ガラスに映る―うえのそら初
状況説明に先駆けて、インパクトをもった動きを描き、読者を一気に物語世界のなかに引き入れるなら、いかんともしがたく、その場面にいたる経過を後から説明せざるを得なくなる。とはいえ、言葉を使うこととは、なにかを説明することであり、描写といえども、場景なり出来事なりを読者に教えるという意味では説明なのだから、それを説明と感じさせない、例えば描写というときの異化効果などのなにがしかこそ、いわば小説的な工夫というものだろう。
このブログ上で幾度も書いてきたとおり、一気に物語世界に引き入れてくれる躍動的な書き出しはたしかに魅力的だとは思う。例えば、乃南アサの「凍える牙」は、冒頭でいきなり上半身が燃え上がり炎の塊と化す人間を描いて、そのインパクトで一気に物語世界にたいする興味を煽っていた。先を読みすすめたとき、さんざんこんな殺し方は怨恨かなにかでなければ起りえないとかなんとか書いておきながら、愉快犯でしたなどという、とんでもないお粗末ぶりで、まったくひどい小説なのに、直木賞を獲っていることも腹立たしい限りだが、一方で、そうした書き出しの在りようが、小説の常套手段化していることもまたたしかではないか? と思えばこそ、その後の処理こそが、小説的な洗練を生むのではないだろうか。みんながそうした書き出しをするのだから、あえてそれを外すこともまたありだけれど、そうした書き出しの有効性にとりあえずも頼るならば、その後が問題になる。
不可逆的なはずの時間を、自由に往還できるのも小説だが、その自由さをいかに使うのか? 自由のはずでありながら、なにかを選択したとき、不自由になることもある。
「カム」誌3号掲載、うえのそら初さんの「ガラスに映る」という小説を読んだのだ。
「あのさ、たろ君」と隣を歩くヤッコが言う。私は「なに?」と問いかえした。
ヤッコは黒いTシャツにかかる髪をいじりながら顔をこちらに向けている。彼女の額は広い。私はヤッコに目だけではなく額ででも見られているような気になる。今は彼女の額に沈みかけた日の光があたっているから、余計なそんな気がするのかもしれない。
「さっきさ、ワイルドな感じのする男の人とすれ違ったじゃない」ヤッコは言葉を続ける。
「たろ君」と呼ばれたのが「私」であるが、この時点では、たとえ「君」と呼ばれていようとも、その人称が「私」であることからも、性別もなにもわかっていない。まぁ、たとえそれが「僕」であったとしても、自分を「僕」と呼ぶ女性もいれば、わかりかねるかもしれないが、おそらくは、「君」と呼ばれたなら男性であろうと予想はする。
そして、躍動的とは言えないまでも、科白から入る導入は、会話という出来事のなかに一気に入り込むことにはなるし、その直後のヤッコの描写にしても、それこそが会話を交わすものの説明なのだが、ヤッコを見る「私」の視線に依存していれば、説明というよりは、描写と言えるだろう。「私」が「私」の目で、ヤッコを見て、そこにヤッコの額の視線を感じとる。
ところが、このときヤッコが言う「ワイルドな感じのする男の人とすれ違った」ことが、説明されずにおれなくなってしまう。
彼女が言っているのは、四十秒前にやや早足で私たちの間を通り抜けた男性だろう。私は彼をよけるために、肩からさげたバッグを押さえながら四歩横にずれた。通り抜けたその男性の髪はつんつんと立っていた。かなり大柄。筋肉質の腕を見せ付けるようなシャツを着ていた。私の頭の中で、彼の姿が三次元の映像から二次元のイラストへ変化する。あごの下に生えていた無精ひげは消えてなくなり、胸元の露出はより大胆になる。髪の色は真っ黒よりも藍色がかったほうが良い、だから頭の中の彼の髪はそうなる。彼は攻めだろうか、それとも受けだろうか。筋肉質なキャラは攻めが定石。とはいえ、普段強そうに見える人間が受けに回るのも良くあるパターン。その場合、攻めは肌の白い虚弱な少年かそれとも……。
「四十秒前」といった書き方には工夫が感じられるが、ようするに、時間を遡行して、ヤッコが話題に乗せる出来事の時空を回想するのである。それでもまた、そこを語られつつある場として、場面を現前化し、「今ここ」の事件になっているのだが、それと同時に、「私」の趣味を明らかにしている。そう、事件・出来事をもって、状況を説明しているのだ。こうした、出来事のなかで読者に世界を教えていく手際は達者だと思う。達者なのだが、こうした構成を選択したとき、物語は絶えず時間を往還せざるを得なくなる。
