二人作りしわが山斎は―寺山あきの
昨日、出掛けに郵便受けを覗くと、「文芸誌O」第43号が拙宅に届いた。編集発行人様ありがとうございます。
掲載作は、小説が5本と詩が1本。Web版も公開済み。
出掛けに見つけたものだから、そのままバッグに入れていき、電車内で、小説をすこしずつ齧り読みして、寺山あきのさんの「二人作りしわが山斎(しま)は」を読破した。
昨日、出掛けに郵便受けを覗くと、「文芸誌O」第43号が拙宅に届いた。編集発行人様ありがとうございます。
掲載作は、小説が5本と詩が1本。Web版も公開済み。
出掛けに見つけたものだから、そのままバッグに入れていき、電車内で、小説をすこしずつ齧り読みして、寺山あきのさんの「二人作りしわが山斎(しま)は」を読破した。
またしても、トップ画像を変えてしまった。
「法政文芸」は法政大学国文学会発行の「日本文學誌要」別冊ということだから、いわゆる同人誌とは異なるだろう。原稿募集のページを見ると、「国文学会員ならどなたでも投稿できます」とある(但し、「投稿原稿の掲載可否については、編集委員会の合議によって決定します」ともある)。それなら、学会誌とでもいうべきなのだろう。
だけど、そうした分類は、どうでもいい。ちなみに今回読んだ4号掲載の「満員電車に揺られながら考えた、ふたつのはなし」の作者・岡祐也さんの紹介には、「日本文学科三年」とある。このとき、ただ「日本文学科」というのだから、国文学会といっても、法政大学に限るようだ。卒業生もいるけれど、それもみな「〇七年度卒」とあるから、卒業したばかりで、執筆時には、在校生だった可能性が高い。
どうでもいいといったのだから、作品にうつろう。
「満員電車に揺られながら考えた、ふたつのはなし」は、そのタイトルのとおり、ふたつの掌篇でなっている。編集上も「掌篇セレクション」とされている。にもかかわらず、ふたつを統合するように、「満員電車に揺られながら考えた、ふたつのはなし」というタイトルにまとめられてもいるのだが、このふたつに連絡があるかというと、「満員電車に揺られながら考えた」というだけあって、どちらも電車にまつわる話である、という以外には、関連性は見られない。だから、それぞれ別々に考えよう。
先日受贈した「てくる」誌第4号に掲載の光野公彦さんの「日々の泡」という小説を読んだ。「てくる」誌は発行所を大阪に構える関西の同人誌だ。
まずは、この大胆なタイトルについて、ちょっと考えてみよう。
どうしたって、このタイトルを見たら、ボリス・ヴィアンを思い出す。とはいえ、読み終えてから考えてみれば、この小説のほうがヴィアンの同名小説よりも相応しいタイトルだと言える。いや、読み終えるまでもなく、いきなり最初のセンテンスの一部分である2行目に「その日その日が白い泡のように感じられてならなかった」と書かれているほどだ。だがこのときふと、ヴィアンのフランス語は「うたかたの日々」という翻訳(伊藤守男訳)にもなっていることを思い出す。ほとんど同義である「うたかた」と「泡」の違いといえば、「うたかた」のほうがより抽象的になるだろう。「儚く消えやすい」といった意味合いを纏う。もちろん「泡」だって儚く消えやすいのだが、そうした比喩的な意味合いがより強い、ということだ。ましてそれが連体修飾語として使われるなら、「うたかたの日々」とは、「泡の日々」というよりは、「泡のような日々」とでも言ったほうがより相応しいだろう。言い換えれば、「泡」という言葉のほうが、より水泡などのイメージに近く、「うたかた」は名詞でありながら、あたかも副詞的なニュアンスを持っていると言ってもよいかもしれない。それならば、「日々」の在り様を喩える言葉としては、その副詞的な効果に頼るのも手ではあるが、それよりも、「泡」のイメージ(映像)のほうを優先した、ということかもしれない。
このとき、さらなる顛倒が起きる。まさに顛倒。「日々の泡」と「うたかたの日々」という主格の顛倒だ。ヴィアンのフランス語の原題が、どちらに近いのかは私はしらない。まして、今の話題は、光野公彦さんが書いた「日々の泡」なので、ヴィアンの話は置きながら、なおやはり、光野さんがヴィアンの小説を知らずにこのタイトルをつけたとも思えないので、あえて、「日々の泡」か「うたかたの日々」かという選択に拘ってみよう。
