つぎの著者につづく―円城塔
とりあえず、単純化することからはじめてみようと思うが、小説を単純化することは、小説の書き換えであって、単純化などということはできるわけがない、という前提のもとに、あえて嘘になることを承知のうえで、「つぎの著者につづく」(「文學界」2007年11月号掲載)を単純化してみる。
私にこのどれかの賭けを、それとも三つ全ての賭けを一緒くたに開始することを決意させたのは、たまたま開いた雑誌で見かけた、ほとんど他愛もない一文である。正確な文面はもう忘れてしまっているのだが、そこでは、私とR氏なる人物の類似性が指摘されており、余りに自明なことであるので改めてとりあげるのも躊躇われるのだがと一息置いて、筆は本論へと踏み込んでいく。私の書き出す文章には、文体にせよ内容にせよ構成にせよ、リチャード・ジェイムス氏の影響が顕著に認められるのだと評者は言う。法螺に法螺を重ねて否定を転々として何も語らず楽にすまそうとする話法がまず第一に類似のものであって見え透いており底が浅いと、その評言は私の不見識を糾弾する調子を高めていく。様々罵倒の叱責を経て、それでも評の末尾において、情状の余地は存在するとされるのは、私のとある著作の中の二人の登場人物が氏の名前を分け持っているという事実による。リチャードとジェイムス。それぞれ個別の人格とされてはいるものの、ここまであからさまな名前を付与されているからには、著者も自分の、リチャード・ジェイムス氏に対する負債を知ってのことなのだろうと論は締め括られる。ひとつには、私はリチャード・ジェイムス氏の稚拙な模倣者である。ひとつには、私はそのことを承知している。ひとつには、私はそのことを表明している。よって私がその著作で行ったのは、リチャード・ジェイムス氏への敬意を込めた本歌取りということにしてよろしく、他力に依らず自力の本願で一層の精進を期待したいということになるらしい。
小説(あるいは文章)の剽窃の問題からはじまる物語なのだ、と、とりあえず単純化してみる。「私」はリチャード・ジェイムスという人物をしらなかった。このとき、たとえば井上ひさしが「吉里吉里人」を書いたときにも、同様の批判と反論があったことを思い出した。井上ひさしの反論に対しては、よくも恥ずかしげもなくしらなかったなどといえたものだ、と嘲笑で迎えられた。もちろんそれは、嘘だというのではなく、しらないことを恥ずべきだという嘲笑だが、さて、「つぎの著者につづく」の「私」は、そこでリチャード・ジェイムスを調べはじめる。ところが、すでに死んでいるリチャード・ジェイムスという人物だが、これがまた存在したその痕跡がまったくといってよいほどない。そのさまはヘンリー・ダーガーにも譬えられているが、その比ではなく、むしろ現実離れしている。このとき、「私」は、あえてR氏と呼ぶリチャード・ジェイムスの著作を読まない。なぜなら、上の引用の冒頭部分にある「私」の賭けとは、ここで書く(書きつつある)小説「つぎの著者につづく」という小説が、R氏の小説の剽窃というより、それとまったく同じものになることを目論んでいるからだ。ところがここにも不思議がある。すなわち、R氏は大量の著作を残して死んだと伝えられながら、発表された本は6冊のみで、いまだ「つぎの著者につづく」という作品は発表されていない。すなわち、「私」は本歌取りを越えて、R氏そのものになろうとしているといってもいいだろう。
猿が気儘にキーボードを叩いたものがシェイクスピアの作品になることと「私」がR氏の書いた「つぎの著者につづく」とまったく同一の作品を書くことは、まったく別である。「私」はコトバをしっている。複数の小説の最初のひと言が、同じであることは往々にしてあるだろう。たとえば、「私は」とか、「その日」といったコトバではじまる小説はいくらでもあるだろう。では、この小説の書き出しを見てみたらどうだったろう?