「たろ君ってさ」ヤッコの言葉に思考を中断する。ヤッコの目がいつも以上に細くなっている。「ああいう男の人見てさ、レベルが高いとか格好良いとか付き合いたい、そんな風に思うの?」
それでも、この小説が一人称の「私」による「今ここ」の語りであろうとして、「思考を中断する」と書き付ける。時間の移動を、思考のことに摩り替えるのである。「私」がワイルドな男とすれ違ってからすでに40秒が経過しているなら、「私」が彼を二次元に置き換えたのは、いつのことだったのだろうか? ヤッコにその話題を振られた今だろうか? いや、彼を見たときだったのではないか。いや、先の引用を見ると、「ずれた」「着ていた」といった語尾の後に「変化する」とあれば、たしかに今のことにも見えて、ここはじつに巧妙に書かれているが、それなら、男を見たそのときには、「私」はなにも感じなかったのだろうか、という疑問が残る。思考(回想)に託けた状況説明の齟齬がここに露見している。
それでもここまでは、巧妙に書かれていると言えただろう。
この小説は、半ば強制的に「私」がヤッコに誘われるままに、ボーイズラブの本を買いにいく数時間の話である。だが、「私」とヤッコの関係、まして、「私」の秘密である趣味をヤッコにしられるいきさつや、あるいは、「私」自身がそうした趣味をもつにいたる経過までが、盛り込まれてもいる。それだけではない。そうした過去をちゃんと出来事たらしめている。上のように、出来事のなかで説明をしているのだ。そのため、絶えず回想が紛れ込むことになるのだ。冒頭に書いたとおり、小説は時間旅行さえ許されているにもかかわらず、この小説は、あくまで「今ここ」を保持している。いわば、「今ここ」の語りによる、同時的な語りのようでさえあった。ところが、さすがに「私」のボーイズラブ歴を語る段になると、その語るべき長い時間のなかで、「今ここ」は見失われてしまう。だからこそ、下のとおり、非常に直接的な書き出しではじめなければならなくなってしまう。
私がボーイズラブ小説をはじめて読んだのは、小学校三年生のときだ。
このとき、「今ここ」で「私」が語るこの小説は、はたして誰に語りかけているのか、という問いが問われるのではないだろうか? いわばカミングアウト、あるいは破戒とも取れるこの小説は、誰にむけて語られているのか? このスタイルであればこそ、この問いが重要になるのではないだろうか?
このとき・・・。
ボーイズラブとは男性同士の恋愛を扱った小説だ。
今度のヤッコの声は潜められていない。普通に会話するときの音量だ。誰にも聞かれていないか、チェックしなければと思ったが、首がぎこちなくしか動かない。頭のてっぺんや耳の後ろ側に不必要な力が入っている。でも、力の抜き方がわからない。人前で私がボーイズラブ小説を読んでいることをしゃべられて、とても、動揺している。
とか、
そう。私がボーイズラブ小説を読むことは、友人にも家族にも秘密にしている。
といった、きわめて直接的な説明に陥ってしまうことのなかにも、語りかけられている者の曖昧さが露呈していないだろうか。
かつてもう十年ちかく前になるだろうか、私が歌舞伎町を舞台にした小説をはじめて書いたとき「同伴出勤」という言葉を安易に使ったら、同人にその意味を訊かれた。なるほど「ボーイズラブ」という言葉の説明は、必要だっただろう。だが、ではこの小説の全篇を読み終えたとき、書かれていたものとはなんだったろう? ボーイズラブの小説を読んでいる恥ずかしい「私」の、その恥ずかしさこそがテーマではなかったろうか。それなら、この小説の全体こそボーイズラブを説明しているはずだ。そしてカミングアウトの小説であるならばなおのこと、この小説全体が説明するボーイズラブを直接的に説明してしまう必要はなかった。
そして、それゆえにこそ、「ベースボール・トレーニング」と同様の、綺麗なだけで着地点がぼやけた終わり方になってしまったのではないだろうか? 綺麗でありながら意味が不明な終わり方は、そのままタイトルにも反映している。
