすこしずつ齧り読みして、寺山あきのさんの「二人作りしわが山斎(しま)は」を読破した。
うぅむ・・・。読破したのだから、楽しんだわけだが、今ひとつ乗り切れなかった。どうも長い小説の梗概のようにも、あまりに長い時間を短くまとめてしまった感がある。そのまとめ方は、こなれているとも言えるし、場面も作り出してはいるのだけれど、山がなくて、淡々と、あるいはダラダラと読まされてしまった。三人称ながら寄り添いどころをふたつもち、いわばふたつの視点で書かれているのだけれど、それは寺山さんの前作「矜持」がそうだったように、その往還の具合が、今ひとつ足りないと感じられる。往還のたびに、章を分けてしまうあたりも弱いのではないだろうか。前半が京三に寄り添ったまま長すぎて、5章で芳乃に移ったときには唐突の感があり、じつは京三だけで描きたかったけれど、それでは語りたいことが描き切れないから、芳乃も描いたといった妥協的な身振りに見えてしまったのだ。
その中で、ふたりをひさしぶりに対峙させて、互いの視点を往還した10章は、寄り添いどころを持たないのではなく、寄り添いどころをコロコロと変える三人称を実践したと言える。この章の書きぶりを進展させたら、なにかが産まれてくるかもしれない気はした。それでも、語りが誰かに寄り添わずにいられないことが、心理描写に終始して、風景を見せてくれないことにも不満が残る。せっかくひとところに寄り添いきらぬ三人称を選択したのであれば、寄り添うことをやめて、俯瞰してしまう度胸も欲しかった。
馥郁……ありきたりな言い方しかできないのは不満だが、やはり牡丹は百花の王、西洋の花などとは断然違う。そう思って眺めるうちに、ふと、芳乃の実家の中庭で見た牡丹を思い出した。
主格としての京三が省かれ、まして最初のセンテンスは、続く「そう思って眺める」のが京三に違いなければ、京三の心内語であり、いわば主格を欠いた自由間接話法だが、牡丹が見えてこない。自由間接話法の不自由さの一端がここにある。
最後の最後に、物語の中に一度だけ現れた京三の友人を、わざわざもう一度引き合いに出してみせる仕儀を見ても明らかなとおり、寺山さんは、丁寧なのであり、そしてとても慎み深いひとなのだろう。三人称を選択しながらも、京三や芳乃に語らせて、語り手の気配を慎重にも丁寧にも消してしまうのだ。
この小説は、晩年の場からはじまり、上の引用が「思い出した」という語尾を持つとおり、章を改めてはいるが、その直後に、物語の場は芳乃の家をはじめて訪問した日に遡るのだから、全体としては回想の構造であり、それなら、語りつつある場は絞られているように見えなくもない。例えば、その芳乃家初訪問の場が下だ。
はじめて芳乃の実家に行ったとき、庭に牡丹が咲いている奥座敷に通された。古い大きな牡丹の株に大輪の花が咲いて貫禄があった。まわりを若葉の生垣にかこまれていたから、余計に鮮やかに感じたのだと思う。そのときから、この花が好きになった。だから井の頭公園近くに家を建てたとき、真っ先に玄関脇に牡丹の木を植えようと提案して芳乃を喜ばせた。
牡丹を頼りに時間を遡りながら、見えかけた風景をあっさりと遣り過ごして、家を建てる話にまで早急に時間が飛んでしまう。すると、この一篇の小説は、あたかも京三の半生回顧譚の様相を呈していると言えないだろうか? にもかかわらず、京三が知らないはずの芳乃の思いが入り込んでしまう。ここにはいかんともしがたく構造上の違和感がある。一人称ではないのだから、構造の破綻とまでは言えず、だからこそこれもまた面白い試みだと言えば言えなくはないのだが、だからこそ、影のように、幽霊のように、あるいは神のように、三人称の京三や芳乃を語るものの気配があったなら、成功したかもしれないと思う。
では、影のように、幽霊のように、あるいは神のような語り手の気配はどうすれば実現するだろう? その都度、風景を見せて欲しかったのだ。描写するもの、風景を語るものが、語り手になり得るのではないか、と思う。抽象的な言い方をすれば、その場の空気だろうか? 互いの感情の機微とその変化が書きたかっただろうし、そのためにこそ、京三のみならず芳乃にさえ寄り添っていくのだが、そのときに、牡丹や、あるいは芳乃が作り始める人形が立ち上がってこない。なぜならそれらが、京三や芳乃の言葉だからだ。京三や芳乃の在り様を語るばかりで、京三や芳乃の在り様とは別にも存在するはずの牡丹にせよ人形にせよ、あるいはベトナム料理にせよ、その色彩や形や匂い、味が感じられない。読者がその場に立ち会えないのだ。
そして、それこそが、梗概を読むように感じさせてしまうのではないだろうか。
とはいえ、齧り読みのなかから、読了に至った小説であり、その牽引力はなんだったろうか、と言えば、由紀子という、京三が単身赴任先で手を出してしまった人妻にして、その挙句に芳乃と別れて、再婚する相手の、なんとも生々しいほどに普通の科白、在り様だった。小説は、ときに、あるいは往々にして、語りが寄り添わない人物こそが魅力的だったりする。なぜなら、その心理とか、背景が謎のままで、その科白などから、読者は想像を掻き立てるしかないからかもしれない。この小説の由紀子の科白には、深みなど感じさせず、謎などないのだが、そうした由紀子という人物の在り様を、科白から読み取るのもまた、読書の愉しみの一端だ。
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コメント
早速、ありがとうございます。
作者本人にこの評のURLをお知らせました。
投稿: euripides | 2008/11/30 22:03
最近どうにも、記事の書き方を忘れてしまった感じです。
もっとなんとかできないものかともがいています。面目ありません。
寺山さんにも申し訳ないです。
投稿: Lydwine. | 2008/11/30 22:29