「ベコス。
こうして私たち二人は話しはじめる。
エジプト王プサンメティコスの命により無作為に抽出されて羊飼いへと預けられ、人の言葉から隔離されて養育された、二人の幼子と同じ作法からこうしてはじめる。
まず、カギ括弧ではじまる小説は、すくなくない。むしろ多くの文字や記号の中でも、極めて多いといってもいいだろう。この開始カギ括弧をあえて閉じないならば、そこからはじめることには、なにがしかのメッセージが読み取れるはずだ。だが、続くのが「ベコス。」。意味不明だ。このコトバではじまる小説は、きわめて稀だといえるだろう。もしかしたら文学史上はじめてかもしれない。そして、それに続くのが「こうして私たち二人は話しはじめる。」という至極まともな文章である。至極まともな文章が、「私」という語り手を告げる。と同時に、「たち」、複数であり、その数は「二人」だという。もちろんそのうちの一人はほかでもなく「私」である。だが、もう一人とは? 先を読んでから舞い戻った今、このワンセンテンスによる段落を見るならば、それがおよそ「R氏」であろうと想像されるが、R氏が書いたはずの「つぎの著者につづく」という小説(?)を一字一句模倣しようとする小説が、こうしたはじまり方をすることは、妙だ、といえる。だが、それもまたR氏の小説の在り様なのかもしれない。そうかもしれないが、このとき、R氏の「つぎの著者につづく」という文章における「私」はR氏本人による語り手であり、二人目がR氏による語り手ではなくなる。
いや、このここで語りつつある「私」がR氏による「私」と同一でありかつ別であるならば、そもそもリチャード・ジェイムス氏云々という人物の物真似だという文章は、誰の文章なのか? ここにも巧妙な仕掛けがある。「私」がわざわざR氏と呼ぶとおり、リチャード・ジェイムスという名もまた、彼の存在が曖昧であるのと同様に、不明のままだから、その原稿にあったRという署名らしきものからとりあえず名づけられたものにすぎないのだというのだ。
そもそも、リチャード・ジェイムスなる名前自体が、出版にあたり便宜上つけられたものであることは特筆しておくに値する。ジェイムスなる姓は実のところその遺稿管理人のものであり、R氏の姓名は、ただRとしてしか伝わっていない。このRにしてからが、発見された草稿一枚一枚の隅に手書きの文字として認められた文様であるに留まっており、真実名前なのかは断定できない。Rの一字だけでは咄嗟の意味が取りにくかろうと、出版社の手で遺稿管理人の姓が充てられ、ただRから手近なところでリチャードの名が命名されて、以降それが彼に対する呼び名として定着したというのが真相である。
だから、R氏の文中にリチャード・ジェイムスという人物が登場することもまたなんら不思議はないといえるかもしれないし、もしかしたら、R氏の著作である「つぎの著者につづく」のなかに現実にリチャード・ジェイムスという登場人物が、R氏の元ネタとして登場してしまったがために、いまだ遺稿管理人の手を離れられないのかもしれない。
先を急ぎ過ぎた。「ベコス」だ。円城塔は、新人賞受賞作で芥川賞候補になり、同様に新人賞受賞作で芥川賞候補だった諏訪哲史の芥川賞受賞を見ることになった。などと考えてみると、「ポンパ」を思い出さずにいられようか? まして、上に引用したとおり、R氏の文章もまた、「草稿」だという。「アサッテの人」が自身の草稿なのだと書いていたことを思い出さないだろうか?