「日々の泡」と言うと、どうも日々のなかの泡といったものを思い浮かべやすい。すなわち、それぞれの日のすべてが泡であるよりも、そのなかに泡のような時間があるように見えるのだ。それに対して、「うたかたの日々」≒「泡のような日々」というならば、日々のすべてがそれぞれにひとつひとつの泡沫に感じられる。いや、かならずしも「日々の泡」が日々のそれぞれがまるごとそれぞれの泡ではないとは言えない。どちらにも受け取れるということだ。それを広がりと捉えることもできるが、日々を泡に喩えると言う抽象的な表現の、ましてそれがタイトルであるならば、言おうとするところをより明確にしてしまったほうがよかったのではないか、と思える。そのうえで、「泡」のイメージを保持しようとするなら、私なら「泡沫(うたかた)の日々」としたかなぁ・・・。
と、タイトルに拘るのも、上にも書いたとおり、このタイトルは、ヴィアンを思い出させながらなお、タイトル負けせずに、ヴィアンのそれ以上に、このタイトルが相応しかったからにほかならない。
「私」の「日々」は、確かにまるで「泡」のように浮薄なのだ。
ひさしぶりに、小説を読んだ。そして、大いに楽しんだ。第107回文學界新人賞の「射手座」上村渉なのだ。
ところが、記事の書き方を忘れている。さてさて・・・。
最初に文句をつければ、これで「射手座」というタイトルはいかがか? と思う。例えば、織田作之助に「六白金星」という小説があるが、この小説にとって、なにが射手座なのか? たしかに作中に、一人称の書き方でありながら、その「わたし」ではないにもかかわらず、主人公とも言える加賀が、射手座であることは語られているし、この人物の性格も射手座にかなっているかもしれないが、しかし、「六白金星」が、六白金星らしい性格が絶えず問題化していたのに対して、この小説では、射手座的であることが問題化されることもない。作中に出てきた言葉を適当に拾い出しただけにしか思えない。それともこれから上村渉は、さまざまな星座に沿った性格づけをなした人物を12あるいは13個、書くつもりなのだろうか?
楽しんだのだから、悪口はこのくらいにして・・・。
「文學界」は、12月号で「同人雑誌評」を終了するにあたり、完全保存版とまで銘打って、「書きたい人のための全国同人雑誌リスト320」を掲載している。320誌というのは、意外に少ない気がする。
ひとわたり眺めたら、あれれれ??? 見出しページの写真にはその表紙があるのに、「白鴉」さんが見当たらない・・・。
敢えて載せない同人誌も少なくないのだろう。


9日は第七回文学フリマだった。「木曜日」としては参加しなかったけれど、同人S氏と連れ立って覗きに行ってきた。そして、買ってきたのが、左の本の数々、ってほどではない。
真っ先に2階の文芸同人誌案内&「胡壷・KOKO」のひわきさん率いる「九州隊(タイ)!」を目指してエレベーター側の階段を上っていったら、ゼロアカ道場のひとだかりに阻まれて、道を見失ってしまった。そこで、会場側のオープン階段に廻った。
とにかく凄い盛況ぶり。私が会場に到着したのは、午後2時過ぎだったわけだが、とうの昔に例年より増刷したらしいパンフレットが品切れになっていた模様。事務局によれば、1800人は来場しただろうという。参加者を含めれば、2000人を超えたと考えられよう。
そうした中、いわゆる文芸同人誌は、むしろ少数派の異端組。ついにおめもじかなったひわきさんも、九州地区の同人誌を並べながら、「売れない」と言っておられた。正直に言うと、あまり多種な同人誌が並んでいると、どれを手にすればいいのか、迷ってしまう。かといってすべてを購入するのも躊躇われる。今回、ブースに行ってみて、そう思ってしまった。ひわきさんに、お薦めを伺って、「季刊 午前」を購入。
その後グルリと会場を一周しながら、「銀座線」を発見して、石原さんとちょっとだけお話をし、「法政文芸」を買いがてら中沢けいさんのことを伺うと、すでに帰られた由で、お渡しくださいとお願いして「木曜日」最新号を置いてくる。「小説π」を購入すると、同人参加を誘われたので、我々も同人誌を作っているのだと答えたら、正体がばれてしまった。「鏡の中を歩いた日」の長嶋絹絵さんがいらして、ここでも「木曜日」最新号を受け取っていただいた。が、ひとごみのなかを行くうち、胃の激痛に耐えかね、S氏と喫茶店に退避。ブスコパンとホットミルクで遣り過ごす。ちなみにS氏は、前回に引き続いて「精神病新聞」を購入していた。
ひととき、駄弁で過ごし、3時半ごろになってふたたび「九州隊!」ブースを訪れると、ひわきさんとともに、「西日本新聞」の塚越さんにもお会いできた。また、ブースの隣には「零文学」さんが陣取っておられたわけだが、ここで「零文学」のみなさんに軽くご挨拶。と、思い返せば、なにをしていたのか、私としたことが、「零文学」最新号を買い忘れてしまったのだった。馬鹿!
ひわきさんたちと終了後のお酒を約して、一度退散。
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