浄土―森敦
(中島みゆきのニューアルバムを聴きながら)
たまに積読書を見ておかないと、重ね買いを起こすから、昨夜乱雑に放り出してある積読書を確認していたら、森敦の「浄土」を見つけた。買ったことをすっかり忘れていた。いや、今だって思い出せない。これだから、確認が必要だ。見つけたから鞄に放り込んで、今日の昼時に表題で巻頭の「浄土」を読んだ。私小説とか随筆と読む人もいるかもしれない。「わたし」という人称で書かれているという意味なら私小説だし、もしかしたら、実話に基づいているかもしれない。それでも、いやいや、じつに素敵な小説だった。昨日に続いて大満足の読書だ。
「浄土」森敦
著者晩年の作だ。かつて「意味の変容」や「酩酊船」「月山」を書いた人とも思えない、なんともさりげない文章で、だけど、老いて書いたとも思えないような自在な身振りの文章でもある。
そこを鐘路通りといったのは、李朝時代の古い鐘堂があったからである。京城は城というごとく広大な街の全域を包んで城壁がめぐらされ、そのほとんどは潰えているが、なお痕跡を残していた。東西南北に城門があり、朝夕その鐘によって城門を開き、また閉ざすために造られたという。むろん、響きは広大な街の全域から聞かれねばならぬというので、鋳造された鐘は大きく、あまりに大きすぎたので持ち上げることが出来ない。みなして騒いでいると、見ていた小童がまず竜頭を横木に通し、それを梁にして堂を建てよ。下を掘って撞木で突けば鳴ると言った。果たして言うがごとくであったから、みなはその智を驚き且つ怖れて、小童を生き埋めにした。爾来、鐘は小童の慟哭となって響くようになったので、それなりにされていると聞いた。
描写というにもおよばない説明が、「むろん、響きは広大な街の全域から聞かれねばならぬというので、鋳造された鐘は大きく、あまりに大きすぎたので持ち上げることが出来ない。」というたったひとつのセンテンスのその最中に、語りの場が転換していく。「むろん」と書かれればこのセンテンスは、前を補う役目を負わされていたはずなのに、「持ち上げることが出来ない」と閉めて、卒然と、語られつつある時空は李朝に飛ぶ。それでも段落の最後では「爾来」といってそれを過去のこととし、まして「と聞いた」と書いて、語りつつある時空が語られつつある時空になる。
わたしはこの鐘路通りの表から、ちょっとはいったところにある鐘路小学校に通っていたので、行き来によく鐘堂を覗いた。朽ちかけた格子の中は薄暗く、縁まで盛り上げられた小石の上に、堂いっぱいの大きな鐘が据えてある。緑青が吹き出ていて、今日は今日で昨日見たときとは違った模様が、意味ありげに現れて来るようで面白い。
鐘の由来を聞いていたその人物が、一人称の「わたし」として登場するが、「通っていたので、行き来によく鐘堂を覗いた」という過去を語る素振りでありながら、「今日は今日で昨日見たときとは違った」ともいう。「わたし」は語られつつある時空と語りつつある時空を自在に行き来している。だから、このあとに突然のように、
「敦ちゃん、なに見てるの。なにかあるような気がするんでしょう。やっぱり恐いのね」
撥剌とした声だった。大谷という女の子だと思った。色白で目のぱっちりした、笑えば靨の浮かぶお下げの可愛い子である。この子が敦ちゃんと呼ぶので、女の子がわたしのことをみなそう呼ぶようになったのだ。
「恐くなんかないさ」
むろん、恐いもの見たさもあったからそう答えたのである。しかし、大谷という女の子は笑って引き下がろうとはしなかった。
「恐いから覗かずにいられないんじゃないの」
「恐くないから覗いてるんじゃないか」
「あァら。ならどうして、いつだって覗くの。わたし、ちゃァんと知ってるんだから」