すると、「ベコス」は「ポンパ」であり、アサッテなのか? もちろん、そうではない。「ポンパ」ではあっても、アサッテではない。「ポンパ」がアサッテであろうとしながら、キョウがアサッテに追いついてしまったのに対し、そもそも「ベコス」はキョウであろうとして発せられる。
この小説の単純化なら、たとえば、コトバの始原とコトバがつぎのコトバに繋がっていくその連鎖の有限性がなお、あたかもフラクタルのように無限を内包することとでもいってしまおうか。プサンメティコスから吉本隆明の「言語にとって美とはなにか」とその批判や類人猿がシェイクスピアを書いてしまう可能性にまで話は広がり、絶えずうねり、どこへ辿りつくともしれないような硬質の文章を、力技というにはやけに流れよく処理しつつ、だが、やはり単純化すればするほど、見失うものがある。
「私」はR氏ではないままにR氏と同一の文章を書くことを目論みながら、それは、すでに上に見たとおり、「私」と書くことがR氏になることでもある。「私」はコトバのなかに埋もれていくしかないのだ。
事前の連絡をすることもせず唐突に、逆光を背に店先へと姿を現した私へ向けて店主は目を細めてみせる。そこに立つのが私以外の何物でもないことを確認し直し鼻を鳴らす。全く本にまつわる全ての不手際は原初の言葉が間抜けなものだったからなのだぞと、毎度の如く私を睨みつけて一呼吸おいてようやく、久しいなと挨拶を寄越す。さ迷える子羊だか羊飼いに養育された者だかよ、今回は一体何を御所望なのかという軽口を聞き流して、ここにはR氏に関する資料が掃いて捨てる程あるはずだと愛想もなく私は訊ね、店主にとっては児戯にも等しいこの要請に、彼はカウンターから出て無数の棚の間に姿を消して、そして一冊の本を手に戻って来る。
まったく小説らしからぬ漢字と熟語、カギ括弧を省いた科白、にもかかわらず、動く人、これはやはり小説だ。だが、いったい、この語られつつある時は、いつのことなのか? 「私」はプサンメティコスによって羊飼いに育てられた幼子の成長した姿だったのか? R氏が「つぎの著者につづく」を書いた後に亡くなったのは、一九七二年だという。もちろん、始原の言葉を探索する「私」の仕儀が、あたかもプサンメティコスの幼子のようで、「ベコス」と書きつけることから物語を書きつつある者とは、すなわちプサンメティコスの幼子なのだ、と、ただ店主は「私」をそれに擬えただけなのだろう。だけど、ここを読むとき、ふと、冒頭の「こうして私たち二人は話しはじめる」というセンテンスを思い出し、にわかに、「私」とR氏がプサンメティコスの二人の幼子になる。いや、嘘だ。そもそも書き出しを読み始めたそのとき、「私たち二人」とはプサンメティコスの幼子二人であり、これからその片割れによる回想譚を読む気になっていたのではなかったか。
「私」とは、R氏でもあり、R氏とともに羊飼いに育てられたものだ。
この語りは文字よりなり、 この謀りは文字よりなり、
この語りは誤字よりなり、 この謀りは誤字よりなり、
この誤りは誤字よりなり、 この偽りは誤字よりなり、
この誤りは誤りよりなり、 この偽りは誤りよりなり、
この誤りも誤りよりなり、 この偽りも誤りよりなり、
どの誤りも誤りよりなり、 どの偽りも誤りよりなり、
どの誤りも誤りよりなる。 どの偽りも誤りよりなる。
類人猿とシェイクスピアのような偶然の一致はあまりにもはるかな確率論的不可能を孕み、「私」の旧作とR氏の著作の模倣性には、文章を綴ることのなかに生ずるわずかな差異の中に語ることの差異が生ずるとでも声高に叫ぶ詩のように見えなくもない上の7行は、しかし、かならずしもコトバの問題を越えているのではないか?
すこしだけ遡ろう。
どちらを支援すべきだったのかなと私が問い、それがもう思い出せなくなってしまったのだと店主は言う。今や店主の輪郭はジュゼッペ・アルチンボルドの描く司書の姿に倣った、R氏の生涯を記した本の山へと置き換えられたように映っており、私もまたジュゼッペ老の手になった木偶のようにして立ち尽くし、頷き崩れる店主の胸元から一冊の本が滑り落ちる。リチャード・ジェイムスの名は、と崩れかけた店主の輪郭をなす本の山は囁きかけて、これもまたもう一人のフォン・アッシェンバッハと同じく、作曲家の名前であるのだと、床に落ちてページを開いたもう一人のR氏の伝記の反響が告げる。
なぜここで、アルチンボルドなのか? 人物の肖像を、その象徴物の組み合わせで描いた画家の名が使われるとき、違和感が否めないのだが、だがそれが象徴物であることより、なにか異物であるということのなかに、その意味を見出すべきなのかもしれないが、同時に、なるほど実は早逝した兄の名であるというリチャード・D・ジェイムスという名とともに、複数の芸名を使ったミュージシャンがいるそうだし、さらに、おなじ名をもつデザイナーもまたいる。もちろんそれは、ジェイムズではなく濁らないジェイムスであるといった話が書かれているとおりではあっても、やはりありきたりの名まえなのだということではあるだろう。
だとすれば、コトバがだれにも共有された汎用物であるにもかかわらず、いざその組み合わせであるところの文章となれば、文法といったルールにしたがいながら、組み合わせの妙のなかに個が顕現するといったお話なのだろうか?
