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2006/12/05

フーポン信者と日曜学校―河村陽子

30季刊 遠近」第30号・創刊10周年記念特集号を手に取った。記念特集号というだけあり、巻頭には勝又浩氏が寄稿し、小説は12篇にのぼる。さらに、逆井三三氏の「サンゾー書評」もある。それでも総数176ページだから、どれも短い作品。
なお、「サンゾー書評」では、なんと弊誌「木曜日」の22号を取り上げてくださり、あまつさえ、掲載作品のすべてにコメントを書いてくださった。正直、驚いた。感謝である。サンゾーさん、ありがとうございます。

フーポン信者と日曜学校」河村陽子
サラリサラリと思いつくままに書いた、といった気配が気持ちよく読ませる。それこそ随想風だ。

 フーポン信者というのは、日曜日に聖書の埃をフーッと吹きとばしてポンと叩き、それを持って教会に行く信者の事で、つまり家では全然聖書を読まない人の事なのだが、誰が言い出したのか私はずい分前からその言葉を知っているのに、今の若い人はどうも聞いた事が無いという。
 埃がたまると言うからには一週間ではないだろう一カ月、二カ月位たたなければ埃がたまる程にはならないと思う。
 更に怠け者はクリスマスだけ教会に行く信者で、それを面白おかしくナントカ信者と聞いたのだが、今そのナントカを思い出せない。
 ところが私は敢て言うならフーポン信者に属するかも知れない。家で毎日必ず聖書を開くわけではないからだ。必要に応じて集中的に読むのだ。聖書は教会にも自分のを置いてあるからわざわざ持ってはいかない。家庭用の聖書は最近本棚に入れるようにしているので埃はつかない。しかし会社勤めをしている間は殆ど教会に行く事ができなかったし、フーポンもせず埃にまみれていた。

読点の少なさを見ても、およそ書き慣れていない様が伺えるし、文脈も乱脈を極めて、けして上手な書き手とはいえないのだが、それこそが、まさに思いつくままに書いた気安さを表出し、「私」がとつとつと語る声を聞く気にさせる。「今そのナントカを思い出せない」などという書きぶりは微笑ましいではないか。こうした書きぶりが、それこそイメージのない説明に終始する書き出しを、それでも読ませている。さすがにこのあとに続く聖書の構造を語る段は、冗漫といわざるを得ないが、あくまで「私」にとっての聖書観が折々挟まることで、語りの場が保たれている。

 人形を作り幼稚園や農村の共同託児実習で人形劇をやった経験がある。
 若い頃の教会生活の中で私はそれを再現した。聖書の物語りを動物の世界におき変えて脚本を書いた。その頃沢山いた若い人達が上手に動物の人形を10体以上作ってくれ、日曜学校の子供たちに人形劇を見せた事がある。それはいろいろな意味で貴重な体験で八十を越えた今でもあの感激をもう一度の思いは消えない。それでフーポンばあさんは今でも日曜学校の礼拝に出てチャンスを窺っているのである。だが今は教会員に若い人が少なくて、人形を作るパワーが結集できない。私の思いはなかなか実現しないのだ。そんな私にとってたまに廻ってくる子供へのお話のチャンスは、私の得難い恵みとなっている。この手の事がよくよく私は好きなのだろう。
 子供に聖書の話をするのは結構むづかしい。むづかしいけれどそれが又楽しい。自分の勉強にもなるし恥ずかし乍ら殆ど生甲斐を感じてしまうのだ。

ひとつのセンテンスで、なにかを語ると次のセンテンスでそれを補足して「のだ」と強調してしまう短調さは気になるし、さすがに「いろいろな意味で貴重な体験」などといった書き方は、小説足りえていないというべきだろう。だから、これはやはり随想として読みたい。
このあと、生甲斐にも感じている子どもへの聖書の語り聞かせの機会を得るが、時間的な制約と、語り聞かせる場面(イサクの誕生)のむずかしさから、右往左往しつつ、最後にはそれをはたして終わるのだが、このとき聖書を語り聞かせる側のそれこそ「貴重な体験」を語ることになる。聖書のさらなる理解はもとより、ハガルとイシマエルの物語の語り難さである。しかし、「私」の右往左往は、一週間という制約の中で、医者にもいかねばならず、友人と約束した「兵馬俑展」も終わりそう、信者へのダイレクトメールの発送の仕事もあるといった曜日ごとの単純な繁忙振りにあり、その合間、あるいは平行して、神はなぜアブラハムを選んだのか、とか、イシマエルを語りえるか、といった問題に悩む。この日常の生活が喫緊の課題としてある点が、笑みを呼ぶし、先へ先へと面白く読ませる。
最後にはご丁寧に、「ところで出来上がった「お話」は次の通りだ。」といって鉤カッコでくくってですますの語りが演じられてもいる。どうしても随想にしか読めない。あたかも随想のように見せる小説という書き方は、それはそれでよいだろうけれど、それなら、やはり語り得ぬものハガルとイシマエルの問題と付き合うべきだろう。子どもには聞かせられないよ、で済まされたのでは、読者は子どもではないのだから、納得できない。こうした問題と四つに組んでこそ小説足りえたと思われる。あるいは、その問題そのものでなくとも、問題として存在してしまうこと、あるいは語り得ぬということと取り組んだほうがむしろ現代の小説の在りようには沿うかもしれないが、その選択は書き手の恣意に任せるとして、せめて、最後の終わり方の平和さは、もっと違う在りようがあったと思う。たとえば、イシマエルの語り得なさや、神によるアブラハムの選択といった問題を読者に投げ出す終わり方というのも、きわめて狡猾ではあれ、小説らしくはなったかもしれない。結果としては、私小説になりきれず、エッセイに終わってしまった。気取らない文章は気持ちよかったので、エッセイとしてなら、楽しんだ。ちなみに、目次では「小説」に分類されていた。

なお、「づつ」や「むづかしい」は、「ずつ」「むずかしい」が正しいはず。引用は原文の表記をそのまま写した。

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