「愛のかたち」の2篇
今は、マルケスの「コレラの時代の愛」を読んでいるのだけれど、なんとなく、気になって読んでしまったのが、「世界文学のフロンティア2・愛のかたち」に入っていたオクタビオ・パスの「波と暮らして」。いぜん、本屋の立ち読みでこれを原案とする絵本「ぼくのうちに波がきた」を読んで、興味をもち、原案のほうを探した記憶がある。どこかで見つけた気になっていたが、勘違いだったらしく、「ぼくのうちに波がきた」ともまったく違うお話で、とても楽しく読んだ。奔放な創造力! 波を擬人化して、女性、恋愛の困難、不可解を文学に昇華する? まぁ、そんな解釈もけっこうだろうけれど、それよりも、実体があるようでない波の、その描写に浸りたい。そうした創造力のなかに、女性の不可解が立ち表れて、私の許を立ち去っていった女性たちの姿を幻視するとともに、かの女性たちが頽爛(波頭の白い泡々のことだよ)の冠を戴いた透明な水の塊にぼやけていくのもまた哀しく美しい、といっておこう。
愛は遊戯であり、永遠の創造だった。あらゆるものが浜辺、砂、いつも真新しいシーツだった。抱き締めると、彼女はみずみずしいポプラの木の枝のようにずんずん上に伸びていき、やがてそのほっそりした身体が突然白い羽毛の噴水、笑いさざめく羽飾りとなって飛び散り、ぼくの頭や背中に降りそそいで、ぼくの全身を真っ白に染め上げた。時にはまた、目の前で身体を横たえて伸ばし、水平線のように果てしなく広がっていった。その時はぼくもまた黙って水平線になった。音楽のように、巨大な唇のように、うねりながらぼくの身体をすっぽり包み込むこともあった。波のように寄せては返す愛撫やさやめき、口づけを受けてはじめて、彼女がそこにいると分かった。ぼくは彼女の水の中にひたり、溺れそうになる。すると、たちまちぼくの身体は高く宙に押し上げられ、どこをどうしたものかめくるめくほど高いところで宙吊りにされる。しばらくすると、まるで石ころのように落下するが、一瞬後にはふわりと羽根のようにやさしく受け止められて、乾いた床に寝かされているのだった。水の中でゆらゆら揺れながら眠るのは、たとえようもなく心地よかったが、やがて波がいかにも楽しそうに軽く叩いたり、打ち寄せたりして、ぼくの目を覚ます。そして、笑いながらむこうのほうへ引いて行ったものだった。
波を相手に「波のように」といった直喩を使うなんて、ふざけた真似によって、このときふと、波が波でなくなるだろう。ときにそれを「彼女」と呼びながら、それでも波は波であり続けている。こうした揺れが、「波」であり「彼女」であるそれを、そのままにそこに現前させる。そもそも書き出しが下だ。
あの海から帰ろうとしたとき、無数の波をかき分けるようにして、ひとつの波が近づいてきた。軽やかですらりとした波だった。ほかの波がひらひらした衣装のすそをつかんで、行くなと叫ぶのを振り切るようにして、ぼくの腕にすがると、ぴょんぴょん跳ねながらついてきた。なにも言う気はしなかった。仲間の波の前で恥をかかせるのはかわいそうな気がしたし、大きな波に睨みつけられたので、身体がすくんでしまったのだ。町に着くと、彼女に、やはりいっしょに暮らすのはむりだ、都会生活は、きみみたいな海しか知らない世間知らずの波には考えもつかないほど厳しいものだよと言ってきかせた。けれども、彼女は思い詰めたような目でぼくを見つめた。『だめだ、彼女はもう心を決めている。帰れと言っても、帰りはしないだろう』ぼくはやさしい態度をとったり、冷たく突き放したり、皮肉たっぷりに言ってきかせたりした。けれども彼女は泣いたり、わめいたり、ぼくを愛撫したり、脅しめいたことを言ったので、けっきょくぼくのほうから謝る羽目になってしまった。
まるで男と女の話でありながら、男の女の出会いにしては、ずいぶん男に都合のよい在り様ながら、そこで描かれているイメージは、軽やかであっけない書き様とは裏腹に、美しい。「無数の波をかき分けるようにして、ひとつの波が近づいて」くるのだ。水そのものの衣装がひらひらしているのだ。
そのうち波は寂しいと言ってこぼしはじめた。ぼくは巻き貝や二枚貝、それに小さな帆船を家中ところせましと並べてやった。けれども、波は荒れ狂った日にそれらの船をひとつ残らず沈めてしまった(いろいろな像を積んだほかの船も沈められたが、それらの像は毎夜ぼくの頭から生み出されて、猛々しくも魅惑的な波の渦に呑み込まれてしまった)。あの頃は、大切な品物が沢山行方知らずになった。ぼくの船を沈めたり、巻貝を耳にあてて海鳴りの音を聞いたりしたが、荒れ狂う彼女の怒りはどうしてもおさまらなかった。ぼくはとうとう家の中に魚の棲処を作ってやることにした。魚たちが彼女の身体の中を泳ぎまわり、胸を愛撫したり、脚のあいだで眠ったり、稲妻のようにきらめいてその髪を美しく彩るのを見るのは、正直言ってあまり嬉しいものではなかった。