わたしは招かれて金浦空港に降り立ち、やがて名も韓国のソウルと呼ばれるようになった京城を目のあたりにしたとき、見事な変貌と発展に別世界を見る思いがした。韓国の人々はみな自信に満ちている。しかも、案内の韓さんは心優しく親切で、訊けばなんでも答えてくれる。車窓から見覚えのある建物を見いだし、訊くと問いに答えて、そうだと言われるが、それによってかつての思い出が蘇るのではない。いよいよ別世界に来たかの感が深くするのみであった。
「きょう一日はどこへでもご案内します。どこか行ってご覧になりたいところがありますか」
「わたし」はいつどこで語りつつあるのだろう。およそ過去を回想しながら書かれているのだろうとは想像できたが・・・。語られつつある場はあっけらかんと小学生のときに飛び、「京城を目のあたりにしたとき」というからそれも過去のことだと思ったら、そのまままたどうやら過去であるらしい時空としての、かつて京城であったソウルに、語られつつある場が飛んでしまう。「わたし」が韓さんの案内で、今(?)もまだ残っていた鐘路小学校を眼にすると、
「大きな学校だと思っていたが、小さかったんだな。校庭だってそんなに広くなかったに違いない」
「そうですよ。子供のころはなんでも大きく見えるもんですから。でも、よかったじゃァありませんか。もう取り壊しに掛かっているので、ひと月も遅れて来られたなら、そんな思い出もなくなってしまうとこでしたよ」
「思い出も?」
韓国人はかつての日本統治のころを日帝時代と呼んで憎んでいるばかりか、日本人が韓国名を日本語読みにすることを嫌っている。しかし、韓さんには寛闊なものがあって、わたしが思い出の中に広がって行くのを妨げなかった。
「わたし、ちゃんと知ってるんだって? どうしてぼくのことばかり見てるんだ」
わたしは大谷という女の子に言った。
このとき、記憶が記憶を呼ぶだけではない。記憶をたどって、ふとソウルを訪れた記憶を呼び起こされたらしくもあったのに、ソウルで、大谷という女の子に言った科白を呼ばれたようでさえある。語られつつある場が自在なだけではない。語りつつある場もまた自在なのだが、それはまるで、昨日の記事にある「どれだろうとそれがそうだと思ったときそれは木原にとって紛れもない現実となるのであり、もし複数の様々なことをそれらはみなそうだと同時に思うならその思った数だけの紛れもない複数の現実があるわけだった」(松浦寿輝「あやめ」)というようにさえ見えなくもない。ところで、「わたし」ははたして鐘路小学校までいったのだろうか?
それでも、やがて、二行という大きな空白を挟んで、
韓国から帰り、しばらくして電話をもらった。滋賀県近江町長沢の福田寺からだという。
「大谷照典でございます。折角、お招きにあずかりながら、母は生憎人工透析加療中で、失礼申し上げました。ご縁がありましたらお出で下さり、お目に掛からせて戴けますようなら、母がどんな喜ぶことでございましょう」
すると、やはり先はすべて韓国で語られつつあったことなのだろうか。だが、これに続いて、
丁寧な言葉づかいだが、すべては遠いむかしのことである。あまりにもながい歳月が過ぎている。わたしはどうして、こんな電話をもらうことになったのか、それさえ分からなかった。
とも言う。このあとすぐに「わたし」はその経緯を思い出しはするのだが・・・。
「わたし」が若狭まで大谷という女の子だったはずの、だけど、同姓の少女がいたからほんとうは曖昧なままに、大谷寿子さんを訪うと、すでに退院して福田寺にいるという。やがて、宴席が設けられて。
宴には加われないが、せめて話を聞いていたいといい、宴席の横に寝床が敷かれ、大谷寿子さんは横になっていた。しかし、話は出ないのである。横になった大谷寿子さんは顔が小さく見え、あどけなくさえ思えた。眠っているのか、想いだしているのか、
「わたしそんなに悪かったかしら」そう言ったが、だれもなんとも答えなかった。するとまた呟くように、「アカシアの花を思いだすわ。こんど生まれたら、敦さんと一緒になる」