一つの考え方に従うならば、異なる文字の数により距離付けられた無数の文字列は、相互の距離を通じて透かし見られて優劣付けられた褶曲し尽くした谷間を成しており、我々は奈落を目指してひたすら転げ落ちて行く。どこが谷間の果てとは知れずどこまでも続くその深淵には、一見そこが谷の果てかと思われるような一寸した広がりが無数に形成されており、転落はとりあえずのところ停止させうる。しかし真正の文字の並びを求める向きにはその棚に憩うことは推奨されない。あなたはどこまでも落下を続けたつもりで、ひょっとすると始まりの点まで振り出しに連れ戻されることさえある捻くれまくる谷間へ化けたピンボールの筐体の中、五体を地に投げ、単語を書き換え、文節を入れ替え、章の前後を取り代えて、渓谷をひたすら探索し続ける。小さな変更では谷間を出ることができぬままに捉われてしまい、大きな歩幅は谷を跨ぎ越し山を越えて昇ってしまい、定めるべき塩梅は悩ましい。四方を見渡し山に囲まれ、それらの向こうにあるかも知れぬ、こちらの谷とあちらの谷と、どちらがより深い溝へと通じており、そのまた先のどちらでより深い奈落が口を開けているのかを、先験的に定める術などありはしない。
「この語りは誤字よりなり」と書きつけた「私」は、誤字とも言い切れぬ微妙な距離で、じつは妙な漢字の使い方を繰り返している。それは、これまでの引用でも明らかだろう。山は「登る」ものだろうし、距離なら「案配」とか「按配」がより妥当だろう。「先験的」というのも、普通に考えれば「先見的」だ。だが、じつは昇るのは、山を越えているのだし、適当なコトバなどというのは、論文や新聞でもないなら、どうでもいいともいえる。すくなくともこれらの不適当は誤字とはいえない。これほどまでに熟語を並べて硬質な印象を与えながら、「捻くれまくる」などという言葉遣いで、ずらしてみせる。「始まりの点まで振り出しに」といった同語反復さえ演じる。奈落の底を底としれないままに、ずれていく。だけど、そこが底とはしれないままだから、所詮実験小説の域をでないのではないかと訝みながら、その失敗に溺れこんでいく。
今こうして立ち尽くす間にも緩慢に崩壊と成長を並行する城壁から毀れ落ち、大地へ衝突してめり込む大小様々の石たちがたてる、ベコスの鈍い響きが私と黄金虫を取り巻いて連鎖的に広がり続けて、勢いづいて加速していく。羊飼いに養育された二人の幼児がたまさか発した原初の言葉。ここには既に、プリュギアにおいてキュベレイに愛された羊飼いにして豊穣を司る少年神アッティスの姿は見当たらず、去勢されたその司祭たちが、天柱の折れ地維を断たれて崩壊していく天蓋にうろたえ逃げ惑う姿が、立ち尽くす私の姿をとって貧しく再生されるきりである。
私は降りしきる石の雨に打たれながら箱の横へとしゃがみこみ、垂直に立ち対角に向かい合う二つの辺を切り開く。地面から立ち上がって向かい合う二つのL字の一方を力任せにちぎり捨て、閉じ込められた甲虫が躊躇いがちに歩み出るのを見守り続ける。遅々として進まぬ虫の歩みが、相互に指示を目配せしあう石の網目の織りなす鞍に甲虫を乗せるのを見届けて、そして私はおもむろに、この独り語りをせめてもの文章として画定すべく、冒頭に置かれたきりに忘れ去られた二重引用符へと手を伸ばそうとしてみるものの、かつてそこに置かれたはずの鉤括弧ならぬ二重引用符は既に記憶の向こうの果ての、立ち上がる文字の山稜のあちら側へと転落を終えてしまっている。
かといって、立ち上がっている鉤括弧に手を伸ばすことはしない。消え去った二重引用符とは、すなわち引用とはなんだったのか? R氏の草稿「つぎの著者につづく」の引用だろう。すると、引用部と、それ以外の「私」の文章が入り乱れる予定だったということか? だが、どこまでも、二重引用符の閉じを書きそびれたままここまできて、気づけば、開始二重引用符までが姿を消していたのだという。姿を消したのは、それがR氏の文章たり得ないからだろうけれど、閉じようもなかったことが、また、すべてを引用にしたままでもある。とともに、天地が崩壊しつつあるなかで、同時に書きつつある文章とも向き合い続けること。語り手がそのままに書き手でありながら、語られつつある時空で、そのコトバを手探る。