と考えてみると、「ベースボール・トレーニング」にしても、着地点などというものの虚しさをわきまえて書かれている、ということなのかもしれないなぁ・・・。だけど、それなら、綺麗に風景を見せるという終わり方も、小説としては同様に虚しいのではないだろうか? たしかに生きて生活していくとき、かならずしも出来事がいずれかの着地点を与えてくれるわけではない。いや、おおむね与えてくれないといってしまってもいい。すると物語としては、それでよくて、だけど小説としては着地点としての綺麗な終わり方が求められるということだろうか? それも嘘ではないかなぁ・・・。空を見上げて終わられてもなぁ・・・。
もちろん、カミングアウト小説だからといって、うえのそら初さんがボーイズラブの小説を耽溺している男性だというわけではないし、それは「破戒」を書いた島崎藤村が被差別部落民であるかと問うこと同様に、意味をなさない。うえのそら初さんの趣味など、私(読者)のしったことではないし、私はうえのそら初さんの性別もしらない。かといって、しったことではなかったり、しらないことが、この小説にたいする興味を削ぐわけでもない。書き手など誰でも、どうでも、いい。ただ小説があるだけなのだし、読者が出会うのは、うえのそら初さんではなく、「私(たろ君)」なのだ。
とはいえ、この小説を読みすすめる過程で、「私」が、あくまでボーイズラブにとどまり、現実の男性にたいして性的ななにかを覚えるでもなく、それでもなお、フェミ男の気配を漂わせている点には面白さを覚えて、現実の男性の出現を期待するようにも、あるいはそれがヤッコでもいいが、女性に興味を覚える瞬間といったなにかを期待させられて、読みきってしまったのではある。さらに、それらの期待を裏切られたこともまた快感ではあった。
ただし、稲垣足穂の「桃色のハンカチ」を摘まみ読みしていることも、影響しているだろうな。
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コメント
「ベースボールトレーニング」に引き続き、詳細なご批評をありがとうございます。
「小説の着地点」やコンセプトは、ついつい感覚的に書いてしまいがちですが、もっと意識的に書かなければいけないな、と考えさせられました。
投稿: 瑞祥 | 2008/06/05 00:29
瑞祥さん、こんにちは。
「カム」誌の方々は、細部については、実に綿密に構築して出来事を作っていると思います。私からすると、作りすぎの気もしないではないのですが、そうした綿密に作られて出来事の累積であればこそ、物語全体がなにかをもたらすものと思わせてしまうのではないでしょうか。むしろ、出来事が散漫であったなら、着地点などというものは、必要ない気がするのですが、ちゃんとした出来事が書かれて、それらがまたちゃんと連関しているだけに、いわば、オチが欲しくなってしまうように感じられます。
それでも、やはり着地点などというものはない、というなら、それでもいいのですが、それならそれで、着地しているように見える終わり方が気になってしまうのですよね・・・。
じつをいえば私も、着地点はない、というほうが、共感するのですよ。
ところで、「APIED」誌掲載の御作「恋する胞子」は面白いですねぇ! 短いですけど、とても面白かったです。ただ今、それについて記事を書いていたところです。
投稿: Lydwine. | 2008/06/05 00:41
はじめまして、カム同人のうえのそらです。初めて書き込みさせていただきます。
読んで下さり、また丁寧な批評を書いてくださり、ありがとうございました。
御文章をよく読み、自分の作品についてよく考えてみたいとおもいます。
本当にありがとうございました。
投稿: うえのそら | 2008/06/05 21:16
うえのそらさん、はじめまして。
不遜なこの場へご来訪くださり、恐縮です。
もしたったひとつでも、うえのそらさんのこれからにお役に立つ文章があればよいのですが、作品については、書いて発表すれば、勝手に読まれ、勝手なこと言われます。って、私が言うことでもないですが、そうしたとき、すべてを鵜呑みにできるわけもなく、うえのそらさんの、感想もまた小説同様に、お気持ちに沿って、読み捨て無視したり、ここだけ、と部分的に受け入れたりしてくださいませ。
投稿: Lydwine. | 2008/06/06 00:02