じつを言えば、この小説には巧妙な仕掛けが施されている。すなわち、波は、引用部にもあるとおり、なにかを喋っている。ところがそれを科白として書いていない。かといって、一貫して科白を省いた「ぼく」の語りというわけでもない。冒頭近く、「ぼく」は波を汽車に乗せるため、飲料水のタンクに彼女を詰めるのだが、それを飲んでしまった者があり、塩水だったから、飲料水に毒を盛ったとして、「ぼく」は訴えられて、服役までしているその過程で、鉤括弧つきの会話がされているのだ。少々蛇足のようでもあるこの数年におよぶ場面は、むしろその特殊性を際立たせたようでもある。と書いて、しかし、「ぼく」がようやく釈放されて家に向かうと。
その日の午後、何時間もがたがたの汽車に揺られて、メキシコ市に戻った。駅前のタクシーをひろって、家に向かった。アパートに着き、玄関のドアの前に立つと、中から笑い声と歌声が聞こえてきた。ぼくたちはなにかに驚くと胸にずしんと衝撃を受け、それが波のように広がるのを感じるが、その時のぼくもそれと同じ痛みを感じた。波は長年住みなれた家にでもいるように、笑い声をあげ歌をうたっていたのだ。
「どうやって、ここまできたんだい?」
「汽車に乗ってきたの。なんともなかったわ。ある人に調べられたんだけど、ただの塩水だと分かったので、機関車のタンクに放り込まれたの。だけど、それからが大変だったわ。いきなり水蒸気の白い煙になったかと思うと、今度は細かな雨に変わって機械の上に降りそそいだの。そのせいでこんなに痩せてしまったのよ。痩せたのは水滴になった分ね、きっと」
ここにも「波のように」という比喩があるのだが、それはともかく、これ以降、波の科白はおろか、鉤括弧で括られた科白はいっさいない。あたかも「ぼく」の独り語りだ。では、なぜここで波の科白が書かれたのだろう? おそらくは、波の存在を、ただ「ぼく」の妄想たらしめない、波の存在を印象づけるためのものだったろうと思われる。「ぼく」の妄想譚として読めないこともないこの物語が、これだけの科白を早い段階に置く、まして、すくなくとも1年以上の不在ののちの出来事として書くことで、波を実在せしめたのではないだろうか。もちろん、波の科白さえ妄想と言えなくはない。まして、刑務所帰りならなおのことかもしれない。だが、浮いている印象さえあるこの場面は、その浮き具合も含めて、あまりに自然だ。読み終えたときには、この鉤括弧のことをすっかり忘れていたのだから。
水という不定形の、形がありながらない、幽明相半ばするような存在を日本語に移し変えたのは、井上義一。
さらに、なんとも刺激的なタイトルに惹かれて、グロリア・サワイという人の「私がイエス様とポーチに座っていると/風が吹いてキモノの胸元が開き、/イエス様が私の乳房を御覧になった日のこと」を読んだら、これがまた非常に面白かった。ここでまた「出来事」だ、と言いたくなる。なんともしれない、いわくいいがたい真実がある。彼女は、1972年9月11日の朝に、イエスに出会ったのだ。
それはサスチュワン州ムース・ジョーで、一九七二年九月十一日の朝、起こりました。この設定の一つ一つは一見何でもないようですけど、本当はとても特別です。九月は私が一番好きな月、月曜は一番好きな曜日、朝は一番好きな時間。ムース・ジョーだって、世界有数の素晴らしいところってわけじゃないけど、それでも九月の月曜の朝をムース・ジョーで過ごしたことのある人なら分るように、ここはここなりに美しいところです。
日時と場所をはっきりと限定するのは、たしかにリアリティーらしきものに寄与するだろうし、「ですます」調の語り口調も、いかにも誠実さを装っているといえる。もちろん、「ですます」は翻訳者(栩木玲子)の選択によるわけだが、「私」の出来事を語る、これは私小説といってもよいような、おとなしく、自然な語り口が、退屈といえば退屈でありながら、イエスとの出会いにしてはあまりに意味を欠いた出来事のなかに、その真実らしさが立ち表れる。意味を見出すことはできるだろう。それは残雪にしてもそうだ。例えば、精神分析の身振りでも導入すれば、なにかしらそれらしきことは言えてしまうだろうけれど、書き手が声高になにかを言うのではなく、そこで起きてしまった出来事しか、これらの小説にはないのではないか。なるほど、グロリア・サワイという人がこの作品以外はほとんどしられていないと紹介記事で沼野充義が書くのも頷けるとおり、稚拙と言ってもよい、驚きのない書きぶりだといえる。はっきり言ってしまえば、下手といってもいいだろう。なにせ、ここで彼女はイエス・キリストと出会っているのだから、創造力によってなにか寓意がこめられた物語が予想されるはずなのだ。ところが、読んでいても、読み終えても、「だからどうしたの? なにが言いたいの?」と首が傾げるのだ。かといって、ただ、登場人物がイエスだったというのでもない。「わたし」は空を飛び、毛穴からイエスの身体のなかに溶けていく。最後には、イエスに乳首をいじられてもいる。このとき、「わたし」は、1972年9月の月曜日にイエスに会ったのだ、と、それが事実であり、すべてなのだと妙な納得をさせられる。面白かった。
だけど、たしかにこの人はこれ以上の小説が書けないだろうなぁ・・・とも思わせる。
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某党が、選挙演説をはじめた。
凄く気が散る。
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