わたしははっとしたが、だれも聞こえなかった様子をしている。敦さんというからにはあの大谷という女の子に違いない。しかし、あの大谷という女の子が敦ちゃんと言うものだから、女の子はみなわたしのことを敦ちゃんと呼んでいた。しかも、自分でもお寺の子じゃない。お寺の子は遠い海の向こうから来たもうひとりの大谷という女の子だと言っていた。いまとなっては分りようもなく、分かったとてどうということもないが、もしその大谷という女の子が西本願寺の別院から来るのなら、ひょっとしたらやんごとなき血筋かも知れないと母が言っていた。大谷という女の子は、そのやんごとなき血筋の子と言われるのがいやで、あんなにもお寺の子でないと言い張ったのであろう。
「話は出ない」静かな宴席のそばで寝床に横たわる人。彼女の呟きは誰にも聞こえないように、「だれもなんとも答えな」い。「アカシアの雨に打たれて、このまま死んでしまいたい」という歌詞を思い出すのは私の勝手だが、どうにも葬式のような場ではないか。
しかし、それだからお願いするのだと伊丹政太郎さんは言われる。もうこんな機会に恵まれることもないとすれば、芭蕉の旅としてではなく、わたしの旅としてでよければ、思い出の地をもう一度、確かめてみたい気持ちがないわけではない。果たして、みなさんに御迷惑を掛けたこと、若狭の旅の比ではなかった。しかも、数ヵ月に亘る「おくのほそ道」の撮影を終えたとき、わたしの労をねぎらって、特にわたしのために湖南の膳所の宿に、二階の座敷をとって下さった。閑かである。ひとり飲むうち夜も更けて来た。
またしても、いきなりのように、時空は過去から今ここに移る。すると、
芭蕉は山中温泉で曽良を先立たせると、全昌寺を訪ね前夜曽良が泊まって残した句を見て、別離の情をあらたにしている。次に天龍寺を訪れて北枝との別離を語っている。次に永平寺を訪ねて道元の大いなる別離に感動している。そういえば、すでに「旅立ち」の「行く春や鳥啼き魚の目に泪」が別離の句であり、「結び」の「蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ」が別離の句である。芭蕉はじつに会者定離を語っていたのだ。ひとり感に打たれているうち、わたしはいつか大谷寿子さんのことを思いだしていた。
大谷寿子さんは病体にもかかわらず、車に同乗して米原駅まで見送って下さった。挨拶して別れようとするとき、大谷寿子さんは窓から両手を差し伸べた。わたしも立ち返って手を伸べると、両手のまましっかり握ってただひとこと、
「一期一会ですね」
この小説のなかで大谷寿子さんが死ぬだろうことは、もう誰の目にも明らかだ。「わたし」が今どこにいるのかしれないのは、語られつつありながら語るものでもある「わたし」が、時空のどこにでも、それはもしかした此彼さえも越えているからかもしれない。そう、思い出せば、この小説のタイトルは「浄土」である。
はたして、大谷寿子さんは、大谷という女の子だったのか、読むほどに曖昧になる。
下は、この小説の中でもとりわけ美しいふたつの文章だ。
「なんだか向こうで泣いてるようね。やっぱり泣いてるんだわ」
吉川という女の子がそう言うと、大谷という女の子が答えた。
「だって、ここお墓でしょう。こっちのひとはお墓参りのとき、ああしてみんなで泣いて上げるのよ」
慟哭の声はそのままそこに止まって近くなるわけではないが、だんだん大きくなって来るようである。しかし、しばらくするとそれも止み、みなでまた楽しくサンドウィッチを食べはじめたが、大谷という女の子が、
「見て。みんなが泣いてもらったんで、お墓の人が喜んでひらひらと踊っているわ」いくつとない土饅頭の向こうで、ほんとにチマチョゴリの女たちが踊っているのが見える。「唄も聞こえるようじゃないの。まるでお浄土」のようね。また、ある町のはずれに野原がひろびろと広がって、土饅頭がるいるいと並んでいます。上には蕨が群がり生えていましたので、お墓とも気づかず、みなで声を上げ夢中で摘みとりました。
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