ところで、いったい「私」は何語で書いているのか? ことほどかように入り組んだ日本語で書かれたこの小説を「私」は何語で書いているのか。
当然、その内容を知りもせぬ著作の一部をここに再現してみせるという試みを始めるにあたり、この小説の題名は、R氏の一作品から採られている。そんなことは不可能であると知りながら同一のものを期すからには、そこから始める以外の道はなく、私は少なくとも一つの題名という種を採用している。そこから芽吹き繁茂していく文章とは、人の操る記号が、定められた二十六個と数個の記号、それに空白程度に留まる以上、何ほどかは似通っていると期待される。・・・・・・・。
もちろん、「私」は円城塔ではない。小説にとって、語り手は、自分の居場所について、自由を得ていたはずなのに、この小説の語り手は、R氏になろうとしてなりえず、なにものにもどこにも、居場所を失っているのではないか。まさに「自由」である、いつでもどこでもない、不明の、暗闇のなかにいる。
また、「bababadalgharaghtakamminarronnkonnbronntonnerronntuonnthunntrovarrhounawnskawntoohohoordenenthurunk」の謎を解く気などさらさらない、たかがひとつの小説を読むときに、そこまでつき合う義理はない。ついでに、一応転写したけれど、綴りが正確かどうか、見直す気にもなれない。
いつまで続くかわからないが、私にとって、円城塔は、新作を待ち望む作家になった。
さて、「つぎの著者につづく」といわれてしまったのでは、「文學界」11月号の次の作品、堀江敏幸の「果樹園」を読もうかな・・・。
なお、「つぎの記事につづく」について、追記がある。ここ
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コメント
じつは、近所の本屋に文学界が置いてなくて…、汗。
小さな本屋ではないのだけれど、売れ筋しか置く気がないよーです。
アマゾンで買いました。バスケットに入れておいた他の商品といっしょに。今日届いて、これから読みます♪
これは凄い小説ですね。
あのテニスの白熱するラリーを思い出しました。作者と読者のラリーです。興味深く読ませていただきました。
「単純化してみる」というのは、この場合、分かるような気がします。まずは動線を単純に追いかけて行かないと、球を見失ってしまいそうで…。ポンパのくだりは、私も「あッ」と思いましたけど、アサッテよりも、こちらの方が、より複雑な編み込み方をしているようです。アサッテは読みやすく、理解しやすい小説した。
文学界、ようやく手にしたので、これから読んでみて、その後に、またこちらの感想文を読ませていただきたいと思います♪
投稿: itu:kairou | 2007/10/13 18:46
itu:kairouさん、書き込み、ありがとうございます。
そういえば、先般euripidesさんも、「文學界」がない、と憤っておられましたね。いや、あれは図書館のお話だったかな? 正直に言えば、私の地元駅周辺の本屋にもないのです。売れない商品(死に筋商品)は置かないのが、小売業の常識になっていますから、仕方ないのでしょうね。7&Yが確立した小売業の戦略、単品管理の弊害なのかも・・・。どこもかしこも右へならえで・・・。
「作者と読者のラリー」のお言葉、凄く嬉しかったです。携帯電話で見たら、10分割にもされていて、長過ぎ! と自分で呆れていたので、コメントをいただけただけでも嬉しかったのに、上のお言葉には、感激しました。
「つぎの著者につづく」、楽しんでください。って、それはけっこう難しいかも・・・。苦役を伴います、なんて言っては、円城氏に失礼ですね。
投稿: Lydwine. | 2007/10/13 19:16